#36 発想の転換
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一陣の風が吹いた。
目に入った前髪を払い退けると、メイフォンが移動していた。上座に座る大王から見て右手側、アイシャから見て正面となる位置だ。元々座っていた場所がアイシャの上手、すなわち右側になるので、机を飛び越えて移動したことになる。机の上にはなんの被害もなかったが、食事中に取る行動としてはなんともはしたない。しかし、メイフォンの突然の行動を咎める者は、少なくともこの場にはいなかった。
怪しい人物だ、という言葉がそれぞれの動きを制限している。
「……ちょ、何、待つのである、おい、そこには――」
「大王、突然すまない。先程城内で怪しい気配を確認したのだが、それと似た気配をこの先から感じた。危害が及ぶ可能性もあるので下がっていてくれ」
イスマーアルアッドが立ち上がり、すぐ隣のマリストアを横抱きにしてこちらへ来た。兄に促されて大王も席を立つ。
メイフォンが愛用する踵の分厚い靴は、単純に攻撃の範囲を広げる以外にも、鉄塊を仕込むことで蹴りの威力を高めるという役割も持っている。実際に先程放たれたメイフォンの蹴りは、木製の扉に靴底の形の穴を二つ穿っていた。一度の瞬発で二発の蹴りを繰り出した証拠である穴と、その穴の縁――滑らかな断面が、姉の蹴りの威力を物語る。まともに喰らえば怪我では済まないだろう。
「大王、私の後ろに下がっていてください」イスマーアルアッドが言う。「メイフォンがいる時は下手に手を出す方が危険ですから」
「いやだから、違うのである! 聞き給え! 落ち着き給え貴様ら! な!? 頼むであるから!」
「よくわからんが大丈夫だ、任せてくれ大王。とりあえず死なない程度に無力化してくるから」
「半殺しであるな!?」
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あ、と思う間もなかった。
扉際、直撃すれば死は免れないであろう蹴りを回避し、ミョルニを抱き寄せた時、何年間か味わったことのなかった一体感を得たのだ。
もはや脳裏から扉のことなど消え失せ、右腕に視線を落とす。黒っぽい金属の義腕が接合部、肩の付け根辺りから外れて床に落ちていた。そして生身の右腕が生えていたのだ。
自分の右腕だ、と思った。それと同時に、これがミョルニであることも分かった。理屈はわからない――否、知識としてたった今習得したのだが、理解はまだ難しそうだ。
であれば、と現実に意識を戻す。少なくとも現状、外から何者かに攻撃されたことはわかっていた。
何者か。
少し大人びた女の声になっている。聞きなれた声――宿敵にして姉、メイフォンの声に相違なかった。
ある日右腕が突然無くなって以来、利き手は左に替わった。優れた義腕もあったが、やはり細かい作業となると不得手であるため、必然的に左利きにならざるを得なかった。それゆえ、扉を左手で開ける。
瞬間。
視認すら覚束ない速度で飛んできたメイフォンの蹴りを、右腕で受け止めた。
乾いた炸裂音のような音がして、両者の動きが止まる。
「やあ姉ちゃん、久しぶり」
「誰だお前」
「あれ!?」
こちらが捕まえた右足を軸にした姉が空中で体を捻じり、追撃の左を放ってきた。
「っ!」
直撃する。
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「やあお姉ちゃん、こんばんは」
自分たちが真っ白い空間に居ることに気付いた時、アルファとイルフィの目の前には見知らぬ姿があった。
黒い肌。短く切り揃えた真っ白の髪。襟飾りのついた白いシャツに黒のズボン。ぴかぴかに磨かれた黒の革靴の踵を揃えて、不敵な笑みを浮かべている。薄桃色の瞳には見たこともない色の光が輝いていた。
アルファとイルフィが何の反応も返さずにいると、嘲笑めいた笑みを深め、
「最近、あんまり接続してなかったみたいだからさ、様子を見に来たんだ。調子はどうなのさ」
言葉だけ見ると問いかけの形ではあるが――実際こちらの返答など想定していないといった調子に感じられた。ここで、そもそも口を開くどころか、身動ぎ一つできないことにようやく気付く。
全方位、白い靄のようなものが満ちた空間。自分たちを中心に遠ざかれば遠ざかるほど濃くなる白い靄のせいで空間がどの程度の規模のものかはわからないが、発せられた声はどこか広い空間で居る時のようにどこまでも抜けていく。唯一足元には何かを踏む感触があるが、声が反射している感じはしなかった。
幾度となく訪れた空間であり、それゆえここが自分たちの夢の中であることもわかっていた。しかしただの夢に非ず。その時々によって、実在するどこかの光景を見せたり、誰かが訪れたりする特殊な場だ。
だが。
「そんなにびっくりしないでよ。調子が悪いようだったからさ、直しに来ただけ。できるだけ痛くしないしさ」
自分たちを認識し、自分たちに語り掛けてくる存在は、たった一人の例外を除いて今までいなかったはずだ。目の前にいる存在は、例外とは似て非なる存在であることが何の根拠もないが実感として「わかる」。
例外と言えば、自分たちのための空間ともいえるこの真っ白い空間内において、斯様に身動ぎ一つできぬというのも常ならざる現象であった。辛うじて繋いだ手の先にもう一人を感じられるが、固定された視界の中には見つけることができない。まばたきすら許されないようであった。
「ごめんねお姉ちゃん、無理矢理繋いだからさ、窮屈だよね。ちょっとだけ我慢してね」
言って、女児がこちらに手を伸ばす。次の瞬間、彼我の間に横たわる距離という概念を無視して、彼女の右手がこちらの頬に届いていた。温かな体温がこちらの髪を掻き分け、左耳を掴む。
「僕はゴルフ。覚えなくて良いよ、どうせ忘れちゃうからね――」
耳から侵入する異物感から身を捻って逃げることはおろか、悲鳴を上げることすら許されない。行き場のない空気の塊が、気道を行き来した。
狭い穴を無理矢理押し広げて、彼女――ゴルフの指が耳を犯す。聴覚が次第に湿った音を捉え、何か熱いものが頬から顎にかけてを滴り落ちた。
血を潤滑液代わりにして、指の抽挿が幾度か繰り返され、その度に何かが頭の奥に侵入してきた感覚を得る。気を失うことも能わず、ひたすら、ひたすらその感覚のみを味わわされ続け、やがて、指が引き抜かれた。
「うん。これで大丈夫だよ。できるだけゆっくりやったつもりだけど、痛かったかな。ごめんね、お姉ちゃん」
その言葉を最後に、二人は目を覚ました。
アルファは左耳を確認したが、何の異常もなかった。今までのような、何か不思議な場としての真っ白空間ではなく、ただの悪夢だったのではないだろうか、と二人は思う。急速に夢の内容は記憶から失われていき、左耳に残る違和感だけがじんじんと残っていた。
枕元に控えていた下女が、お目覚めですか、と声を掛けてきた。髪を短く切り揃えた、色白の下女だった。薄桃色の双眸がこちらを見下ろしている。先程まずは食事だ、というように決めた後、どうしたのだったか。その辺り記憶は曖昧だが、
「――気を取り直して、食事にしようと思うわ」「悪いのだけれど、給仕をお願いできないかしら」
「かしこまりました」
下女は一礼すると、台車に乗せた料理を机に並べ始めた。先程眠ってしまった間に、準備してくれていたらしい。双子は寝台から降りると、席に着いた。料理はまだ冷めていなかった。
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なかなかやるな、とメイフォンは心の中で賛辞を贈っていた。
初撃の蹴りは完全に不意を突いたと思ったが、完全に止められてしまった。ならばと体を捻じり、大きく描いた弧のままに二撃目を狙う。一体どういう握力をしているのか、最初に捕まえられた右足が微動だにしないのを逆に利用し、体を引き付けた。完全に入った――渾身の一撃が決まる。
決まったと思った。
だが。
「さすがに生身でこんな蹴り受けたら死ぬんじゃないのコレ……?」
無理矢理捻った勢いそのまま、捻じる様に体を回転させ、把持されたままの右足を引き抜きつつ着地。やや不安定ではあるが、危険人物を視界から切ることはしない。
眼前。右手の調子を確かめるようにしながら、敵は無事である。先程メイフォンの視線の先で、渾身の回転蹴りは、いとも簡単に右肩でいなされていた。
反射での動き、というにしても、あまりにも反応速度が速すぎる。それに、関節の可動域を考えても不可能な位置であるはずだった。それこそ、一度肩関節から腕を外し、蹴りを弾いた後に再び元の位置に戻した、とでも言いたくなるような、そんな弾かれ方だった。
「貴様……何者だ?」
メイフォンが問うた。
「いやだから、僕だって! トォル!」
……もしかして顔見知りだろうか。
メイフォンは首を捻った。
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トォル、と言う名乗りで、記憶の中の弟の顔と、今メイフォンの肩越しに見える青年の顔とが一致した。齢は十九、イスカガン第二皇子トォルだ。幾年か前に皇室を出て以来、ほとんど帰って来ず、大陸を旅し続けている。
焦げ茶色の髪、同色の瞳。靴底を加味したメイフォンと同じくらいの身長。肌の色もメイフォンに近く、東洋系の血筋であることがわかる。起源はヤハン、関係性としてはヤコヒメの孫にあたる。幼いころは、メイフォンと二人で自分の後ろについて戦場を往ったものだが、当時からすでに頭角を現していたメイフォンに一、二歩遅れて、という程度の実力を有していた。
最後にあったのは四年ほど前、それから比べて随分大人びている。杳として消息が知れなかったが、偶然このようなところで遭遇するとは、
「やあトォル、偶然だね。メイフォンはちょっと落ち着こうか」
「やあ兄さん、久しぶり。後ろにいるのはアイシャとマリストアかな、見知らぬ顔も一人いる」
「おとう、と……?」
どういうわけか馬が合わず、ずっと犬猿の仲だった弟に対しての嫌味――というわけでもなく、本当に忘れているのだろう、とイスマーアルアッドは首を傾げるメイフォンの背中を見てそう思った。この妹は物事に頓着しすぎないきらいがあるが、少し適当に生きすぎではないだろうか。最近も急に婚約者を連れてくるしで、いったいこれでどうして上手く生きていけているのかが不思議である。
「とりあえず敵じゃないから大丈夫だよ、メイフォン」
「いや待て、冗談は一旦置いておくとして、そもそもノーヴァノーマニーズの大王とイスカガンの皇族が会する場所に、こんな風に潜伏しているのは危険人物ではないだろうか。何を考えていたか知れぬぞ、やはりここは私が責任をもって此奴の素っ首へし折って――」
と。
ずん、という腹に響く重い衝撃が、メイフォンの口上を差し止めた。
あまりにも巨大すぎる林檎が床に落ちた音だった。
「落ち着き給えよ若造ども。座り給え、吾輩諸事情により機嫌が良い故、すべて不問に処すのである」
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大王は、《拡大》魔法の弱点である、拡大すればするほど中身がすかすかになる現象克服の糸口を見つけたために上機嫌だった。
単純に大きさだけを変えるから、どうしても密度が低くなる。乱暴に言って、《拡大》魔法は「物体を構成する物質の隙間を二倍にすれば、大きさも二倍になる」という仕組みで成り立つ、という風に仮定しているのだが、この認識が間違いだったのだ。
発見の糸口は、点と円運動だった。先程メイフォンが放った蹴り――二発の連撃と、円を描く回転蹴りだ。
物質を点で捉えてしまっているがゆえに、どうしても、魔法がそのように作用してしまっていたのだ。必要だったのは発想の転換だった。要するに点ではなく、円で物体を把握する。点の間隔を増やすのではなく、円として、物体を大雑把に把握する。なまじっか物体についての知識があったゆえに、魔法が本来してほしい動作とは違う動作を起こしていたのだ。
つまるところ、もっと適当で良かったのだ。物事を難しくとらえすぎてはならぬ。
魔法の理論化が振出しに戻ったということに他ならないのだが、それはそれで、探求の仕様があって吾輩的には良いのである。
理屈はわからないが方法と効果がわかっているので実用化されている、という技術など、数えるほど存在するのだ。大王は、林檎に腰かけつつ周囲を見下ろした。
尻の下、元の百二十四倍という大きさにまで拡大された林檎が、こちらの体重を支えている。
「そこの一般人、もう面倒だから貴様もその辺りの椅子に掛け給え」
セラムが言われた通りに腰かける。
上座に座った大王から見て、手前から、右手側にイスマーアルアッド、トォル、アイシャ、左手側にメイフォン、アイシャ、マリストア、セラムと並ぶ。
イスマーアルアッドがこちらを見た。
「大王、私の妹と弟が壊したものについては後日皇宮から補填させていただきます」
「気にしないでくれ給え、むしろこちらからお金を払いたいくらいである。メイフォン、貴様には感謝しているのである――大雑把であることは良いことであるな」
「……褒めても何も出ないぞ」
大王が足を組む。
「ややこしいことがあったが本題に戻すのである。ノーヴァノーマニーズからは、次期皇帝候補にトォル、貴様を選出する者とする」
「大王! 大王! さっきこの部屋に入って来た人のことですよね? 僕はまだ見てないんですけど、えーっと、セラムさん? 貴女がそうなんですか?」
「落ち着き給えよトォル君、吾輩は、紛れもなく、貴様を、……指名している」
「え?」トォルは言った。「なんで?」
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「難しく考えちゃ駄目なんですよ」
若い声だった。
少年。白い肌、金髪。傍らの青年に向けて、何事か語りかけている。
「物体を分子と分子、原子と原子の結合体だなんだと考えなくとも、そういう物体なのだ、という風に考えるんです。ただ単にそのものが大きくなる認識を持てば良い。点を増やすんじゃなくて、数値を増やすんです。直径が、質量が、高さが幾ら。この木を生やすのだって」少年が、地面を強く踏むと、すぐ傍に大木が屹立した。「その応用ですよ」
対して傍らの青年は、鼻を鳴らしただけだった。
ラスターとベクター。
※タイトルを「《八重の王》」から「《八重の王》 -The XXXX is Lonely Emperors-」に変更しました。(2018/8/16)
※より良いあらすじを求めて、あらすじを変更しました。(2018/8/16)