#35 食堂の曲者
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「――雑音ほど睡眠を邪魔するものってありませんよね?」
ある端末の調子が悪い。完全に繋がらなくなったと思っていたら、さきほど、不完全ながら再び繋がった。
端末との回線が繋がらなくなった理由はわかっていたが、それが再び繋がってしまった理由はわからなかった。無理矢理こじ開けられたような感覚が来て、その時に空いた穴から垣間見え、漏れ聞こえる、といった具合である。それが酷く不安定で、多重視界、多重聴覚の身には我慢ならない程の不快を与えてくるのだった。
人工子宮の中にいると、ほぼすべての感覚が要らない。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚。適温に調整された羊水が空間を充たし、生存に必要な養分はすべて腰に繋がれた輸管から点滴されている。もちろん無菌状態であり、能動的に体を動かす必要もほとんどなくなった。
人工子宮はぽつんと海に沈んでいるので、日がな一日その波に揺られるだけで良かったのである。
……煩わしいですね。
昔、器用にも両足を使って大地に立っていた頃、かつては何者でもなかった女王は「何もしなくて良いようにしよう」と思った。
そのために、人工子宮を作った。仕事の出来に満足して、自分は、自ら進んでその揺籃に引きこもった。
そうして、ひたすら揺蕩う生活を続けていたある日、現地人が突然人工子宮を訪ねてきた。この時は大した用事ではなく、単に好奇心でと彼らは口にしたが、女王にとっては一大事だった。青天の霹靂、その時初めて、外への目が要る、ということに気付いた。意思疎通のために口や耳も、と。
誰も近づいてはならない、僕の生活を脅かしてはならない。そのために、《端末》を作成した。彼らは大陸中に分散し、ある者は召使、ある者は町人、またある者は役人として、アンクスコ、ひいては自分に対しての接近を見張る間者となった。
端末たちはそのおよそすべてが一個の生命体として独立しており、自分が端末であるということを知らない。そのため、視界を一方的に共有する、という形で女王は外界の情報を見ている。聴覚も同様だ。
それというのも、女王の《端末》は、そのほとんどを子供や芸術家などの感受性が強い者たちに「寄生」するという形で作成されるからだ。要するに端末とは、実際のところ、女王に盗み見、盗み聞きされるだけの一般人である。
しかし各国に一人ずつ、合計で八人の上位端末だけは、女王の分身という形で手ずから作成した。実体を伴う思念体とでも言うべき存在であるが、それぞれ自我や個性を持ち、それぞれ女王と一方的に感覚や思考を共有している、という点では一般の端末と同じだ。
だが、他の端末にはない権能として、女王の言葉を代弁することができた。女王はこれを上位端末と便宜的に呼称しているが、彼女たちは例外なく女で、齢を十とした。アンクスコが大陸統一の際に八大国に数えられた十年前――その時作成されたからで、性別は女王の複製だからだ。
今、上位端末Ⅰとの接続が非常に不安定となっていた。
こうしている今も、全端末との視覚や聴覚の共有は、常時行われ続けている。特別に見聞きしたい情報があった場合は任意の回線に意識を合わせて切り替えることで、見たい、あるいは聞きたい情報を得れるのだが、普段はすべての情報を見聞きし続けているのだ。
面倒なのでほとんどしないが、例えばどうしても集中したい回線があって意識を向けている場合、他の回線はある程度認識しないようにはできる。ただ、完全に切り捨てることはできず、この仕様が、女王を悩ませているのであった。
完全に途切れているときは良かったのだ。問題は、不完全な復活だった。どの回線に意識を向けても、完全に意識を切ってしまっても、不完全な光景、不完全な音声が、必ず目や耳のどこかでちらつくのである。
女王には、どうしてもこれが我慢できなかった。一度作った端末はここからでは廃棄できないため、四六時中、不快な情報が安息を脅かす。
不完全な接続を再び完全なものにするか、あるいは廃棄するかすれば、この問題が解決することはわかっているのだ。しかし女王にとっては、これがどうしても面倒だった。解決のために動く事すら面倒。
……一番億劫な時間帯って、動き出すまでですよね?
女王は、二、三時間粘った後でようやく覚悟を決め、ノーヴァノーマニーズに駐在している上位端末Ⅶに接続すると、指令を出した。
「ゴルフ、聞こえますね? 上位端末Ⅰとの接触、および再接続を試みてください」
指令を出しつつも、本人の意思に反して無理矢理体を操作することになるため、一時的に意識を混濁させておく。円滑な任務遂行のために致し方ないことだ。これも、女王との親和性が高い上位端末だからこそ可能な操作だった。一般端末ではこちらから操作することなどできない。
女王は、もっとも手っ取り早い解決方法である廃棄はしたくないと考えている。上位端末は作るのが面倒なのだ。どれだけ少なく試算しても、まともに動くようになるまで六年程度かかりますしね?
そのための人工子宮だ。この世に別の生命として生まれ直すことで、新たに生まれ直した生命を上位端末とする。受精卵の段階から手を入れた女王の複製人造生命体こそが上位端末なのだ。
「久方ぶりに仕事したら、疲れてしまいました。しばらくお休みです。果報は寝て待てって言いますからね――」
女王はできる限り雑音を意識から外し、入眠することを試みた。
……おお、なんか慣れてきてますね?
意外と眠れそうだった。
★
とりあえず兄を殴ったので気が晴れた。
外で腹も膨れたし、気も晴れたので、大人しく客室に戻ろう――と思って歩き始めたのが、つい三十分ほど前の話だった。
「本当に人がいないな、この城は」
独り言ちてみるが、声は無人の廊下に空しく染みただけだった。イスカガンの皇宮とは大違いである。あそこは、大体いつ行っても召使たちが行き来している。
自分が迷ったことに気付いたのは、それからしばらくしてからだった。ノーヴァノーマニーズ大王城も、イスカガン皇宮と同じく建て増しに建て増しを重ねて次第に形成されていった巨大な城である。違うのは、秩序もなにもなく、ただ必要な施設を必要な時に、無計画に建て増しした点であった。
結果生まれたのが、元々あった一番初期の大王城から一歩でも外に踏み出すと始まる、好き放題に階段や廊下が入り組む迷宮だった。自分たち客人や、大王たちこの城の住人が普段使う空間はそれでもかなりわかりやすい構造をしているのだが、どこかで一つ決定的な道間違いをしてしまったらしく、セラムは、大王城で一人迷子になってしまっていた。
こうなっては、奥まで行かないし簡単な道だからと、城の入り口で召使の案内を断った自分が恨めしかった。しかし悔やんでも仕方がない。幸い記憶力には自信がある。なんとか元来た道を辿り、自分の部屋を探す。
しばらく歩くと食堂という札が掛かった扉に到達し、ようやく知っている場所まで来れたと胸を撫で下ろす。ここで右に曲がれば自分の客室まで直線と階段一つだ、と思ったが、また先ほどみたく迷うのも嫌なので、大人しく道を聞くことにした。少し遅い時間だが、食堂ともなれば人がいるだろう。炊事場は必ず隣接しているだろうし、そこで誰かを捕まえれば良い。
一応扉を三回叩き、入りますよ、と合図を送ってみる。扉を開けると、ちょうど隙間から「入って来給え」という言葉がやってきた。まだ食事中の人がいたのか、だったらこの人に聞こう、と思って中に入る。
声は続けて、
「現在、イスマーアルアッドと勇者とで三票ずつだと聞いているのであるが――吾輩は、そのどちらでもなく、新たな候補を擁立するものである」
扉が背後で音もなく閉まった。
セラムの視界の先、一番遠くに声の主が座っていて、左右に分かれてイスマーアルアッド、メイフォン、アイシャ、マリストアが座っている。空席は四つであり、部屋はそれほど大きいものではなかった。
……うわ。
やらかしたなあ、という実感が遅れてきた。背筋を冷たい汗が伝う。
今は一体どういう状況か。メイフォンがこちらの名を呼ぶ。思わず口に出してしまったが、どう考えても本題――そもそも、なぜイスカガンの皇族がノーヴァノーマニーズまで来たのかということだった。
すなわち、
「吾輩は、ここにいるイスマーアルアッドでもなく、まだ見ぬ勇者でもなく、この者を候補として――」目が合った。怪訝な表情を浮かべて、「えっ、あ、その、誰であるか……」
こっちが聞きたい。私はどうすれば良いんだ。
★
トォルは、もうそろそろ呼ばれる頃じゃないかと扉の前で待機しているところだった。
用件は正直分からないが、このことについては大王に何を言っても無駄と諦めを抱いている。なるようになるだろう。呼ばれてからどういう態度でいようか一瞬考えたものの、自然体で良いかと結論付けて以降懸念材料が無くなってしまった。
「ミョルニ、くれぐれも――」
「はい、わたくしとトォル様が蜜月にあることを秘密にすることが再三念押しされようとしているものかと判断いたします」
「いや、うーん。……まあ、その、僕が個人的に連れている下女という風に振舞ってほしい。聞かれたこと以外は答えなくていいから」
「トォル様、それでは聞かれたことには答えてよろしいのですか」
「ああ、やっぱり黙っておいてくれる……?」
「承服いたしました、トォル様」
少し不安だが、ミョルニにもきちんと言い含めておいた。話題が彼女にまで及んでしまった場合、うまく誤魔化す必要がある。これはミョルニさえ口を開かなければわりと難しい話でもなく、少なくともこのあと十数分程度は無口な下女であってもらわねばならなかった。
会話が無くなった間隙を縫って、扉越しに大王の声が漏れ聞こえてきた。
「早速吾輩が推薦する次期皇帝候補を発表する――」
ああそろそろか、とトォルは思う。
食事の時間は終わったらしく、完全に本題に入っている。自分が呼ばれるのは次期皇帝関連の用事が片付いてからだろう。何をするのかはわからないが、もしかしたら魔法関連の実演かもしれない。トォルはいたずらに魔法を見せびらかすのには反対で、大王もそれは同じだと思っていたが、何か考えあってのことかもしれない。皇族には学術的に優秀な人材もまあ多いので、もしかしたら研究の仲間に引き入れようという魂胆かもしれなかった。
だったらここもそろそろ出て行かないとね、とミョルニに言うと、左手を舐められた。なんでだよ。既に無口な下女を演じ始めているのかもしれない。ただ口を開かないでいてくれれば、別に行動まで元のミョルニに寄せなくても良いんだよ――と言おうとしたが、耳に飛び込んできた衝撃の情報がそれを遮った。
トォルは勇者のことは詳しくないが、イスマーアルアッドと三対三で真っ二つに引き分けていることは知っており、個人的にはやはりイスマーアルアッドに票が入るものだとばかり思っていた。少々器用貧乏のきらいがあるが、かなり高水準な器用貧乏だ。特化した強みはないが、万能の人物である。
しかし、大王は確かに、「勇者でもイスマーアルアッドでもない」という風に続けた。トォルは、大王の駄目なところが出ているなあ、と項垂れる。
「三対三、自分の意見でほとんど決まるような場面で別の候補を擁立したらどうなるか、知りたかったんだろうなぁ……」
「トォル様、それでは皆様が困るだけではないかと判断いたします」
「他人がどう思うかより、自分が知りたいことを知りたいんだよ大王は」
それにしても、哀れにも大王が第三候補として擁立した人物とは一体どのような者なのだろうか、と気になって仕方がない。
話の流れ的に、どうやらすでに中には居るらしい。
大王に呼ばれるまでは扉に触ることすら禁止されているが、気になるものは気になるのだ。少し隙間を開けて見るくらい、と、音も立てないように細心の注意を払って隙間を広げていく。
ようやく食堂内部の様子がうっすらと見えるくらい開いた時――
「っ!」
トォルは傍らのミョルニを抱えて床を蹴り、体を背後に飛ばした。
外開きの扉は、食堂側から再び閉じられていた。しかし、空間は密閉されていない――扉、直前までトォルの顔面があった高さに穴が開いていたのだ。
人間の足が作った穴が、二つ。何より恐ろしいのは、靴の縁を象ったかのように綺麗な断面をしていることで、これはすなわち、蹴りの勢いだけで木材の扉が切断されたことを意味している。一切の衝撃を逃がさず凝集し、貫いたのだ。それも一瞬で二撃だ。
声が遅れてきた。
「そこの扉に怪しい人物がいた」
長らく聞かない声だったが、紛れもなく姉の声だった。
「――出て来い!」
「ゴルフ」という名前はフォネティックコードから。