#32 右腕の白銀
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久方ぶりに、気持ちの良い目覚めだった。
障子戸の紙で弱められた朝日が、柔らかく畳を照らす。開け放つと、東風が肌に心地良い。
……お。
小さな鳴き声に、そちらを見やると黒い小鳥が巣を作っていた。頭部のみ赤を持つ――燕だ。驚かせては申し訳ないと思い、室内に二歩下がって布団の上に胡坐を掻いた。
学院の卒業も間近に控え、しばらくは遊行もありかとぼんやり考えている、そんな時期だった。初等課程の修了も無事に認められたので、もはや登校義務もない。卒業論文を提出し終えたら絶対に怠惰な生活を送ると心に決めていたのだが、いざ提出すると、夜は陽が沈むと同時に寝て、朝は陽が昇ると起きるというあまりにも規則的過ぎる生活を送るようになってしまった。無趣味だったのがいけない。ではなにか始めようかと思えども、無意味に出歩くとメイフォンに襲撃される。
だったら城を出るかと、トォルはそう結論付けたのだ。幸い一人くらいなら適当に生きていける程度の能力は身に着けている。末期とはいえ大戦に参加したときの俸禄も、ほぼ手付かずで手元にあるのだ。これを元手にして商売なぞするのも良かろう。
視線の先、イスカガンの城下町を、荷馬車が行き来している。
しばらくぼんやりと市井の人々の営みを眺めていると、腹が鳴った。
そろそろ朝餉にしよう、メイフォンももう学院へ出ているだろうから――と思いつつ、立ち上がる。あの姉は、どうも学院残留が決まったらしい。出席日数が足りていないとか何とかで、来年は初等課程六年目だ。
そこでふと、あの姉を見て旅をしようと思いついたのだ、ということに気付き、なんだか微妙な気分になる。大体、学院も卒業しないで外をほっつき歩いているあの姉と同じにされたくない。僕はちゃんと卒業したし――まだ見込みだけど。
欠伸を噛み殺しながら、雑に丸まった掛け布団に手を伸ばす。暖かくなってきたからか、寝ている間に蹴飛ばしたらしかった。
「……あれ?」
伸ばした右手。感覚では、既に掛け布団を掴んでいるべき場所にあるのに、その感触がない。欠伸で細めていた目を開け改めて視線を送ると、確かに掛け布団はそこにある。それは間違いない。
ないのは右腕だった。
「……………………」
一旦落ち着くために、畳の上に正座した。
着物をはだけて見るに、右肩から先がない。首から肩に続き、本来腕へと続くはずの皮膚が、なんの傷や出血、痕もなく、脇を通って腹に続いている。
トォルは、戦争で腕や足を失った騎士たちを何人も見てきた。だが、それとは明らかに様子が違う。腕が千切れたのでも切り落とされたのでも、壊死して腐り落ちたのでもなく、そもそも、本来、元より、そこに腕などなかったかのように、なんの変哲もない皮膚がある。黄色人種特有の、少し黄味掛かり、黄味が勝った肌色だ。
しかしトォルの記憶の限りでは、右腕は昨日までは確かに右肩から生えていたし、なんらの変哲もなかった。なかったのだ。
トォルは、同年代の男子と比べて精通が遅かった。それは昨晩の話だった。その時右腕は確かにあった。あったのだ。右手が恋人だった。であるからこそ、右腕がないというのはおかしい。そのようなことはありえない。しかし実際問題、現在右腕は行方不明だった。
怪我でも病気でもなく、単純に右腕がなくなっている、という現象に何らの心当たりもない。原因も分からないが、とにかく右腕が無くなった――そこでトォルは、では右腕自体は一体どこへ、という当然の疑問へ思い当たった。
布団の周り、見える範囲には落ちていない。だとすればこの中だろうか、と掛け布団を捲ってみる。最初右腕がないこと自体には驚いたが、左手を伸ばし掛けて、変に落ち着いている自分にも驚いた。思考が追い付いていないだけという可能性もおおいにあったが、妙な冷静さを感じつつ、掛け布団をめくる。
結論から言うと、右腕はなかった。
否、人間の右腕の形をしている右腕はなかった。
掛け布団の下には、五歳程度の幼女が物静かに眠っていた。ミルク色の肌、白銀の髪。尖った爪、そして額に生えた角。
奇妙なことに、その女児が、己の右腕そのものであるという――そのような感覚を、トォルは得た。
そして、右腕が見つかったことに安堵してもう一眠りし、二度寝から目覚めた後に夢ではないと再確認して、膝から崩れ落ちた。
三度寝から目覚めた時には、さすがに冷静になった。
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「へ、へんしちゅっ」「助けてー!」
二つの悲鳴が廊下を駆け抜けていった。
自分たちと同じか少し年上程度の女が、全裸だ。否、全裸というとやや語弊があるだろうか、ずり下ろされたズボンが両足に絡まっているし、靴下や靴などは履いている。半裸、というにもあまりにも心許ない。そのような格好で男の上に馬乗りとくれば、以前二人が垣間見てしまった、マリストアの好きな本によくある世界だと認識する。
叫びの余韻で後退った片方の足が階段を踏み外し掛け、もう片方が手摺を掴んでなんとか踏みとどまる。
時が再び動き出した。
緑髪の少女が男にのしかかっていたような馬乗りから飛び退って部屋に戻り、身を抱く。双子は、男が片腕を広げて何かを横に転がしたのを見て、男がその腕にもう一人抱いていたことに気が付いた。こちらも自分たちと同じくらいの少女だった。襞装飾のふんだんにあしらわれた下女服に身を包んでおり、男が転がした勢いそのまま壁にぶつかるまで回転し、止まる。可哀想なことに、その顔には一切の感情が見て取れない。嫌悪、悲哀、それら負の感情すらだ。よっぽど男に酷い目に遭わされたのだろう。
双子は身の危険を感じ、視線をそらさないまま後ろ向きに階段を下っていく。一段ずつ、踏み外さないように。頭上、階段の上で男は呆然とした表情を浮かべたまままだ体を起こせないでいる。
狼狽えるよりもまずはこの場を無事に逃げ出すことだ。相手は幼い女子を毒牙に掛ける特級の変質者である。油断してはならぬ、と脳内で警鐘が鳴りやまない。ヤコヒメから「危険な目に遭ったら使ってくださいねぇ」と手渡されたとっておきもあるが、果たして変質者との遭遇でまで使って良いものだろうか。もっと具体的に、それこそ魔王のような存在がまた現れた時に使えというような意味合いに思うが、対人で使うといささか問題があるような気がする。
追って来たら使おう、と一応の心構えは無言で意思共有しつつ、階段をどんどん降りる。記憶にある限りではあと二、三段、というところでようやく男が口を開いた。
「あ、危ない人じゃないよ!」
変質者の常套句が来た。
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……これじゃ自白してるようなものじゃないか!
ちょっと思考停止した。いや自白はしていない。事実ではない。事実無根だ。とりあえず落ち着いてもらう必要がある。誤解は迅速に解くべし。後に禍根になる。
まずはこちらの話を聞いてもらう必要がある、とトォルは体を起こす。大王に飛び掛かられた時に強打した後頭部が鈍い痛みを持っているが一旦意識から切り離すことにした。
「君たちは誤解している! そう、順を追ってきちんと説明するから、えっと、ちょっと落ち着こう! ね!?」
「し、知らない大人に声を掛けられても返事しちゃ駄目って言われているのよ……!」「怪しい人に近づいてはいけないのだわ!」
「えっ!?」
疑問の形が口から飛び出したが、一瞬のち納得に変わる。
黒い肌に銀色の髪、瓜二つの双子。四年前、自分は学院卒業と同時にイスカガンを出たが、妹の顔を忘れようはずもない。当時からすでに神出鬼没の気はあったためにほとんど顔を合わせた記憶はないが、まったく顔を合わせたことがないというわけでもない。しかし、こちらは覚えていても、向こうは幼かったから、こちらを覚えていなくとも無理はなかった。
自分はトォルだ、と名乗ってしまえば話は早いだろうか。向こうがこちらの顔を覚えている可能性は低いかもしれないが、ある程度こちらの話を聞く姿勢は見せてくれるかもしれない。しかし実際のところ、まだここから逃げ出すことを諦めたわけではないのだ。双子が自分にピンと来ていないのであれば、名乗らず行くのも候補として十分魅力的だ。マリストアであればともかく、他はまだ魔法を識る者たちではない――自分に会う資格はまだないだろう。いたずらに広めて良い技術ではないのである。知らずに済むなら知らずに天寿を全うするべきだ。本来であれば、魔法は自分でその存在に気付いた者だけのものなのである。
ここまで来て、だが、と首を振る。
かといってこの場を切り抜けられる代案も思いつかぬ。であれば上手いこと言い包めるしかない、と覚悟を決め、トォルは言った。
「僕だ、トォルだ! 君たちの兄だよ!」
「自分のことを兄だとか言い始めたわよ……?」「じ、自分のことをお兄ちゃんとか言わせて喜ぶ系の変質者だわ!」
あれあれ、なんか墓穴掘ったかもしれないぞ?
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マリストアの持っている本で読んだ。小さい女の子にしか興味を持てない男性がいるらしい。学院の教師が教え子に手を出すような話だったが、物語の中だけの話だと思っていた。
残りの段差を思い切って飛び降り、廊下を直走る。
背後、男はすぐに追って階段を下りてきた。何事か言っているが耳を貸さず、足を前へ。
自分たちに兄は、イスマーアルアッドとニールニーマニーズしかいない。なんとなくもう一人いたような気もするが、気のせいだろう。
念のため姉も含めて確認していくが、長男がイスマーアルアッドで、上から順番に、メイフォン、トォル、アイシャ、マリストア、ニールニーマニーズ、そして自分たちだ。
「ねえ待って、さっきあの人」「そういえば、トォルって名乗ったのだわ」
もう一度、アレクサンダグラスの八人の子供を思い出してみる。イスマーアルアッド、メイフォン、トォル、アイシャ、マリストア、ニールニーマニーズ、アルファとイルフィ。
やはり――トォル、という兄がいる。
久しぶりに見るのですっかり忘れていた。前に見たのは、最新でも自分たちが六歳になるかならぬかといった頃のはずだ。覚えていろというのも無理な話だ――記憶の中のうすぼんやりとした兄の顔と、廊下の奥の変質者の顔が重なった。
ようやく合点が行き、なるほど誤解かもしれない、実の兄であれば話くらいは聞いても良いだろうと、双子は、体を反転させる。
そして二人は見た。
実の兄が、全身の毛穴から血を噴き出して、前のめりに倒れる光景を。
悲鳴は真隣から一つ、そして階段の上から一つの合わせて三つ、聞こえてきた。
どう、とトォルが倒れ伏す。全身赤に染まり、小刻みに痙攣している。
一瞬のうちにどう行動するべきか判断できなくなり、二人はその場に膝をついた。やがて階段の上から緑髪の童女が駆け下りてきて、トォルを抱き起こそうとした。
双子たちの視線の先、トォルが血塗れの左手を持ち上げてみせる。意識はあるらしい。あ、と二人が小さく声を漏らしたその瞬間、階下から、もう一つの影が飛び降りた。
白銀の髪を振り乱し、四肢を着いてトォルの胸元にその顔を埋める。緑髪は弾き飛ばされたようだった。
はじめ、何をしているのかと思ったが――息継ぎのために二人目が顔を上げた時、アルファとイルフィは、白銀の口元から唾液に混ざった赤が滴るのを目にした。
トォルの全身から噴き出した血液を、舐めとっていたのだ。
ここに至り、ようやく双子は、気絶した。
あとには血液を舐めとる水っぽい音が響くのみとなった。
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どうしよう、と思った。
当然だが、自分に子はいない。新生児であればともかく、あきらかに五、六歳といった年頃の女児である。どう発育の良い子だと言い張っても、自分が十かそこらの時に作った子供という計算になるのだ――まずありえない。とにかく、己にそのような経験がないことは自分自身が一番よくわかっている。
であればこの子をどうしよう、とトォルは途方に暮れているのだった。
とりあえず起こせば何かわかるだろうか、と左手で軽く肩を叩いてみる。
「……おーい、お、起きてー……」
とん、と肩に指先が触れた瞬間だった。
ぱちり、と両の目が見開かれる。縦長の黄色い瞳。どこか爬虫類じみた、冷たい瞳だとそのようなことを感じた後、ちゃんと目を覚まして良かった、という意識が追い付いてくる。
「ねえ君、名前は? 僕の言葉がわかる?」
しかし彼女は、一言も言葉を発さなかった。それどころかこちらの言葉を理解どころか聞いてすらいないのか、無機質な表情を顔面に貼り付けたまま、こちらを見つめ返すのみだった。
さすがに困ってしまい、左手で頭を掻く。
「とりあえず朝ごはんにしようか」
何を食べるかわからなかったので色々持ってきてもらったが、女児は、肉にしか興味を示さなかった。口元に運んでやると、指ごと持っていかれそうになり慌てる。尖った犬歯が指先を抉って、少しだけ血が出た。
痛、と指先を引き戻すと、女児の視線は指先に釘付けである。
「な、何だよ……」
思わず痛みも忘れて問う。女児は緩慢な動作でこちらににじり寄ってくると、指先から滴り畳に落ちた血液に舌を伸ばした。そしてそれらも綺麗に舐めとってしまうと今度はこちらの指先に、直接来る。
小さな口の中に、人差し指が収まった。
舌先がちろちろと生き物のように動き、敏感な傷口が舐めとられて変な声が出そうになる。結局トォルは、指先の出血が止まるまで、されるがままだった。
不思議なことに、恐怖は感じなかった。
東風が心地良い(ダジャレ)