#31 二王の斬首
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渺々たる大草原の真ん中に、木々が林立している。
違和感は耳から来た。
草原を駆け抜けてきた風が、木々を揺らす。葉枝が揺れ擦れる音を聞く者が二人、西日を正面から浴びている。
夕暮れだった。ほんの数か月前までは、同じような時間帯ではすっかり暗闇と化していたような時間である。季節柄、虫たちが鳴き、小鳥たちが巣に帰り、気の早い夜行動物たちが下草を揺らすような、そんな時間帯だ。
だが、
「静かですねぇ」
二人のうち、後ろを歩いていた背の低い方が呟く声が極相林に浸透して消える。
違和感。
それなりの規模の木々の林立に、動物の音がない。目を凝らしても、夜行性の動物たちが揺らす下草はない。そもそも下草がない。そう言うと語弊があるかもしれないが、先程通過した林の外縁部から一切途切れることなく、大草原に生えているものと同じ背の低い稲科の下草が地面を緑にしているのみである。
ときおり大草原にも点在する灌木が幾つか存在するが、それらはいずれ周囲の木々に日光を遮られて枯れてしまうだろう。
遷移の過程が驚くほど感じられないような場所だった。いかに極相林といえども、この様子では、それこそ何の変哲もなかった大草原の一角に、無理矢理木だけを持って来たという説明の方がまだ納得できる。
そしてこの説明は、正しい。
無作為に見えるように作為的に配置された木々が、そうとは見えないように壁を形成している。壁は、ひとりでに動いて道行く二人を林の中心へと誘っていく。
しばらくして、二人のうち前を行く方が足を止めた。続く後ろも歩みを止める。
背後、二人を通すために開いた穴がひとりでに閉じ、再び物言わぬ木々となって枝葉を揺らす。
空間があった。
全周を幾重にも重なった太い幹が囲み、その隙間を細い幹や枝葉が埋めて形成された、実に巧妙に外から隠された空間だ。
もちろん上部も例外なく、緑が屋根となって茜を覆い隠している。
緑の屋根が入ってくる光をも極端に減らしているが、幾筋かの光条が照らす空間の中央に、二本の木が横並びに立っていた。
周囲の木々と比ぶれば背は低いものの、ある程度見上げる必要はあるような、一際太い木々。
勇者が見上げると、そこに、記憶の中にあるのと寸分違わぬ姿勢で、二人の人間が磔になっていた。下半身と両腕、首回りが幹に飲み込まれ、胴体と顔だけが露出している。
樹幹によく似た肌色を持ち、黄金の装飾を身に着けた痩躯の男。
樹冠から漏れて差し込む陽光に似た黄金の髪を持つ、美貌の女。
大陸八王、ペラスコ王アルタシャタと、フィン女王エウアーに相違なかった。周辺の異空間じみた背景も相まって、どこか格調高い絵画を思わせるような光景である。
「遥か遠い昔みたいな気がするなぁ、おい」
「ツチグモヤソメとは大体丸一日戦闘してましたしね。僕もかなり昔にここに林を作ったような気がします」
言われ、実際には丸一日と数時間前の話でしかないという実感がまるで湧かない。
勇者が口を噤んでいると、ニールニーマニーズが木肌を触りながら言った。
「起こしましょうか? その辺り、調整効きますよ」
身体の不調をあっという間に治せる蜜を精製できるくらいだから、長時間昏倒させておくような効果も容易いのだろう。勇者は「俺には絶対に害のある蜜を出すな」と告げてから、ニールニーマニーズの質問に答えていないことに気付いて続けた。
「起こさなくていい。こいつらに特に用はねェ、さっさと片付けて帰るぞ」
そうですか、とニールニーマニーズが木肌から手を離す。
しばらくして、重いものが下草に叩きつけられる音と湿った音が木々のざわめきに掻き消された。そして空間にあった二本の木々は姿を消した。
勇者とニールニーマニーズが林から踏み出た時、そこには人のいた痕跡は残されておらず、それどころかすべての木々が地面に潜り、林は幻のようにその姿を消した。
あとにはただ大草原を駆け下りてきた風が、灌木と下草をいたずらに搔き乱しながら駆け抜けていくのみだった。
★
高層建築群の隙間を吹き抜ける海風が、時折強く吹く。
空を茜が染め、あと数時間もすれば風向きが真逆になるといった時間帯だった。陸風は、大陸の東から駆けて鼠返しの隙間を抜けてきた風だとも言われている。昼と夜で風のにおいが違うのは、そのせいかもしれないし、あるいは夜になるとより活発になる新区街道側のせいかもしれない。
見上げると、建物と建物の間に張り巡らされた連絡通路や配管の類が空を覆い、隙間から差すわずかな陽光が来た。
なんとなく感慨深さや懐かしさなど、感じるものがあるだろうかと思ったが、
……やっぱ頭上を人が飛ぶのは普通じゃないよなぁ。
イスカガンがおかしいのか、それともあの女がおかしいのか。おかしいのはアレの頭だ。
小さい吐息一つを思考の切り替えとして、セラムは視線を戻す。
兄に文句の一つでも言わねばならぬと息巻いて居室を出たは良かった。だが、なにやら途中になっていた実験に本格的に取り掛かったようで、手元の操作を見つめて時折紙に何か書きつけたりなどしている最中だった。こちらを見もせずに「本気で勘弁してください」と言われたので、さすがに実験の邪魔はと思って退散することにしたのだ。
中身は好きに使って良いから、と財布をそのまま手渡された。中身を確認するとセラムの月収くらい入っていたので、これで手打ちにする。まあ適当に晩御飯でも食べて帰るか、と新区の方へ足を運んできたという経緯だった。
まるで面白みのない画一的な建物の並ぶ旧区海側を通り抜けて新区へ足を踏み入れる。階段を探し、適当に上る。三階までは居住区だ。ここに用はないので、一息で四階まで。
かつて自分が修行していた花屋もどこかにあるだろうが、場所が変わったと聞いた。見つけられたら挨拶もしに行こう、と思いつつ、立ち並ぶ店舗の看板を眺めていく。
まだ夜というには早い時間帯であるためか、酒場の類は準備中のところが多い。この点イスカガンとは違う。人口の差だろうか。飯屋の類は開いているところと開いていないところが半々で、当たりをつけつつ階をのぼっていく。
途中武器屋など見つけたが、ノーヴァノーマニーズで武器が必要になる機会は本当にあるのだろうか。強盗なぞせずとも、学者共は多分ちょっとお願いすれば金くらい簡単に手渡すだろうが――もちろん、何らかの実験と引き換えに。そのような事件聞いたことがないが、あり得そうな話だ、などと思いつつ通り過ぎる。
最上階まで行ったが、かつて修行した花屋は見つけられなかった。もしかしたら今日は定休日の可能性もある。不定休だったからなあ、などと扉の閉ざされた花屋の前で立っていたが、こうしていても仕方がないと先程見当をつけていた飯屋へ足を運んだ。
中東系の店主にノーヴァノーマニーズ人なのによく食うなぁ、と驚かれたが、他人の金で食う飯はうまいからな、と返しておく。一瞬怪訝な顔をされたがすぐに合点がいき、盗んだ財布を持っていると勘違いされそうな物言いだったと慌てて弁明した。
銀貨で支払いを済ませると、釣りの銅貨が持ち運ぶには邪魔な重さになりそうだったので、今日の酒代にしてくれと言って店を出た。まあ典型的なノーヴァノーマニーズ人学者である兄に対して金銭的な罰が有効かはさておき、少し気分が晴れたので城に帰ることにする。
なお、途中少しだけ道に迷ったが、そのおかげでかつて修行した花屋を見つけて世話になった店長にも挨拶できたので、セラムは上機嫌だった。
夕日の茜はすっかり大王城の背景に残るのみとなって夜の帳が下り始め、東の空にうっすら姿を現しているであろう青い月は、高層建築群と鼠返しの陰に隠れて確認できなかった。
昼が終わる。
★
さて、という言葉が大王を振り向かせた。
場所は大王の私室だった。起きている時間のほとんどを研究室か謁見の間で過ごす大王にとって、私室とはただの寝るための場所であり、簡素な寝台以外の家具が一切排されている。余計な装飾もない上に、狭い。
「それじゃあ僕はそろそろお暇しますね。長い間ありがとうございました」
眼前では大王が着替え中――白い肌の色が大胆にも晒されているが、両者ともに恥じらいは感じられぬ。ミョルニが明後日の方向を向いてじっとしていた。
現在この部屋にいるのは半裸の童女と青年――とその下女――だが、そこに横たわるのは耽美な空気でも誑かされた幼い娘と悪徳青年が醸す空気間でもなく、緊迫した、やるかやられるか、というような空気だった。
互いの視線が間断なく相手の隙を探し、およそ思考を放棄して口だけが回る。
「さ、ミョルニ、帰るよ」
「それは許可できないのである」
「なんでですか」
双方、じりじりと足裏で床を横移動して扉へ近づいていく。トォルは理由あって皇族と会えないのだ。視界の端っこの方でミョルニが大王の脱ぎ散らかした衣服を眺めている。
……ミョルニを説明できないんだよなぁ。
何とでも言えるような気がするが、できれば皇族には見せたくない。かといってミョルニを一人にして、自分だけ大王と同行することもできない。末妹アルファとイルフィほどではないが、自分たちも一定距離以上離れることができぬのである。我々は一定以上距離を取ると死ぬ――あの双子が自分たち程深刻かどうかはわからないが。
「晩餐まで時間も迫っているのである」
「僕たちにはお構いなく、どうぞ着替えを続けてくださいってば」
「吾輩も貴様の前で肌を晒すのは本意でないのであるぞ、意を汲んで大人しくしてい給え」
「じゃあこうしましょう。何も大王が御自身で僕たちを監視することもないですし、誰か召使とかに見張られますよ」
「は?」
「論理を捨てた!?」
「この城にいる者で貴様らを制止できるのは吾輩だけである。しかし吾輩は着替えたり梳ったり、場を整えたりと色々忙しい。であれば、貴様を監視しつつそれらを行う――論理的かどうかはともかく、合理的である」
言うと大王はさらに服をはだけた。
ズボンにも手をかけ、トォルはその瞬間を見逃さない。今だ、と思った瞬間にミョルニを抱き寄せて扉に掛けた。
ノブに手を掛け、外開きの扉を開け放つ。大王は追って来れないはずだった。幼いころにメイフォンと一緒に習得した武道の心得を無駄に総動員させて瞬き・呼吸の間など、大王の隙を完璧に衝いたし、なにより脱ぐ途中のズボンは両足に絡まって足枷となる。意図は知らぬが脱いだ傍から着ていけば良いものを、先にすべて脱ぐことを選んでくれたおかげでほぼ全裸――よもや、これで城の中を大捕物とはいくまい。
完璧だ、と思った。
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アルファとイルフィは、大王城の中で、完全に迷子だった。
広義の身の危険を感じたので、慌てて服を身に着けて脱兎のごとく逃げ出したのであったが、どうやらその時点で元来たのとは違う廊下を進んでいたらしい。汚れ一つない絨毯の両側に白壁が立ち上がり、上端は曲線を描いて繋がっている。一定間隔で四角い木製扉が並んでおり、そのほとんどに「立ち入り禁止」と書いた札がかかっていた。二人は知る由もなかったが、ここら一帯は客室が並ぶ建物とは別館であり、研究室が立ち並ぶ棟である。
誰かを捕まえて道を聞こうにも、少なくとも見える範囲には人影がない。用がないので当然だが――使用人の類も歩いておらず、立ち入り禁止の札を無視して扉を叩いてみるが反応もなし。近づいてよく見ると札に書かれた「立ち入り禁止」の下に、「実験体になってくれる人は大歓迎! どうぞ中へ!」という文言が、よく目を凝らさないと見逃してしまうくらい小さな文字で書きつけてあったので慌てて廊下を逃げる。
「参ったわね」「迷ったのよ」
もと来た道を辿るということは一度試してみたのだが、この時どうやら降りる階数を間違えたらしく、大浴場に戻ることはできなかった。
まあ迷子になったとはいえ所詮は城だ、適当に歩いて居ればいずれ誰かに行き合うか、知っている場所に出るだろうと、散歩半分探検半分といった気分で先程から廊下を彷徨っているが、段々壁に並ぶ扉の数も減ってきた。
「行き止まりよ」「いいえ、奥、続いてるのだわ」
ついには廊下に並ぶ扉が途切れ、正面少し離れたところに壁が現れた。嵌め殺しの窓からは、赤く染まる水平線が見えている。海側だ。ということは、今向いている方が西である。廊下はそこで終わっていたが、窓の前で北に、すなわち右に曲がり、上り階段があった。
正面、一階層分の高さを登った先に短い廊下があり、突き当りに扉がある。ここにも何か札が掛けられているが、何と書いてあるかは読めなかった。
双子が階段の半ばほどまでしか登っていなくて、少し距離があったから――ということもあったが。扉がすごい勢いで開け放たれたから、というのがその主な理由だった。
後頭部から倒れた焦げ茶色の男の上に、緑色の髪が特徴的な全裸の童女が馬乗りになっている姿がまろび出た。
「吾輩から逃げれると思ったであるか……!」
「待って身体的接触は駄目ですよ大王、そういうのは今色々まずいんですって本当に! ミョルニの教育に悪いんで!」「みゃあ」
「貴様にはしてほしいことがあるのである。貴様にしか頼めぬことだ、後生だから承諾してくれ給え。望むのであれば、この身を差し出す覚悟もあるので――む?」
「え? どうしたんで――あっ」
まずこちらに気付いたのは、全裸の女だった。自分たちと同じくらいの年の頃に見える。彼女がこちらに視線を送ったのに一拍遅れて、下敷きの男がこちらに天地逆の顔を向けた。
互いに硬直の間があった。
期末テスト有るので7/12投稿分から7/24投稿分までは全部事前に書き溜めして予約投稿していたものでした。今日(7/27)テストが一段落したので急ピッチでこの話書き上げたのですが、――なぜ28日分まで書き溜めしておかなかったのか。