#27 東西の様子
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「実はこの中は超巨大な空洞になっていて、ノーヴァノーマニーズのとある重大な秘密が隠されてるらしいですよ」
聳え立つ、という形容をこれほどまでに身近に感じる機会というのは、普通に生きていてまあ来るものではない。
確かにノーヴァノーマニーズは急峻な山脈に取り囲まれている、とは事前に聞かされていたが、
……山脈というよりは、もはや壁ね。
片目で遠近感が狂っているというわけでなければ、どう見ても壁は遥か天空まで伸び、雲を貫いている。上に行くにつれて壁が反っていくのが、感じる威圧を増長させていた。鼠返しとかいう通称が脳裏をよぎる。
「今時子供でも信じないような都市伝説を自慢げに披露するな」
「セラムだって昔は信じてただろ」
基本的にイスカガンから伸びる八つの大街道には、難所らしき難所は存在しない。あらゆる障害物を排し、穴は埋め、谷や湖畔には橋を架け、ただ一か所のみを除いて例外なく直線を整備したがゆえだ。直進し続ければ絶対に道に迷わないし、車輪や足を取られてしまうような場所もない。
唯一の例外というのが、イスカガンから西行き、すなわちノーヴァノーマニーズへ延びるここに存在する。
西の方面は荒地が広がる関係でその限りではないが、それ以外の方面に伸びる街道は幾本も枝分かれの小道が存在し、主要八国家以外の小国家に続く。またそれ以外にも、一定距離ごとに駅が整備されているのだが、同様の理由で西側のそれは数少ない。イスカガンから荒地まではそれぞれ他の街道と同じ程度存在するが、荒地に入って以降存在しないのだ。
否、野営をしやすいように若干の整備がされた地点を駅と呼べるのであれば、駅は設けられている、と言って良いだろうが、しかし。
駅とはすなわち馬の中継地点である。旅の途中で宿泊することもできるが、早馬を次々乗り換える中継地点としての用途が主だ。駅の配置が一定であるということの「一定」も、乗り換え地点によって計算されている。
荒地にこの駅を整備できない理由は、まず第一に十分な草が生えないからである。
第二には、そもそもこの街道を通る者の実に九割近くが商人だからという点を指摘することもできるだろう。彼らは大きな馬車に品物を満載して街道を通る。
話は簡単で、そもそも早馬を使わない。馬の飼料は荷馬車に一緒に積めば良いし、適宜十分な休みを取れば乗り換えは要らないのだ。
つまるところ、戦時に比べて大陸全体で早馬を使う頻度が激減しており、イスカガン・ノーヴァノーマニーズ間では、そのような状態でこの荒れ地に駅を維持するための人員や資金を割けなくなったと、そういうことだった。
「わかってはいたけれど、やっぱり何日もお風呂に入れないのは気持ち悪いわね」
「ご安心くださいマリストア様、今日ここで野営したら、明日の夕飯までにはノーヴァノーマニーズに到達できると思いますよ」
セラム兄がそう言った。
明日以降はこれを抜けるのか、と、まるで鼠返しの裂け目のように見える峡谷に視線を送る。街道はこの裂けめに沿って進んでおり、当然ながら直線ではない。視線はすぐに剥き出しの岩肌に遮られてしまう。
「落石の危険はないのかしら」
ふと思いついて口にする。
街道に存在する難所というのは、まさしくここ、鼠返しの裂け目のことを指すのだ。マリストアの目には、肉食獣が口を開けているように見える。
「ああ、大丈夫だと思いますよ。どれだけ大雨が降ろうと大風が吹こうが今まで道が通行できなくなったことはないので」
「それは頼もしいわね」
セラムを見ると首肯されたので、まあ事実なのだろうと判断する。
落石の危険がないのだとすれば、道が曲がりくねっていることが難所の謂れだろうか。
周囲には明らかに大きな岩が転がっているが、確かに街道の上には不思議なくらい見つからない。強風に転がされるような小石の類は散見されるが、頭にぶつけて死ぬような大きさの岩はないようだ。
マリストアは下女から茶をもらうと、手頃な岩を見つけて腰かける。
セラム兄は明日の打ち合わせのためにイスマーアルアッドの元へと行ってしまった。彼が付いてきた理由のうち、道案内が締める割合は非常に大きい。
連日同じことをしているため、野営も手慣れたものだった。召使たちが着々と準備を進めていく。
場所としては、鼠返しを背にする形である。視線を正面に送ると、異様なほど奇妙かつ几帳面、神経質なほどにまっすぐ伸びる街道が、地平線の彼方まで続いている。
「昔は駅もあったんだぞ」
メイフォンが隣に胡坐を掻いて座った。セラムは一緒じゃないのか、とからかい半分くらいの気持ちで聞くと、うんまあ、とらしくもなく歯切れの悪い返答が返ってくる。思わず姉の方を見ると、視線は自分と同じく彼方地平線を見据えていた。鼠返しが落とす影がどこまでも遥か荒野を覆う。
「いやなに、遠くまで来たもんだと――そう思ってな」
マリストアは茶を口に含んだ。
遠くの空、真っ二つに分かれた様に見える雲を指でなぞりながら急に感傷的なことを言い出したこの女に、どう返答すべきかわからなかったからである。
「……なに、家が恋しくなったわけ?」
「いやどちらかというと弟が気掛かりでな? 勇者と一体何をしているのかと。勇者に限って悪いことをしているとは思えないが、あの弟はアレで他人を顧みない性格であるから、勇者に迷惑をかけてはおらぬかと」
今度は何を言うべきか明白だった。――お前が言うな、で満点。
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一路東へ。
車輪の音はどんどん東の方へと遠ざかって行った。
「おかしいですよ」
「あ? 何がだ」
「速すぎるんです」
ニールニーマニーズは両目を瞑り、全神経を聴覚に傾けつつ続けて、
「相手は車椅子ですよ? まあこうやって時折足を止めますが、男の足でいつまで経っても追いつかないというのは、やっぱりおかしいと思うんです」
「ヤコヒメにはなんとか言う下女がついてる――アイツが押してるんじゃねェのか」
方角は変わっていない。イスカガンから東北東、やや街道から外れて直線的に進んでいる。
おかしいと言えば、この道を選んでいるのもおかしい。一応アレクサンダグラスが街道を整備する前に使われていた旧道が残ってはいるのだが、とてもではないが車椅子では通り抜けられないような、泥濘や砂礫の多い未舗装の道なのだ。
目を開けて道を睨むが、車椅子の轍がずっと先へ続いている。
「こんな風に轍を残しているというのもおかしいんですよ、大体。逃げたいんだったらこんなもの残さないでしょ?」
「じゃあまあ罠だろうな。誘われてんぜ、俺たち」
「ですよね。追ってこいってことでしょうが、あんまり遠くまで逃げられるのも――」
と。
その時、道の両脇に伸び放題の雑草たちが、東から吹いてくる生温い風に揺れた。
「上だ!」
勇者が叫ぶ。
地面にさっと大きな影が落ちた。咄嗟に目線を上にやると、背後から尖った物に貫かれた。隣にいた勇者も諸共である。
「嫌ですねぇ、上にはなーんもおりませんよぉ」
背中から胴体を貫いた物体の本数は二本ずつ。体幹に近い部分を刺されているため、無理矢理身を外すこともできない。完全に磔状態だった。一呼吸おいて、痛みを得たという信号がようやく脳に到着する。絶叫が口から迸り、一拍おいてどす黒い血液が追った。
背後。
あと少しで触れるのではないかという距離まで唇を寄せて、耳元で女の声が囁いた。
「未知の技術である魔法はとっても危険ですからぁ、どれだけ気を付けていても、うっかり事故で死んでしまう――だなんて、あり得る話ですよねぇ」
それを背後から見ていたニールニーマニーズは、精巧に己と勇者を模した樹木の生長を促し、一息にヤコヒメを捕獲した。
「あら? 捕まってしまいましたねぇ、どうしましょう。困りましたねぇ――」
「勇者様、捕獲完了――」
「馬鹿、油断するんじゃねェ!」
勇者が叫ぶが、一瞬早く、八本の何かが樹木の内側から伸び、樹皮を切り裂く。
鈍く銀色に光る八本が、中ほどで一つ、先端でもう一つの計二つ折れて、樹木の裂け目からヤコヒメの体を外に運び出した。
足――紛う方なき足だ。
しかし、人のそれではない。
「蜘蛛――!?」
「ご名答。ニールニーマニーズ様にわたくしから一点差し上げますねぇ」
冗談じゃない、とニールニーマニーズは思った。
隣で勇者はいつの間にか抜いた直剣を構えていた。
★
絹糸のようだった黒髪を振り乱し、女は高みからこちらを見下ろしていた。不自由であったはずの足が生えている――それも、計八本だ。
鈍く銀色の光を反射する八本足は関節を二つ持ち、先端に行くほど細長く尖る。先程勇者とニールニーマニーズ――を模した木像――を背後から貫いたものと相違ないだろう。恐ろしいほど鋭利。なおかつあの細さにもかかわらず頑丈。
上半身が人型、下半身が蜘蛛。確定的に人ならざる姿に、勇者はわずかな硬直を得る。
「えらい余裕やねぇ、戦闘中に考え事やなんて――」
うお、と声が出た。ニールニーマニーズが生やした木々に巻きとられて体が中空に飛ぶ。一瞬前まで己の体があった場所――いとも容易く木々を貫く足。
蜻蛉を切って着地する間に、思考を切り替える。たとえ形態がどうであれ、あれは倒さねばならない対象だ。臆することはない。
「馬脚を現したな蜘蛛女!」
叫ぶと、相手は呆気にとられたような表情を浮かべ、やがて破顔する。
「蜘蛛足なのに馬脚とはこれ如何に、機知に富んだお人ですねぇ」
惑わされねェ――勇者は自分に言い聞かせ、直剣の柄の部分に右手を当てた。
保険として準備しておいた、あくまで使うつもりのなかった最終手段。体への負荷を考えて取っておきたかった三つ目の魔法。《隠蔽》魔法はまだ利用するため破棄できない。
多用しなければ問題なかろうと、魔宝珠を活性化させる。
「ああそうそう、蜘蛛女だなんて可愛くない呼び方はやめてくれませんかぁ――ヤコヒメ改めツチグモヤソメ、親しみを込めてツッチーとでもお呼びください」
「呼ぶわきゃねェだろ!」
剣を振った。
手にした直剣では圧倒的に長さが足りない。対峙するヤコヒメもそれがわかり切っているのだろう、避ける素振りも見せない――それがお前の命取りになる。
ニールニーマニーズがツチグモヤソメの足それぞれを第二関節まで、一気に木で掴む。腐敗寸前、限界まで熟れた果実のように赫い瞳を見開かれ、緑の髪は最も効率よく日光を集めるために大きく広がっている。
同時に、勇者が剣を振るった軌道の延長線上のすべてが割断される。
《延長》魔法――主な用途は射程延長だ。魔力を籠めれば籠めるほど射程が伸びる。試験なしのぶっつけ本番だったため、魔力を籠めすぎた。はるか遠くの空、雲に鋭い切れ目が入る。
……成層圏までいったんじゃねェかアレ。
こちらとしては剣を振りぬいただけ。直接物理的な手応えはなかったが、当たった、という手応えはあった。
だが。
「いやぁ、びっくりしちゃいましたねぇ」
飄々とした態度を崩さず、ツチグモヤソメがそう言った。勇者が剣を振るった直後からその居場所は変わっていない。割断の力は彼女の左肩口から右脇腹に掛けてを通り抜けたはずであるが、
「効いてねェのか!?」
「ねぇ勇者様、蜘蛛の糸がどれだけ強いかって御存知ですかぁ?」
「まさか、糸まで出せるのか!? だとしたら勇者様、蜘蛛の糸は同じ太さの鋼鉄に比べて、五倍の強度を持ちます――」
ニールニーマニーズが額に脂汗を浮かべながらそう言った。
《延長》魔法は、射程距離を事実上ほぼ無限に延ばすことができるものである。だが、射程こそ伸びはするものの、威力は元々術者が振るった剣の威力に等しい。純粋に身体能力を強化する類の魔宝珠があればそれで良かったのだが、それがなかったがゆえの苦肉の策だった。当然、このような化け物が相手になるとは想像だにしなかった時点での判断である。
つまり勇者の腕力で思い切り振った剣の威力で攻撃の通らない硬度。
「怖いわぁ、魔王のそッ首落とした剣の使い手なんやてなぁジブン。わたくしも切られないようにしないとと思って、思わず糸出しちゃいましたねぇ」
舌打ち一つ。
この様子だと、イスカガンを襲った魔王が自分のけしかけであることも完全に見抜かれているだろう。当然巨大な魔竜の首を落とす腕力など備えていない。そのため、剣を振ると同時に魔王が自壊する様に命令した――よもやここまで見抜いたうえでの発言か? 十中八九間違いない。
嫌味な女だ――と、攻めあぐねて距離を取る。
「攻めて来はらへんの? いや別に良いんですけれどねぇ、わたくしとしても。わたくしがわざわざこんな人気のないところまで貴方達をおびき寄せたのも、あんまりに一方的な虐殺を無辜の民に見せないようにするためですし」
ニールニーマニーズが足元から生やした木々が棘となってヤコヒメを襲う。
下からの連撃。
衝突の瞬間、ヤハン女王が身を揺らした。棘は足に当たり、すべて弾かれる。無傷だった。
勇者は真下からの攻撃に気を取られた隙を利用して《隠蔽》魔法を発動するつもりだったが――しかし、動けなかった。視線の先。ヤコヒメの瞳に左右三つずつ、計六つの裂け目ができている。
皮膚が裂け、目ができているのだ。
元々あった二つの瞳よりは少し小さなそれらが、勇者のことを睨みつけている。蛇に睨まれた蛙――ではないが、奇妙な威圧に体が痺れ、行動に移るまでを一瞬遅らせたのだった。
「ようく見えますよぉ。何をするつもりなのかは存じませんけれど、すべて、ことごとく、一切無駄であると、親切心から事前に忠告して差し上げますねぇ」
どこからか取り出した扇子で口元を隠し、ころころと鈴のような笑い声を上げる。計八つの瞳が細められ、その時初めて、勇者は自分が呼吸すら忘れて硬直していることに気が付いた。
ぱちん、と片手だけで扇子が閉じられる。
「――まあこの大陸の平和は次代のあの子たちに任せて、わたくしたち老害は引退すべきなんでしょうけれど。子供が悪いことしたら叱ってあげるのが大人の責任ですからねぇ」
今まで扇子で隠されていた口元――三日月のように吊り上がった口。耳元近くまで裂けた口が、露わになる。
「ちょっと痛いかもしれませんけれど――お仕置きや思って、どうか堪忍してください」
細い八本の足が高速で動き、ヤコヒメの姿が掻き消える。
直後、勇者は横からの衝突を受けて体を飛ばされていた。遅れてニールニーマニーズも同様の衝突を得る。
戦闘が始まった。
土蜘蛛八十女――ツチグモヤソメ。




