#23 勇者の夢見
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街中で試してみると、なかなかどうして使い勝手が良い。
何ができて、何ができないのかを探るつもりで街へ繰り出したが、およそ想像通りだ。
人通りの多い区画まで足を伸ばしている。いつだかに吟遊詩人として活動した広場がある辺りだ。午前中一番人通りの多い時間帯――通りの反対側へ行くのでも、今の勇者にとっては一苦労だった。
誰一人、勇者が見えている者がいない。
イスカガンはかなりの人口過密地帯だ。均一な体格を持つ者ばかりで構成されていなければ、当然歩幅も均等ではなく、歩く速度も違えば歩く向きも異なる。しかしそれらが適度に渋滞を避けて日々の生活を恙なく進行できるのは、見えているからだ。互いが互いを視認し、有意識的にしろ無意識的にしろ、体がぶつかりそうであれば避ける。
どうにかこうにか人波を泳いで、通りの反対側まで辿り着く。
――――かつて大英雄アレクサンダグラスは、大陸の東岸から西岸のそのほとんどを征服し、そのことごとくを支配下に置いた。ほとんどの文明、文化が大陸に存在する以上、これは人類史始まって以来初の偉業となる、世界征服、天下統一とも呼べる一大事業である――
己が身を吟遊詩人とやつしていた時に、飽きるほど朗じたそれ。念のために近くにいた者の眼前や耳元でも声を出してみるが、迷惑そうな素振りを見せるばかりかこちらが避けねば正面衝突を免れぬ観である。
やはり、使い勝手は抜群だ。
「姿も見えてねェし、音も聞こえてねェ」
勇者は近くの裏路地にその身を滑り込ませると、この世の誰にも聞こえぬ声で、続けた。
「寝首掻き放題、てなァ」
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「わたくしみたいな不審者に、もう捕まっちゃだめですよぅ――」
という声を背後に、アルファとイルフィは、ヤコヒメに割り当てられた小屋を後にした。
昨夜は結局、自分たちの割り当てられている部屋には戻っていない。
双子は、一睡もせずふらつく体を互いに支え合いつつ自室を目指す。昨日勇者と何やら話し込んでいたヤハン女王に見つかった瞬間のことが、霞む思考の片隅から消えない。
固まるこちらに対し、彼女はこう言ったのだ。
車椅子に座し。
両手を広げ。
整った顔には慈愛に満ちた笑みを浮かべ。
「ごきげんよう、小さなお姫様たち。突然ですがわたくしは、幼子を愛してやまない優しいお姉さんですよぅ。そう、食べてしまいたいくらいに」
美しい声だ。内容を気にしなければ、耳を傾けるだけの価値はあったろう。飛び込んできてくださいと言わんばかりに広げられた両腕――実際そのようにすれば、待っているのは抱擁で間違いない。
アルファとイルフィの目にも、完全に、ただの優しく母性の溢れる魅力的な女性にしか見えない――というのが、拙いと思った。
言語化できない生物としての恐怖を感じて、後ろに飛び退いた。
もはや形振り構ってなどいられないと、滅茶苦茶に飛び退った。
二人の肩に、何者かの腕が回される。
「失礼します。皇族の御姫様に気安く肩組むとか自分でも反省しとるから――」
東洋式の下女服を着た、自分たちより頭半分程度だけ背の高い女だった。恐らく年の頃も、僅かに向こうの方が上といったくらいでほとんど同じであろう。言葉とは裏腹に、まったく反省している素振りは見せない。
双子の華奢な肩は、同じくらい華奢な腕に抱えられ、完全に委縮していた。おなじみの、体の中に異物が割り込んでくる感覚。逃げようにも逃げられない。少しずつ視界から精彩が欠けていく。
食われる、と、心の底からそう思った。
結果的には食われはしなかったのだが。
「逆に清々しい気分よ」「逆に清々したわ、まったく」
徹夜のせいか、やけに体の調子が良い。
否、徹夜のせいではないことはわかっている。わかってはいるが――今はまだ、そのことについて考えたり調べたりするのには疲れすぎている。
ひとまず寝ましょう、という意見以外は互いの口から出てこなかった。
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善は急げと言う。
なにせ今の自分は無敵状態、何をしても「見」咎められないし、「聞き」付けられない。暗殺し放題だ。であれば殺さねば、屠らねば、斬らねば獲らねば狩らねば倒さねばならぬ者がいる。
もはや過信などない。
今ある能力を用いて、どのようにすれば目的を果たすことができるのか、計画を練り上げていく。
最終目標は揺らがない。やるべきことはわかり切っている。そのために不必要なものを弑する。ただ障害を排除する。
まず真っ先に取り除かねばならぬのは、ヤハンの女王だ。洗脳魔法が効かぬどころか、こちらが掛けた洗脳を解除できるとあらば、殺してしまわぬ道理はない。
現時点で彼女が洗脳を解除したと思わしきはイスマーアルアッドとマリストアの二人だ。この二人はまた機会を見て洗脳し直すとしても、ヤコヒメがいれば再び、そして三度と鼬ごっこを繰り返すことになる可能性がある。否、その可能性は非常に高い。ほとんど必然とさえ言える。
だから取り除く。
排除する。
誰にも見えず、聞こえないということを頭では理解しているが、細心の注意を払って皇宮跡地に並ぶ丸太小屋の隙間を縫って行く。
目的地まであと少し。今のところ不備はない。召使たちとは何人かと遭遇したし、一度はエウアーともすれ違った。しかしこちらに対して気付いたような素振りを見せることは全くなかったのだ。
と。
ある建物の横を通った瞬間だった。
「勇者! 丁度いいところに来たな、今暇か、暇だろ――」
言いつつ扉を開き、高い位置で黒髪を結った女が顔を出した。
思わず身を竦め、首を振り向けると完全に目が合っている。メイフォンの双眸は、完全にこちらを捉えている。
勇者は思わず硬直した。
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メイフォンは扉を閉めつつ振り返った。
「おかしいな、確かに勇者の気配がしたと思ったんだが」
炊事場には自分と召使を除くと五つの人影がある。
何やらわけのわからぬ話が白熱していたようであったが、難しい話はよくわからん。セラムが結婚するらしいことだけ何となく理解した。遅ればせながら、親指を立てておめでとうと言葉を送っておく。
そろそろ勇者と決着をつけねばならぬとは思っていたが、なかなか尻尾を掴ませないので、気を張っていたのだ。城に帰り次第、今度こそは。決闘でなくとも、手合わせで良い。強者との戦いは己にとって、どんなことよりも幸いである。
気を張りすぎていたのだろうかと、首を捻りながら席に戻る。食後なので、ついでに茶をもらって啜る。
「おい師匠、先程勇者の気配がしたと思ったんだが」
「元とはいえ、師匠に向かって『おい』はないと思うが……そうだな、確かに気配は近い。すぐ傍にいるのは違いないだろうて」
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気配ってなんだよ、と勇者は思った。
否、字義は理解している。ただ、魔法によって視覚的、聴覚的に完全に《隠蔽》されている身を、そのような直感じみた出鱈目で看破されるのは困る。
自分は今、視覚や聴覚ほど詳しく試してはいないものの、恐らく嗅覚、触覚的にも《隠蔽》されている。味覚はさすがに試していないので知らないが、恐らくこちらも無効であることは間違いないだろう。
《隠蔽》は恐らく、五感から免れるようにする魔法だ。第六感に優れた者からは完全に隠れることができないと、そういうことだろうか。いやそんなことがあってたまるか。
幸いにも気のせいだと思ったようで、メイフォンはこちらに視線を送りながらも小屋の中へ戻っていった。耳を欹てて中の様子を伺ってみたが、やはり姿を隠していることまでは気付かれていないようだった。
……完全に俺のことを見てたよな……?
視覚的にも聴覚的にでもなく、直感的にこちらの位置を見つけていたことになる。視線は完全に交錯していた。見えたり聞こえたりしていないとはいえど、完璧に居場所を探知されていた――そういうことになる。
メイフォンとウー王には、《隠蔽》魔法は効かない。ウー王にはすでに洗脳を施してあり、それがヤコヒメによって解除されていないことは確認済みであるが、メイフォンへの洗脳はまだ済んでいない。
実を言うとあの女への洗脳はかなり初期段階から幾度となく試みているのだが、その度に直感的な回避を繰り返されてきた。情報提供料に食べかけの焼き鳥串など前代未聞である。こちらからの硬貨も受け取ろうとしないし、あの女は一体なんなのだ。
勇者は、一旦引くことを決めた。自室に戻り、《隠蔽》の魔法を解除する。
確証はなかったが、このままヤコヒメに割り当てられた小屋へ赴いたとしても、「気配」で見つかり、暗殺に失敗するだろうと思われたからであった。
魔法を解除した瞬間、椅子に体を投げ出す。疲労の度合いが濃い。
少し休むことにする。思考に薄もやがかかっているように感じるのが、この《隠蔽》魔法の代償だろうか。
その様なことを考えているうちに、勇者はいつの間にか眠りに落ちていた。
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ああ、夢か、と勇者は思った。
丸太小屋の中で眠りに落ちたはずなのに、目を覚ましたのは明らかに別の場所であったからだ。
屋内なのは変わらなかった。濃灰色の土床、同じ素材の壁。上に繋がる階段と、天井付近に設置された採光窓が、この場所が半地下にあることを示す。
床から天井までを、鈍く光る金属の棒が貫いている。幾本も、幾本もだ。ここは牢屋で、自分はその中にいた。
雨が降っていた。採光用の窓から水が流れ込んでいる。僅かに角度のついた床の上を流れ、こちらの裸足を濡らした。両手が壁に繋がれていた。斜め上に挙げられている。両脚は床に繋がれていた。肩幅よりやや広い程度。針に刺された昆虫標本のようだ。
全身の感覚がないのはこれが夢の中の出来事であるからか、それともその当時もやはりなかったのか。
どのくらいの間磔にされていたのかもわからない。投獄されたはじめこそ採光窓から差す光で日没・日の出を数えたが、それも十を数えないうちにわからなくなった。それからどのくらい経ったかがもうわからないが、どれだけ少なく見積もっても半年間はこうなっていた。その間起こったことはと言えば、不規則に降る雨が採光窓から流れ込むことのみであった。
その間人間はおろかありとあらゆる動物は姿を現さなかったし、雨が流れる以外に動くものはなかった。何のために磔にされているのか、それすらわからなかった。
この時点では、自分が誰で、なぜここにこうしているのかもわからなかった。眠らず、食わず、飲まず、新陳代謝もなく、排泄もせず、僅かに首を動かす以外の行動が封じられている。
ただ時だけが、無情にも、几帳面に刻まれ続けていた。
上に続いている階段から、誰かが、何かが下りてくることは一度たりとてなかった。
自分の背中を預ける壁上方に設けられた採光窓、そこから流れ込む雨水は向かい側の壁すぐに掘られた溝へと吸い込まれていく。どこへ続いているかは検討もつかないが、採光窓や、溝の穴から何か小動物が入ってくるということもなかった。
閉じ込められているにしては、外部からの音沙汰がなさすぎる。生かすつもりにしては最低限の飲食が提供されることもないし、殺すにしても誰かが様子を見に来ないというのはおかしい。
様子を見に来る者がいない、というのがまずもっておかしいのだ。であれば、自分はここに閉じ込められてはいるものの、自分を閉じ込めた何者かが何らかの理由でここへ来られなくなってしまったか――あるいは、
「そもそも閉じ込められたではなく、閉じこもった、か」
夢の中であることは明白であり、ここに繋がれて、今自分が自分であると認識している体は、本来の自分ではない。意識するでもなく、思考が声となって出た。紛う方なき明晰夢だ。
当時の自分――まだ比較的意識がはっきりしていた頃――は、確か最終的に、自分から閉じこもったのだ、という風に結論付けたはずである。少なくとも覚えている限りではそうだ。
誰かがここに自分を閉じ込め、そうでありながら何らかの事情によって地下にいる自分へ干渉できなくなった、などとは考えたくもなかったのである。頭上の採光窓からは、雨が降る以外の環境音が一切入ってこない。もちろん人が周囲に居ることを示唆するような音も、一度たりとてしたことがなかったのだ。
すなわち、半永久的な無への幽閉。どういうわけか眠ることもできず、腹も減らなければ喉も乾かず、それでいながら特に体に異常が現れない。精神だけが摩耗していく――死よりも惨たらしい、心を蝕む凌遅刑だ。
無間にも思える時間が流れた時――ああ、そう、この日だ。ちょうどこの日がそうだ。当時はこちらの体に触れられるまで全く気付かなかったのだが、視線を送ると階段から男が二人と女が一人、降りてくる。
「――――――――――」
「――――――――――」
今見ているのは夢であり、従って当時完全に正気でなくなっていた自分にとっては、檻の外から三人が声を掛けてきたことを思い出せただけでも褒められて良い。
彼らはこちらの反応がないことを確かめると、牢屋を開放した。中に入ってくる。
三人のうち、左右に控えていた男女がこちらの体に触れ、そこでようやく自分は顔を上げる。驚くこちらに対し、中央にいる男が言った。
「やあ、――――くん。元気かな。ああいや、肉体的に元気なことはわかってるよ。私が聞きたいのは、精神的に元気かい? ってまあそういうことで――つまりはなんだ、僕の言ってる言葉の意味、ちゃんと理解できてるかな」
その言葉に自分がなんと反応したかは覚えていない。
「よろしい。それじゃあ、意思確認だ。首は動かせそうだね? だったら肯定したいときは首を縦に振ってくれ。別に横でもいいけれど。なんだ、否定の時は動かさなくていい」
その言葉に自分がどう動いたかは覚えていない。
「君の力が必要だ。何の罪もない君をこんな風にしている奴らに、そのうえでのうのうと何食わぬ顔して平和を享受している化け物たちに、復讐だ。――乗るか!?」
その言葉に自分がどう返事をしたのか、今でも克明に。
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「――《八重の王》は皆殺す」
――「在るべき真世界」のために。
呟きつつ、勇者は両目を開いた。
丸太小屋の天井だった。
凌遅刑については調べちゃ駄目ですよ。