#22 炊事の場所
★
右、左。腕を突き出すと、肘を叩かれる。
左、右。足を突き込むと、腕に絡まれる。
払うと上下の打撃に潰され、突き上げると躱される。
一瞬の交錯が連続する。円運動の直径を自由自在に操り、互いに威力を繰り出す。筋肉を引き絞って速度を上げる。限界を超える。
速度は相手の方が上。筋肉量が違う。
射程は相手の方が上。体格差が痛い。
威力、技術共に負ける。しかし決定打がない。
こちらの攻撃は先程からすべて対処され、崩され、解かれ、回避されるが、向こうの攻撃にこちらにとっての脅威はない。
現状、手数はこちらが上回っている。有効打が出ないのは、向こうが自分の手数すべてに、後手からでありながら対応してくるからだ。
地を蹴って飛び退り、四肢をついて姿勢を制御。一度距離を取る。
「攻め難い」
「守り難し」
防御の得手では、向こうに軍配が上がる。しかしこちらは攻めさせない。手数で相手を圧倒することを意識して鍛えてきたし、今までもそうやってきた。打って、撃って、切って、斬って、突いて、刺して、薙いで、払って、弾いて、投げて、叩いて、攻める。
攻撃手段があればあるほど、敵に合わせての有効打もそれだけ増えるということになる。今まで手数で誰かに負けたことはないし、今だってそうだ。手数において、相手を圧倒しているのは事実である。
しかしどの手段も、有効打に非ず。
なるほど、やはり強い。湧き上がる笑いを抑えられない。
ほんの少しだけ、加減を緩める。意図的に、手抜きを怠る。
踏み込みの足場とした地が凹み、蜘蛛の巣状の亀裂が入る。今までの動きと比して、数倍にも及ぶ動き。引き絞った右腕を、何の工夫もなく、ただ正面に突き込む。防御の上から潰すと、そういう動きだ。
当たった。
しかし拳は掌の上だった。
互いの足捌きが止まる。先程踏み込みの際に蹴り上げた土塊がぱらぱらと落下する音が消えるのを待ち、肩の力を抜く。
もっとを求めたくなる体を無理矢理静め、構えを解く。瞑目して、深呼吸を幾つか。
「久しぶりだな、ウー王」
「貴様こそ。以前見た時より化けたな。大陸統一よりも前になる。ああいや、昔はすばしっこいだけの小娘であったのが、スーチェンの血を引くだけはある」
「きっと師匠が良かったのだ」
「そう褒めても何も出んが」
「皮肉だぞ」
「驚いた。皮肉なぞ言える頭があったのか」
「私が手合わせを途中で切り上げたのは、貴殿をうっかり殺してしまわないためだ。今からでも本気でやろうか?」
ウー王が鼻で笑った。
互いにその気がないことは十分理解している。万全の状態で――すなわち自分が武器を構え、相手が軍隊を率いていた場合――戦り合えば、どちらかが死ぬのは必然である。
メイフォンは屋根を軽く蹴り、地面に降り立った。
「渾身の拳を受け止めたと思ったが? ――余裕でな」
「アレは三割も出していないぞ」
「じゃあ我は二割だった」
「そういえば朝食がまだで本調子ではなかった」
じゃあ、ということで――炊事場へ同道することになった。
★
さて、ところで同じ条件で魔法の研究を進めている弟はどんな感じであろうかと、アイシャは隣の小屋を訪れた。
部屋の前で立っていた召使に声を掛け、ニールニーマニーズを呼び出してもらう。
「お休みなさっているようです」
「起こしてもらっても良いですかぁ」
「申し訳ございません、昨晩から何があっても部屋には入って来るなと」
まあ弟の言いそうなことではある。
そうですかぁ、と召使に礼を言って、自分で扉を開けた。自分が召使に命令して扉を開けさせたとあれば角が立つが、同じ立場のアイシャが開ける分には弟も文句は言わぬだろう。いや文句は言うだろうが、少なくともあの知識の蒐集に取り付かれている男が、自分の魔法についての見解を後回しに、その他のことに意識を割くとは思えない。
むしろ、アイシャの訪問を今か今かと待ち侘びているのではなかろうか。
ニールニーマニーズからこちらの部屋を訪れてこないであろう理由は、
……私は怒りますからねぇ。
薬品も出る。いくら血の繋がった関係であるとはいえ、年頃の女性の部屋に断りもなくやって来るのは許されることではない。マリストアの部屋は可。あそこは医務室なので公共の場所ですよぅ。
「弟~、お姉ちゃんですよぉ」
しかしアイシャの予想に反して、男性小屋に人影はなかった。
「えーっと。ニールニーマニーズは確かに部屋から出てないんですよねぇ?」
「は、そうですね、少なくとも私がここにあるうちは出てきておりません」
「そうですかぁ」
召使たちは、一日何時間かおきに交代して一秒の隙もなく扉の前を守っている。
部屋には窓があるが、外側からは開けられないようになっており、基本的には中の者が鍵を開けぬ限り危険人物は入れぬ仕組みだ。
玄関を通っていないとあれば、窓から出て行ったのだろう。
近づいて確認すると、やはり鍵が開けられている。
「困りましたねぇ」
★
勇者は隠れ家の扉を開け、背負っていた荷物を椅子に座らせた。
「すみません、手荒な真似しちゃって」
「いえ、大丈夫です! ここが隠れ家ですか、なんだか格好良いですね」
イスカガンに幾つか用意してある隠れ家のうちの一つ。例によって知っている者か、空を飛ぶことのできる者でないと絶対に辿り着けない場所に位置している。
申し訳程度の家具類の上にはうっすらと埃が積もっており、勇者は椅子の埃を手で払ってから、ニールニーマニーズの向かい側に腰かけた。
足の一本折れた机に頬杖を突き、興奮した様子で小屋を見渡しているそれを睥睨する。
「どうですか、魔法」
緑色の髪は乱れ、まるで天井に空いた穴に吸い込まれでもするかのようにうねりを帯びている。瞳は充血でもしたのか、真っ赤。
「はい、かなり色々分かりましたよ! 昨晩なんて興奮して眠れなかったくらいで」
両手を振り回して、ニールニーマニーズが言う。袖から覗く手先に浮かぶのと同じ青い静脈が、首から頬に掛けても蔦のように肌を這っていた。
振り回した腕が机に当たり、僅かに木片が散る。
「そうですか。それじゃあ詳しく聞かせてもらえますか? ここなら、誰かに聞かれる心配もありません」
「はい! まずですね――」
勇者はここで立ち上がると、隠れ家の扉を開けた。
ニールニマニーズは眼前の勇者がいなくなったことに気付いていないかのように、嬉々として言葉を紡いでいく。否――実際に、彼の眼前には勇者が見えているのだ。
勇者は隠れ家の扉を閉めると、建物自体に《隠蔽》の魔法を施す。捲し立てるように聞こえていたアレクサンダリア第三皇子の声がぴたりと途絶え、完全に聞こえなくなった。
「よし」
新しい魔法の効果は上々だ。想像以上の効果を発揮してくれている。
必要な時が来るまで、ニールニーマニーズは隔離しておくことにした。今の状態の彼を、自分の洗脳の及ばぬ者に見せるわけにはいかぬ。また、ヤコヒメの洗脳除去から守る意味もあった。
どうせ必要なときはすぐに来る。
勇者は何食わぬ顔で、朝の人混みに合流した。
★
気に入った装飾品を手に入れたら、色々な人に見せたくなるものだ。少なくとも自分はそう思う、ということでマリストアは部屋を出た。
扉の前で番をしている下女に慌てて止められたが、見ての通り元気いっぱいだ、と無理矢理黙らせる。
「ところで、他の人がどこにいるのか知らないかしら」
「イスマーアルアッド様が炊事場の方へ向かわれました! 他の方は申し訳ございません、ずっとここに居りましたので、わかりかねます!」
「そう、ありがとう。私もちょっと出てくるわね」
炊事場は、丸太小屋が並ぶ中でも市街地に近い方にある。召使たちが生活する小屋と、皇族が暮らす部屋のちょうど中間に建てられた、少し大きな小屋がそれだ。
普段はその時にいる部屋に料理を運んでもらうことになっているが、炊事場にも幾つか机や椅子があった。今は朝食にはやや遅い程度の時間帯だが、兄は遅めの朝食だろうか。
このまま店に戻るというセラムとは、進行方向が同じだ。ついでに、朝は済ませたか聞いてみる。
「まだだ。――ああいや、私は基本的に朝は採らない主義でな、気遣いは無用だ」
「あら、一日三食きちんと食べないと、不健康よ。まあ無理強いはしないけれど。お茶だけでもどう? 確か珈琲もあったはずよ。貴女はどちらがお好きかしら」
★
結局断り切れずに、珈琲だけ、ということになった。
長いこと花屋の仕事をしていない気がするが、まあ眼帯の料金だけで懐が温かいので構わん。さすがは皇室と言うべきか、真面目に花を売った時の半年分くらいの硬貨が支払われることになっている。質素に暮らせば三ヶ月くらいは働かずに暮らせるだろう。もちろんそれだけの量の硬貨を持ち運ぶことは不可能なので、手形の形で胸の袷にしまってあった。
そういうわけで、焦って労働する理由もなくなったものだから、珈琲一杯くらいはといただくことにした。実を言うと昨日はほとんど寝ていないので、気付けの意味でも濃い一杯は望むところである。
「きちんと西の方から取り寄せた豆を使ってあるから、お口に合わないということはないはずよ」
皇宮取り寄せの珈琲豆とはいかにも高級そうだという現金な理由もおおいにある。
炊事場には、あそこは何の施設だとかここでは誰が生活しているとかいうマリストアの案内を聞いているという話を聞いているうちに着いた。
何の気兼ねもなく中に入っていくマリストアの尻を追って、セラムも中に入る。
★
まずは皇宮に常駐している皇族、八王、大臣たちの食事。それらが片付く頃、少し遅れて使用人たちが職務の隙間に食事の時間を取る。
今はちょうどそれらの波も終わり、また、昼食に向けて少し忙しくなるまでとの隙間の時間だった。
丸太小屋が立ち並ぶ中では、比較的大型。皇宮に本来備え付けられていた炊事場ほどではないが、ほとんど設備の変化を感じさせることなく調理に集中できるのは、大工たちも食事の時間を大事にしているというということである。
炊事場の端には、いくつか机と椅子が並べられている。
イスマーアルアッドや一部の大臣たちが、時折珈琲や茶を飲むために寄ることがあり、その為に用意されたものだった。
今も彼はノーヴァノーマニーズの使者を伴っていつもの椅子に座り、何事か話し込んでいる。
しばらくして、高い位置で髪を束ねた女と、細長い老人が入って来た。メイフォンとウー王だ。炊事場で雑談と昼飯の献立の比率九対一で話していた召使たちは、二人がイスマーアルアッド達のすぐ隣に座ったのを見た。
とりあえず一人が東洋式の茶を淹れて給仕しに行くと、朝食がまだなので、簡単に摘まめるものを作ってほしいとのこと。手分けして、できるだけ素早く手際良く。メイフォンはほとんどをイスカガンで暮らすが、ウー王はスーチェンの出だ。慣れた味の方が良いだろうと、点心料理を並べた。皇宮ではアイシャやマリストアが好むのでたまに間食になるが、東洋では朝食もこれで済ますと聞く。
用意した点心をあらかた出したころ、今度はマリストアが炊事場にやって来た。噂をすれば影が差すとはこのことか、とにかく今日は客が多い。背後にもう一人連れているようだ。
直接注文が来たので、マリストアには西洋式の茶。沸かした牛乳に茶葉と砂糖を入れたものを、限界まで濃い目で。もう一人――西洋出身の女だ――は珈琲を何も入れずに。
★
「や、すみませんウー王、一昨日の夜はごちそうさまでした」
イスマーアルアッドが珈琲が飲めるというのでご相伴に預かろうと炊事場へ行くと、しばらくしてウー王がやって来た。
妹が同棲している女を連れている。相当年が離れているが、もしやそういう関係ではあるまいな。仮にそういう関係であった場合、一国の王を相手に唯の学者の自分ではどうすることもできないが、とりあえず妹は返してもらわねばならぬ。女に目をやると頷きが返ってきた。どういう意図だ。信じて良いのだろうか。
「構わん。礼ならアルタシャタに言っておけ」
隣は構わないかと問われ、イスマーアルアッドがどうぞと促した。
それからしばらくとりとめもない話に興じ、ウー王たちが頼んだ軽い朝食が次々机に並び始めたころ、また誰かがやって来た。
はっとするような美貌を持つ少女だ。ところどころに巻かれている包帯や、青い花弁の眼帯如きでは、彼女の美貌を損なうことはない。あの眼帯は妹が作っていたそれのはず――ということは、彼女が皇室第三皇女マリストア様だ。
使者は、ウー王が来た時と同様に立ち上がり、調理場の方へ二言三言言いつけてこちらへやって来る彼女へ挨拶を送る。
「はじめまして。あなたがノーヴァノーマニーズから来た使者さんかしら」
「お初にお目にかかります。僕はノーヴァノーマニーズ大王から遣わされた――」
「ノーヴァノーマニーズ?」
「――え?」
高身長に加えて、ふわふわと横に広がる装飾の多い衣装のマリストアの背後に隠れて見えなかった。
眠そうな目をこすりながら姿を現したのは、男装のノーヴァノーマニーズ人。つまるところ、こちらの妹、セラムその人である。
「セラムか、奇遇だな。どうだ一緒に、私たちも丁度朝食にするところだったんだ」
「えーっと、メイフォン、彼女は知り合いなのかい」
女が手招きして、イスマーアルアッドが問うた。彼とは面識がないようである。
「まあなんというか、一夜を共にした関係、かな。実際には二晩だが」点心を摘まみながら、女が気にする風もなくそう口にした。
「えっ」幾つかの口が同じ音を発する。
聞き捨てならぬ。
「ちょっと待ってくれ、そんな行き摩りの関係だったのか? セラム、僕はそんな軟派な奴との結婚は認めないぞ!」
「これ美味いな」
「結婚!? メイフォン貴様、しばらく会わぬうちに結婚相手ができたのか!?」
「ちょっと待て、どうして私とメイフォンの結婚話が進んでいる――」
「貴様か!? 貴様が結婚相手か!? ――式はいつだ、我も呼べよ」
「セラム貴女、うちの姉と結婚するの? 禁断の関係……素敵よ。応援するから」
「おーい、茶のおかわりくれ」
「おいメイフォン、食ってばっかりいないで説明してくれ! おい……おい聞いてんのか!?」
「早く食わないと全部私が食べてしまうぞ」
「貴様……!」
セラムが言った。
点心料理好きなんです。