#21 魔法の宝珠
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シンバの老王から書簡が届いた。
封蝋を見るまでもなく正式なものであり、次期皇帝にイスマーアルアッドを推薦する内容とともに名前が記されていた。
聖廟での宣誓が行われた後、シンバとノーヴァノーマニーズの票はまだではあったが、国民に現状の発表がなされた。
第一皇子イスマーアルアッドがイスカガン王に即位したこと。それから、次期皇帝候補にイスマーアルアッドと勇者が立ったこと、および現在得票が二対三になっていることの二点が主な内容になる。
この発表から遅れること三日、老王からの書簡も届き次第発表され、得票が三対三――イスマーアルアッドか勇者か、どちらが皇帝になるかはノーヴァノーマニーズの大王に委ねられることになった。
最終的には八王――今回は七王――からのより多い票を得た方が、アレクサンダグラスが考案した試練を受ける権利を獲得することになる。
世論はおよそ二分された。
アレクサンダグラスが嫡子、イスマーアルアッドを次期皇帝とすべきだとする保守派。
一連の魔王騒動で発生した皇室への不信から、イスカガンの窮地を救い、国民からの信頼も篤い勇者こそが大陸統治者である皇帝に相応しいとする改革派。
両派閥とも、皇帝にならなかった方を大臣あるいはそれに準ずる地位で重用することは基本的に共通しており、どちらが国の象徴になろうと、国民の生活が大きく変化しないであろうと言われている。
それゆえ、
「こんなのただの人気投票じゃないか、と、僕は思いますけどね」
アンクスコの女王は、大陸中に放っている間者が寄越した報告書に目を通しながら、そう独り言ちた。
一糸纏わぬ、とはとてもではないが形容できない――黒い肌を包み隠すように、矮躯と比してあまりにも長すぎる白髪が水中で生き物のように広がっているからだ。
水中で仰向けになり、天井辺りに浮かべた報告書を処理していく。
可能であれば、ただ適温の水の中で微睡みながら一生を終えたい、と彼女は常々考えている。自分が一番怠惰であり続けるために最も効率の良い生き方を選び続けた結果アンクスコなる国の女王にされた。国民、自分ひとり。国土、自室一つ。取り決めがあったので渋々作った硬貨、国内に一枚限り。
部屋は常に適温に調整された水が循環している。重力や呼吸、食事や着替えや排泄やその他が煩わしかったので、全部最大限楽できるようにと考えて、人工子宮を作った。羊水で満たされた部屋に引きこもり、臍帯代わりの輸管を腰椎あたりに何本か繋いだ。
一体どういう噂になっているかはわからないが、自分は大陸最南端に広がる大森林地帯を治めている、ということになっているらしい。一度そのあたりの現地人に要らぬ知恵を授けたせいかもしれぬ。
……毎年なにか供物的なものが届けられますけど、もしかして崇められてませんか?
とにかく自分としては、このまま無限の怠惰を貪り続けられるのであれば、それで良い。
ゆえに、
「勇者が皇帝になると困りますね」
始祖ウルフゥのお告げがあった。未来予測なぞができて、良かった試しがない。疲れてしまいますからね。
たびたび夢に現れては、ウルフゥはなんらかの未来を自分に見せる。ごくとりとめもないことから、大層重要なものまで――例えばそう、アレクサンダグラス亡きあと皇帝に即位した勇者が、大陸中を再び戦争の渦に陥れるところ、などだ。
面倒なのでなにか対策したりはしないが、とりあえずイスマーアルアッドに一票は入れておいた。
もしも勇者が皇帝になってしまった場合――
「それに関しては、そうなってから考えます。何より面倒臭いですからね」
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窓から差し込む日の光が長く部屋を照らしている。
斜めの光だ。太陽がまだ低く、時間が早いことを示す。
扉が叩かれた時、マリストアはちょうど茶が冷めるのを待っているところだった。
朝の大事な時間への闖入者に入室を促すと、扉が開き、そこには眼帯職人が立っていた。
「すまん、遅くなった」
「あら、待っていたわ! もっとかかると思っていたのだけれど」
「失礼する」
一夜明けて、体の調子もだいぶ良くなった。聖廟で倒れ、医務室に運ばれた時に誰かが何かをしてくれて、その夜はそのまま目を覚ますこともなく熟睡した。誰かが何かをしてくれて、とはまた曖昧な記憶だと思うが、それくらい憔悴しきっていたんだと思います、と茶を淹れてくれた下女がこちらの身を案じてくれた。
「髪型変えた……のか?」
机の上に置いた鞄の中を確認しながら、セラムが聞いてきた。困惑交じりの問いだ。数日の間に髪が二倍にも三倍にも伸びていたら、誰でも驚く。
マリストアはコップをいったん置き、髪を一束掴んで持ち上げた。髪が伸び、再び黒から金に変遷する色彩を得ている。実のところ、これを見れば昨夜何が起こったかは嫌でもわかってしまう。
ええちょっと、と返答すると、そうか、と短い答え。セラムが鞄から四角い箱を取り出した。
「それで、眼帯が完成したのよね」
「ああ。気に入ってくれたら嬉しいんだが」
箱を受け取り、開く。
知らずの裡に、音が感嘆の響きを持って口から漏れた。
青緑色の花弁を主に、濃い青とほんの少しの黄色。花細工師が翡翠葛、蒼薔薇、菊と順番に説明する。
「まるで宝石みたいだわ」
「お褒めに預かり光栄だ」
味気ない布の眼帯を外し、さっそく身に着ける。その時、できるだけ気を付けてはいたが、裸眼の左がほんの一瞬だけセラムを捉えた。やはり光が見える。発作が起こるよりも早く慌てて左目を瞑り、眼帯を装着。
装飾だけかと思いきや、耳裏に当たる紐の感触が存外良い。細部まで手を抜かぬのは非常に好印象だ。首を左右に軽く振ってみる。紐を調節して、ずれないようにした。
「思ったよりも軽いのね。いえむしろ――まったく重さを感じないわ」
「花だからな。ああいや、強度面に心配はないぞ。踏んでも割れないし、完全防水だ。あと燃えないし畳むと小さくなる」
「素敵。私貴女のこと気に入ったわ。貴女、ええと、セラム。他にどういうものが作れるの? 新しい装飾品が欲しいと思っていたところなのよ。この眼帯に合わせて数点、頼まれてくれないかしら」
眼帯の裏、肌に触れる部分にも非常に柔らかな布が使われている。本当に本物の花を使っているのだろうか。爪で軽く弾くと、澄んだ金属のような音がする。しかし指触りは花弁の柔らかさを伝えてきた。
これが職人技か、とマリストアは甚く感心した。
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実際は二晩空けていたのみだが、かなり長い間帰って来ていなかったように感じる。
セラムが眼帯の受け渡しで皇宮に上るというので同道した。ノーヴァノーマニーズの使者としてやって来たという兄と昨夜夕方過ぎに帰って来てから、夜遅くまで作業してようやく完成したという。
「邪魔しちゃ悪いからね。妹と手を取り合って、末永くよろしく」昨夜引き上げる時にセラムの兄がそう言った。
何か手伝えることはあるか、と問うたら「お腹が空いた」と言われたので、昼間余った材料で簡単に調理。作業が早く終わればまた外に行くか、と思っていたので完全に軽食だった。
思えばあれが迂闊だったやも知れぬ。朝はほとんど食べないセラムに合わせて城に帰ってきたものだから、自分も朝を食べ損ねてしまった。
まだ朝も早い時間である。
セラムと別れて炊事場の方へ足を運ぶ。先に腹ごしらえをしてからいつもの鍛錬を、と言う風に脳内で今日の時間割を決めていく。
と。
炊事場から立ち上る煙が香るくらいまでやって来た時――眼前に、仁王立ちでこちらを待つ影があった。
「貴様――なかなか」
黒く皮膚を透かす、鋼のような筋肉。眼前に立つと、向こうは完全にこちらの旋毛を見下ろす背の高さ。皴の多く刻まれた顔立ちは東洋のものであることを伺わせる。
特に鋭い眼光というわけでもないのに、頭二つ高いところから見下ろされるとまるで睨まれているように見える。負けじと真正面から見上げ、メイフォンは両腕を体側に降ろし、僅かに力を入れた。
「どこのどなたか存じ上げぬが、貴殿こそ、なかなかの使い手と見える」
「今、何か急ぎの用事はあるか」
「眼前の強者に手合わせ願うくらいしか思いつかないな」
先に動いたのは向こうだった。槍を突き出すような前蹴り。視認してからでは間に合わぬ。勘で動いていたのが功を奏し、地を蹴って飛び上がるこちらの髪を足が掠めていった。数本、蹴りの鋭さで切れて散る。
蜻蛉を切って丸太小屋の上に着地。一拍遅れて敵が向かい側の小屋の屋根に居た。
「貴様、無手は苦手だな?」
「そちらこそ、武器は不得手と見える」
「武器を持ってきても良いのだぞ。それくらい待ってやろう」
メイフォンは口端を釣り上げ、その提案を笑ってやる。舐められたものだ。その気になれば身の回りにあるものすべてを武器として扱う術を習得し、そのように戦ってきたのであるが、こうも吠えられてはそうもいかない。
「徒手空拳で十分……あっ。そうだ、朝飯前だ! ちょうどな!」
僅かに一瞬だが呆気にとられたようだったので、まずはこちらの一勝である。
屋根を蹴って飛ぶ。行った。
交錯する。
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申し訳ございませんうちの上司が、と頭を下げてから、広義では上司みたいなもんです、と誰に対してかは我ながらわからないが心中で言い訳した。
イスマーアルアッドは少し慌てた様子で、こちらに頭を上げるように言う。
「いや、責めるつもりはないんだ」
「はぁ」
「それにしてもそうか、やはり大王は来れそうにないか」
「多分城とか研究所にある史料全部略奪したら取り返しには来ると思うんですけど……」
イスカガンからノーヴァノーマニーズまで、その距離はかなり離れている。
直接行き来せずとも、早馬を飛ばして書簡のやり取りで済ませる方がどう考えても簡便だ。しかし相手が勤勉な場合に限る。シンバの老王なぞは、もう二、三日の間に返事の使いを寄越してくるはずだ。もしかしたらもっと早い可能性もある。
大王の場合、
「読む前に失くす可能性が……その、申し訳ございませんうちの上が、えー、整理整頓できない子ですので」
「それでも、先の八王会談には君を寄越しているじゃないか?」
「あれはその、運が良かったというか」
自分にとっては悪かったが、と内心で付け足して、
「魔王という存在に非常に興味を持っておられましたので、その報告書についてを主に読んで、あとはもののついでと言うかそんな感じで、ええ」
「――直接赴くのが最も手っ取り早い、ということかな」
「……はい、そう思います」
そういうことになった。
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シンバの老王が恐らくイスマーアルアッドに票を入れるであろうことはわかり切っている。シンバとアンクスコの王たちは恐らく会議に来ない。勇者である自分のことなど歯牙にもかけていまい。元より四票手に入ればそれで良かったのだ。
想定外だったのは、ヤハン女王のヤコヒメだった。確かめてみたところ、女王にソウビ、それからヤコヒメがヤハンから連れてきた召使たちに至るまで、残さず《洗脳》魔法が作動していなかった。
イスマーアルアッドにもかかっていなかったし、先程確認しに行ったとところ、マリストアの洗脳も解除されてしまっていた。十中八九ヤコヒメの仕業だろう。
ヤコヒメを後ろ盾にしたイスマーアルアッドが、当面最大の脅威となる。
すなわちノーヴァノーマニーズ大王の票を得る点においてだ。相手にも《洗脳》魔法の使い手がいる以上、スーチェン、ペラスコ、フィンからの三票を得ることができたのは、純粋に運に恵まれただけだとすら思える。
向こうは《洗脳》を打ち破る術を持っている。自分が今まで魔法の支配下においてきた者共を次々正気に戻そうという気にいつなるやもわからない。
《洗脳》《発光》以外の手立てが必要だった。所詮魔法は人間の手には過ぎたる力、多用は速攻で寿命を擦りつぶすことに他ならぬ。
手持ちの魔法を脳内に思い浮かべる。《洗脳》《発光》の二つ以外は、現在非活性状態で袋にまとめてあった。
これらを受け取った時、二つより多く活性化させるな、と強く言い含められている。三つ以上の活性化は体が耐えられず、直ちに死すと。
また、一度活性化させてしまった魔法は二度と非活性化しない――つまり、手放すには破棄するしかない。所詮魔法は道具でしかないため捨ててしまえばそれまでだが、捨ててしまうと二度と手に入らないことになる。
実際のところ、三つの活性化は体への負担は増えるが不可能ではない。本当は三つまでは無理を通せるが、余裕をもって二つと説明された――幾つまで大丈夫なのか、己の限界を知っておく必要があると思ったので一番初めに試したのだ。四つ目を活性化させた瞬間死んだ。その時活性化させていたうちの一つが《治癒》でなかったら恐らく本当に死んでいただろう。今思えば四つすべてを破棄することもなかったわけだが、その時活性化させた魔法はすべて無駄にしてしまった。
《発光》魔法は現在、さほど大事には思えない。勇者という設定を押し通すためには役立ったが、ここらで手放してしまうことにする。
では、新たに活性化させる魔法は何を選ぶべきか。《発光》を破棄して、新たに一つ。必要に駆られた場合、いつでも活性化できるように準備しておく分でもう一つ。
少し迷い、勇者は二つ、魔法を袋から取り出す。
魔法は、非活性状態では球形をしている。掌ですっぽり覆い隠せるくらいの、ごく小さな宝珠である。
アルタシャタからせしめた宝剣は折れてしまったので、今度は騎士団から実戦用のとにかく頑丈な直剣をもらってきた。申し訳程度の柄の飾り石を取り外すと、代わりに魔法珠を嵌めこむ。
《発光》を破棄。
残った方の魔法珠を己の額に当てると、火傷しそうなほどの熱を感じる。珠が砕け、黒く微細な粒子になって散った。
新たに一つ、魔法が活性化された。
自分は地震大丈夫でした。本震もあるかもでちょっと怖いです。避難用の道具確認しました。