#19 原理の構築
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勇者は、医務室代わりの個室から出てくるヤコヒメを視認した。
「おい」
「あらぁ。勇者さんやないですかぁ。猫被んの忘れてますよ?」
くくく、と喉の奥を擦るような笑みこそが、彼女が普段見せない姿なのだろう。
「お前も剥げてんだから一緒だろ」
「あんたが告げ口しても、誰も信じませんよ?」
お互いさまと言うことだ。
いつもの下女はどうした、と問うと、ちょっとお仕事頼んだります、と返ってくる。てっきり護衛か何かで傍を離れることはないものだとばかり思っていたので、これは好都合だ。
「……場所変えんぞ」
「嫌やわぁ、女の子誘うのにそんな誘い方はないんとちゃいますか?」
応対するのも馬鹿らしかったので、車椅子の背後に回ってヤハン女王の拉致を敢行。人気のない場所が望ましい。向こうがどのような心づもりであるかはわからないが、可能な限りの準備はしてきたつもりだ。
考えることは必須だ、と勇者は思っている。常に思考し続け、それを習慣付けることで、不測の事態発生時の思考の切り替えを容易にできるのだ。
しかしいくら考えても答えの出ない問題はある。自分の持つ知識や経験、推測のための材料が足りていないとそういうことだが、これを最も早く解決する方法が存在するのだ。知っている者に聞く。
既に計画には小さな綻びが生じ始めている――この綻びを直接繕うことはほぼ不可能と言っても良いだろう。であれば、修正する。計画を練り直す。綻びの出来た小道は避けて、別の道を開拓する。目的地は変わらぬ。
「あ、勇者様! ヤコヒメ様も! お体は大丈夫ですか?」
「ええ、お陰様で。ありがとうございます」
皇宮跡地の人の往来は実はなかなか激しい。
召使たちや大臣、それから大工たち――跡地となった後も、彼らの仕事場は変わらないからだ。今までは中央の城、それを囲む八つの居城、そしてその間に密集する様々な施設、という形で、床面積が単純に建物階層分存在したのが一気に地上一階だけになってしまった。仕事のできない者たちは一時的に里帰りなどしてこれでも城の人口は四分の一以下になっているとは言うが、
「勇者様!」
「ヤコヒメ様!」
「どちらへ行かれるのですか?」
「お気をつけて!」
「何か手伝えることはありますか?」
皇宮に人気のないところがなさすぎる。時間帯が昼下がりだからだろうか。
勇者はヤコヒメの車椅子を押して、建物の裏手の方へと回り込む。
「ここなら誰もいねェだろ」
「ややわ、お外でそういうことするんは良くないと思いますよ」
「そういうのはエウアーの持ちネタじゃねェのか」
「ええー、アンタ女は性欲持ってへんとか言う人? アレ嘘やで、人間皆持っとんですよ」
「女の猫は剥がすもんじゃねえっていうのがよォくわかったワ」
少し離れたところにあった大木の根元は、建物群がある方から万が一来る者があってもかなり見え辛い。念のため車椅子の背を木の幹に向け、輻と輻の間に枝を通して地面に突き差し、車輪を回らないようにする。
「そんな用心せんでも逃げませんよ?」
「逃げるやつは大体同じ事を言うな」
「えらい経験豊富なんですね」
舌打ち。
ヤコヒメはまたくくく、と引き攣ったような笑い声を漏らした。
「さて」
声が二つ。
手摺に肘をつき、指の腹を合わせた姿勢のヤコヒメが深く座り直す。
「いったいどういうご用件でしょうかぁ」
「まあわかってんだろうが――そうですね、僕はまず、ヤコヒメ様が僕についてどこまで知っているのか、そしてどうするおつもりなのか、お聞かせ願いたく思います」
「勇者様について、ですかぁ。そうですねぇ、お名前不明、出身地不明、中肉中背で年齢は二十歳前後三歳程度。イスカガンを滅ぼした魔王を打ち倒した救国の英雄で、ああ、あと、自身の握った剣をすべて宝剣にする能力を持っていますねぇ」
すらすらと、聖廟にいた者なら皆が了解している事実を並べ立てていくヤコヒメに少し苛つくが、それをおくびにも出さず、勇者は彼女の言の続きを待つ。
腹を合わせたままの指先をくねらせ――文字通りの手遊びだ――、彼女は視線を彷徨わせた。
「あとはそうですねぇ、市民からの心証はかなり良好な人気者、とかでしょうかぁ」
「…………俺が聞きてェのは――」
「ああ、それと、お金の出入りがかなり激しいですねぇ。イスカガンで買い物をしたことのないお店よりも、なにかしら買ったお店の方が多いんじゃないですかぁ」
続けて、
「お金は良いですよねぇ、ねえ勇者様? 市井の皆さんは何でも言うこと聞いてくれるでしょう? お金さえ払えば」
「……お前にはどうしてかかってねェんだ」
「ええ? わたくしには何のことかわかりかねますがぁ、お金には不自由してないから、ですかねぇ。ヤハンはですねぇ、大陸統一国家アレクサンダリアを構成する八大国に数えられていますが、実際は孤立した島国なんですよぅ。まあそういうわけで、大陸で居るより少しだけお金が稼ぎやすいんですよねぇ」
ヤハン女王が徐に懐から硬貨を取り出した。
楕円形の硬貨――ヤハンの意匠が施された通貨だ。
彼女の指が自由自在に硬貨を弄び、一枚の硬貨が指の間を、左右の掌を何度も往復する。やがてヤコヒメは、その硬貨をごく自然な動作でこちらに放って寄越した。わずかに人差し指と中指を外に弾く、それだけの動きで、だった。
「ところで勇者様ぁ、貴方が使っている洗脳魔法はいったいどなたから教わったんですかぁ?」
「――ッ!」
絶妙な位置に飛んでくる硬貨。
反射的に受け取ろうと出した手を無理やり止め、その勢いのままゴールディオスを抜き放つ。剣の腹が硬貨を叩き、下草の地面を転がった。
「残念やわぁ。大人しく洗脳されてくれとった方が身のためですよ?」
「残念だが、俺に洗脳魔法は効かねェよ。知ってんだろ」
「ええまあ、直接手渡しましたしねぇ――魔王退治の御褒美」
やはり、と勇者は思う。あの時点から、洗脳魔法はうまくかかっていなかったようである。すなわち、すべての最初。円卓会議すら始まる前、各国王たちがイスカガンに到着すると同時に、勇者に褒美と称して金銭を渡した瞬間――その時点から。
ヤコヒメも、洗脳魔法について知っている。そのうえ、洗脳魔法を行使する。互いが互いに洗脳しあった結果、魔法は不発になった、ということだろうか。そのあたりの理論はよくわからないが、お互いに洗脳魔法は効果がないということさえわかれば良い。いや良くはねェが、現状を正しく理解しているという点ではこれで良い。
「さて。じゃあ、どうしますかぁ? 殺します? わたくしのこと」
ヤコヒメが大きく両手を広げる。こちらが握ったままのゴールディオスは、一歩踏み込めば彼女の心臓に突き込めるだろう。何の障害もなく。
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トォルは、大王が眼前の本を手に取るのを見た。酷く日に焼けた本だが、ところどころ真っ白の色が覗くので、丁寧な補修が行われていることがわかる。
またミョルニが鳴いた。彼女は最近よく鳴く。意味は分からない。会話できるようになるのは少なくともまだまだ先のようだ。
「何をどうしたら何が起こるのか、ということは既にわかるのである。これは便宜的に《浮遊》と名付けた魔法なのであるが、まあ見ての通り、任意のものを中空に浮かせる魔法であるな」
「誰でもできるんですか? どうやってやってるんです」
「もっと驚かんのであるか」
「ええ、まあ――うわあ吃驚した! 驚愕だ! 驚きすぎて腰が抜けた! い、いったいこれはどういう仕組みなんだ――!?」
「そ、そこまでやれとは言っていない」
咳払いを一つして、トォルは再度椅子に腰かけた。若干引かれたのが釈然としない。釈然としないが、それについて言及すればまた話が脱線するであろうことは今までの傾向から痛いほどよくわかっているので、左掌を差し出して続きを促した。
「まあ見た目にわかりやすい魔法であるから、この《浮遊》を例に、魔法について現段階で分かっていることについて講義するのである。拝聴し給え」
「はいはいどうぞ、拝聴いたしますよ」
「よろしい。詳しいことはこれにまとめてあるから、適宜目を通すのである」
宙に浮かんで列をなしたままだった書籍たちの中から紙束が飛び出てきて、こちらの差し出したままだった左手の上に乗った。小さい文字で魔法についての考察などが細かくまとめられているらしい。
《浮遊》以外にも《遠見》《加速》などの項目があり、少し興味が湧いたが、ひとまずは大王の話に耳を傾けることにする。ノーヴァノーマニーズの王は、代々自分のペースが乱されることを最も嫌う。
「まずは魔法とはなにか――ということであるが。御伽話でよくあるような無制限の何でもありではない、というのが現時点での結論である」
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「ちょっと時間がないので、一番簡単なものだけお教えいたしますね」
そう言って勇者は、こちらに差し出した指先を発光させた。
真っ白い光だ。触れてみるが熱はない。
「魔法が何か、ということなんですけど――まあざっくり『光を灯す』ということを例に説明します。あ、僕が知っていることに限定されるんですけどね」
全然構わない。アイシャは勇者の次の言葉を今か今かと待ちわびた。
「これは《発光》の魔法なんですけど、魔法っていうのは、ずばり光を出すことなんですよ。『光』そのものじゃなくて」
「えーっとぉ……」
勇者が魔法であると定義するのは、「光」そのものではなく、「光を出すこと」である。自分の理解で間違いないか聞くと、首肯が返った。
「もっとわかりやすく言うと、結果は魔法ではなく、その結果を起こす過程こそが魔法であると、そういうことで――僕の言う魔法とは、この過程を引き起こす技術なわけです」
「つまりその……例えばそうですねぇ、マッチを擦れば火が点いて光になりますけれど、同じ光を得るであっても、魔法はこの『マッチを擦る』という過程を引き起こすもの――ということですかねぇ?」
「さすがですアイシャ様」
勇者がまとめる。マッチを擦るのでも、鏡を置くのでも、過程は何でも良いが、指先に光を集めるという結果を引き起こしたいとする。その時、「結果的に光が指先に集まる行為」を行った、というように置換してしまう技術が魔法であると、そういうことなのだ。
アイシャはそこで、改めて問いを作った。
「魔法と言うものがどういうことを指すのかは分かったのですがぁ」
「ああ、わかっていますよ、使い方、ですよね」
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「使い方について話す前に、まずは手元の紙十三ページを開き給え」
言われるがままに紙束をめくって視線を落とすと、そこには、魔法を使う前後の体の状態について事細かに記されていた。
トォルはざっと上から下まで目を通していき、
「あの、胸囲が減って」
「体重が! 減っている! のである。決して間違えてはならぬ」
言われて視線を戻すと、確かに体重減少の数値は目に見えて大きい。
「胸が減ってるんじゃなくて、脂肪が落ちてるんですねコレ」
「そういうことである」
「いやでも大王、減るほど胸あったんですねー……」
「ミョルニ、アレを殺して来給え」
ああごめんなさいごめんなさい、悪気はなかったんです悪気は――と、自分の持ちうる最速で身を投げ出し、頭を絨毯に擦り付ける。
そのまま二秒ほど互いに沈黙して、どちらからともなく「さて」と言い出し姿勢を正す。
「貴様は吾輩が生物学上女であることを忘れがちであるな?」
「えっとまあ、僕はミョルニ以外との間に遺伝子残せませんので」
「貴様のような奴にミョルニはやらん」「にゃあ」
「ミョルニは僕のですよ、大王」
そんなことより本題に戻りましょう、と自分が脱線させたことは都合よく記憶から消し、トォルは話の続きを促した。
魔法を使うごとに、大王の体重は目に見えて減少している。
「二倍の重さの物を《浮遊》させると、単純に二倍、体重も減るのである。まあなんだ、魔法を使うたびに、食事で蓄えている熱量が消費されるということ――乱暴に言えば、運動と同じであるな?」
「熱量の消費は秒数ごとに消費ですか? それとも一回に一回ですか」
「体重の減少は毎秒行われているのである。つまりこうして大量の本を《浮遊》させている今、吾輩は急速にやせ細り続けているということであるな」
「……一応聞くんですけど、健康に悪影響ありませんかねコレ」
「まあそうであるな」
ぱちんと大王が指を鳴らすと、《浮遊》していた書類のほとんどが再び本棚の定位置に帰って行った。彼女が机に取り付けられている把手を引くと、扉が開いて料理が運び込まれる。
「貴様、物を食わずにいるとどうなるか知っているであるか」
「えーっと、餓死します」
「ちょっと行き過ぎであるな。その前である。まあ子供向けの講義でないからもう答えを言うのであるが、飢餓細胞というものの働きが強まる。ざっくり言うと、体内に入ってきた熱量を可能な限り多く体内に取り込もうとするのであるな」
つまり、と大王はその矮躯には収まりきらないほど並べられた料理の片端からを口に収めていき、
「食えば食うほど肥えるのである。まあ魔法補正であるが、要は使った分だけ食えば、実質無限に魔法が使えると、そういうことであるな。貴様も食うか?」
「じゃあ、遠慮なく」
少し前の大王であれば考えられなかったことなのだが、机に並ぶ料理はほとんどが肉料理であった。ちょうど昼過ぎであるので、御相伴に預かることにする。手先があまり器用ではないミョルニの為にも、肉を切って口に運んでやった。
「まあ魔法を使うと体内に蓄えてある熱量が消費されるということは理解してもらえたであるな?」
「ええ、まあ。はい」
「では次は、話を戻してようやく使い方の説明に入るのである」
食事中は脳を休める時間ではなかったのか――などと指摘するとまた二時間三時間と話が止まることはわかり切っていたので、トォルは相槌を打っておく。
本人が夢中になりすぎて気付いていないのであれば、それに乗じるまでだ。
トォル自身、魔法について詳しいというわけでもない。知っているのは、ミョルニに関することのみ。使い方も当然知らぬ。
「消費されるのは脂肪であるな? トォル、貴様脂肪を燃焼させようと思ったらどうするであるか」
「まあ、運動するとか――ですかね?」
「答えは食後の珈琲のあとである」
「ああ、しまった!」
いつの間にか、皿の上の料理は綺麗に片付いていた。
シュレディンガーの大王。