#18 打算の交錯
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権限がないというだけで、丸一日空いてしまった。帰国するわけにもいかぬ――解散が宣言されるまで、ノーヴァノーマニーズの使者としてイスカガンに滞在しなければならない。
せめて研究のキリの良いところまで進んでいればまだ気持ちも楽だったろうに、いざ丸一日の暇を得てしまうと実験室のことが気になって仕方がない。
それゆえ、余計にイスカガンの超巨大図書館と学院が焼け落ちてしまっているというのが残念でならぬ。なにも研究者はノーヴァノーマニーズだけにいるわけではないのだ。大陸中の研究が集積されていたイスカガン学院の焼失は、人類史上最大の損失である。
「すみません、もう一杯水をもらえますか」
「兄ちゃんアンタなんだいさっきから水と野菜ばっかり、肉も食いな肉も!」
店主が注文してもいない追加の皿を持ってくる。好意はありがたいが、昨夜の暴飲に荒れた胃ではかなり辛いので断固遠慮した。
主食が野菜なだけで、その他を全く摂取しないということは無い。必要な分を定期的に摂取することは行なっている。
恰幅の良い中年女が水の入った容器を持って来たのでコップを差し出し注いでもらった。
昨夜は酷い目に遭った。することもないし、自室に戻って寝るかと思っていたはずなのに、気付けばアルタシャタに盃を持たされていた。ウー王と二人で飲んでいたところに通りがかったらしい。
最初は皇宮跡地に建てられた来賓用の小屋にいたのだが、宴もたけなわようやく解放されるのかと思っていたこちらに対し、目の据わったウーが言い出した――酒が足りぬ。
嫌な予感がしたので、それでは僕はこの辺りで、と出て行こうとしたが無理だった。ウー王に首根っこを掴まれ、アルタシャタの提案で河岸がイスカガンの街へと変わる。
そのあと酒場・娼館を何件も連れまわされ――もちろんすべて、頭に「超高級」とつく――気付けば見知らぬ天井を見上げていた。
頭は痛むし体も痛むしで寝起きは最悪だった。それでもなんとか宿屋から出て、目の前にあった飯屋に彷徨い入ったわけだった。
「ごちそうさまでした」
支払いを済ませて店を出ると、太陽がかなり高い。
一食食えば重かった頭もいくらかマシになった。本屋にでも行ってなにか買えば時間は潰せるだろうかと通りを歩いてみる。
故郷と違って随分暑い。五分ほど歩いただけで額から汗が噴き出した。
これは今すぐにでもどこかの店に入って涼みたいと、本屋以外でも入れそうな店を探す。いつの間にか酒場が並ぶ区画に立ち入ったようだった。昼間も開いているところが数店舗見つかるが、今は飲食系は少し遠慮したい。
脇道に逸れてみると、住宅街が並ぶ中に花屋があった。
ふと目の前で足が止まる。花屋。そういえば、妹が花屋で働いていた気がする。かなり長い間顔を見ていないが、ノーヴァノーマニーズの生まれでありながら、研究より労働を好んだ変わり者だった。経済について研究するとかそういうわけでもなく、ただ日銭を稼ぐための労働。辞めたとは聞かないので、今も新区街道側のどこかで働いているはずだ。
入り口脇に掛けられた開店の札を見て、近くに手頃な店もないしと冷やかしに這入ってみることにする。
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さて、情報の整理だ、と勇者は自分に言い聞かせた。
「少し待ってくれませんか」
「ええどうぞ」
ヤコヒメからの許可も出たので、冷静に状況を分析し、一から整理してみる。
まず大前提として、自分の洗脳魔法は何らかの要因によってヤハンの女王にかかっていなかった――右手を挙げてみるように念じ、そのようになることを期待して視線を上げるが、上品な笑みが来たのみである。やはりかかっていなかったのだ。いつから? そもそも初めからかかってなど居なかったのか、どこかの機会で解けてしまったのか。これは今はわからないので一旦保留。
この場にいる者では、ウー、アルタシャタ、エウアー、葬儀官、マリストアはまず間違いなく自分の洗脳魔法影響下にある。イスマーアルアッドとヤコヒメの下女――ソウビは不明。ヤコヒメは完全にかかっていない。
「どういうことでしょうか」
長考の間を埋めるために、ヤコヒメに問いを投げかける。
「どういうこと、とは、何を指してのことでしょうかぁ?」
「いえ……その、先程イスマーアルアッド様が自身の負けを宣言されたと思うんですが……」
「ああそう、そうだヤハン女王、私もそれは聞かせてほしい。先程の決闘は、恥ずかしながら私の力不足が露呈した結果だと思うのだが」
先程イスマーアルアッドとの決闘の際も、おかしい点はあった。
あまりにもこの男の踏み込みが早く、洗脳魔法を経由した命令が間に合わなかったのかとも思ったが、そもそも洗脳魔法の大前提に術者に逆らえないという命令が組み込まれてある。であればこそ油断していたともいえるのだが、あの場面、イスマーアルアッドに正常な洗脳魔法が施されていたら剣は自分の首に届いていてはならないのだ。
仮に自分の洗脳下にある者に抜身の剣を持たせ、それに向かって術者からぶつかっていったとしても、剣は必ず避ける。人体の構造的に不可能な動きであっても、「主を傷つけてはならぬ」という命令の方が優先されるくらいである。
「ええ、そんなこと今更問われましても……ねぇ、ソウビ、困りましたねぇ」
「私も自明のことやと思います」
結論。状況証拠的に見て、イスマーアルアッドに洗脳魔法の影響は及んでいないと見てほぼ間違いない。これもまた最初からかかっていなかったのか、なんらかの理由でいつごろか解除されたのかは判別不可。
また、ヤコヒメが洗脳魔法を解除する術を持ち合わせている・知っているという可能性が非常に高いとあれば、ソウビに洗脳が施されていないのもほぼほぼ間違いないと見て良いだろう。
「勝敗の基準は、わたくしが優位だと思った方だと――最初に明言したんですよねぇ」
「記録してある、よ。有、効」
マリストアを使った目眩ましは自分でも成功していたと思う。イスマーアルアッドの剣が己の首を嘗めた瞬間に、やや過剰かと思えるくらい魔力を返したからだ。結果マリストアが元立っていたところにはかなり大きめの凹みができているし、音と衝撃は実際他の者の目線をそちらに向けるに十分だったのだ。
マリストアが再び魔に返ったのにいち早く気付いた勇者がイスマーアルアッドを守るために自分の身を犠牲にした。筋書き的には、優位なのは自分だろう。
少し苦しいが、主張するのが無茶である程ではないはずだ。
実質的な決闘の勝ち負けではなく、ヤコヒメが優位だと思った方が有効とする――というのであれば、猶更自分の勝ちが揺らいで良い理由にはならぬ。まさかとは思うが、逆に、ただ実質的な勝敗のみを見て発言していると言うこともあるまいて。
「まあどうあれ、先に一太刀入れたのはイスマーアルアッド様でしたからねぇ」
「いや待ってくれ、しかしそれは、勇者様が私を守るために動いたからでだ」
ヤコヒメが票をイスマーアルアッドに投じると、三対二。
マリストア同様、緊急時にいつでも動かせるように、現在ウー、アルタシャタ、エウアーの三名の活動は控えめにしてある。彼らに命令すれば、ヤコヒメとソウビ、イスマーアルアッドを完全に抑えつけることはできるだろう。
一瞬実力行使の考えが脳裏をよぎるが、原因不明の洗脳魔法不発がそれを思い止まらせる。このまま洗脳魔法を再度実行して上手くいけば良いが、上手くいかなかった場合が圧倒的に拙い。
……殺すか?
イスマーアルアッドはともかく、八王は計画遂行のために最悪居なくとも良い存在である。立場に着くものさえあれば、あとは誰であろうと良い。当然ヤコヒメやソウビも例外にあらず。
しかしこの考えも短絡的で、第一イスマーアルアッドをどうする。首尾良く記憶を消せれば良いが、先程と同じ理由で洗脳魔法が掛からなかった場合に非常に困ることになる。
「私としてはぁ、勇者様がここから巻き返す方法はないので、ヤハンの票は諦めるのがおすすめだと思うのですがぁ」
どうなさいますかぁ、という問いに、勇者は両手を上げた。
「この決闘はイスマーアルアッド様の勝ちですね」
「賢明な判断だと思いますねぇ」
これは負けではない。一つ譲っただけである。
最終的に「在るべき真世界」の実現さえ叶えば、それまでの過程すべてで転んでいても、それで自分の勝ちなのだから。
ただ、指針を少し練り直す必要はあるだろう――勇者の挙手されていない方は、爪が食い込むほど拳を握りこんでいた。
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儀式は恙なく行われ――ということになった――午後。夕方と言うにはまだ少し早いと、そういった時間帯である。
マリストアは、扉が叩かれる音で目を覚ました。いつの間に眠っていたのだろう――就寝前の記憶がない。慌てて体を起こそうとするが、どうにも重く感じ、指先一本すら動かなかった。
何とか声だけでも、と試みるが、関節が痛み断念した。来訪者には申し訳ないが、時間を改めてもらおう。瞼が自然に下りてくるのに合わせて、目を瞑る。
扉が開く音がした――ような気がする。
そして車輪の軸が擦れる音がだんだん近づいてきて、寝台の横で止まった。
「ああ、大丈夫ですよぅ、そのまま寝ていてくださいねぇ」
優しい声だ。
なんとなく体の痛みが治まったような錯覚さえ感じさせる。不思議な安心感に身を委ねると、その声の持ち主がこちらの右手を持ち上げ、温かさを感じさせる両手で包んだ。女性の手。
そうしてこちらの手に何かを滑り込ませてくる。感じるのは金属の冷たさ――大きさ的に、硬貨だろう。楕円形をしている硬貨は、アレクサンダリアではヤハンが発行する硬貨のみである。
「――ヤコヒメ様?」
「大丈夫ですよぅ、わたくしの国では金属には魔物を討ち祓う力があると言い伝えられておりますのでぇ、どうかこれを、今後肌身離さずずっと持っておいてくださいねぇ」
そういって手が離された。支えを失った自分の右手が寝台で跳ねるが、握った硬貨は飛び出て行かなかった。
「ではぁ、このまま眠ってください。貴女が起きた時、このことはすべて忘れてしまっていることでしょう。おやすみなさい、マリストア様――」
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全身から一斉に汗が噴き出した。
平静を装いながら振り返るが、額から伝う汗が目に沁みて、とてもではないが装いきることなどできぬ。
セラムは、声が裏返らないように細心の注意を払いながらメイフォンを見据え、
「や、やあこんなところで合うとは思わなかったぞ! 奇遇だな!」
……私の家だ――!
声の調子から動揺を悟られないことばかりに意識を裂きすぎて、中身まで考える余裕がなかった。それにしても酷い。あまりにも酷い。
後ろ手に散らばった花弁類を搔き集め、なんとか言葉を探す。
魔法については口外するわけにはいかない。秘伝中の秘伝で自分の商売の要であるという点も大きな比重を占めるが、古今東西、思わぬ大事故を引き起こしてきたのは理論化されていない技術の漏出だ。ノーヴァノーマニーズに住んでいたころ、大小問わずそのような事故は日常茶飯事だったので身に沁みてそう思う。イスカガンに出てきたら出てきたで城が爆発するわ炎上するわと一時期城という建物はそういう場なのかとも思っていたくらいだが、
「は、花の水分を抜くことで長持ちするようになるんだよ。押し花とかやったことないか」
「水分を抜くだけでこんなに綺麗になるのか。ん、着色もしているのか?」
いつの間にか、メイフォンが蒼薔薇の花弁を手にして裏表と眺めている。先程取り落としたものを拾ったのだろうか。それにしてもいつの間に。
「あ、ああ、色褪せたままだとちょっとな。防腐処理も兼ねてひょ、表面を処理してある」
「へぇ、綺麗だな。マリストアの眼帯が終わったら、私にも何か作ってくれ」
それ以上の詮索はない、か?
内心で胸を撫で下ろす。方法については一切触れずに何をしたかの説明をしただけだが、あとの細かい工程については企業秘密だ、とでも言っておけばこの場はどうにかなるだろう。
「どのようにこの光沢を出すかについては企業秘密だから、これ以上は話せないし、他言も無用――」
「実は結構最初の方から覗いていたんだが、なんというかこう、まるで魔法みたいだったな!」
この女……! 拳を握りしめる。当然武力では敵わないので、内心で、である。
……最初から見ていたのであればその時点で声を掛けろ……!
魔法を使うのなんて、最終工程のさらに終盤に限られているのだ。もっと早くに声を掛けてくれていれば、無用な心配を得る必要もなかったというのに、
「――ってちょっと待て、魔法と言ったか! 今!」
「あ、ああ、どうした。――確かに言ったが」
「おい! 絶対に誰にも言うなよ! 魔法なんてこの世に存在して良い代物じゃない、物体から水分を抜き去る力なんて、悪用しようと思えば大量殺戮が容易に――」
くそ、この女、背高いな……! 詰め寄ると、ほとんど真上を見上げるような位置に顔がある。立てた両手でこちらの動きを申し訳程度に制止しようとしているらしい。そのうち片方の手で頬を掻き、やがてメイフォンは言った。
「そういう小説の設定か?」
「――そ、そうだよバカヤロー!」
と。
その時、店の扉が開いたのを、備え付けてある小さな鐘の音が知らせてくる。
「あのぅ、すみません」
「いらっしゃいませーっ!」
眼前のメイフォンがたじろぐくらい腹から声出しておいた。自棄なのかなんなのか、セラム自身でもよくわからぬ。ただ、助かった、とは思った。
少なくとも一時凌ぎにはなるだろうからだ。
冷やかしに這入るの「冷やかす」ってなんだか駄洒落みたいですね。