#11 魔法の原理
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単純に移動速度の問題だ。
イスカガンからノーヴァノーマニーズまでだと、旅行者が徒歩で一月半から二月、軍隊だと半月から一月程を要する距離がある。街道の途中で約百頭の乗り換えを駆使し、最大速を維持し続けることができると仮定した場合の馬であれば三日と半日程度だが、現実的ではない。
先述の旅程を可能にするのは、イスカガンから大陸各地へと伸びる大街道だ。街道が整備される前では不安定な道を何とか歩き、場所によっては馬などの移動も制限されたりと、とても長旅ができるような環境ではなかった。
ミョルニがいて助かった、とトォルは思う。
馬移動の理論上最大速でも三日半かかる距離だというのに、わずか二日足らずでの移動を可能とした。それも、最大速を維持するために約百頭の乗り換えを要する距離である。もし仮に一頭で走破しようものなら、移動と休息を数十分ずつ繰り返す必要がある――行軍と同じだ。
それに、
「こんな山ちょっと馬じゃあ超えれないかなぁ……」
雲を劈く真白の壁が眼前に屹立している。それはまるで氷柱のようだったが、しかし重力に逆らい、地表から天に向かって生えていた。自衛戦力をほとんど持たないノーヴァノーマニーズを難攻不落たらしめた天然要塞がこの山脈だ。
シンバを下したアレクサンダグラスがそのままの勢いで西進し、一度諦め、ノーヴァノーマニーズへの侵攻を後回しにしたことでも有名――その逸話から、鼠返しと呼ばれている。山脈に積もった万年雪と雲が同じ色であるため境目がわからず、麓から見上げると頂上が張り出しているように見えるからだ、とする説もあるが実際のところはわからない。
とてもではないが、馬如きではこの山を越えることはできない。馬如き、というよりも生身の人間、むしろありとあらゆる生物の侵入を阻むかのごとき偉容。地面というよりはほとんど壁だ。傾斜が急すぎる。
しかしノーヴァノーマニーズが完全に閉じていたのも今は昔。アレクサンダリア治世後は大街道が山脈の谷間を縫うように整備され、ノーヴァノーマニーズ唯一の都市にして首都へと続いていた。
余談であるが、鼠返しは、アレクサンダグラスが各国へ敷かせた一直線の大街道を唯一曲げさせたことでも有名である。
「ミョルニ、山越えれそう?」
自分が抱き着く白銀に視線を落とすまでもなく、甲高い鳴き声が返ってきた。いいのかだめなのかどっちだ。頭が上に向き、強い羽撃き。重力を断ち切って体が上へ行く。雲に突っ込み、細い円柱状の穴を空けて鼠返しの天頂を見下ろす位置に来た。
白銀がもう一つ鳴く。甲高い声は、頭上に広がる大天球に染み込んで消えた。濃紺に散在する黄、白、赤の光と、少し欠けた月。真白の雲の中から、急峻な鼠返しの頂点が針のように無数も顔を出している。
小さな羽撃きをいれて姿勢制御とし、ミョルニは空を滑った。
必要に応じて次々に建て増ししたといった風情の、何の統一性もない建築物群がぐんぐん大きくなっていく。最初に大王の城があり、不便なので研究室を増築し、史料や書類、実験機材を置く部屋を付け足し、といった様子で建物は上に上にと伸びた。何分海と山脈に囲まれた狭い国土だ。建物は上に伸ばすしかなかった。
……今日こそは無事に入城できればいいけどな。
そんなことを考えた矢先、塔の一つが爆発したのでおよそ無理だと思う。彼らは何故、爆発の危険がある実験を室内で行うのか。
トォルにはわからない。
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「そうだ、こうしましょう」
という勇者の声を、すっかり意気消沈してしまったニールニーマニーズは聞いた。
年甲斐もなくはしゃぎすぎた、という恥ずかしさも遅れてやってきて、顔面に熱を感じる。誰も自分を責めないのが余計にばつが悪い。子供のしたことなのだから、などという言葉が聞こえてきそうで、憤りとも羞恥ともつかない熱が目に浮かんでくる。
ニールニーマニーズは顔を上げることができなかったが、勇者は気にせず言葉を続けた。
「僕が勇者であることを実演して御覧に入れましょう」こちらの肩に手が置かれる。意外に強い力で肩に捻りを加えられ、意思に判して視線が勇者のものとぶつかった。「魔法、見たくないですか?」
「――そうだの、わしらも魔法の存在については懐疑的じゃ」
「でしたら丁度良い。壊れたものを元に戻す魔法――など、いかがでしょう」
言うと同時、勇者が切っ先が入った鞘と、半ばから刃の折れた剣の柄を取り出す。
いつのまにか、固唾を呑んで見入り始めていた自分に気が付く。
勇者が荒い切断面同士を擦り合わせる。数秒程そのまま固定したのち、鞘の方を握っていた手を横に移動させ、鞘から剣を抜いた。斑模様の入った金属が目に眩しい。反射的に細めてしまった目は、確かに刃に折れた形跡などないことを確認した。それどころか――刃毀れさえ見当たらない。
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吟遊詩人という身分は便利だ、と勇者は考えている。
旅人や商人など、今までいろいろな人間に扮してきたが、情報収集という点でこれほど優れた役割はない。なにせ昼間から堂々と、街道のど真ん中に陣取っていられる。すなわち広場のことであるが、住宅地の密集するイスカガン内においては広場は憩いの場であると同時に交通の要衝でもあり、東の広場であれば東から来る者たちの、西の広場であれば西から来る者たちの、特徴や会話の内容など、いくらでも観察し放題だ。
露天商だといつもいつでも広場に店を開けるとは限らない。店を店たらしめる空間や品物など、準備はいくらでも必要となる。良い場所に店を構える店主を毎回洗脳するのは簡単だが――品物を買うだけで良い――、そうもいかぬ。なにより、毎日あるいは定期的に、同じ場所に同じ人間が、他者と店を構えることは不審だ。
かと言って何も持たぬ、何もしていない男がただじっと広場に立っているのも以ての外で、広場に居続けて、それでいてその場から動かぬことに不信を抱かれぬという点ではやはり吟遊詩人が便利なのだ。
吟遊詩人に落ち着くまでは、大道芸人をやったこともあった。占い師や靴磨きなども。それぞれ一回限りでやめてしまったが、大道芸人をやった時に奇術を習得した。
種も仕掛けもない奇術は本物の魔法であり、おいそれと安売りするわけにはいかない。そもそも洗脳魔法なぞ、易々と見世物にはできないのだが、それはともかく。
その時、掌の中にある程度までの大きさのものならなんでも隠せるという技術を習得したのだ。
「――壊れた物を元に戻す魔法――など、いかがでしょう」
隠し持った硬貨に魔力を籠める。断面に溶けた金属を流し、剣を張り付けた。少しばかり不安はあったが、思い切って鞘を抜いていく。
ゆっくりと刃が姿を現していく。鞘を握る右掌の下を通過するときに、溶けた硬貨を操って錆や欠けを埋め、やがて剣を抜ききった。
剣の素材がなんであるかなぞ知らぬが、硬貨と同じでないことは明白だった。欠けや窪みを補修したところに沿って複雑な斑模様が浮かんでいる。
勇者は少し考えた後、言った。
「木目調にしてみました」
我ながらまあまあしんどいのではと思ったが、ニールニーマニーズが「ダマスカス鋼の剣……!」と発言したことでどうもなんとかなりそうだった。
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マリストアは、久しぶりの肉に舌鼓を打とうとした。
目覚めてから今まで、野菜や薄味のスープ――病人食じみたものばかりを口にしてきた。久しぶりの蛋白質だった。やはり肉は食わねばならぬ。葉だけで体はつくれぬのだ。
あまりはしたないのはよろしくないので、小さく切り分けて口に運ぶ。
「…………ん?」
口に運ぶ肉片を少し大きくした。疑念は晴れなかった。
「ねえ貴女、これちゃんと味付けしたの?」
「えっ、はい、確かに! マリストア様のいつもおっしゃられる分量と手順通りに焼きましたが……至らぬところがありましたでしょうか!?」
いいえそういうわけではないのだけれど――言って、再び肉片を口に運んでみる。今まで野菜やスープばかり口にしていたものだから、舌が馬鹿になっているのかもしれない。
表面に良く火を通し、塩と胡椒で味付けさせた肉――イスマーアルアッドや大臣、皇宮付きの料理人たちにバレたらこの時点ではしたないなどと窘められそうな調理方法だが、マリストアは塩と胡椒だけという単純な味付けを愛していた。彼女傍付きの下女はそのことを熟知していて、機会があればこれが振舞われる。
その程度には好きな料理のはずだった。
しかし。
「急に食べたからお腹が吃驚しちゃったみたい。残してごめんなさい。下げてもらえないかしら」
下女たちが食卓を片付け始めるが、その中の一人がこちらの体調を心配する旨の言葉を寄越した。
東洋出身の、例の茶汲みの下女だ。体調はお陰様で申し分ない、と伝えると茶が運ばれてきた。
「ウーイーヤン茶です。東洋の薬茶で、病気を治す効果があります」
「ありがとう。いただくわ」
少し冷ます。
口をつけると、穀類に似た香りが広がる。メイフォンが一時期好んで食していた時期がある玄米の風味と似ているような気がした。
「薄味の茶なのね」
「えっ薄かったですか!? 申し訳ございません!」
新しいのを淹れてくる、という下女に大丈夫だと伝え、不思議な香りのする茶を堪能する。
マリストアには、やはり味が薄いように感じられた。
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「これが魔法か……! 原理は!? どういう理屈でこんな現象が起きている!?」
そこまで言ってから自分が勇者に相当詰め寄っていたことに気付き、ニールニーマニーズは二、三歩を後ろに踏んだ。
一旦落ち着こうと思って水を口にする。深呼吸。
「――魔法とは一体なんなんですか」
問うと、勇者は困ったように頬を掻いた。剣を鞘にしまい、腰に佩く。本当は手に取ってみせてもらいたかったが、さすがに二の轍を踏むのは御免だ。
勇者も席に着いた。いつの間にか、対面するニールニーマニーズと勇者を他の来席者が囲む形になっていた。
「魔法がどういうものであるか、ということは僕から説明することはできません」
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勇者は、そもそも魔法の原理なんざ知るか、と内心で毒づいた。説明しろと言われてもできぬ。何をどうすれば魔法が発動して、それはどういう効果を及ぼすのかということは知っているが、それがどういった理屈であるのかとか、そういったことは知らない。
そもそも魔法は与えられたもので、本来の自分のものではない。仕組みや理論などわからずとも、どこを触れば何ができるということさえわかれば良いのは道具と同じだ。
魔法はただの道具に過ぎないのだ。
ゆえに、どう答えたものかと勇者は返答に窮していた。
慎重に言葉を選びながら、無難を紡いでいく。最適解を模索しながら。
「魔法、というものは御伽話などにも出てきますよね。例えば重い岩を動かすとか、空飛ぶ絨毯であるとか、聞いたことないですか」
「うちの御伽話だの。千一夜じゃ」
「もちろんあれだけに限らず、およそ理論で説明できない『あり得ないこと』を起こす方法があったら――例えば折れた剣が一撫でで元に戻るなどということがあれば、それは魔法ですよね」
話は簡単だ。
一見人間の能力では想像もつかない、あるいは実行が不可能である事象をまとめて魔法と名付けていると、それだけの話である。――と語る。あるいは騙っていく。
勇者はここで再び宝剣を抜くと、その腹を軽く叩いた。簡単に剣が折れる。
「簡単な話です。この剣は元々折れていたんですよ」
「え、でもさっきは確かに綺麗にくっついて……」
落ちた剣先を拾い、断面同士を合わせる。今度は硬貨を溶かすなどの小細工はなしで、切っ先を天井に向けた。
「今、剣は元通りですよね」
「外見的にはそうですけど――」
「ではニールニーマニーズ様、僕がこの剣を持った手を水平にしたらどうなりますか?」
「え? それは――普通に考えたら、折れた部分が下に落ちます、よね」
その通りにしたが、その通りにはならなかった。
水平にした宝剣は、折れた部分を絶妙に結合させたまま離さない。これには種がある。
「なに、これはただの技術ですよ」
剣の断面はまっすぐではない。水平にした面の下側部分の方が少し飛び出しており、そこに重心を持ってきて制御することで、切っ先の落下を防いでいるのだ。
少々の腕力と小手先の技術だけで、剣が接合しているかのように見せかけただけ――
「今、理屈がわからぬ現象が見えたように思ったでしょう? 種を明かせばただ単に先端を引っ掛けて乗せていただけだというのに」
手首をほんの少し捻ると、やはり剣先は絨毯に吸い込まれるように落下した。
「一見正体不明の技術。これが魔法の正体ですよ。絶対に種がある」
勇者はうまく誤魔化せたか、とニールニーマニーズの顔色を窺った。
「じゃあ、魔王はどうやって説明をつけるんだ……?」
「アレはそういう存在として確かに居るんですよ。あればっかりは僕にも説明しようがありません。だって実在したんですから。勇者としての僕が実在するように。ここだけの話、僕にもわからないんですよね、詳しいところは」
眼前でくすんだ金髪が縦に二、三度上下する。勇者は続けた。
「すいません、少し喉が渇いてしまいました。ニールニーマニーズ様、ちょっとそこの水を取ってください。……はい、ありがとうございます。どうぞ。――そうです、これも魔法ですよ」
ニールニーマニーズが眉を顰め、問うた。
「どういうことですか」
「今、僕は水を手に入れました。僕の手元になかった水が、外部からもたらされたのです。僕の意思とは関係なくね」
イスマーアルアッドには感謝する。
手元になかった水を、頼んでもないのにわざわざ連れてきてくれたからだ。
勇者には、奇術の心得がある。掌に隠した硬貨を他人に握らせることなどわけがなかったし――たとえばそう、水を取ってもらった対価として、硬貨を支払うということも決して難しい行動ではなかった。
ウーイーヤン茶のモデルは名前もそのまま武夷岩茶です。ピンインなので実際の音とは若干違いますけれども。