#8 酒場の女達
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空間を満たすのは喧騒だ。
イスカガン西部のとある通り。魔王襲来の被害が比較的少なかった地域。
炙った肉や魚の脂が溶ける匂いが充満し、瓶から栓を抜く音があちらこちらで鳴る。
詰め込めるだけ机や椅子を詰め込んだ、といった風情の小さな店舗。その中に、二人の女が横並びに座る姿があった。
一人は動きやすそうな衣服に身を包んだ東洋の女。長い黒髪を高い位置で結っており、髪先が床に触れるくらいの辺りで揺れる。全体的に細身の女で、身のこなしにどことなく武の気配を感じさせた。
その隣、やや強張った表情を浮かべて座るのは西洋の女だった。肩辺りで雑に切り揃えられた金髪とくすんだ碧眼。かっちりとした衣装に身を包んでおり、先の女とは正反対といった様子だった。
両手に三つずつ、取っ手のついた器を持って店員が横を通る。
夜の帳が下り始めた時刻、この辺りの飲食店――というよりも飲み屋が立ち並ぶ一帯は、周辺に住まう住人たちによってどこもこのような有様だった。すなわち、大盛況。どこもかしこも飲み客で溢れかえっている。
客たちは最初こそ見た目も雰囲気も真逆な女たちに目を向けるが、その大体は、酒を喉に流すうちにどうでもよくなってしまう。しかしその大体に含まれない客集団がいて、彼らは麦酒を注文して女達に寄越した。
東洋女が二杯受け取り、夜も早くから顔を赤くしている中年集団に器を持ちあげて一礼する。そして二杯それぞれを一息で空にした。中年集団から口笛や喝采が飛ぶ。
その間、西洋女は魚の骨に苦戦していた。
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セラムは面倒くさくなり、骨ごと食べることにした。よく噛めば食えぬことはない。カルシウムだ。普段取らないので、摂取できるのであれば取るに越したことはないだろう。
なんだか隣が盛り上がっている。どこか他所の客がこちらに麦酒を寄越し、ナンパ師の女が一息で飲み干した。それを見た客たちが彼女を囃し、新たに酒を寄越す。また女が飲み干す。セラムが串に刺さった塩焼の魚を腹に収めるころには、店中の客から女のもとへ次から次と酒が注文されるようになっていた。
塩のみというラフな味付けが大変良い。ナンパ師の陰でひっそりと新しい魚串を頼み、舌鼓を打つ。麦酒の類は好まないので、よくわからないが店主に勧められるままに酒を注文した。透明な酒だ。ヤハンの特産品らしい。米から作られるらしいが、セラムは米を見たことがない。
器を傾けると強い熱が喉を通る。魚の塩が舌に心地良い。
「私を酒で潰したかったら樽で持ってこい!」
樽で来た。
セラムはコップの酒を飲み干してもう一杯と、追加で普段食べない肉を注文した。普段食べない物ばっかりだな私。菜食主義者というわけではないが、パンと野菜ばかり口にしている気がする。だったら取れるときに蛋白質だ。
強い熱で表面だけが炙られた肉がすぐに来る。酒はよくわからないので、ずっと同じものを。水割りも聞かれたが、よくわからなかったので要らないと答えた。すっきりした後味が口内の脂を流してくれてよろしい。
「どうしたこんなものか! 足りぬ、足りぬぞ!」
いつの間にかナンパ師と店内の客が対立する構図になっていた。客がひたすら酒を注文し、女がそれを呷る。尋常でない量の酒を消費して、まるで酔う様子も見せない女を潰そうと客も躍起だ。最初は軽い気持ちで始めたのだろうが、もはや後には引けぬと、そういう様相だった。なんとか負かさねば今日は帰れぬ。そんな声が聞こえてくる。
女が酔い潰れるのであれば、その時はお会計だけ任せて帰れば良い。酔い潰れなくとも、自分は栄養の摂り貯めは十分なのであとは適宜帰る。
「すまん、もう一杯頼めるか」
「あの姉ちゃんに隠れてるけど、アンタも相当だねぇ……うちのお酒もうなくなっちゃうよ?」
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結局客とメイフォンの対決は、メイフォンに軍配が上がった。
店主がそろそろうちのお酒なくなるよ、と割って入ったのだ。ちょうど樽を三つ弱空けたところだった。金の尽きた客たちが次々に彼女を讃え、罵倒しながら帰っていく。
「アンタらどうするの? まだ飲む?」
皿を洗いながら、店主が言った。
「アンタらのおかげで、ウチは三日くらい店空けなくて良いくらいの売り上げになったしさ。今日はもう新しいお客さんは入れないつもりなんだけど」
腹が減った、とメイフォンは思った。そういえば酒ばかりで何も口にしていない。適当に二、三品と注文する。
椅子に座り直し、そういえばと、口を開いた。
「まだ名前を聞いていなかったな」
「順序……!」
指差しでツッコまれたが、やはりどことなく弟に近いものを感じる。
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「イスマーアルアッド様、こちらです」
という声をイスマーアルアッドは聞いた。暫定的に会議室としてある丸太小屋から出てすぐのことである。
あまり見覚えのない召使だ。そのまま踵を返し、会議室からどんどん遠ざかっていく。
「いったい何があった?」
背中を追いながら、声を掛ける。
しかし召使は何の反応も寄越さず、イスマーアルアッドが小走りでようやくついて行けるような速度で歩いていく。
返答はないが、かといって放置するわけにもいかず、彼は黙ってその背を追った。白髪だ。南の方の出身だろうか。肌は褐色である。そこで気付いたが、襟足で切り揃えられた髪はほとんど揺れない。歩く動きに付随する左右の揺れがほとんどないのだ。
足は交互に動いている。しかしかかる体重が軽いのか、ほとんど滑るような動きで彼女は進んでいった。皇宮に仕える召使たちの中で、武術の心得がある者というのは意外に少なくない。彼女もそういう者のうちの一人だろうか。
進んでいった彼女の背が、建物の角を曲がって消える。
あ、と思って伸ばした手が肩に触れた――ような気がした。しかし捕まえることは能わず。追うイスマーアルアッドも続いて曲がるが、
「……消えた?」
確かに角を曲がった筈の召使が、その姿を消していた。
隠れられるような空間はなく、そしてもし仮にそのような空間があったとしても、一秒にも満たないわずかな時間で隠れることはとても叶わぬ。
木組みの丸太小屋が立ち並ぶ、その裏にある空間だった。焼け残った木が数本生えており、生命力の強い下草が緑の絨毯を形成している。
陽は落ち、夕闇が緑と混じりあう。
視界の先、人影が見えた。二つだ。
倒れている。
「アルファ! イルフィ!」
抱え起こすと、酷い熱だった。
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悩んだが、結局本名を告げる。セラム。女は自分のことをメイフォンと名乗った。
イスカガン第一皇女だった。
「ちょっと待て」
手のひらを女――メイフォンに向ける。
整理する時間が必要だ。
彼女はというと、器用に箸を使って青菜の煮物を摘まんだところだった。
「欲しいのか? 遠慮するな。食え食え」
いやそうじゃなく、と言おうとして開いた口に箸が入ってくる。噛むと繊細な味が染みる。普段塩をかけるかかけないかくらいしか味に変化がない身としては、それこそ身に染み入ると、そういった味だ。美味い。
青菜の癖に、噛めば噛むほどに味が滲み出る。普段の自分の貧相な食卓と比べると涙が出そうだ。野菜に水洗いしてちぎるかスープに入れる以外の調理法があったとは。
飲み込む。
「おい――いや待て、催促じゃない、私の話を聞いてくれ」
言うと、数皿から少しずつ均等に料理を摘まんでいるメイフォンが首肯する。
しかし話を聞いてくれとは言っても一体なにを言うべきか。否、そもそもなにか聞くべきことはあるのか。初対面では思わずどうしてイスカガンを駆けまわっているのかと問うたが、皇族くらいになれば街中を駆けまわりもするだろう。見回りの一環だ、これは別に良い。皇族ともなれば、いろいろストレスもたまるだろう。セラムはメイフォンの胸中を察して優しい気分になる。
私の話を聞け、というよりは、いくつかのどうしてに答えてくれ、が近い。
そう、なぜ私に声を掛けた、何の目的を持って私をナンパしたのかと、その点だ。やや頭の回転が鈍い気がするのは飲みすぎか。店主に水を注文する。先に頼んだ茶漬けが来た。
「なぜ声を掛けたか、か」
コップに入った水を一息に飲み干し、メイフォンが言った。
「暇だったから、かな。特に理由は無い。誰でも良かった」
「私に声を掛けたのは偶然だったと、そういうことか?」
「ああ、まあ――弟に似ていたような気がしてな」
弟。
セラムの脳内に、マリストアの鞭に打たれて喜ぶニールニーマニーズの姿が浮かんだ。
なるほど、そういうプレイが好みか。
「私は、小さいながらも花屋を営んでいる。どうか見えるところには痕が残らないようにしてくれ」
「は? ああ、うん。何がだ」
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メイフォンは、セラムがノーヴァノーマニーズ出身で間違いないだろうと判断した。
弟をはじめ数人しか知らないが、彼らは婉曲的というか、持って回ったような言い回しが多い。先の発言も、恐らくそういうものだろうと思う。
しかし、いまいち何を言わんとするかわかりづらいときがたまにある。
ゆえに、さらなる説明を求めるものとして、メイフォンはこう言った。
「すまん、もっと直接的に言ってくれないとわからんぞ」
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セラムはもうすでにプレイは始まっているのだ、という戦慄にも似た感覚を得た。
少し離れたところでは、店主が皿洗いに没頭している。一見こちらの会話を聞く者はいないが、店主が耳を欹てていないとも限らない。
一つ、深呼吸を入れる。
「わかった。そちらがその気であるのなら、こちらも逆らいはしない」
続けて、
「責任は取ってくれ」
「ん、何の責任かは知らんが、私は自分の発言には責任を持つぞ」
腹を括る。
生きていればどんなことだって、起こることがないと言い切ることはできない。
街中を歩いていて、偶然出会った人物が高貴な身分――一般庶民の主人公が慰み者にされるなどという話はこれまで幾つも読んできた。イスカガンに出て、余暇の過ごし方を模索していた時にふらりと立ち寄った店が本屋で、十代女子向けと書かれた棚に並んだ本の中にあったのだ。比較的人気な分類のようで、手を変え品を変えいくつもの本が出版されている。
事実は小説より奇なりという言葉もある。なればこそ、小説の中で起きた出来事はまず起きるともいえるだろう。
そうだ。それだけの話だ。
偶然街中で出会った人間がイスカガン第一皇女だった。自分は一般庶民で平民も平民なので、皇族に逆らえないことを良いことに弄ばれるのだ。
仕方ない。そう、仕方がないのだ。
意を決してこれから自分の体に施されるであろう凌辱の数々を口にし、普通に引かれたので、今日を私の命日とする。
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なんだかよくわからないが、机に突っ伏した女――セラムを見て、メイフォンはそろそろ店を出るかと懐から出した金を店主に支払った。ほとんどを他の客が出してくれていたので、飲み食いした量に比べてかなりの破格である。たまには外で食事を取るのも悪くない。
「立てるか?」
「社会的に無理」
一瞬迷ったが、置いていくわけにもいかぬ。仕方がないので膝裏に手を回し、腰の捻りを利用して一息で体を持ち上げる。
「なっ、何をする!」
「あはは暴れるな、危ないぞ」
自分の首に両腕を回させて、しっかり掴まっているように指示する。
「迷惑かけたな、御馳走様」
通りへ出ると、人通りも疎らになり始める時間帯だ。朝が早い者たちは三々五々己の寝床に帰り、飲み足りない者はここから南の方へと足を向ける。歓楽街の夜はこれからだ。
近頃暑くなり始めたとはいえ、夜が更ければ少し肌寒い。
セラムを軽い動作で抱き直す。夜の空気で肺腑を満たすと、酒で火照った体に心地良い。
「まあ、その、なんだ。嫌なことは飲んで忘れるといい。恥は酒で洗い流せ。な?」
「き、気遣いが余計に効くなあ……!」
参った。
泣かれても困る。
女の涙を止める方法など自分は知らぬ。そもそも身の回りに泣く人間がいなかったせいもある。そういう点では弟も妹も手の掛からない良い子であったとそう言えるのかもしれないが、今はそのせいで自分に経験値が足りない。
足りない知識をそれでもなんとか総動員させて、最適解とは言えずともこれは良さそうだと思える回答を探す。
泣くと言えば赤子だろう。母親が「いないいないばあ」と言って聞かせるのを見たことがある。両手で顔を隠し、ばあと言って顔を見せる。あれは母親が婆は居ない、すなわち怖いおばあちゃんは居なくなったから安心してよろしいという言い聞かせだと思うのだが、どこの家庭も嫁姑問題を抱えているのだろうか。
試す価値ありかと思ったが、両腕は生憎セラムを抱えるので塞がってしまっている。しばらく降ろせと暴れていたが、力で敵わぬと諦めたのか、今は大人しくされるがままだ。
しかしいないいないばあが駄目となると八方塞がりだ。あとは何があったか。赤ん坊をあやす方法。普段街中を歩いて結構目にしているはずなのに、いざ思い出そうとすると出てこない。そういうものだ。いや今はそれでは困る。思い出す必要がある。
確か、たかい……「たかいたかい」だ。
一歩を踏み、続く二歩目で石畳を強く踏み込む。重力を引きちぎって、夜空に舞う。
抱える腕の中、セラムがぎ、から始まりあ、で伸びる悲鳴を上げた。
「ほら、他界他界!」
「ちょ、ま、殺す気か――!?」
ちょっと楽しくなって、月光の照らす街並みを駆け抜ける。
セラムがこちらの肩や腕を叩いてくるが、落とすとさすがに危ないかもしれないので強めに抱いておいた。
飽きたから下りた。
「セラム、貴様の家はどこにある」
「もう、好きにして……」
途中で「たかいたかい」はこんな感じであったか、という違和感を得たが、ともあれ涙が止まったようで何よりである。
酔いはまだ冷めぬ。
宵もまだ冷めぬ。