#7 皇帝の候補
★
床が見えぬ。当然地面があるというわけでもない。真っ白い靄が上下と前後左右、すなわち全周を満たす空間だ。
常に落下し続けているような感覚もありながら、足裏が地面を踏むのに似た感覚も感じる。だが、踏み締めても確かな反力を感じることはできなった。現実世界の足裏が地面についていないからだろう。
木組みの小屋裏にある樹木の枝に隠れ、鳥の鳴き声や風が葉群を揺らす音、建築大工たちの活気に耳を傾けているうちに、いつの間にやら眠ってしまっていたようだった。
揺蕩う。
白霧は体を包んで、形成された重力を感じさせない空間はさながら揺籃に身を預けているようだった。
『おう――、助かったぜ! これ、少ないけど給金な! また暇があれば手伝ってくれ!』
声がした。
『おはようございます――様! この前はありがとうございました。今日はどちらへ? もしよろしければお帰りの際にでもお立ち寄りくださいませ、弾みますよ』
自分たちを囲む白霧の中、そのどこかからやってきた声が、自分たちの体を通過してどこかへ消えていく。
自分に向けられた声に非ず。どこの誰宛かわからない声が、どこかの誰かに向けて通り抜ける。
『おいおい――、なんだ逢引きか? こんなもん買ってどうするつもりだってんだ。ああいや、上手くやれよ』
『へへ、旦那、エラく羽振りが良い様子。先程から拝見しておりましたが、あの店この店、通り掛かる店々食べ歩きに土産物、良い金策があるなら私にもどうか教えてくださいな』
『おい兄ちゃん、アンタ金持ってんだろ? 聞いたぜおい。ちいっとばかし俺にも恵んでくれよ。いいだろおい』
善意悪意含めた声の送り先――「誰か」に届く声は、感謝の意を表すものがそのほとんど。
一人、また一人と声は増え、重なり、残響し、遂には聞き分けることができなくなる。
音の壁。音圧。
看過できぬほどの音量に耳が、頭が痛みだし、叫びたくなって、それぞれが手を握る、それぞれもう一人の自分が出した悲鳴で飛び起きる。
木から半分ずり落ち掛かっていて、慌てて体勢を立て直す。
どちらからともなく繋いだ手指が相手を求めるように力を得、体を引き寄せた。
幹に背を凭れさせ、荒い息が整うのを待ち、
「大丈夫?」「ええ、なんとか」
片方が寝汗を拭うために着替えたいと主張し、もう片方が湯浴みを提案した。
そうすることになった。
★
「あ」
という吐息とも声ともつかぬ音が己の口から出たのを、セラムは数瞬遅れて自覚する。
日も暮れてきたから夕餉にするかと、店舗兼作業場から這い出るようにして露店が並ぶ通りへと向かう途中だった。
半裸で往来を出歩くわけにもいかないが、かといって洒落た私服を持っているわけでもないので、再びスーツのズボンに足を通している。上着は脱ぎ、胸元の釦を開け、袖を捲ったラフな出で立ちだ。もうすぐ日は沈むが、最近すっかり暖かくなってきたのでこれでもまだ暑いくらいである。
ノーヴァノーマニーズのほとんどの学者――すなわち国民がそうであるのと同様に、食事に栄養補給以外の意義を見出していないセラムは毎日決まって同じものを口にする。朝はパン。昼はパンと野菜の類。夜はパンとスープ。
行きつけの店がある。イスカガンに住むようになってから毎日通うパン屋だ。あまりにも同じパンだけを買うものだから、半年ほど前からはパン屋へ行けば一日分を既に袋詰めしているようになった。
硬貨だけを握りしめて、花屋から歩いて少しの店へと行く。
その途中だったのだ。
眼前。
主となる街道から一本外れているため、あまり大きくない路地。石畳の道に、それは降ってきた。
思わず声が出ていた。
「お前は。――どうして飛んでいる?」
昼間から夕方にかけて、結った長髪を振り回して街を駆けまわっていた女だった。
★
メイフォンは、退屈を持て余しているところだった。
城に帰ったとてイスマーアルアッドや勇者、他の王たちは会議で手が離せないだろうし、他の弟や妹はどうも何かに目覚めたようで特殊なプレイに夢中。道場も倒壊してしまったし、常に体を動かしていないと何となく落ち着かない身としては、そう、
……今夜は家に帰りたくないの、というやつだな。
何となく違う気もするが大体合っているはず。男は自分の家なり宿なりに女を連れ込んで、夜通し組手だ。自分から組手に誘いづらいときに、女が男に向かって使うのだそう。我ながら博識。マリストアから聞いたが市井の民の間で流行っているそうな。騎士でもないというのに夜通しの鍛錬に励むとは大変よろしい。鍛えることは良いことだ。
城に帰ってもすることがないので、行く当てもなくイスカガンの屋根や壁を跳ね、時折石畳を歩いては民の暮らしを眺めていたのだが、屋根から屋根へ飛び移る途中で弟に似た姿を見つけたので方向転換。壁に小さい蹴りを入れて勢いを殺し、片手をついて着地する。
「あ」
男物のスーツを着崩した女だった。
上から見ると弟に似ている気がしたが、正面から見ると全然似ていない。
体を起こす間に、女が続け、
「お前は。――どうして飛んでいる?」
メイフォンは指を建てた片手を女の方へ突き出し、反対の手を額に当てた。飛んでいる。お前は何故飛んでいるのかと聞かれた。自分は飛んでいるのか? 質問されたからには飛んでいたのだろう。飛ぶというのはどういうことだ。空を飛ぶということだろうか。しかし自分は見ての通り人間であり、空を飛ぶ能力は有していない。
なるほど比喩だな、とメイフォンは推理した。ニールニーマニーズが持って回ったような言い方を好むが、それと同じに違いない。
では、飛ぶ、というのは何の比喩か?
簡単だ。
「……………………」
口を開きはしたものの、何も思いつかなかったのでいったん閉じる。女が表情に怪訝の色を深めたのを見て、とりあえず何か言う。
「簡単だ。えーっと、その、なんだ」
「……聞かせてくれ」
「よし。――今は暇か? 少し付き合え」
頭脳労働は自分には向かないということでどうか一つ。
切り替えていく。そうだ、一つの考え方に固執してはいけない。
「夕餉はまだだろう。その、なんだ、少し照れるな。こういう時、こう言うのだろう――ん、えっと、今夜は帰りたくないの」
★
セラムは、女の言葉の真意を測りかねていた。
整理すると、目の前に女が降ってきた。思わず声を掛けたらナンパされた。なるほどよくわかった。いやわかっていない。
名も知らぬ女に強引に腕を引っ張られ、適当な食堂に連れていかれる。相当な腕力の持ち主のようだが、こちらが痛みを感じない様に配慮してくれているのがわかった。
これでこの女の正体が分かった。――ナンパ師だ。一見奇行に見える行動も、自分のようなカモが声を掛けてくるのを待っていたに違いない。
合点がいった。
自慢じゃないが自分は非力だ。いざとなれば大声を出せばどうにかなるだろうか。いやしかし女同士だ、酷いことにはならぬはず。ナンパだったら会計は女持ちか、だったらたらふく食ってやろう。
セラムは食に頓着はないが、他人の金で食う飯がうまいことはよく知っている。こうなればもう自棄だ、と開き直って御相伴に預かることにした。
記憶が飛ぶくらい飲酒すれば大体のことは大丈夫だろう。多分。若気の至りという便利な言葉もある。ああ南無三。
★
さて、という言葉を勇者は聞いた。
エウアーの発した言葉だ。
「皇帝は要る、次の皇帝を立てる、ということで異論はないわ」
「問題は次の皇帝を誰にするか、である」
皇帝を擁立することは決定した。
かといって制度が以前までと大きく変わることはない。となると、誰を皇帝に立てるかというのが、唯一にして絶対の問題となる。
「八王の中からは出せませんねぇ」
「えっ、どうしてですか?」
「ノーヴァノーマニーズの。我々は皇帝の一つ下という立場に平等だの。そのどこかが皇帝に立てば、どうなるかの?」
「あっ、なるほど、……均衡が崩れてしまいますね」
強大な力を持つ八国の主権者――通称八王は皆、そのさらに上位の存在としての皇帝を立てることで勢力の均衡を保っている。皇帝の御名において、イスカガン国内での侵略行為を禁ず。どこかがその禁を破れば、それ以外すべてが敵に回ると、そういうことである。
皇帝はあくまで象徴としての存在でしかないが、国事行為を担い、アレクサンダグラスの時代では司法や立法、行政にも強い権限を有してはいた。
その権限が次の皇帝からは失われるかもしれないという可能性――完全なる傀儡皇帝が立つ可能性は懸念すべき材料だ。国事行為のみ行う存在にされる可能性だってあり得る。
皇帝が完全な傀儡になると何が問題か。
八王が結託することを前提に平和は存続している。もし仮に、すべての八王とまではいわずとも、幾人かがこれを破棄しようとして、内部からその都合が良いように皇帝を操ろうとしたときなど、皇帝に権限がなければ大変不都合だ。
「皇帝が象徴であることは認めよう。だが同時に、皇帝の存在は抑止力でなければならない」
イスマーアルアッドが言った。
以前までと全く同じ権限を有し、すべての政策や法を引き継ぎ、かつ八王への抑止力として君臨する。
「戦争をしよう」
「皇帝はすなわち、わたくしたちを力尽くで止めることができる人物でなければならないわけですねぇ」
「戦争をしよう」
「戦争大好き老人は黙っていてくださいませんかぁ。お呼びじゃないですよぅ」
皇帝とは。
民に慕われ、八王に認められる存在である。
まずは八王――イスマーアルアッドを除いた七王に認めさせてみろと、そういうことだった。
「皇帝を引き継ぐ資格があるのは――ま、御大の子ね。御大の子であることが皇帝になるための第一条件よ」
皇帝は引き続き立てる。次の皇帝を継ぐ資格を持つ者はアレクサンダグラスの子。その候補は、八王からイスカガンを除いた七王に認められることで皇帝即位の資格を得る。これらが決まり、会議は終いになる。
空気が弛緩する。勇者はすっかり冷めた器に口をつけ、茶を飲み下した。
その時。
「イスマーアルアッド様! あっ、失礼します」
よほど急いで来たのか、息せき切らした召使が扉を開け放ち、言った。
「良いわよ、会議は終わったもの。晩餐会までに軽く休憩を挟みましょ」
「……すまない、失礼する」
会議の後は晩餐会とそういう手筈になっている。イスマーアルアッドは一礼すると、彼を呼びに来た召使の後について出て行った。
「おひぃ様、お外に行かはりますか?」
「さあ、どうしましょう。皆様どうされますぅ?」
「そうね、私は少し外の空気を吸ってくるわ」
エウアーはそう言うと立ち上がり、足音硬く扉の方まで歩いていこうとする。
しかし、
「おいエウアー。一人減ったが仕方ねぇ、扉を閉めて座れ」
という勇者の声の通りにした。
彼は円卓の上に足を投げ出す。
★
『貴様が――か。イスカガンをこうまでした――――――褒美がこれっぽっちで良いとは、遠慮しているのではないか』
『いいえ、僕にはこれだけあれば十分ですよ。むしろ多いくらいです』
黒い塊が、白い空間に立っていた。
『おお、噂の! わしはこういうとき何を褒美に取らせれば良いかわからんでの、これで好きなものを買えばええの!』
『ありがとうございます。ありがたく使わせていただきます』
異物だ。
アルファとイルフィは、生理的嫌悪感のようなものを覚え、後退る。すると、背中が何かにぶつかった。予想外の反発に姿勢を崩し、どちらからともなく尻餅をついた。
「きゃあ!」「吃驚したのだわ」
振り向くと、背後に黒の靄。呼気と吸気が喉の中程で詰まり、悲鳴すら出てこない。思わず繋いだ手に力が入る。
『わたくしからもお望み通り、どうぞですよぅ。でも、領土とかでなくて良かったんですかぁ? うちに来たらいくらでも土地とかありますよぅ?』
『いえ、僕は土地をもらっても腐らせちゃいますから……』
居る。
当然実際には存在しないわけだが、確かにここに居る。
いつの間にか四方を囲まれていた。長身の男と話す黒靄、半裸の男と話す黒靄、着物の女と話す黒靄、そして美貌の女と話す黒靄。
『ねえ――、私、あなたに興味があるわ。私に抱かれてみない? なんなら、上乗せするわよ』
『素敵な提案ですが、なにぶん剣だけにすべてを捧げてきた男ですから……――――様を満足させることはできないと思います。申し訳ございません』
★
途中で入ってきた従者がいけない。洗脳していない者だった。
イスマーアルアッドが連れ出されてしまったが、この件については仕方あるまい。
「えっ、今何が、どういう、え?」
勇者は懐から硬貨を取り出すと、ノーヴァノーマニーズの使者に握らせた。
「秘密ですよ。これ、口止め料です。今まで緊張しすぎてたので、ついついやっちゃいました。お行儀悪いですよね、机の上に足を乗せるだなんて」
「え、ええ、まあ、――そうですよね。会議の場は緊張しますもんね」
円卓の上に乗せた足は微動だにさせず、勇者は腕を組んだ。
「というわけでお前ら、よく聞け」
組んだ腕を崩して頬杖とし、
「俺を皇帝にしろ」
そう言った。
小悪党っぽいですよねコイツ。
※サブタイトルのナンバリングが間違ってたので訂正して統一しました。訂正前なら本来は今話が#6になるのですが、正しいナンバリングは#7となりますのでそのようにしております。(2018/4/28)