#3 アレクサンダリア皇宮にて3
およそ特別な場合を除いて、アレクサンダリアの皇子皇女が一堂に会するという機会はない。
それは別に、アレクサンダグラスの血を引く者たちが一堂に会する場で何かがあった場合のことを危惧してのこと――ではまったくなく、彼らが互いに互いを気に入らないからであった。
しかしそれも無理からぬことである。彼らの血がつながっているのは半分だけなのだから。
アレクサンダグラスと、大皇国に従属する八王国王妃たちとの間に生まれた子供たち。当然肌の色や目の色も違えば、服装や食べ物、生活習慣まで異なるのである。
彼らの体に半分だけ流れる大英雄の血は、常に支配欲の炎を燻ぶらせている。すっかり平和になってしまったこの世の中において、彼らをまとめて意見できるのはそれこそ偉大なる父アレクサンダグラスか、あるいは――
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第二皇女アイシャと第三皇女マリストアは比較的一緒にいることが多い。
とにかくアイシャがマリストアをおもちゃにする。
同様に、第一皇女メイフォンも、第三皇子ニールニーマニーズを弄ぶことを快しとしていた。
年下組の皇子皇女は、年上組の皇子皇女の餌食になる傾向にある。
しかしその法則は、第一皇子イスマーアルアッドと第四、第五皇女アルファ、イルフィとの間ではまったくの真逆であった。
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窓から差し込む光が色のついた硝子を透過して、建物内部に整然と並んだ長椅子に模様をつけていた。
女神が象られた像の前に瞑目して跪き、長々と祈りを捧げているのがアレクサンダリア大皇国第一皇子、イスマーアルアッドである。
浅黒い肌に、短く刈り込まれた髪。右の目尻から口唇にかけて走る三日月形の傷は、かつてアレクサンダグラスとともに戦場を駆けた時代に得た傷であった。
他の皇子皇女とは違ってすでに若者の域は脱している彼は、第一皇女メイフォンと第二皇子トォルよりちょうど十、年上である。どちらかと言うと反りの合わない弟や妹たちをうまくまとめることができる、アレクサンダグラスを除けば唯一無二の人材であるが、しかし物事には必ず例外が存在する。
イスマーアルアッド居城に特別に併設された教会の重厚なドアを蹴り破るような勢いで飛び込んできたのは、黒い肌と銀色の髪を持つ、二人で一組の少女たちだ。
「イス! ねえ聞いてイス! イルが!」「アルが!」
癖の強い銀髪を頭頂部の右側で括っている方が姉のアルファで、頭頂部左で括っている方が妹のイルフィだ。二人の違いはそれのみで、それ以外は頭頂部から爪先に至るまで寸分違わず同じ形をしていた。
「やあ、落ち着いて。ゆっくりでいいから、何があったのか聞かせなさい」
イスマーアルアッドは日課の祈りを中断すると、アルファとイルフィを教会に迎え入れ、長椅子に座らせた。
彼女たちは、常に手を繋いでいる。右利きのアルファと左利きのイルフィが、それぞれ利き手とは反対の方の手を繋ぎ続けているのである。少なくとも皇宮には彼女たちが離れ離れになったところを見た者は居ないし、それは事実上、この世で彼女たちが単体で存在した場面を見たことのあるものがいないということを現していた。
……もちろんアルファを取り上げた産婆、とか言い出したら居はするけれどね。何事にも例外は存在するものだよ。
彼女たちが常にいつも一緒にいるというのは、手を繋いだままでも脱ぎ着できる様に服を特注するといった徹底ぶりである。
「あのねあのね、アルがね」「イルがね」
しかし、イスマーアルアッドが宥めるも効果なく捲し立てる彼女たちは、壊滅的に意見が合わない。アルファが右と言えばイルフィは左だし、犬と言えば猫、外で遊ぶと言えば中で遊ぶ、一事が万事その調子で、それでも彼女たちが常に一緒に居続ける理由は誰も知らなかった。
二人の話を要約すると、どうやら昼餐後の時間をどう過ごすかで意見が対立したらしい。
「私はお外で遊びたいのよ」「駄目だわ、きちんとお勉強を終わらせてからでないと」
「うーん、そうだね。アルファ、勉強を終わらせてから遊ぶのではダメなのかい?」
二人の語気がだんだん落ち着いてきたのを見て、イスマーアルアッドは内心胸を撫で下ろす。今日は比較的簡単な対立のようで、このまましばらく会話させれば仲直りするだろう。
稀に梃子でも両者譲らないということがあるのでまだ油断はできないが、一山超えたと、そう言える時間帯だ。
「お勉強をしたら疲れて遊ぶどころではなくなってしまうのだわ」「でもお勉強もしなくちゃマリーみたいなお馬鹿様になってしまうのよ」
「こらこら、マリストアだって勉強はできるんだよ」
「三つも年下のニーニーよりは苦手だわ」「兄弟の中ではマリーが一番お馬鹿様なのよ」
「ニールニーマニーズは特別頑張ったんだよ、学院入学までにも、入学してからもね」
アレクサンダグラスの皇子皇女の中で、アイシャ、マリストア、ニールニーマニーズの三人は学院に通っている。三人とも優秀だが、その中でも特にニールニーマニーズの成績はずば抜けて良い。
イスカガンにある学院の教育課程では、基礎的な知識を学ぶ初等課程五年を義務教育とし、その後更に己の興味に沿った研究を続けたい者のうち、学院の設けた試験に合格できた一握りの者たちだけが無期限の後期課程に進む。基本的に学院の段階はこの二段階に分かれており、アイシャが初等課程を飛び級して三年で修了、今年で後期課程五年目なのに対し、マリストアは初等課程五年の後期課程一年目である。
ニールニーマニーズは初等課程が本来始まる十一歳までに基礎教育を修了させるに足る知識を得ていたので、入学と同時に後期課程を履修。今年で後期課程二年目であった。
「君たちも、今からしっかり勉強しておきなさい。そうすれば、ニールニーマニーズのように賢くなれるんだから」
「そうね、マリーみたいにはなりたくないもの」「お勉強は大事なのよ」
「あとそれから、マリストアは普通に優秀だからね、そこはわかってあげなさい」
学院の後期課程に進むための門戸は決して広くはないのだ。
イスマーアルアッドが子供のころ、まだ大陸は戦乱の中にあった。学校教育が始まったのは十年と少し前くらい、ちょうど最西端の国ノーヴァノーマニーズが併呑されてからの話である。それゆえ彼は学院生活というものを知らない。だが、
……後期課程に進めるのはそれだけで優秀な人間だと聞いているからね。
イスマーアルアッドは、兄弟姉妹の血は半分しか繋がっていないとはいえ、裏を返せば半分は血が繋がっているのだから仲良くした方が良いと考えている。それゆえ、弟妹が互いをけなすことがあればたしなめる役を担っていた。なにより、女神の教えでは血のつながりというものは何より濃い、切ることのできない縁であるし、兄弟姉妹でいがみ合うというのはそれに反してしまう。
「わかったかい。家族は敬わなくちゃだめだ。女神の教えによると――」
「ま、マリーは生きるのに必要なのは勉強じゃないと言っていたのよ!」「すべての物事は繋がっているから、私は美しくさえあればいいって言っていたのだわ!」
女神の話は彼女たちにはまだ難しいのかもしれない。そのうち興味を持てば話をすることにしよう、とイスマーアルアッドは心の中に刻む。
……信仰は素晴らしいことだが、強要されるものではないからね。
実際、女神の教えと言うと宗教のように聞こえるが、実際のところは望ましい思想・思考の仕方をまとめた論説集が元となっている。
ともあれ、彼女たちの午後の予定は勉強をするということで決まったようだった。
彼女たちの初等課程開始は来年。あらかじめ勉強しておけば、それだけ初等課程を早くに修了することができる。ニールニーマニーズなどは文字が読めるようになったころから図書館にこもりっきりであったがそんなものは例外中の例外だ。
その後、皇室お抱えの家庭教師が顔を見せたので彼女に二人を引き渡し、イスマーアルアッドは祈りを省略して簡単に済ませた後、自身の居室に戻った。
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皇子皇女の中で一番早くに眠るのはメイフォンとアルファ、イルフィの双子である。彼女たちは晩餐のあと湯浴みをし、ほどなくして床に就く。
二番目に早いのはマリストアだ。湯浴みの後、お気に入りの窓際でゆっくり時間をかけて白湯を飲みつつ物思いにふけるのである。ときに彼女直属の召使を捕まえて、少し夜更かしをしてはしゃぐこともあるが、大体翌朝起きることができずに後悔するのでこれはたまにしかやらない。
続いてイスマーアルアッドとニールニーマニーズが日付が変わってしばらくしてからランタンの火を消す。彼ら二人はほとんどの場合、書物を読んだり書きものをしていることが多い。イスマーアルアッドに限って言えば、瞑想に時間を費やすこともある。
そして最後、アイシャが睡魔に負けてぶっ倒れるようにしてようやく眠りにつく。彼女が一番不規則な生活を送っていて、ほとんど召使を部屋に入れないようにしているのは注意されるのを嫌ってのことだった。
今日もアイシャの居室では、魔法陣を前になにやらぶつぶつ言っている姿があった。城の召使も夜番の者を残してほとんど眠りについているような時間帯である。
相も変わらず雑多に物が溢れる部屋の中央。疲労の色が見え始めた顔に何の表情も見せず、一定の間隔で手にした容器から濁った緑色の液を魔法陣に点滴するアイシャ。
まじないには明確な手順があり、寸分の狂いも許されない。少しでも間違うと意図しない効果が表れるか、あるいはまったく機能しなかったりする。全く機能しないのは最悪で、
……完全に時間と材料の無駄使いですぅ。
頬を伝った汗が首筋を通り、胸元に消える。額に浮かぶ汗を拭いもせずに、ひたすらまじないの言葉を唱え、魔法陣を整えていく。
魔法陣というのは複雑に見えるが、得たい効果を起こすための計算式を書いてある部分と、材料を攪拌する部分との二つからなる。攪拌する材料が少ない場合は机の上でも事足りるが、たいていの場合は十数種類の素材を別個に混ぜ合わせたり、混ぜ合わせたもの同士を混ぜ合わせたりと結構な空間を必要とするため基本的には床に直接描くことにしていた。
魔法陣、というのはアイシャが勝手に命名しただけの便宜的な名前に過ぎない。幼いころ母から聞かされた魔法使いの物語。お話の魔法使いが魔法を使うために刻むのが魔法陣で、まじないのための作業場所がなんとなくそう思えて以来、彼女はこれを魔法陣と呼んでいた。
大陸中からかき集められた莫大な書物の中には、まじないについて書かれた本も無数に存在する。そこに記されたまじないの真贋を見極めるのが彼女の趣味である。ほとんどのまじないが偽物であって大体の実験が徒労に終わる上、特に利益が出るわけでもなければむしろ材料費がどんどん消費されるわけで、もはや完全に、これは彼女の趣味であると言っても差し支えなかった。
学院での研究内容もそれに沿った内容であるが、どちらかというと薬学に寄った内容であり、副次的にその研究成果をまじないの研究に流用しているといった方が正しい。
魔法などという荒唐無稽なものがこの世界に存在しないように、アイシャはまじないが存在しないことも知っている。
あるのは、ただの自己暗示だ。だから、こんな草木も寝静まったような時間まで起き、朦朧とした意識の中でまじないの儀式を行う。
まじないに必要なのは、説得力だ。だから、さも効果がありそうな材料を集めて内容もわからない古代語のようなものを唱える。
そして、何かが起こったらまじないのせいにする。そうすることで、どんどんまじないを本物にしていく。
だから、まじないは彼女の趣味であり、趣味でしかありえないのである。
今日用意した魔法陣には、「今自分が一番興味のある事柄についての夢を見させてくれる」という風に内容が刻んである。このまま呪文を唱え続け、強烈な自己暗示を得た状態で眠りにつけば、きっとその通りの夢を見させてくれるであろう。
混濁し始めた脳の隅っこでそんなことを考えながら呪文を唱え続けていくアイシャは、呂律が回らなくなってきたところで魔法陣の完成を宣言し、そのあたりに散らばっていた布を集めて山にすると、それに包まって小さな寝息を立て始め――
――翌朝、偶然嫌な夢を見たマリストアに襲撃されるまで泥のように眠った。
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かつて大英雄アレクサンダグラスは、大陸の東岸から西岸のそのほとんどを征服し、そのことごとくを支配下に置いた。ほとんどの文明、文化が大陸に存在する以上、これは人類史始まって以来初の偉業となる、世界征服、天下統一とも呼べる一大事業である。
大皇帝アレクサンダグラスの大陸征服から十年。二百年続いた戦乱の世は彼によって終止符を打たれ、今大陸には空前絶後の大平和が訪れていた。のちにパックス=アレクサンダリアと歴史書に記されるこの時代は、しかし――――
わずか十年で、その終焉を迎えることになる。
女神の教えの下敷きは儒教思想ですけど、ちょっと突っ込みすぎると完全にそういうお話になるので一旦パスでお願いします。