#1 皇都イスカガンにて
鐘が鳴っている。
皇都に八つある鐘楼のうち、東にあった物を除いた七つの鐘が打ち鳴らされる。
突然の大音に驚いた小鳥たちが薄雲の掛かった空を横切る。
街から色が消えている。白と黒――葬儀の色だ。
「ねえママ、何が始まるの」
「静かにしてなさい」
「だってママ、どうして皆泣いてるの」
「お願いだから良い子にしてて」
「……………………」
「そうよ、良い子ね」
黙祷。
鐘の音。
十字を切る。
真言を唱える。
念仏を唱える。
祈りを捧ぐ。
区域によって、人によって、様々な行動がある。
各々の心情に、宗教に、習慣によって異なるその向き先はすべて一である。
すなわち喪に服す。
建国の父、大陸統一の大英雄、動く山。
アレクサンダグラスの葬儀が、執り行われているのである。
街は沈む。
★
大陸統一国家アレクサンダリアは多民族国家だ。大陸統一により国境という概念が取り払われ、ほとんどの国に他所の民族が流入しつつある今、その都イスカガンも例に漏れず、その様相は、超多民族都市であると言い現わす方が自然かもしれない。
大陸統一の祖アレクサンダグラスの下に、すべて国民は平等でなければならぬ。ありとあらゆる風習は一定の法規の下に尊重され、混在し、偏在し、遍在した。
これにより、矛盾や不都合を擦り合わせ、迅速に解決の糸口を提案する必要性に駆られる。
例えば葬儀。
かつての宗教は、現在は宗派という形でほとんどがほぼそのままの形で残っているのであったが、国を挙げての儀式が行われる場合、その取扱いが問題になることがある。
顕著な例だと、死者の霊魂を狙う悪鬼悪魔を討ち祓うためなど、とにかく派手に執り行う宗派が存在するのに対し、死者の魂が安らかに眠りにつけるよう厳かに、しめやかに執り行う宗派が存在することなどがあげられる。
それ以外にも葬法の違いであったり、詠み、読み上げる言葉の違いであったり、手順の違いであったり、どうしても擦り合わせることのできない事象は必ず出てくる。
故にうまれたのが、人工宗教である女神教だ。既存の宗教のどれにも属さない、新しい宗教としての女神信仰。アレクサンダグラスをはじめとした皇宮の住人たちの公的儀式はすべてこの女神信仰の方式に則って執り行われる。
現在大陸で使われる公用語もこの宗教に根差すものであるとされており、他にもどうしても統一する必要のある問題はこのように統一された何かを生み出すという形で強引に解決されていた。
女神信仰はありとあらゆる信仰を内包する。多神教の宗派であればその中の一柱であるとして。一神教の宗派であれば同一神の別側面であるとして。
方便だ。
断っておかなければならないのは、アレクサンダリア国民がすべてこれが方便であることを承知の上で了解しているということである。
女神についての信仰心なぞ欠片もない、自分の信ずる神こそが絶対であると、本音ではそう思う者も当然少なくはないのだ。だがそれを咎めるものは誰も居ない。あくまで女神信仰は、便宜上生み出された宗教でしかないのである。言うなれば人工の神、機械仕掛けの神だ。
しかし凡そ全てのアレクサンダリア国民について言えることは、皆アレクサンダグラスを尊敬しているという点では信仰を一にしていると、そういうことである。
女神信仰は、アレクサンダグラスに対する信仰と言い換えることもできるかもしれない。
★
「皇帝アレクサンダグラスは、突如としてイスカガンに発生した邪悪なる竜の卑劣な手口により、落命した」
広場に集まった民衆を見下ろして、告げる。
「竜――魔王の手により、無辜の民たちの命も失われてしまった」
声が染み入る。
「城は失われ、街並みも酷い有様になっている」
しかし、
「魔王は討たれた! 大皇帝を弑した悪逆の竜は討ち滅ぼされたのだ!」
★
セラム。
出身は西方ノーヴァノーマニーズ。
向こうの言葉では、「挨拶」という意味を持つ。
イスカガンの西部で花屋を営んでおり、休日は女神協会へ通う。
趣味はイスカガンを散歩することと、小鳥を眺めること。
アレクサンダグラスの葬儀が行われるため、箪笥の奥から引っ張り出してきた黒の三つ揃えに身を包んでいる。首元まで締めた黒のネクタイが窮屈だ。
現在地は皇宮跡地かつ再建地であるイスカガンの中心部。
彼女はズボンの膝が汚れるのも厭わず跪き、両手を組んで瞑目している。
イスマーアルアッドを始めとした皇宮の住民が民衆の視線の先に居り、演説を振るっていた。
敬愛する殿下の死に胸を痛め、魔王の卑劣なやり口に憤慨し、脅威が取り除かれたことに安堵する。そうして第一皇子の演説は推移し、
「彼が魔王を討った英雄だ」
紹介された青年が一歩を前に出す。
セラムが目を開けると、精悍な顔立ちの若い男が口を開くところだった。
「お集まりいただいた皆様! この声が届く皆様! わけあって名乗ることはできないのですが、僕は紛れもない勇者です」
手甲を外した左手の甲が光を放って刻印を浮かび上がらせる。
セラムの知る限り、勇者と言うのは御伽話の住人だ。それも、少年向けの勧善懲悪物語に出てくるような存在である。しかしあの日竜が実際に現れたのだから、勇者が実在してもおかしくはないと彼女は考えた。
遠目に見える彼が勇者なのだ。
苦戦する騎士団たちを助け、魔王を討ち取った正真正銘の英雄である。
★
本来であれば棺を盛大に火葬するのだが、アレクサンダグラスの遺骸は既に皇宮の地下にあるイスカガン王家のものが代々眠る墓地に埋葬されているため、別れを惜しむ声と共に魂送りの儀のみが執り行われた。大皇帝の遺物が納められた棺を同様に焼べるのである。
葬儀は日の出とともに始まり、正午までに終わる。取り急ぎ葬儀が行われたが、今後の国家元首をどうするかなどの諸連絡はまた日を改めて行うとの通達があり、勇者は最後に今後大陸を覆う闇はすべて自分が払うと宣誓した。
大英雄が失われたことに対する悲嘆を抱える者や、家族、友人の死を悼む者たちが三々五々、また己の生活へと戻っていく。
セラムは長い祈りを捧げた後、自分の店へと戻るためにと立ち上がった。
完全に崩壊し、復旧の目途が立たない学院の傍を通り抜け、細い路地をいくつも潜り、一路イスカガンの西へ。魔王戦での被害はほとんどなかったため、一気にいつもと全く変わらぬ風景が彼女を出迎える。
閉店の札を裏返しかけ、思い直してやめた。
自室の寝台に身を投げ、ここ数日で起こったことに対して脳内を整理する。
イスマーアルアッドが説明したことによると、まず、アレクサンダグラスが東洋出身の商人によって暗殺された。下手人はその後イスカガンに現れた竜が化けた姿であり、皇宮を崩壊させ、一度イスマーアルアッド率いる騎士団たちによって確保された。しかしこれも竜の罠であり、取り調べ中、近付いたマリストアを攫って脱出し、キョウに砦を築いて籠城した。この頃、魔王城から投降を促す広告が配られ始め、この広告はセラムも手にしている。
そういえばまだ家のどこかに置いていたような、と思い、屑籠に突っ込んだのを思い出した。ベッド脇の屑籠を覗き込む。
店の屑籠と違い、自室の屑籠はほとんどその役目を果たすことがない。寝る以外に自室で過ごすことがほとんどないからだ。それゆえ屑籠には少量の紙屑が入っており、藤で編まれた底が見えているはずだったのだが。
「うっわなんだこれ」
黒とも紫とも見える塵が底の方に顔を覗かせていた。とても粒子の細かい砂のようにも見える。
恐る恐る触ってみるが、やはりただの砂埃だ。においもない。魔王軍が配布していた広告紙と同じ色をしているので、恐らくそのなれの果てなのだろう。何となく気持ち悪いので、自室の屑籠の中身を店の外のそれに移動させておく。
せっかく立ったので、皺が付く前に着替えることにする。
ネクタイを外しながら、再び先程のイスマーアルアッドの説明に思いを馳せた。
武勇の噂に尾鰭がつく頃にはその尾鰭を超える武勇を上げていることで有名な武闘姫メイフォンが魔王に排されていたことが、確か魔王軍の配布した広告で判明したのだ。のちに本人の証言で分かるが、この時点では彼女は魔城に囚われの身となっている。
閑話休題。
イスマーアルアッド指揮の下、魔王城へ攻め入った騎士団は、魔物たちの卑劣な作戦に嵌められて大打撃を受けながらも奮闘。ついには魔物の掃討に成功する。
しかし、この時点で疲労困憊の騎士団たちではようやく表れた魔王を相手取るのは絶望的――そう思われた瞬間、勇者が魔王を一刀両断した、とのことである。
出所はわからないが、魔王のほかにもう一頭の竜がいたとか、戦闘中は雨が降っていたのに勇者が現れた瞬間止んだとか、そのような噂も小耳に挟んだ。
部屋着に着替え、寝台に腰かける。
アレクサンダグラスが大陸を統一したのはとうに十年も昔の話だ。大英雄がどうとか大陸統一の父とか言われても、セラムにはピンと来ない。そもそも十年前と言えば物心がつくかつかぬかといった、そういう時期である。
学院の初等課程で必修の建国史くらいでしかアレクサンダグラスの功績を知らぬ。
そうであるがゆえに、あくまで一個人としての命が失われたことは残念に思うし、心が痛むが、これは他の大勢の犠牲者たちに対しても抱いているのと同じ感情でしかない。
人が死んだゆえに悲しい。言葉面は少し乱暴だが、言ってしまえばそれだけである。
……いわゆる大人世代、古くからアレクサンダグラスの活躍を知る者たちがあれほどまでに嘆き悲しむのには理解を示さないというわけでもないが。
今回の事件の顛末を聞き、セラムは思った。
話に聞くよりアレクサンダグラスはあっさり死ぬし、イスマーアルアッドやメイフォンをはじめとした騎士団はそれほど万能ではない。
もしかすると。
皇族たちは、国を背負うには力が足りないのではないか。
では、国を背負うにはどういう人物が適当か?
「――やっぱり勇者じゃないか?」
セラム以外にも、同様の考えを持った者は少なくなかった。
イスカガンの内外を問わずだ。
★
マリストアは勇者が苦手である。
どういうわけか光らないのだ。
一秒でも見つめてしまうと理性が蒸発するので、ほんの一瞬だけ眼帯を取り外して確認するも、やはり使用人たちは体のどこかが光って見える。一か所も光を発さないという者は居ないのだ。
勇者と言えば、見た目こそ普通かつ平均的であるが、明るく社交的で良く気が付き、魔王を一刀両断した実績から当然実力も大いに持ち、人当たりも良く、他人を馬鹿にせず謙虚で、好青年の見本のような大人物である。
しかし。
しかしである。
どうしても、理屈では説明できない気持ち悪さのようなものを感じてしまう。光る部分が見えないからそうなのかもしれないし、そうだから光らないのかもしれない。これの前後がどちらかはわからないが、とにかくマリストアは勇者に対してある種の苦手を覚えている。
「んー、経過は変わらずですね」
「やっぱり目は……」
「はい……残念ながら。経過を観察していきましょう。マリストア、痛みはないですか?」
こちらの左目を覗き込んでいた勇者が言う。
マリストアの髪・瞳の変色や片翼、指先に竜の鱗が生えたことなどはすべて魔王による呪いのせいであると述べたのは勇者である。彼が持つ光の力で魔王の闇による浸食を食い止めることはできたが、治すとなればやはり難しいらしい。
定期的に、というかほぼ毎日、勇者は侍医を伴いマリストアの経過観察と称して部屋に訪れる。
丁度寝起きの一番大事な時間帯だ。すなわち茶を片手に思索に耽るための時間帯。
マリストアが勇者を苦手に思うのは、あるいはこのせいかもしれなかった。
★
午後。
アイシャとニールニーマニーズがマリストアの居る部屋にやって来た。
依然丸太小屋ではあるが、木組みの入れ替えにより今は個室である。部屋は手狭になっているが、これは致し方あるまい。病み上がりである体を気遣ってのことだった。
余談だが、同様に病み上がりであるはずのメイフォンにはマリストアのように個室を与えられるなどの待遇はない。アイシャと同室の女部屋だ。同じく捕らわれた身であるのに、心身ともに無傷なのが納得できない。
「そろそろ元気かい魔術について教えてください」
「調子はどうですかぁ魔法使ったんですよねぇお姉ちゃんにも詳しく」
午前中に勇者がやって来るから茶の時間を午後一番に移したというのに、
……コイツら襲ってやろうかしら。
お見舞いに来たという建前があまりにも適当過ぎる。茶の入った器を寝台横の机に避難させ、眼帯に手を掛けたがぎりぎりで思い留まった。
「あのねえ貴方達、私は病人なのよ? ……病人よね? と、とにかく、さすがに迷惑だとか思わないわけ?」
「僕の中の探求心がずっと魔術について知りたいと囁くんだ……どうしようもなかった」
「一応しばらくは安静にさせてあげようと思いましてぇ、なんとか一週間は我慢したんですよぉ」
聞けば、二人の間で抜け駆けを禁止する合意が結ばれていたらしい。
確かに予後の調子はだんだん良くなってきて、ようやく本調子を取り戻しつつある時間帯ではあるのだが、
……また体調崩しそうだわ。
それに、
「魔法がどうこう言われたって、私は魔王に連れ去られた時もほとんど気を失っていたし、これだってただの魔王の呪いなのよ」
眼帯を押さえながら告げる。
いまだしばらく間に合わせの眼帯をつけ続けることになりそうだが、余裕ができればそのうち、可愛らしい見た目の眼帯を職人が制作してくれる手筈になっている。
「またまたご謙遜を! マリストア様、どうか卑賤なるわたくしめに魔術の片鱗でもよいのでご教授願いたく!」
「どうかお願いしますぅ」
「……………………」
「偉大なるマリストア様、その叡智の一欠けでも十分でございますのでどうか! この通り!」
「どーかお願いしますぅ」
「…………わ、わかったわよ。そこまで言うのなら、す、少しだけね? 少しだけだからね!?」
平身低頭する二人に気を良くしてついついそんなことを言ってしまうが、まあ見たことをそのまま伝えれば満足してくれるだろう。
うまく二人に乗せられたと気付くのは一瞬後で、ほんの一瞬だけを条件に黒く染まった左目を開帳することになっていた。
勇者に聞いてものらりくらりと交わされて、何も有益な情報を得られなかったのだと言う姉と弟に、言ってしまった手前止むを得まいと眼帯に手を掛けた。
深呼吸。大丈夫だと自分に言い聞かせる。瞬きにも満たないほんの一瞬の間である。
少しだけ眼帯をめくる。
食い入るように見つめる姉と弟が生唾を飲み込む音が聞こえてくるようだった。
その瞬間である。
「こらアイシャ、ニールニーマニーズ。マリストアは病み上がりなんだから、騒ぐのはやめなさい」
イスマーアルアッドが入室し、姉と弟を引きずって去った。
「イスマーアルアッド! ねえちょっと! 悪かったって、悪かったから首根っこは――」
「こうやって移動できれば楽かもしれませんねぇ――」
声が遠ざかっていく。
再び眼帯を装着し直したマリストアは、しかし、もはやそれどころではなかった。
先程一瞬だけ見えたイスマーアルアッド。彼の体も、
……光る箇所がなかったわよね?
うちの宗派だと葬式にシンバルが来ます。鈸って言うらしいですよ。