#21 雨乞の儀式
イスカガン皇都の崩壊具合から察するに火を見るより明らかだったが、中間報告で上がってくる行方・生死不明者及び死者の数はやはり相当な数が計上されていた。
当然、常備ではない騎士見込み市民の中にもその被害の爪痕は食い込んでしまっている。
結果、短い召集の期間で集めることのできた騎士団の数は――
「やっぱり思ってたよりも少ないですねぇ」
常備軍は七百ほとんど丸々健在だが、呼びかけに応じ馳せ参じた市民兵の数は二千を超えないくらいだ。
行方・生死不明の者や、家族などと一緒に避難している者、そもそも呼びかけの声が届いていない者などもいると考えると、これでも集まったほうだろうとイスマーアルアッドは言った。
現在地はイスカガン皇宮跡地。魔王の提示した降伏期限の最終日、時刻は夜明け前だ。皇宮から街の東側にかけての廃材を可能な限り整理し、木材は篝火として再利用されている。
制式装備の常備騎士に比べ、集まった非常備騎士の装備は最低限しかなく、アイシャは少し心許ないように感じた。
夜の帳はまだしばらく上がらない。湿り気を帯びた風が時折吹き、服をはためかせた。
篝火に照らされる騎士たちの表情は、硬く、険しい。家を焼け出された者や家族を殺された者もいるだろう。従軍経験はないものの、志願してやって来た者たちも少なくないと聞く。
先程までイスマーアルアッドが演説を振るっていたが、士気のあがった騎士団たちの奇妙に張り詰めた空気がなんとも息苦しい。
アイシャとニールニーマニーズの二人は、後ろの方に控えてその様を眺めているのみである。
結局第二皇子トォルは帰ってこなかった。イスマーアルアッド、メイフォンに次ぐ騎士団大戦力の一人だ。メイフォンほどではないが、武勇伝は枚挙に暇がないと聞く。
聞く――と伝聞であるのは、学院卒業以降ほとんどイスカガンに寄り付かず、大陸を周遊し続けているからである。正直外見や性格の記憶も曖昧である。東洋系だとは聞いているのだが。
イスマーアルアッドを大将に置き、常備軍の凡そ半分で魔王にあたる。残りは魔物の無力化を担う。武器火薬は出し惜しみなく、広場には大量の戦車が並んでいる。
すっかり背の高い障害物が無くなり、イスカガン跡地から見える魔王城は夜間の仄暗闇の中にあって尚、圧倒的に黒い。ありとあらゆる光の反射を許しておらず、まだかなりの距離があるというのに圧が感じられた。
「こういう時何もできないと歯痒いですねぇ……」
「何を言ってるんだ、アイシャには大事な役目があるだろ」
「はぁ、本当にやるんですかぁ」
ちら、と背後に視線をやると大型の櫓が幾つも組まれ、炎が放たれるのを待ちわびていた。ニールニーマニーズの主張にも一定の有用性があるように思われたので、一応用意しているのである。
その着火役にアイシャが任命されたのだ。火付けの巫女――やれることはやるだけやっておこうと、そういう話だった。
「私をはじめ、女神教信者は一定数居る。神の加護を得るというのは大事なことだ、頼んだよ」
イスマーアルアッドが言うので、まあそういうこともあるだろうと引き受けた。南西の方では火を信仰する国もあるようだし、女神教の最高神である女神だって、元を正せば鍛冶の神――転じて炎を司る。
これから焚く火は、雨乞いの儀式的記号であると同時に、宗教的偶像としての聖火でもあり、また、戦火の発端でもあるのだ。
「もうすぐですねぇ」
戦端が開かれるまであと少し。
アイシャが櫓に火を放つと同時に、進軍は開始される手筈になっていた。
★
大陸南東部に広がる大草原を進んでいると、こちらに手を振る姿が見えた。
「ミョルニ、いったん止まるよ」
当然彼女からの返事はないが、気にせず手綱を打って速度を落とし、青年の前に止まる。
剣を携えた若者だった。軽鎧を身に着けた、戦士然とした男である。
「すみません、今は何も聞かずにキョウまで乗せてもらえませんか? 話は道中でしますので」
「キョウ? なんだってそんなところに。……いや、僕たちも丁度向かってたところなんだけれど、なんでも化け物が出たとからしいので――今は近付かない方が良いですよ?」
イスカガンから書状が届いたのはつい昨日の話である。何かある際に毎度届けてくれるのだが、常に移動しているこちらのことをよく捕まえる。それとも、自分が知らないだけで届かない書状も本当は幾つもあるのかもしれないが。
とにかく大陸中央部では今、アレクサンダグラスが暗殺された上に化け物がキョウに巣を作って混乱の坩堝にあるらしい。自分やミョルニはともかく、一般人は近付かない方が賢明だろう。
眼前の青年がいったいなんだってキョウに向かいたいのかは知らないが、危険にわざわざ向かっていくこともあるまい。
「光と闇が表裏一体であるように――」
しかしこちらの親切どこ吹く風、青年は左手の皮手袋を外し、手の甲をこちらに向けた。
ミョルニが珍しく興味を示し、黄色い目を青年に向ける。
「魔王がいるなら、それを討つ勇者もいる――とは思いませんか?」
「――それは」
彼の手の甲には、赤色の複雑な紋様が浮かび上がっていた。痣のようにも見えるが、どことなく意味のある形であるように思える。
どちらにしろ、唯の痣ではない。
が。
「すみません、急いでるので」
頭のおかしい人だったので先を急ぐことにした。
勇者なぞ聞いたことがない。
★
「ガ……っ!」
後頭部から壁に叩きつけられ、続いて背中。肺腑が押され、中の空気がせり上がる。
それだけでは衝撃を殺しきれず、ついには背中の反発が無くなった。
拙いと思って咄嗟に腕を交差してみたが、竜が放った光線は先程までのそれの比ではない。出力が上がっている。ほとんど抵抗もできないまま弾かれ、ついには壁を貫通して吹き飛ばされた。
皮膚が焼け、肉が溶け、骨が焦げる。
なんとか翼を展開し、空中で姿勢を制御して着地。周囲の状況を確認するよりも先に、竜の追撃を避けるために身を前に飛ばす。
自分の背中が突き破った壁の亀裂から、竜が顔を出して突っ込んできた。間一髪のところですれ違うように飛び、竜のすれすれで回避する。腕が無事なら爪でも差し入れたところであったが、生憎のこと使い物にならなかった。
亀裂がある壁面に垂直に着地。手足の爪を食い込ませ、無理やり張り付く力技だ。一瞬の膠着の裡に現状を確認する。どうやら回廊のようだ。小さいが窓があり、外が見える。高い。城のようなところにいたようである。床壁天井、複雑な装飾は一切省かれており、素材は先程から同じ紫紺、闇を煮詰めて作ったかのようなそれ。
流れた血から蒸気が立ち上り、一瞬のうちに再生。竜がこちらに向き直る前に、怪我がすべて回復した。痛みが遅れてやって来た程である――奥歯を噛んで耐えるも、一瞬でその痛みも消えた。
口の中に溜まった血を勿体なく感じて飲み下し、右目を瞑る。竜の体が発光する。だんだんわかって来たのは、この発光箇所が弱点であるらしいということだ。
らしい、というのは攻撃が通りやすいという判断からだ。光らないところは、部位によっては貫手を弾かれる時もある。打撃の効きも悪い。
竜が咆哮をあげる。
とりあえず気合いだと姉が言っていたので、負けじと吠えてみた。
★
時折おどろおどろしい咆哮が魔城から轟く。
進軍開始はいよいよだった。
「皆さぁん!」
鼓笛の音に負けじと声を張り上げる。
自分は宗教的な観点から雨乞いを見たことはないが、おまじない――ひいては呪術を研究する者として、儀式の手順は心得ている。
実際のところ、雨乞いに必要なのは大規模な焚火、それさえあれば良い。じゃあだからと言って火をつけてハイオワリでは駄目――おまじないに必要なのは、説得力だ。心の底から信じてくれなくても良い、それとない凄味のようなものを感じてくれればそれでよろしい。
誰も直接的に言いはしないが、雨乞いの儀式はほとんど必勝祈願の儀式にすり替わってしまっている。心の底から雨が降ると信じてやまない者は鼻息荒く手順の再確認をしているニールニーマニーズのみだった。
「――今から雨乞いの儀式を始めまぁす!」
焼け出されてしまったので、衣装は普段着だが。
まずは盥から柄杓で水を掬い、手や足など、体の中心から遠いところから順番に掛けていく。
……急に冷水なんて浴びたら心臓止まっちゃいますからねぇ。
そうして肩まで浴び終わった時に、
「そういやアイシャ、塩は……?」
「あっ」
盥の横に盛られた塩。本来は盥に一摘みして、水の清めを行うために準備させたものであったが、すっかり失念してしまっていた。弟の指摘を受けて気付き、間抜けな声を発してしまった。
ごく小さな声だったが、こちらが一瞬動きを止めてしまったことに加えてかなりの数の騎士が不安を表情に滲ませるのが見える。我が弟ながら余計なことを言った。黙っていれば自分含め誰も気づかなかったのに。
ともあれ失敗は誰にでもあるので仕方ない。どうしたものかと一瞬考え、
「東洋には盛り塩という儀礼がありましてぇ、魔を祓う力がありますので、こうして盥の横に盛っておいたのですよぅ」
だからこの水は聖水。本当は奇跡的に焼け残った井戸から汲んだだけのただの水だが、聖水。傍から見たらわからないし大丈夫。のはず。
騎士団たちの表情からあからさまに不安が消える。概ね問題なし。儀式を次に進める。
一般的に知られている雨乞いの儀式というのはおよそ三種類に大別される。人身御供、川や海の水を汚す、火を焚く。ニールニーマニーズの理論に則るなら真に効果があるのは唯一焚火のみで、今回もそれが主だが、駄目押しですべてやっておく手筈になっている。
川や海はこの場にないので、盥に残った水で代用だ。
足元に転がっていた土を手で掬い、水を濁す。やってから気付いたが絵面が地味だったので、盥を思い切り蹴飛ばし水をすべて地面に流した。
「これだけやれば水神様の怒りも買えると思いますぅ」
前列の方の者たちに結構かかってしまった気もするが、
「今水が掛かった者は人身御供として神に捧げましたぁ。ハイ」
ちょっと楽しくなってきたので盛ってある塩を摘まみ、
「今水が掛かった人たち、出てきてくださぁい」
★
ニールニーマニーズは、姉がだんだん悪巫山戯を始めていることに気付いていた。
……良い空気吸ってるなあ。
確実に楽しんでいる。とりあえず一般人的感性の持ち主として自分は甘引いておく。
そんなアイシャの前に、十人ほどの騎士が出てきた。全員常備騎士団の面々だ。
その中の一人が口を開く。
「人身御供って……私たちは死んでしまうのでしょうか?」
「いいえぇ、死んでしまいませんよぅ。死なない様に処置しますねぇ」
姉が騎士たちを横一列に並ばせ、掴んだ塩をぶちまけた。
ほとんどの騎士の顔面に塩が炸裂する。
「な、なにをするんですか!」
「目が、目が!」
悶絶する騎士たちを前にアイシャは悪びれた様子もなく彼らの前に跪き、
「良いですかぁ皆さん。私が汚した聖水を浴びた者は、人身御供として神の怒りを買いましたぁ。このままでは必ず神の降らす雨によって死んでしまいますねぇ」
大仰な手ぶりも混じえ、姉が訥々と語りかける。知らぬ間に鼓笛も止まっていた。アイシャが即興で適当に儀式を信仰するものだから、用意した曲をすべて演奏し終えたらしい。
前に出た騎士の中で、特に敬虔な女神信者の頬に手を添え、アイシャは微笑む。
「でも、死は魔に通じますよねぇ?」
「え……っと」
「その通り、通じますよねぇ。じゃあ今私が皆さんに掛けたものは何ですかぁ」
魔を祓う塩――察した騎士たちが息を呑むのを、ニールニーマニーズは冷めた気持ちで眺めていた。騎士たちも騎士たちでなんでありがたみを感じた表情を浮かべてるんだよ。
発端はニールニーマニーズが聖水の塩の入れ忘れを指摘したことであるが、既に自分に都合の悪いことは頭から締め出してある。
「良いですかぁ、塩は聖灰に通じますのでぇ、私の塩を受けたものは此度の戦で魔を討ち祓い、幸運の加護を受けることができるんですよぅ」
よくもまあ口が回る。ニールニーマニーズは甘引きしたが、よくよく考えれば彼女の言うおまじないというものは、自他ともにどれだけ暗示を掛けられるか――が肝であるらしいから、アレも姉の術中なのかもしれないと思うと感心もする。
アイシャは塩を受けた騎士たちを下がらせ、塩を盛った皿を持ち上げると騎士団たちの整列の間に割って入り、塩をばらまき始めた。
「押さないでくださいよぅ、順番に全員に回りますからねぇ」
……いやあのアイシャ、僕の考えた作戦は? 焚火は?
塩をまき終わったアイシャが少し息を切らせながら帰ってきて、塵でも放るかのように等閑に種火を櫓に放り投げたが、すでに意気の上がりまくった騎士たちは大して気にも留めなかった。鬨の声があちらこちらで上がっている。
いつの間にか戦車に乗っていたイスマーアルアッドが叫んだ。
「進軍するぞ! 女神の加護は我らにある!」
戦端の火蓋は切って落とされたのだ。騎士団たちが、隊列を組んで進軍していく。
「ふぅ。良い仕事しましたねぇ」
「まあもう、士気が上がったならそれでよかったんじゃないかなって……僕は思うことにするよ……」
勇者の言い伝えとかは特にないです。