#19 彼女の覚醒
マリストアが拾い上げたそれは、何の変哲もない硬貨であった。
西方で広く流通している意匠。聖人の顔が刻まれている。
銅貨だ。
一体どこでこんなものを拾ったのか?
記憶を掘り返してみるもまるで心当たりがない。そもそも日常生活において、硬貨を持ち歩く習慣がないのである。
しかしいくら見てもただの硬貨だ。磔状態のまま再び寝息を立て始めた姉の意見を仰いだところで「硬貨だ」以外の意見を述べなさそうだったので、一旦硬貨の処分については保留しておく。
……それにしても、よくこんな磔状態で寝れるわねこの姉……!
しかも尋常じゃなく寝つきが良い。竜の倒し方について嬉々として語り始めたメイフォンに対して、横倒しのまま生返事を繰り返していたら「眠い」と一言だけ言って急に寝たのだ。
「動物的過ぎるわ……」
本能で生き過ぎている。
とりあえず硬貨のことは保留にしたので、ここから脱出する術を探すことにする。体を起こし、改めて自分の状態を確認した。
視界に入るので薄々気付いてはいたが、髪が変な色に染まっている。赤は血の色であるとして、黒だ。煤けたとか汚れが付いたとかそういう黒ではない。緑の黒髪。東方出身の人間は地毛が黒いが、それとよく似た色をしている。実は自慢であった黄金の髪が、半ばから毛先にかけて黒色になっていることには少しの遺憾を覚える。
それから、背中の左側から生えているらしき黒い翼。翼以外に形容できる言葉がない。よくよく確かめてみると、腰骨の辺りから生えているらしかった。ある程度自分の意思で動かすことができるが、どうも怪我をしているようで動かすと痛みがある。
痛覚まであるのである。いよいよもって自身の体の一部であると認めないわけにはいかないようだ。
鳥の翼のように羽根が生えているわけではなく、どちらかというと皮膜に近い。体毛も生えておらず、色は黒い。鱗のような肌触りがあるものの、表面は滑らかだ。
髪色の変化と、片翼。それに加えて、全身の打撲や擦り傷など。竜に捕まれ空を飛んだことを考えれば、この程度の怪我で済んだことは幸運であると言えるだろう。
体を動かしてみる。翼が動くときに激痛があるのみで、他に我慢できないほどの痛みはない。
壁に手をつきながら、部屋を一周してみる。やはり窓や扉の類は見当たらない。あるのは石になったかのように微動だにしない竜と、磔にされた姉のみである。暢気なものだ。
自分たちは実際中にいるので、入り口がないということはあり得ないだろう。扉に鍵がかかっているとかならともかくとして、その扉すらないという道理はない。
物事はすべて繋がっているのだから、順番に考えていけば必ず真理には辿り着く――辿り着けるはずだが、いくらなんでも素材がなければ無理だ。
いったいどうしたものか、と何気なく腫れた瞼を擦った時である。
色が変わる。
慌てて瞼を擦っていた手を離すと、見え方が元に戻る。
「……一体」
左目だ。右目を瞑ると見え方が変わる。片目ずつ瞑ったり開いたりして確かめるが、視界を左目だけに絞った時、世界の見え方が変わる。
紫紺の広間は変わらない。片目でも両目でも同じ色をしている。しかし竜とメイフォン――左目のみで見ると、色が違う。具体的には、特定の箇所だけ光って見えるのだ。
竜は目と首筋の一部、尻尾の付け根辺りが光を放っている。
メイフォンの方を見ると、耳と首筋と胸、尻と爪先が発光していた。
どういう基準で光を放っているのかは知らないが、とにかくこれだけはわかる。
美味しそうな部分だ。
★
自分の寝付きの良さについては自信があるし、多少のことで起きないという自負もあった。また、そうであると同時に、身に危険が迫った時に必ず目を覚ますという訓練も行っており、つまるところ、身の危険を感じて目が覚めた。
目を開けたとき、既に生暖かい感触が首筋を這っていた。眠っているときに、接近どころか接触を許すこと自体がこれで初めてである。ほんの僅か体が硬直するが、思考の方は既に今何が起きているのかの整理を始めている。
まず、己を掴んでいる腕がある。二本だ。己の両肩に指が食い込むような強さで握られていた。
「ん……っ」
意識の埒外にある出来事に、今何が起こっているのかの把握が遅れた。
見覚えのある黄金の髪がメイフォンの首元に顔を埋めていた。
端的に言い表すなれば、マリストアが己の首筋に舌を這わせている。
「お、おい、マリストア」
声を掛けると、妹が顔をこちらに向ける。
赤く上気した頬、少し荒い吐息。目は潤み、恍惚とした表情。常から思っていたが、この妹は少し異常なほど見目がよろしい。年齢からは考えられないほど妖艶な美しさに、思わず生唾を嚥下する。
赤い舌から自分の首まで、唾液の橋が架かった。
「ねえメイフォン――貴女、とっても美味しそうだわ」
「ちょ、待て、落ち着けマリストア、そういうのはその、心の通じ合った殿方とだな――」
熱い吐息。
自身の体温が顔面まで急上昇するのを感じる。
マリストアが緩く目を瞑り、顔をこちらに近づけてきた。慌てて顔を逸らすと、彼女の唇がこちらの耳元に触れる。
「ぁ……ん。む」
「ひゃ」
戦に産まれ武に生きるメイフォンにとって、当然ながら耳を食まれた経験などない。
嬌声が自分のものであると遅れて気付き、羞恥心が込み上げた。
ぴちゃぴちゃと下品な水音が耳元で直に聞こえる。淫靡な音だ。全身が自然に強張り、抵抗を見せるが、感じたことのない高揚や快感じみたものが己の体の芯から上って来るのに抗えない。
体を捩るが、首と手足が十字に繋がれているせいで、できることはといえば首を横に振る程度の抵抗のみである。
マリストアの舌が別の生き物であるかのように耳や首筋を這い回る。片手が背筋を撫で、その度に痺れのような甘い感覚が走る。
「ま、マリスト、あ……っ!」
もはや名前を呼ぶくらいが最大限の抵抗だった。
無意識のうちに内腿を擦り合わせていることに気付く。
「はあ……っ! おい、しいわ……」
耳元で囁くような声が淫猥に響く。
「あっ、あっ、待て、待ってマリストア、それ以、上、は……っ!」
昂ぶりが爆発したのを感じると同時、弾けた様に一瞬、脳内が真っ白になる。
そして。
「ああっ、もう我慢できないわ……っ!」
首筋に鋭い痛みを感じるが、襲い来る脱力感や荒れた息がもはやそれを気にならなくさせ、最初は痛みだったものが甘い疼痛のようなものに替わり、次第に疼痛すら快感に変わった。
頤を上に挙げ、今度は先程よりも早く上がってきた快感に抗おうとするもできない。
しばらく悲鳴のような嬌声と水音のみが響いた。
また、そうであるがゆえに二人は、背後の石像のように微動だにしなかった竜がやおら瞼を押し上げたことに気が付かなかった。
竜が吠え声をあげると同時に光線を吐き散らす。マリストアがそちらを振り向くよりも早く光線は直撃し、メイフォンの脇を抜けて壁に叩きつけられた。
まだ全身に力が入らないメイフォンの白い首筋には赤い点が四つ空いていて、時間と共に血が零れ、線になった。
★
キョウがあった場所に城を構えた竜は、自身のことを「魔王」と称し、元々キョウの民であり、いまや異形と化した魔物たちに怪文書を配らせ始めた。
紫色の紙――のようなものに意外にも綺麗な字で綴られる言葉は簡潔に三文。
曰く。
イスカガンの大英雄、アレクサンダグラスを殺した。
イスカガン第一皇女メイフォンを排し、第三皇女マリストアを拉致した。
今から三日以内に投降して魔城まで参じた者の命は奪わない。
と。
★
アレクサンダグラスが暗殺されたという事実をひた隠しにし、遺書の奪還を優先しようという方針は、実のところ、問題の解決を先延ばしにしているだけであるということは承知の上であった。
故に、一度確保した竜が、それをものともせずキョウに魔城を建設した時点で――否、もっと早くに、一番最初にアレクサンダグラスが殺されたという事実を公表しておくべきであった。
遅きに失した、してやられたと暫定議会は臍を噛む。
一番されたくないことをやられた。痛いところを突く。
竜のことを魔王、魔王の手下を魔物と呼ぶことが決まる――
「今のところ、各地で魔物の目撃情報がありますが被害はない模様」
「魔物を見つけて逃げようとした老婆が転びかけた時に、手を取って助けるといった事例も数件報告されております」
「皇室に対する疑問の声もありますが、アレクサンダグラス様が死んだことに対しての悲しみの声の方が今は大きいですね」
「アレクサンダグラス様弑殺に対する憤りは、竜に対する恐怖で方向を変えてこちらへ向く可能性が大いに考えられます」
「至急次期皇帝の即位を――」
マリストアが拉致された翌日の出来事である。一夜明けて、城を構えた魔王が本格的に動き始めたらしく、各所から報告が入って来ている。
イスマーアルアッドを始め、アイシャやニールニーマニーズ、各大臣たちは情報の処理や方針会議に忙殺されていた。
現状、次期皇帝はイスマーアルアッド以外考えられないだろう。そうとなれば早急に戴冠し、魔王を討伐してしまうのが現状考えうる唯一の最善手だった。魔王の討伐失くして、国民の混乱、困惑、信頼などの回復は見込めない。
割と初期から進められている議題、実際問題魔王はどうやって倒すのか――その議論は今、
「幸いなことに騎士団はほとんど無傷で残っている。数こそ強さ、総力戦だ」
イスカガン人口八万のうち、常備軍は百分の一にも満たない七百人と少し程度だが、実に十分の一は騎士団従事経験ありで、純粋に戦力としては八千人ほどが計上できる。
対する魔王軍の戦力――キョウの村人が魔物に変えられているとの報告があるが、それが事実であるならば多く見積もっても五百人程度だ。単純に人間同士の戦闘であると考えると八千対五百は足を掬われなければ必勝の戦力差である。
懸念は魔物一人、否、一体当たりの強さだ。魔王の手下と化したとはいえ、魔物は元々キョウの民である。できれば殺生は避けたいところ――単純な無力化は殺すよりも難しい。
言うなれば、キョウの民を人質に取られているようなものだ。しかも人質はこちらを攻撃してくる上に、一対一の戦力では向こうの方が圧倒的に強いと来ている。
常備騎士から十数人の精鋭を選んで調査に赴かせたところ、五人いれば一体の魔物は無力化できるとのことだったので――指揮や錬度の問題から、その三倍。常備軍ではない兵を十五人で一体の魔物にあてがうことができた場合計算上はほぼ五百を相手取ることができる。
魔王の相手は訓練錬度の低い者では務まらぬことは必定であるから、常備軍のほとんどで相手取ることになる。
数字的問題はこれで解決した。
魔物の姿は二足で歩く蜥蜴といったところで、今のところ空を飛ぶところは目撃されていない。
問題は魔王だ。こいつが飛ぶ。
イスカガンでの戦闘時は、こちらの攻撃が全く当たらないということが問題になった。鉄砲の数はまだまだ少なく、弩弓や大砲の装備を積んだ戦車では光線の的にされるのみだ。
魔王は、蛇のような体をくねらせ翼もないのに空を飛ぶ。地上戦において、空を飛ぶのはどう考えても優位過ぎた。
魔王をどうやって倒すか――その一点に議論は集中する。
「僕は直接見ていないけれど、要するに敵――魔王は空を飛ぶわけだろ」
「撃ち落とすこともできそうにない。もはや女神頼みだ。お手上げだよ」
イスマーアルアッドがついに弱音のようなものを漏らすに至る。
空を飛ぶ敵なぞ想定したことがない。いきなり放り出され、処理することが多すぎるのだ――その場にいる騎士や大臣たちからの視線は同情が色濃い。彼らも必死に案を出してはいるものの、八方塞がりも良いところであった。
机に肘をつき、眼前で組んだ両手に額を預けるような姿勢をとったイスマーアルアッドを一瞬だけ見つめたニールニーマニーズが、その時突然哄笑をあげる。
すわ気でも狂ったかとその場にいた者たちが皆、彼に目線を向けた。ひとしきり大笑いした後、彼は目尻の涙を拭ってこう言った。
「神頼みだよ。魔王を地に引きずりおろしてやろうじゃないか! ククク……!」
……どうしましょう、本当に弟の気が触れてしまいましたよぅ?
★
いよいよ彼の描いた青写真は実を結びつつあった。
精々あがけ、奮戦しろ――死力を尽くして尚も敵わぬ相手として、魔王は君臨する。
彼の用意した舞台に今、役者が揃いつつある。途中不測の事態は幾つもあったが、自分は神ではない。万難を排することなぞこの世に生きとし生けるものたちすべてにおいて不可能である。不測の事態が起きうることはそもそも織り込み済みで、柔軟に対応できるように動いてきた。
あともう少しで、計画の第一段階は完遂される。
彼は大振りな直剣に曇り一つないことを確認すると、腰に佩いた。
動きやすさを重視した軽鎧だが、戦装束である。固めるよりも、機動力のある方が好みだ。
――さて。
「雌伏の時だ」
三日間の猶予は与えた。これは、人間と魔物の戦――その氷山の一角に過ぎない。簡単にやられすぎても、それはそれで都合が悪いのである。
途中までは善戦――そうでなければならない。
そして。
そのようになった。
エロ魔眼、覚醒。
※プロローグ読み返したらイスカガンの人口を「八千万人」にしてたんですけど、「八万人」の間違いです。八千人か八万人か迷って消し忘れていたみたいです。(2018,3/11)