#10 平和の世界
最後の最後まで図書館に軟禁してくれと懇願したが、無情にもこの要望は通らなかった。
自身の居室に引きこもり、少なくとも商人が捕まるまでは何があるかわからないので外出しないこと。ニールニーマニーズにとっての最悪は、「警護のし易さを考え他の皇族と一緒の部屋に軟禁」だったので、それを回避できただけでもおおむね良しである。
イスマーアルアッドがそのことに気付いて言い出さないとも限らなかったので、殊更図書館への軟禁を主張して彼の思考を邪魔した。そのため図書館軟禁の意見を通す気はほとんどなく、まあ万が一通ればそれはそれで幸運だくらいに思っていた。
実際のところ、いつこのようなことがあっても良いようにニールニーマニーズは己の居城に私蔵の図書館を併設させていた。皇宮を囲む超巨大図書館ほどではないが、一か月くらいであればこの私設図書館でも平気である。
一応居室に軟禁という形にはなっているものの、長兄の意識が皇族共同生活に向かぬよう攪乱傍ら、自分の居城内くらいであればと許可を得ておくなどその点も抜かりない。
ゆえにニールニーマニーズは他の兄姉たちとは違い、有意義な軟禁生活を送っているという自負があった。
とはいえ普段とやっていることに変わりはない。学院に行くか行かないか、大図書館に行くか行かないかの話である。居城引きこもり生活が決まったその日の夜から、彼は自分の居城併設の図書館で寝食を行っていた。採光用の大きな窓の傍で椅子に揺られながら書物を紐解く。母方のまだ見ぬ祖国、ノーヴァノーマニーズから取り寄せた研究書だ。中身はごくごく初歩的なもので、最近新たに発見された鉱石の研究について簡略に記されている。
彼は己が若くして大変勉強ができるということを自覚している。特に、まだ若いということをよく理解しているため、自分の専門分野以外の知識も広く浅く、貪欲にさまざまな分野の研究書を読み漁るための時間を好んで取る。要は焦りがないのだ。他の研究者と比較して、まだまだ自分には膨大なる知識を収集するための時間がある。
気になったところに付箋を貼りつつ、時折紙切れに筆記具を走らせながらニールニーマニーズは書物を読み進めていく。彼はじっくりと時間をかけて本を読むことにしている。速読など意味がないのだ。筆者の意図、文意の精査、記された事項の正誤確認などしつつ、読んだ本の内容はすべて自分の血肉とする。
……そもそも文章というものは不完全な情報伝達媒体だ。いや、この世に完全な伝達方法など存在しないとすら言える。
情報の発信者が伝えたいことをそっくりそのまま情報の受信者に送り付けるということを可能にするためには、たとえば同じことがらを扱うとして、その事柄に対する考えのとっかかり、思考の展開のクセ、結論を導くための、誤ったやり方をも含むありとあらゆる過程、その他すべてが包摂された状態でないとならない。そのためには発信者が生まれ育った環境であるとか、人格形成に大きな影響を与えた本であるとか、そういったものすら、およそ関係ないとすら思える何もかもをすべて吸収する必要があり、その上でようやく発信者が伝えたい事実のまるまるすべてを理解したことになる。
筆者が前提として有意識的にしろ無意識的にしろ省く事柄をも把握する必要があるということだ。
理論的にはこれだけやれば発信者が伝えたいことを十割そのまま受け取ることができるわけだが、そんなことは実際不可能である。これはニールニーマニーズのよくする思考実験の一つで、手元に書物がなく、どうしても手持無沙汰なときに脳内の議題に上がるものだった。
彼は幼いころから勉強ができたが、何も特別な、それこそアレクサンダグラス王家直伝の勉強法があったとかそういうわけではない。ただ、己が受け取る話の「なぜ」を突き詰め続けるクセがあっただけである。
……筆者の意図が十割伝わることはなくとも、限りなくそれに近づけることは不可能じゃない。
傍目からはひどくのんびりに見える調子で頁をめくり、文字列を目で追っていく。
ふと、窓の外を何かが横切った。横目で、かつ一瞬の出来事だったので、はじめは何とも思わなかった。わずかだけ窓辺に向いた意識が、鳥が飛んだ程度に解釈をつけて再び文字を追うことに戻り、少しして、
「えっ、人?」
鳥にしては明らかに大きな影が飛んでいったことに到達する。明らかに滑空というよりは落下といった様相であった。
幽霊の正体見たり枯れ尾花――だなんて言葉もある。複数の烏かなにかが群れて飛んだのを見間違えたのだろう。
などと考えつつも、体は窓に向かい、錠を回して押し開ける。居城図書館の窓の外は二、三歩幅ほど床がそのまま張り出しており、そこに体を乗り出して下を覗く。
誰も居ない。
当然だ。
ニールニーマニーズは再び書を読み解く作業に戻った。
★
路地の死角になっているところから、突然商人が飛び出した。
彼は商人がこちらにものすごい勢いで向かってきていることに気が付いていたので、人目のつかない路地裏に移動していた。
「どぉした、郵便配達すらできない無能かお前は」
「主殿、アレクサンダグラスはまだ生きております」
「……いいか、俺は冗談は嫌いなんだ。優秀な王たる俺にとっちゃあ人材は当然大事にするべきだが、くだらない冗談に付き合うほど王は暇じゃねえ」
木製の棘を商人に向けて、彼は言う。
「人材は当然大事だが、役に立たねえコマはただのゴミだな? そうだろ。で? お前にもう一回発言の機会をやる、アレクサンダグラスがなんだって?」
「マリストアとその召使が話しているのを確かにこの耳にしました。アレクサンダグラスが生きていると――確かにそう言ったのです」
沈黙。
彼は押し黙り、しばらくして棘を投げ捨てた。
「おい、詳しく話せよ。場所を変えるぞ」
二人が路地裏から姿を消したとき、石畳には深々と突き刺さった木の棘が残るのみだった。
★
イスカガン南西の外れにある歓楽街に彼らは場所を移していた。夜間は不夜街として酒場や色々で活気を見せる場所だが、日中はこうして店の軒先を掃く店主や、買い物に出かける娼妓を稀に見る限りで、店も開いていなければ人通りもほとんどない。
この一角にはアレクサンダグラスが整備した公道以外にほとんど道がない。それがなぜかと言うと元々通用路であった部分にもどんどん酒場や賭場が建て増しされていったからである。
イスカガン南西の一帯は、もともとこの街が小国だった時に国土を持っていた場所で、この歓楽街はまだアレクサンダグラスがただの一騎士でしかなかったころからすでに不眠の街だった。
治安が悪くなる可能性を大きく孕んでいるにもかかわらず、ここら一帯が解体されず当時のまま繁盛しているのは、アレクサンダグラスが旧国イスカガンの街並みを特別に思ってのものであるとも噂される。皇国としてのイスカガンの街並みが、八大国の伝統的な街並みを模して八つに区切られていることがその根拠によく挙げられていた。
イスカガンは、大陸の、すなわち人間世界の縮図なのだ。八大国すべての街並みが並び、文化様式が模倣され、人種が闊歩する。
通用路に建設されまくった店と店の間に、人ひとりが辛うじて通れるだけの隙間がある。そこを進むとすぐに行き止まるのだが、崩れかけの木壁から飛び出した針金をよくよく見ると、あるいは把手に見える者がいるかもしれない。
そしてそれは正しい。
彼が針金を握って軽く捻ると、木壁が開いて階段が現れる。
歓楽街はそれほど広いわけではない。二本の公道の両脇に沿って店が立ち並び、それらを繋いでいた通用路を埋める形でさらに店が並ぶ。建物群としては、公道を間に挟む三つの塊があるということだ。
その真ん中の塊には元々、通用路に面する場所にも所狭しと店が並んでいた。しかし通用路を他の店に埋められてしまったことにより、今はどの通路にも面していない建物と化してしまった。
この階段が誰に作られたのか彼は知らないが、今ここを使う人間がいないことは知っていた。
道と面していない建物。書類上出入り不可能な建物。
すなわち、隠れ家にするにこの上ない場所であり――彼のこの街における本拠地であると、そう言えた。
「ここにゃ誰も来ねえ。落ち着いて何があったかもう一度話せ。アレクサンダグラスが生きてるだなんて、そんなことありえねぇ」
木製の柱と石材、泥を組み合わせた造り。部屋を区切る壁は朽ちてなくなり、少々手広い部屋だった。本来一階に繋がる階段は崩落しており、入り口は南西の窓に取り付けられた階段のみである。少し建築の素養がある者が見れば、否、素人目にでも、いつ崩れてもおかしくない危険な場所であると言うだろう。
彼はところどころ穴が開いている床をまるで気にすることもなく部屋の中央まで行って胡坐をかく。床や壁、天井の一部は崩れているが、意外なことに埃や木屑の類は落ちていない――手入れしているのは彼だ。
商人は一瞬床に空いた穴に視線を送り、入り口代わりになっている窓の桟に腰を落ち着ける。そして、己が主人たる彼と別れてから城を離脱するまでの経緯を詳らかにしていく。
「――というのも、私は以前、マリストア、ニールニーマニーズ、アイシャの三人を見たことがあったのです。とりわけマリストアのことはよく覚えています。大陸中回ってもあれほどの器量良しはいないで――――ッ」
とん、という指で軽く突かれたくらいの衝撃を感じて目を脇腹にやると、木の棘が顔を出していた。
「え、あ? え?」
木の棘が腹から生えた――という事実は認識できるものの、それがどうしてかがわからない。だが、誰がやったのかはわかる。床のささくれを引きはがしただけの細い木の棘で人体を貫く芸当なぞ、当然己が主人の仕業意外にあり得ない。
どうして――? 商人の言葉にならない問いに、不機嫌さを隠すつもりもない彼が答える。
「俺の目の前でアイツら褒めるたぁお前イイ度胸してんなぁ……」
「も、申し、申し訳――」
あとは言葉にならなかった。
彼の怒りの様たるや、膨れ上がっていく怒気のようなものをほとんど幻視するくらいである。商人は髪の毛一本動いただけでも殺されるような錯覚を得、息を止める。
時間にして数秒、商人の体感時間にして数時間にも及ぶような時間が流れ、彼が舌打ちを一つ。
「謝罪なんざ求めてねぇよ、そんなもん無意味だ。悪いことをしたから謝るだなんて、お前謝れば許してもらえると思ってんのかぁ? 俺なら殺す。俺に対して謝る必要性のあることをやらかした時点で殺す」
続けて、
「俺に対して謝罪するってのはな、俺に対して『許せ』っていう命令をしてるのと同義なんだよ。お前いつから俺に命令できるくらいエラクなったんだぁ? あ? おい」
商人はもはや彼――主から目が離せなかった。射竦められたような感覚、もはや指一本すら己の意思で動かすことができない。末端から順番に四肢が痺れを得始めている。
しばらくそんな睨み合いを続けた後、眼前の彼が深く息を吸った後一瞬止め、ゆっくり呼気を吐き出した。
それと同時にようやく商人の肺腑が自身の職務を思い出し、思い切り外気を取り込む。酸欠と四肢の痺れが突然解消される痛みで倒れ伏し、のたうち回る商人。
そんな商人を見下ろすほど近くまでいつの間にやらやって来ていた彼が言う。
「俺も大人げなかったよ、悪ぃな。ちゃんと説明せずにいた俺が悪かったよ。だから次は気ィ付けてな、俺の前では常に皇族どものことは貶せ。せめて褒めるな。アイツらはクソの親玉アレクサンダグラスとこの塵芥のような世界との間に生まれた『描かれた平和の世界』の象徴だからな」
商人は咳き込みのたうち回りながらも、辛うじて頷きを返すのみだった。
「まあいいや、話ィ戻すけどアレクサンダグラスが生きてたんだってな。ああ、無理に返事はしなくていい。落ち着くまで休め。俺が悪かった。ごめんな」
そう言って、彼は入口用窓の桟――先程まで商人が腰かけていたところに座った。商人は依然床で呼吸の往復を行うばかりだ。気にせず言う。
「俺はお前に確かに殺させたよな。きっちりお前を大英雄アレクサンダグラス殺しの下手人に仕立て上げ、指名手配させた。ここまでは上手くいってたよな。そんで次はお前に皇族の誰かを誘拐させるつもりだった。そのために書状を渡したんだよ。お前、間違ってもあの書状開けんなよ。強力な洗脳魔法が入ってんだから」
床に転がる商人の呼吸が少し落ち着き始める。
見ると、朝方渡した書状はしっかり懐に入れているらしい。はだけた上着の内隠しから角を覗かせている。
「お前は俺に捕まったのが運のツキだぁ、それはもう諦めてくれ。その代わり、お前を悪の大王に仕立て上げてやる。世界征服だ。おいしい思いも死ぬほどさせてやる。喜べ一生分先払いだ、だから俺の言うことは絶対に聞け。まあ命令違反を繰り返すなら完全に自我を抹消するのも容易いんだがなぁ――」
商人が必死に頷くのを見下ろしながら、
「そうすっと一から十まで全部俺が指示を出すことになるから疲れる。だからできればやりたくねぇ。お前も人間のままがいいだろ?」
彼は立ち上がると、商人を抱え起こす。
商人の体はまだ痙攣が残っているものの、なんとか呼吸は落ち着き始めているところだった。
「よし、じゃあ行くぞ。お前の覇道はこっから改めて始まるんだよ。もう暗殺だなんて面倒なことはやめて、真正面からド派手に殴り込みだ――」
彼の口端が歪む。
「そのための力をお前に返してやる。いいか、今からお前は竜だ」
わりとマリストアが自由に動いたせいで、当初予定していたストーリー展開から大きくずれてきてしまいました。ただ、第一章のゴールについては当初と変わらないまま突き進んでいます。