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花の散るらむ  作者: あじろ けい
2/6

花の散るらむ 2

“神隠し”という言葉と、自分が神隠しにあったのだということがわかったのは、ずいぶん後になってからだった。

 神社で一緒に花見を楽しんだ男たちは神だったのか。いわれてみれば、男たちはみな、不思議な着物を身にまとって、透き通っていた。桜の精だったのかもしれない ― 郁はそう思うことにした。あれは、桜の精が郁と遊んでくれたのだ。山には満開の桜が咲き乱れていた。

 思春期、郁自身が花ひらく季節をむかえる頃、彼氏ができたの、アイドルに夢中になるだのと周囲が色気づくなか、郁は例の青年をおもっていた。

 一重瞼のきりりとした目元の涼しい美しい人だった。幼心にドキリとした青年に、郁はいつしか恋をしていた。青年は、郁にだけ特別な名前をくれた。辛いことがあると、郁は青年がくれた名前を心でつぶやいた。

 いつか、彼がむかえに来てくれる。そうしたら、またあの夢のような楽しい空間に戻れるのだ―

 やがて高校を卒業し、短大を経て、郁はOLになった。

 その間、恋人がいたこともあったが、青年とくらべてしまい、どうしてもうまくいかなくなってしまう。だが、就職し、仕事が忙しくなると、いつしか青年の面影は郁の記憶から薄れていった。

 その頃になって、郁は懐かしい味に出会った。

 幼いころ、自分が飲んだのは桜ジュースなのだとばかりおもっていた飲み物、桜の香りのする日本酒に再会したのだ。

 酒は二十歳になってから覚え、かつて青年にすすめられた飲み物は日本酒と呼ばれるものだと知った。以来、事あるごとに日本酒を飲み、時には取り寄せたりして、桜の香りのする日本酒をさがし続けた。もしかしたら、あの青年に会えるかもしれないという淡い期待もあった。

 そして思いがけなく、行きつけの酒屋で、求めていた酒に郁は出会った。

 「ちょっとさ、これ飲んでみてよ」

 店主は郁が日本酒好きなのを知っていて、おもしろい酒があるとそう言って勧める。親の代からの酒屋をついで、美人の奥さんはソムリエの資格をもっている。酒屋の主人らしく酒好きで、しっかりものの奥さんがいなかったら店の酒をも飲みつくしかねない。郁は酒を覚え、日本酒に興味をもつようになってから、この酒屋に足しげく通うようになった。顔なじみになった今では、珍しい酒が手に入ると郁に知らせてくれる。

この時も店主は丸い目をさらに丸くさせて、郁に試飲をすすめた。

 コップに顔を近づけるなり、フローラルな香りが鼻をくすぐった。一口含むと、濃厚な今度ははっきりと桜だとわかる甘い香りが鼻腔に広がり、15年前の幼い記憶がよみがえった。

「大将、このお酒……」

「やっぱり、これだったかっ!」

 顔中ひげだらけの大将がガッツポーズを決めた。

「いやね、郁ちゃんが前に、桜の香りの酒がないかって言ってたでしょう。それでさ、ちょっと知り合いに聞いてまわってみたんだよね。そしたらさ、こいつじゃないかって言われてねぇ」

 大将は“桜香”とラベルの貼られた酒瓶をカウンターに置いてみせた。

「N県に桜井という場所があるんだけどね、そこで戦前少し前までつくられていた幻の銘酒なんだってさ。なにしろ、幻でしょ。手に入れるの大変でさぁ」

 “桜香”を手にするまでの大将の苦労話を、郁は聞いていなかった。

 郁は“桜香”を前に、N県の桜井で酒が造られていたという事実に気をとられていた。

 N県の桜井 ― そこは郁の母方の田舎、郁が神隠しにあい、桜ジュースだとおもった酒を初めて飲んだ場所だった。

 祖父母からも母からも、田舎で酒造りを行っていたという話は聞いたことがない。もっとも、戦前までという話だったから、母も知らない話なのかもしれない。

 神隠しにあってからというもの、郁の両親は、母方の田舎への帰省を避けてきた。一緒に遊んだいとこたちとも、もう長い間会っていない。母方の実家と、その田舎について、何も知らないと、郁は今更ながら思い知った。

「…でね、結論いうと、それ、桜井の“桜花”じゃないの。桜井のほうは花の“桜花”といってね、香の“桜香”は、いったら復刻版になるのかな」

「え?」

 郁は自分でも驚くほどの声をあげていた。

「何しろ、幻の酒でしょ? もう造られていないから、手に入らないって言われて諦めてたんだけどさ、同じN県で“桜花”を復活させた人がいるって聞いて、頼んで譲ってもらったの。いやー、本物の“桜花”を飲んだことのある郁ちゃんがこれっておもったんだから、真木くんも嬉しいだろうね」

 郁はあらためて味を確かめようと、コップを傾けた。甘く少し重いような酒を舌の上で転がしてみる。舌先が少ししびれるような感覚があった。甘辛い味わいに、ほんのりとした桜の花の香り。何もかも、あの時飲んだ酒と寸分たがわない。

「大将、このお酒を造った人のこと、もっと教えてもらえます?」

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