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花の散るらむ  作者: あじろ けい
1/6

花の散るらむ 1

 幼い頃、佐倉郁は神隠しにあった。

 小学3年になったばかりの春、郁は祖父の法事で母方の田舎を訪れた。東京から父の運転する車に揺られること数時間、母の実家は桜咲き乱れる山々の懐に抱かれてあった。

 その日、幼いいとこたちとはしゃいでいた郁は、「一番お姉さんなのに」と叱られ、ふてくされて、決してひとりで行くなと言われていた裏山に入っていった。

 満開の山桜に見とれて歩いているうち、郁は道に迷ってしまった。それまで柔らかくふりそそいでいた春の午後の日差しはいつの間にか絶え、足元に夜気が迫っていた。春とはいえ、山間部の夜は冷える。黒のワンピース姿の郁は思わず身震いした。

 このまま帰れなくなったらどうしようという不安な気持ちにかられながら山道を行く郁の前に見覚えのある景色が広がった。朱の褪せた鳥居に大木の桜と傍らの井戸、そこは前日、両親に連れられ花見に来た桜井神社だった。満開の桜の木の下に、数人の花見客が集まって騒いでいる。

迷っているうちにいつのまにか神社にたどりついたらしい。神社から祖母の家までの道なら覚えている。郁の足取りは速まった。

 帰り道を急ぐ郁だったが、ふと神社の花見客が気になった。彼らは、不思議な着物を着て、聞いたことのない音楽を演奏していた。

 少しくらい寄り道しても、神社から祖父母の家まではすぐ近くだからと、郁は花見客のもとへと近寄っていった。

 男ばかりの花見客たちは人懐っこく、郁を手招きして花見の輪に誘った。

「このあたりで見かけぬ子だが、里のものか?」

 花見客のなかで一番若い青年が郁にたずねた。

「おばあちゃんちに遊びにきているの」

 青年は郁を気に入ったらしく、茣蓙に広げた料理をしきりとすすめ、自分は飲み物ばかりを飲んでいた。

 青年の衣装もそうだが、食べ物もまた少し変わっていた。

 おにぎりや卵焼き、ウィンナーといった弁当につきものの食べ物がまったく見当たらない。竹の皮に盛られた山菜のようなものは、茎をかみちぎると苦味と甘みがひろがった。大好きな唐揚げが恋しくなった郁だが、昼過ぎに山に入ったきり何も食べていなかったせいで、すすめられるままに料理をたいらげた。

 食べてばかりの郁は、青年が喉を鳴らして飲む透明な飲み物が気になった。

「それ、おいしいの?」

 青年はほんのり赤らんだ目元をゆるませて微笑んだ。

「飲んでみるか?」

 透明な液体がとくとくと、郁の両手のなかに包まれた杯の中に注がれていった。顔を近づけると、ほんのり花の香りがした。

「いいにおい」

「桜の花でつくったのだ。さあ、飲んでごらん」

 郁は舌先を尖らせ、おそるおそる杯の水面を舐めた。たちまちしびれるような感覚が体中をめぐる。

「さあ」

 青年にうながされ、郁は杯を一気に飲み干した。とたんに桜の香りが口の中にひろがる。味は桜漬けのように甘しょっぱい。

「おいしい!」

 たまらず郁が声をあげると、青年は笑顔でふたたび不思議な飲み物を杯にそそいだ。

「ひといきに飲んではならぬ。ゆっくりと味わって飲むのだ」

 郁は今度は青年の真似をして、液体を少しずつ口に含んでは舌先で転がすようにして喉元をくぐらせていった。

 その不思議な飲み物は、日本酒と呼ばれるものだと郁は後で知った。

 飲んで食べて歌って騒いで…花見客は青年のほかに4人の男がいた。他の男たちは青年より年がいっていて、なかには郁の父親ほどの年のものもいる。みんな楽しい人たちで、郁には優しかった。

 どんなに騒いでも何も言われない。青年は優しいし、ほかの人たちもおもしろい人たちばかりだ。郁はずっとここにいたいと思った。すると郁の心を読んだかのように青年は

「ずっとここにいたいか?」

 とたずねた。

 郁は迷わず、うんとうなずいた。

 青年は桜の香りのように甘い笑顔を浮かべ、郁の頭をなでた。心地よい眠りにおちいりそうになる中、郁は自分の名前を呼ぶ声を聞いた。遠くで誰かが自分を呼んでいる。あの声は…父と母だ。いなくなった自分を探しているのだ。郁は急に両親が恋しくなった。

「うちに帰る」

 ひきずられるような眠気をさまそうと、郁は必死にまぶたをこすった。青年はさびしそうな顔をした。

「仕方あるまい。それでは、今はそなたに名を授けるだけとしよう」

 青年は郁の耳元に口を寄せ、“名前”を囁いた。

 甘い桜の香りの吐息が首筋にかかり、郁はくすぐったいと身をよじらせた。

「いつか、そなたをむかえにまいる。この名を呼ばれたらきっとこたえるように」

 青年の目が冷たく光っていた。郁は急に怖くなり、青年を振り切るようにして神社の階段をかけおりていった。

 山をおりて少しばかり畑を歩いていった先が祖母の家だった。郁はかけあしで祖母の家を目指した。

 引き戸を開け、中に声をかけたが、返事はない。日が沈んだばかりだというのに家に誰もいないのだろうかと不思議におもっていると、祖母が帰ってきた。

 郁の顔をみるなり、祖母は泣き崩れた。

 山は来た時と同じ、桜色に染まっていた。1時間ばかり山にいたと郁は思っていたが、実は1年の月日が流れていた。

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