2話 イチローの少年時代
地元の公立高校に入学した葛 一郎。
もちろん彼女はいない。
ついでに幼馴染み、友人と言える存在も一切ない。
その原因は、幼いころに手に入れたメガネだった。
【十年前】
「あああーーーっ!!」
黒ブチのメガネをかけたイチロー少年が走っている。
涙と鼻水、ヨダレを垂れ流し、必死に何かから逃げていた。
少年を追いかけるのは、少年よりもひとまわり大きな犬だった。茶色い毛並みは健康そうな艶をもち、逃げるイチローに狩猟犬の本能を掻き立てられていた。
金持ちの家の番犬が、飼い主が目を離した隙に門の隙間から外にでてしまい、ひとり下校中のイチローと鉢合わせしてしまったのだ。
イチローにとっては初めて見る大型犬だった。
とっさに逃げ出してしまい、犬は追いかけてしまった。
犬にしてみれば、特に追いかける理由もなく、まして食ってやろうなどと考えているわけでもないが、イチローにとってはただ生命の危機を感じながらの全力疾走だった。
路地を曲がり植木鉢を蹴飛ばしながら走り続けたが、何かにつまづき、勢いよく転んでしまった。
その拍子に黒ブチのメガネも落としてしまう。
「あわわっ、、メガネ、めがね、、、」
伝説の漫才師よろしく、両手でメガネを探す仕草をしてみるが、それらしきものは掴めない。
メガネが無いと全てがぼんやりに包まれてしまう。犬の姿も茶色の固まりにしか見えない。
「おいおい、俺んちの前でわーわー騒ぐなや」
イチローのぼんやりした視界の中に、黒っぽい固まりが現れた。大きさや声の感じから、自分より大人の人物だとはなんとなくわかった。しかし次の瞬間、
バキンッ
プラスチック様の物体が割れる音。
ああ、いま現れた大人によって、さっき落としたメガネが踏み壊されたな。とイチローは直感した。「あ」と、その人物が小さく呟いたのも聞こえていた。
犬は引き返して行ったようで、だんだん小さくなっていき、曲がり角に消えていった。
「おい、少年」
その男は少年の手をとり立ち上がらせると、ポケットティッシュを差し出した。
「まずその鼻水と涎まみれの顔を拭けよ。男前が台無しだぜ」
「…チーン!」イチローは鼻をかんだ。
「…ありがとうございます。助けていただいて」
「ああ、いいってことよ。それよりアレだ、メガネ、壊しちまったな」
すまなさそうな声で男は言った。表情はよく見えないが、本気ですまないと思っている声だな、とイチローは思った。
「メガネがないと何も見えません」
イチローは正直に言った。
「そうか、そいつは困ったな…おっ、そうだ。お前、ツイてるぜ」
男はポケットを探りながら言った。
「え?」
「さっき完成したばっかりの新型メガネをちょうど持ってた。やるよ」
お菓子でもあげるかのように男は言い、赤ブチの
メガネを差し出した。
なんだか不自然な流れでメガネが出てきたことに、イチローが少し警戒していると、
「ガキが遠慮すんなって。ほれ」
と、半ば強制的にそのメガネをかけさせられた。
「…見える」
イチローの視界が一気にクリアになる。普段かけていたメガネの時よりもよく見える気がした。まるでイチローのために調整されていたかのように。
「どうだ?視力自動調整機能付だからな。よーく見えるはずだ。」
得意気に男は言った。
実際に突然現れたメガネがその本人の視力に合わせた度数にジャストで調整されていることなど有り得ないことだが、イチローは少年だった。そんなことは思い至るはずもなく、普通に受け入れていた。
「ありがとうございます。ほんとにいいんですか?でも知らない人に物をもらっちゃいけないって、おかあさんに教えられて…」
「あーわかった。貸しといてやるよ。新しいの作ったら返してくれりゃいい」
男は黒いTシャツを着ていた。その背中にデザインされていた『甘味』の文字を眺めながら、
(なんて読むんだろう)
とか考えていた。
「おい」
呼ばれてそちらを見ると、男はいつの間にか自転車を用意していた。
「送ってやる。家まで案内しろ。乗れ」
男の後ろに乗り、その腰に手をまわしてしっかりと掴まった。
たまに
「こっち」だの
「左」だのと道を示す以外、全く会話がなかったが、イチローはそんなことは気にならなかった。誰かの自転車の後ろに乗せてもらうなどという経験はなかったし、大人というものにこれだけ近づいたことも、物心ついてから経験していなかったのだ。照れくさいような、嬉しいような、それでいて少し緊張するようなという、複雑な気分を味わっていた。
男も無駄なことは言わなかった。
ただ、
「俺は善蔵。塩安須木 善蔵だ。お前は?」と聞かれ、
イチロー、と答えると
「そうか。イチロー。これをやる」と後ろ手に、一枚の紙を差し出した。
「メガネの説明書だ。読んでおけ。俺の連絡先も書いてある。なんかあったら連絡してこい」
こうして、少し不思議なメガネはイチローのものとなった。