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きみつる

作者: ルルのまま

毎年夏休みに行われる、市内の全部の小学校から生徒達が一同に集まる水泳講習会。

小5の夏、そこで出会った公とみつるの小さな恋から始まる、お話です。

見つめるだけでも精一杯だった。

いや、それどころか見つめることすらも恥ずかしくて堪らず、けれどもそんなもどかしさと間逆にある「彼が好き」だという気持ちが勝るわずかばかりの勇気がある時だけ、三好公は藤原みつるの姿を誰か越しに見ることが出来た。

公が初めて彼を知ったのは、小学校の夏休みに行われた水泳講習会。

街にある全ての小学校高学年が対象の、夏休み中の約一週間だけ行われる伝統の講習会。

蝉時雨が鬱陶しいほどのべたつく夏。

お母さんに腐らないように工夫したお弁当を作ってもらうと、公は仲良しのクラスメイトの「よっち」こと、中山好江を毎朝決まった時間に迎えに行った。

途中の目印となる交通標識辺りで待ち合わせの約束をしていたけれど、時間になっても来ないことがあったので、通い始めてまだ2日目から公は好江を迎えに行くのが当たり前となっていたのだった。

そこそこ勾配がある坂道をゆっくり下っていくと、古い住宅街の隙間から遠めに濃い青の海が見えた。

公達の小学校の他に、中学校で合流する山奥の小さな小学校からの生徒達もやはり、その講習会に参加する為、通勤通学時間よりも僅かに遅い集合時間に、海沿いにある寂れた駅に集まった。

そこから決まった時間の「講習会用」の特別列車が来ると、引率の教師に付き添われきちんと整列した市内の小学校の子供達を乗せ、ぎゅうぎゅう詰めのまま発車した。

6年生の男子が我が物顔で少ない座席に腰掛けてしまうので、5年生の公達は蒸せるほどの暑さの中、約40分ほど我慢したまま、立って乗った。

途中、騒がしさが目立ってくると、引率の先生が「こらぁ~!静かにぃ~!」と生徒達を軽く叱った。

公は汗をかくのが嫌いだった。

というよりも、自分以外の人に汗をかいている顔を見られるのが、殊更に恥ずかしかった。

公の中では「汗をかいている」=「不潔」もしくは、「男子にからかわれる。」ないし、「女子からも嫌われてしまう」と思っていた。

それなのに公はどうしてもその「顔」に汗を大量にかいてしまうのだった。

お年頃に差し掛かってきていた公には、それがさらし者にでもなったかのような辛さだった。

内心、顔に全く汗をかかないよっちが羨ましくてたまらない反面、「神様はなんて不公平なのだ。」とも感じていた。

そんな肉体的にも精神的にも結構キツイ中、唯一の楽しみが合流する山の中の小さな小学校から、この講習会に参加していた藤原みつるを見つめることだった。

みつるは公の小学校にはいないタイプ。

端正な顔立ちとみんなよりも、頭一つ飛びぬけて背が高い彼に公だけではなく、声には出さずとも憧れや片思いする女の子が多かった。

公は自分だけならず、他のみつるを好きだと思われる女子がすぐにわかった。

それは他の女子達の彼に向ける視線や彼を見つめている表情などが、自分とまるでそっくりだったからだった。

鮨詰めの特別列車が動き始めると、それに従って車内よりも僅かばかりひんやりした風が、公達の間をすり抜けていった。

顔中の汗をガーゼのタオルハンカチで拭いながらも、自分にかかるほんのりと涼しい風を逃さずに浴びようした。

その際、公とみつるまでの2~3メートルの間にいる、あちらの小学校とこちらの小学校の生徒が混ざり合う中、一緒にいるよっちや合流したあっこやカワ、あっけにみどと会話を楽しみつつ、彼女達に気づかれないよう誰か越しに時折そっと公はみつるを見つめた。

何度かのうちに一度程度の割合で、ごくごくたまに彼と目が合うことがあった。

すると、それに反応した公はかきたくもない汗を、顔一面にびっしょりかいては真っ赤になるのだった。

故に水泳講習会の会場である、市内でも有名な海水浴場に到着する前に、服の中に着ている大人用の水着も汗に濡れてしまっていたのだった。

子供体型からほんのり胸が膨らんできた公の水着の胸元は、サイズの合わないぶかぶかなパッドが入っていたのだが、講習会前買いに行った際、母に頼んでパッドだけは外してもらっていた。

もう子供用ではきつく、かといって大人用では少々大きすぎる微妙な水着の生地の厚さも、疲れと暑さを助長する材料となっていたのだった。

夏休みの一週間ほどの毎朝、市内の綺麗な砂浜で行われる水泳講習会が例えどんなにきつくしんどくても、公は休むことなく頑張った。

そんな公の頑張りに、公の家族も驚いていた。

「…やぁ…公、珍しく張り切ってるねぇ…そんなに楽しいんだねぇ。水泳講習会…」

いつもとぼけた感じの父も、普段だらしない公にキーキー言っている母も、3つ上の少し気が強い姉も、根を上げることなく朝から出かけ、夕暮れ時によれよれ姿で帰宅してくる公の頑張りに大そう感心していた。

「…あ~、疲れたぁ~…お母さん、今日のご飯何?」

帰ってくるなり母にそう告げる公も、その時ばかりはみつるのことをすっかり忘れてしまっていた。

換えの水着を持っていない為、パートから帰って忙しく家事をしている母は、公が帰宅するとすぐさま洗面所で水着をせっせと手洗いして干してくれた。

公が「本当は自分で洗わなくちゃいけない」と思っていても、慣れない水泳講習会の疲れのせいで気持ちだけになってしまって、後は夕食後にお風呂に入るとばたんきゅーとベッドに転がり込んで眠りこけるのだった。

気を失うように眠る前、公はそれでも自分だけの神様にそっと手を合わせた。

「明日も藤原みつる君に会えますように…」

小学5年生の少女にとって、それはとてつもなく大きな願いごとだった。


一週間の水泳講習会は長いようで、呆気なさもあった。

最終日、公は3級の検定を受けた。

本当は2級を受けられるほど上達していたにも関わらず、公はあえて少し手を抜いて講師の先生の目を欺いた。

一緒のクラスのよっちに「あれっ?キミ、2級受けないの?なんで?泳ぐのすんごい上手なのに…」なんてきょとん顔で尋ねられると、「えっ!あたし、そんな上手じゃないって…3級だって受かるかどうか…」そんな風に謙遜して返していた。

公だって、本当は2級を受けられるだけの実力が自分にあるのを十分知っていた。

けれども、2級の課題である「2キロの遠泳」がどうしても嫌だった。

3級までの足の付く程度の水位のほんのり温かい砂浜での検定とは違い、2キロの遠泳は水温が少し低く、海の色がそこから急に濃い青色に変わっている辺りを、波に負けずに泳ぐ。

講師の先生ががっちりついていてくれるので、足が攣るなどのアクシデントが例えあったとしても、全然心配なぞする必要もないぐらい万全。

それでも公は自分のスキルアップよりも、ぬるい中でのそこそこを選んだ。

それには他にも理由があった。

みつるだ。

姿を見つめるだけでいいみつるもまた、隣の男子のクラスで3級の検定を受けていたから。

2キロの遠泳に参加していては、彼の姿を見るチャンスが少なくなってしまう。

少しでも彼が視界に入る傍にいたい。

違う学校に通っているみつるとは、中学で合流するまで会うチャンスは早々ない。

街へ向かう山奥から出ているバスに乗ったら、もしかして出会うこともあるだろうけれど、小学生の公が親に黙って勝手に街に出かけようなど、まるで頭の中にはなかった。

そんな大胆な冒険ができるほど、公は勇気を持ち合わせてはいなかった。

そして、みつると話してみたいとか、そこまで好きではないというのか、ただ見つめるだけで十分に満足な片思いだった。

漫画のような展開などまるで期待もしていないし、そうなってしまうと逆にどうしたらいいのか混乱してしまいそうなほど、公の気持ちはめんどくさくて複雑だった。

それが小学5年生の公の恋だった。

一週間の集大成とも言える「3級検定」が無事に終わり、一瞬心臓が止まりそうなほど冷たい水のシャワーを浴びた後、公はよっち達女子軍団と共に自分の敷物の上でいつものように水着から着替えをしていた。

その際、お母さんが縫ってくれたおねえちゃんのお下がりでもある、「着替え用のゴムスカート」を頭からすっぽりと被ると、てるてる坊主のような装いになっていた。

その中で回りに見られないよう気をつけながらも、駅に向かう集合時間に間に合うよう急いで着替えなくてはなからなかった。

この一週間、公は上手に慌てることなく着替えられていたのだが、どういう訳か最終日のこの日は体がもたついて上手く動いてくれなかった。

公に自覚はないものの、蓄積された疲れと検定が無事に終わった安堵感のせいだったのは否めなかった。

「…あれっ…あれっ…」

今日は思うように体を綺麗に拭けなかった。

そのせいで足にはややこしい砂が沢山容赦なくくっついて、嫌な感じになっていた。

両手にパンツの端っこを持ち、よろよろと片足で立ち、今まさに履こうという瞬間、公の後ろから突然強い風が吹いてきた。

夏のこの季節特有の突風と呼べるぐらいの風。

うわぁ~!

きゃあ~!

公だけではなく、周りでやっぱり着替えに苦戦している仲間達があちこちから声を出していた。

どたっ!

公はどうしても片足だけでは支えきれなかった為、後ろからの風に押された形で前のめりにすっ転んだ。

いたたたたた。

利き足の右側だけ膝までパンツに足を通したまま転んだ公に追い討ちをかける形で、もう一度強い風が先ほどと同じ方向から吹いてきた。

そのせいで押さえる間もなく、公のゴムスカートがぶわぁっとめくれ上がると、公は尻丸出しになってしまった。

それは一瞬。

ほんの数秒の話。

きゃああああああ~~~!

慌ててスカートで尻を隠すのと同じくらいの速さで、傍でもう着替え済みのよっちがやはり慌てて「うわぁ~!キミ~!」と声をあげながら頭に巻いていたバスタオルを公の尻に急いでかけて隠してくれた。

本当に短い時間。

瞬きほどの間の出来事。

それなのに、公とよっちの叫び声が予想以上に大きかったせいで、周りにいた全員がその場面をばっちり目に焼き付けてしまっていた。

直後のざわめきと心ない笑い声。

時、既に遅し。

次に公がよろよろと立ち上がり、何事もなかったかのようにうつむき加減でパンツを履き終え顔を上げると、そこに顔を真っ赤にしてこちらを凝視しているみつるが立っていた。

公は突然のアクシデントで、誰が悪い訳でもないし、誰を責める訳にもいかない状況を瞬時に把握すると、その場から消え去りたいと思った。

そう思うと我慢していた涙が大声と共に溢れ出した。

「うわあああああああああ~~~~っ!」

公は人目も憚らず大声で泣き出した。

小学5年生の多感な時期に差し掛かる乙女にとって、こんな事態は大変な事件だった。

願わくばここにいる全員の頭の中から、今起きた出来事の記憶を全て消し去りたいと思った。

今すぐにこの場から消えてなくなりたいとも思った。

何より一番恥ずかしくて哀しくて堪らなかったのは、好きになったみつるに見られてしまっていたこと。

これほど耐え難いことなんてあるんだろうか?

公の脳内は真っ白になりつつも、放心状態とパニックでパンクしそうだった。

「泣いたらどうにかなるだろう。」なんて、浅はかな考えは公の中には全く存在しなかった。

泣いたってこの事実は消えない。

だけど、どうしたって勝手に涙は出てしまう。

それが本当のところだった。

「キミ~!大丈夫!大丈夫だからぁ~…」

大声で泣いてしまった公が気の毒で堪らなかった女子達は、すかさず公に駆け寄りできる限り公を慰めてあげた。

ハッと我に返ったかのような講師の先生達と引率の先生達は、「こらぁ~!静かにぃ~!そこ、からかうんじゃない!はい!はい!自分達のことをやりなさい!忘れ物はないですか?トイレは大丈夫ですか?具合悪い人はいませんか?それから自分で出したゴミはきちんと持ち帰ること!汚く使ってると来年からはここを貸していただけなくなりますからねぇ~!いいですかぁ?返事は?」だのと他の学校の生徒達を静かに収めてくれた。

帰りの特別列車内では、行きのざわつきは一切なかった。

公に降りかかった出来事があまりにも衝撃的過ぎた為、誰も言葉を発せずにいた。

6年生の男子生徒が始めのうち少し公のことをからかったが、すぐさま同じ6年生の女子のお姉さま方に囲まれたかと思うと、「あんたさ、いい加減にしなさいよ!」などと公を茶化す輩を、引率の先生が出る前に良い感じに締め上げてくれたのだった。

列車内の全員、公が何だか気の毒で堪らないといった心境だった。

「もしも自分だったら…」そう考えた時、余計にそう思ってしまうのだった。

特別列車を下りてからの道中も、いつも以上にしんどかった。

駅では6年生のお姉さま方が優しく、「気にすんじゃないよ!大丈夫だからね!あたし達がついてるから!」と元気付けてくれた。

引率の先生も「あまり気にしないで。大丈夫ですからね。新学期には笑顔で会いましょうね。では気をつけてお帰りなさい。」と優しく公の頭を撫でてくれた。

いつまでも慰めてくれていたよっちやあっこやカワ、それにあっけとみどと別れた後、公はとぼとぼと歩いて家を目指した。

行きに下っていく道も帰りは上ってばかり。

朝から夕方まで海での水泳と慣れない列車通いだけでなく、最終日の今日は3級に合格したのはいいものの、それを打ち消すほどの衝撃的な事件があったので、公の足取りはいつもよりも余計に重たく苦しいものとなっていた。

家まで残り10分ほどのところで公はふと足を止めた。

もう歩きたくなかった。

けれども、そういう訳にはいかず、かといって家族が迎えに来てくれる訳でもない。

どうしたって自力で家まで辿り着かなくてはならない。

ただ、ちょっとだけ足を止めて休みたかった。

ここで足を止めたら、余計に疲れてしまうのは公だって重々承知しているけれど、それでも今だけはどうしても一旦止まりたかった。

公は肉体的にも精神的にも酷く疲れてしまっていた。

もうこのままここに留まってしまってもいいとすら思い始めるほど、疲れのピークがそこにあった。

ふぅ~!

大きく深呼吸の後、水を含んで行きよりも幾分重くなっている大好きな猫のキャラクターが描いてある透明の水泳バッグを右手で持ったまま、公は赤みがかってきている夕暮れの綺麗な空に向かって大きく一つ伸びをした。

その際、不意に横の通りを一台の市内線バスが通っていった。

終点は公の家の遥か向こうにある山奥の温泉街。

何気なく伸びたままふとバスに目をやると、後ろの窓側の席からこちらをにこにこ見つめてくるみつるの姿が一瞬見えた。

最終日までのここ数日、やっぱりこのぐらいの時間帯にここを通っていた公。

バスが通り過ぎるのを見かけていたけれど、ちゃんと見たのは今日だけ。

まさかそのバスにみつるが乗っているなんて、まるで見当もつかなかった。

けれどもよくよく考えてみれば、みつる達山の奥の温泉街にある小さな小学校の面々は、水泳講習会の後、列車を下りるとまっすぐ家まで歩いて帰る訳ではなかったのだった。

それではあまりにも遠すぎる。

ただでさえ疲れきっているのに、その上大人でも容易に歩いては行けないほどの距離にある温泉街まで、バスに乗って帰るのが当たり前で当然だった。

親がわざわざ迎えに来てくれる子は、公達の小学校の面々でも稀。

ほとんどみんな、自力で帰宅するのだった。

そんな時にあのみつるを見かけた。

通り過ぎるほんの僅かな時間、公はみつると照れることなく見つめあった。

というよりも、ただ「あっ、藤原君?」と思って見ただけ。

信じられない偶然だと思った。

かっこいいみつるの笑顔を誰か越しではなく、きちんと見ることが出来た。

その上、視線が合った。

公は嬉しくて飛び上がりたい気持ちになったが、次の瞬間、講習会での着替え中のハプニングが公の許可なしに勝手に再生された。

そうなると、一旦膨れ上がった喜びが打ち上げ花火の如く、あっという間に萎んで消えた。

今度は嬉しさとは逆に、恥ずかしさと切なさでいっぱいになった。

公はその場で少し佇んで動けなくなった。

もう体中に水分は残っていないと思っていたけれど、いつの間にか公の目から涙がドバドバと流れ出ていた。

「終わっちゃった…」

公はあのことでまだ何も始まってもいないみつるとの関係が、すっかりなくなってしまったと確信した。

彼は笑ってこちらを見ていた。

その笑顔が公には、馬鹿にしているようにしか見えなかった。

本当のところはみつるしかわからないのだが…。


クラスだけではなく、学校の高学年のほとんどが参加していた水泳講習会が終わり、その後すぐのお盆休みも終わると、始業式まで僅かしか残っていなかった。

出された宿題は残り「植物観察絵日記」だけだった。

だが、公の心は憂鬱で仕方がなかった。

「あ~…学校が始まっちゃう…そしたらみんな、絶対にあのこと話すもん…そしたら、またあたし…泣きたくなる…やだなぁ…どっかに行きたい…逃げたい…あたしのこと誰も知らない場所に行きたいなぁ…あっ!そだっ!」

だらだらとベッドに仰向けで天井に貼った男性アイドルのポスターを眺めている時、公は急に思い立ったが吉日とばかりに大きなバッグに荷物を詰め始めた。

ちょっと前のお盆で親戚達が沢山集まった際、おじいちゃんやおばあちゃん、それにおじさんおばさんなどからお年玉とまではいかないものの、結構な額のおこづかいをいただいていた。

公は5月の研修旅行の時に買ってもらった、首から提げるタイプのお気に入りの猫のキャラクターが描かれてある財布にもらった今あるだけの全財産を詰め込んだ。

「明日…行こう!お父さんとお母さんが仕事に行っちゃって、お姉ちゃんが部活に行ったらすぐに出よう!そだ、そうしよう!誰にも言わないで行かなくちゃ!」

公は明日、家出することに決めた。

そうなると、公はなかなか眠れなかった。

夜が明けるのが待ち遠しかった。

こんなわくわくは今まで体験したこともなかった。

だけど、どこへ行こうかまでは決めていないので、とりあえず通い慣れて一人で切符を買って乗れるようになった電車に乗ろうと思った。

行き先は駅についてから考えることにした。


次の日、朝からお日様が燦燦と降り注ぎ、それに付随した形で夏らしい暑さも健在だった。

昨日の計画通り、家族がすっかり出払った後、公は鍵をちゃんとかけて荷物を抱えて家を出た。

社宅の階段で上の階に住んでいる若いお母さんと赤ちゃんに出くわしてしまった。

「あらぁ、きみちゃん!おはよう!随分おっきい荷物だけど…どっか行くの?おばあちゃんとことか?」

まさか「家出です。」とは答えられなかったので、咄嗟に引きつった作り笑顔で「ええ、まぁ、そんなとこです。」なんて、公にしては上手い具合に返事が出来た。

ピンクの可愛いひらひらがついた服を着せてもらっている赤ちゃんとそのお母さんに別れを告げると、公はそそくさと逃げるように早足でその場から離れた。

「急いでるのかねぇ…」

若いお母さんは赤ちゃんにそう話しかけながら、ベビーカーに乗せてあげていた。

「…はぁ~、びっくりしたぁ…」

公は出鼻をくじかれた驚きと、これから家出をしようという後ろめたさで心臓が早鐘を打っていた。

「もう誰にも出くわしませんように…」

心で何度も呪文のように願いながらも、水泳講習会で歩きなれた道をひたすら早足で駅まで急いだ。

無人ではないものの閑散とした駅に入ると、公は早速料金が書かれた路線図を見た。

「…え~と…え~と…どうしよう…どっちに行こうか…」

ぶつぶつと自然に呟いていたらしい公の背中を、誰かがちょんちょんとつついてくるのがわかった。

ちょっとしつこいと思い始めたので、いきなり振り向くとそこには見たことがある顔があった。

笑顔の藤原みつるだった。

「ねぇ、あのさ…君…」

「えっ!えっ?なんで?なんであたしの名前…知ってるの?」

公は驚きのあまり、駅の中にいる全員の視線を一瞬にして集めてしまうほどの大声で、みつるに尋ね返してしまった。

「えっ?あっ、君の名前…キミちゃんって言うんだ…そうなんだぁ」

「へっ?あっ、うん…知らなかったんだぁ…そっか…そだよね…それより、藤原君、なんでここにいるの?」

少しだけ冷静さを取り戻した公は、声のトーンを少し低くしてみつるに尋ねた。

「ああ、そっか…これから電車に乗ろうかと思って…君は…あっ、いや…公ちゃんはこれからどこに行くの?荷物大きいね…泊まりとか?…」

よくよく考えてみると、見つめるだけで精一杯だったみつると、初めてちゃんと話している自分が信じられない公だった。

「あっ…これは…あの…その…何て言いましょうか…」

そこまで話すと公はみつるの傍に近寄ると、周りに聞こえないような小声で「実は…これから家出しようかと思って…」と伝えた。

途中からみつるの顔が近いことに気づいてしまうと、公の顔が急速に赤い色に変化していった。

「えっ!家出っ!」

みつるがびっくりした様子で大声を出すものだから、公は焦ってみつるの背中に手を回し一緒に無理やりしゃがみこんだ。

「しーっ!藤原君、声でっかい!」

咄嗟のこととは言え、公はまたしてもみつるに急接近した自分の大胆さに、驚きと共に「お~!」という歓心でいっぱいになった。

「ごめん、ごめん…そっかぁ…公ちゃん家出するんだぁ…だけど、なんで?もうすぐ学校じゃん!なのに…」

「…だって、水泳講習会のことあるから…学校始まったらみんなそのこと絶対に言ってくるもん!女子達は庇ってくれるけど、男子は絶対にからかってくるに違いないんだもん!6年生の男子とかも、女子とかお姉さま方がいないところで絶対にあたしのこと言いふらしたりするもん!…そんなのやだから…だから…逃げようって…思ったの…恥ずかしいでしょ?だって…あんなことがあったんだもん!」

公はそこまで言うと、みつるの前にも関わらずしくしくと泣き出してしまった。

「ああ、泣かないで、泣かないで…そっかぁ…そうだよねぇ…あれはすごかったもんねぇ…逃げたくもなるかぁ…」

しみじみ呟くみつるの言動に、泣いていた公はすぐに反応した。

「…そんなに…そんなに、すごかった?…」

ぼそぼそした小声でそう尋ねられたので、みつるは真顔で「うん」と答えながらこっくんと頷いた。

「うわあああああああ~~~~!うそぉ~~~っ!もう、学校になんか行けないよぉ~~~~っ!」

堰を切ったように急に大声で泣き出した公を、今度はみつるが慌てて静まるように必死に宥めた。

「まぁまぁ…落ち着いて、落ち着いてって…そだ、急がないんだったらさ…ちょっとベンチに腰掛けた方がいいよ…そうしよう…ここだと他の人の迷惑になるし、話聞かれちゃうしさ…ねっ!そうしよう!気持ちが落ち着くまで、俺、傍についてるからさ…」

公が冷静だったら、このシチュエーションがどんなに夢のようでロマンチックか知れなかった。

今の公には、見つめるだけでドキドキするほど好きなみつるに、こんな風に優しくされている現実がイマイチ理解できていなかった。

受け止めるだけの要領がなかった。

ただ、脳内では「藤原君はあの出来事のこと、すごかったって…すごかったって…」しか考えられなかった。

駅の出入り口にある3人がけの赤いペンキが剥げかけたベンチに腰掛けると、みつるは公の背中を優しく摩ってくれた。

「あっ、ありがとう…藤原君…ごめんなさい、急に泣き出しちゃったりして…ホントにごめんなさい…」

ちょっぴり気持ちが落ち着くと、公はみつるにきちんと謝った。

「あっ、ううん…そんなの気にしないで…それより…よく俺の名前知ってたね…なんで?」

「あっ…それは…その…何て言うか…その…」

不意に意表をつく質問をされた公は、どう返してよいものかしどろもどろになってしまった。

「ごめん…そんなのは別にいいや…そりゃ知ってるか…俺らの学校小さいから…そっちでも有名なんだろ?一人だけでっかくて目立つもんな…名前ぐらい聞かなくても誰かから教えられちゃうか…そうだよなぁ…」

ちょっぴり哀しそうな表情を浮かべたまま、みつるはそこから見える家のすき間の奥から、きらきらと眩しく光っている海を見つめた。

「…あっ、そだ…ちゃんと自己紹介しなくちゃね…あたしね、三好公って言うの…藤原君はみつる君でしょ?えへへへへ…藤原君、かっこいいからこっちの学校の女子達、ほとんど憧れてるんだよ…えへへへへ…それはそうとさ、藤原君、何でここにいるの?偶然だけど、びっくりしちゃったんだぁ、あたし…」

少しだけ声が上ずっているまま、ドキドキと間近でみつるを見つめながら、公は正直な気持ちをそのまま話した。

こんなに間近で見つめるみつるは、鼻筋がすぅっと綺麗なラインを描き、まつ毛が自分よりも長くてびっしり生えていた。

そんなのが公には羨ましい限りだった。

そりゃあ、自分だって幼稚園の頃や小学校低学年の頃は、男子から流行のがちゃがちゃのおまけの消しゴムなどをもらったりした程度はモテた。

だから、自分ではそこそこ可愛いのかなぁとは思っている、少々図々しさを兼ね備えた公だった。

「…そっかぁ…そうなんだぁ…俺、案外モテてたんだぁ…知らなかったなぁ…全然…そっかぁ…えへへへへ」

頭を掻きつつ、顔を真っ赤にして急に照れだしたみつるが、何だかとても「可愛い!」と思ってしまった公だった。

「あっ…話が逸れちゃったけど…実はさ、俺も家出するつもりで出てきたんだぁ…」

みつるが自分と同じ事をしようとしているとわかると、公は更にどきどきしてしまった。

内心、「もしかして…あたしと藤原君って運命の赤い糸で結ばれてたりして…」なんて思った。

「…なんで?どして家出?お家で叱られちゃったとか?」

公はどきどきを隠しつつも、できるだけ冷静にみつるに問いかけた。

「あっ、そういうんじゃないんだぁ…夏休み、残り2日だろ?…俺さ、自分でも信じられないんだけど…宿題一つもやってないんだ…」

「えっ?」

公は目の前にある端正な顔立ちのハンサムの口から、まさか予想だにしない答えが返ってくるとは思いもしなかった。

「う…嘘でしょ?」

みつるは激しく左右に首を振りながら、「ううん。ホント…」と素直に答えた。

「まさか…そんな…漫画に出てくる人じゃあるまいし…」

驚き若干引き気味になっている公の表情を伺うと、みつるは途端に視線を外して遠くを見始めた。

「ホント…だから家出しようって思ったんだ…だけど、やっぱりどっか罪悪感ってのか、まだ間に合うかもしれないって思っちゃったら、荷物にさ、宿題のドリルと漢字の書きとり帳とか持って来ちゃってさ…馬鹿だよな、俺ってさ…こうしている間にとっとと宿題済ませちゃえばいいのにね…」

何故だかちょっぴりかっこつけたように肩を落としつつ語るみつるに、公は今まで勝手に抱いていたみつるに対する自分勝手なイメージがガラガラと音を立てて崩れていくような気がした。

「藤原君、こんな人なんだぁ…」

公は心の中でそう呟くと、僅かながっかり感と共に、何故かみつるへの親近感が沸き始めた。

「かっこいいだけじゃなく、ちょっぴり間抜けっぽい部分もある普通の男子なんだ…なんだ、そっか…そうなんだ…」

ドキドキが薄まってきつつも、公の脳内は忙しく呟いた。

「…よかったらだけど…あたし、手伝おっか?…後2日あるんだし…二人なら結構できると思うんだよね…藤原君が嫌じゃなかったらの話なんだけどね…」

恐る恐る聞く形でみつるに打診してみると、みつるは公の両手を包み込む形でがっちり握手をしてきた。

「ホント!ありがとう!公ちゃん!早速なんだけど、どこでやる?宿題…とりあえず電車に乗ってやる?どうする?」

ぐいぐいと引っ張る形の明るい笑顔で公を真っ直ぐに見つめるみつるに、少しばかり圧倒された公だった。

「…そうだねぇ…それはそうと、藤原君は電車でどこまで行こうとしてたの?」

「あっ、それはさ…俺、そんなにお小遣いなかったから、大して遠くまでは逃げられないんだけど…何せ所持金が570円だから…」

みつるがたったの570円で家出をしようとしていたことが発覚すると、公は更に驚いてしまった。

「ええ~っ!そっ…そんなべっちょじゃ、水泳講習会の海水浴場ぐらいまでしか行けないんじゃない?」

「…えっ!もっと遠くまで行けるよ!大丈夫!帰りのお金はないけどさ…俺、まだ子供だから料金も半額だし…」

「やっ、やっ…そうだけど…でも、途中でジュース買ったり、お腹すいたらパンとか買わなくちゃならないじゃない?そういうお金もとっておかないとさ…」

「そっかぁ、そこまで考えてなかったなぁ…あははははは…俺ってばっかだぁ~…ごめんな、公ちゃん…俺、どこも行けないみたいだなぁ…じゃあ…とりあえず、歩いて見るかなぁ…あ~!自転車に乗ってくれば良かったなぁ~…それだったら、お金そんなに使わなくっても大丈夫なのに…あ~、馬鹿だぁ~!俺~!」

おでこに手をパチンと当てると、心底悔しそうにしているみつる。

公はそんなみつるのお馬鹿加減に呆れると同時に、プッと笑いが込み上げた。

「何だろ?この人…こんなに綺麗な顔してるのに…全然かっこよくないや…あはははは」

声に出さずとも、公は脳内でそんな失礼とも取れる呟きをした。


結局、みつるの所持金が家出をするには少なすぎたこともあり、かといって公がお金を貸したり、出したりするのは絶対にいけないことだとわかっていた二人は、駅の傍にある地元の岩だらけの海岸でみつるの宿題をすることに決めた。

公達が生まれるずっと前からある駅舎の前の寂れた薄暗い商店で、駄菓子だけ買った。

店番のよぼよぼだけど穏やかそうなおばあちゃんは、駄菓子を買った公達に「おまけ」として、売れ残っていたような棒状の茶色くてオブラートに包まれている「キビ団子」を2つくれた。

みつるが小声で「桃太郎みたい…」と呟いた。

「そだね…キビ団子もらっちゃったから、お供しなくちゃ駄目だよね…へへへへ」

公は冗談っぽく返した。

店を出ると、右へ行くか左へ行くか少し迷った。

公は右がいいと思ったが、みつるは左にしようと言った。

そこで道路脇に落ちていたひょろ長い小枝を見つけると、みつるが早速地面に垂直に立てた。

「じゃあ、行くよ!この枝が倒れた方に行く!それでいいね!」

みつるがそう言うと、公は「異議なし」と言わんばかりに口を一文字に結ぶと大きくこくんと頷いた。

「それっ!」

ストン!

小枝は瞬きをするかしないかほどの短い間に、地面にパタンと倒れた。

「あ~…」

神様のいたずらなのか?

小枝は右にも左にも倒れなかった。

海に向かう方角に静かに倒れただけだった。

「…どうする?」

公がみつるの顔を覗きこむように見つめると、みつるはキッとした目で公の方を向き、「枝が指してる方角に行かなくちゃ駄目ってことだから…公ちゃん!行こう!」きっぱりとそれだけ言うとみつるは公の手を掴みぐんぐんと海岸へ向かって歩き始めた。

「えっ?えっ?…ちょっ…ちょっとぉ…藤原君っ!…あのっ…ちょっとぉ~!」

1学期の運動会のフォークダンスで順繰り順繰りと相手が変わった時、男子と手を繋いだけれど、それはただ単に「繋がなくちゃいけなかった。」だけであって、こんな風にドラマチックでロマンチックな形で男子と、しかも好きになっちゃった男子と手を繋げるなんて。

公の心は戸惑いとどきどきが入り混じった、自分ではどうにも処理しきれない気持ちが今にも爆発しそうな勢いだった。

小走りのみつるに着いて行くのがやっとだったけれど、彼のしっかりと前を向く横顔を間近に見つめられる幸せを感じると、公は今の状態がまんざらでもないと感じた。

少しばかり高い目線の先にある防波堤のコンクリートに登る時、不意にみつるが手を放した。

「…公ちゃん!大丈夫かい?ごめんな、手ぇ痛くなかった?」

「…えっ?あっ!…うん、大丈夫…それより、あたし…手ぇ…その…あの…手が…汗で…べた子さんに…」

「さっ!公ちゃん!こんな場所で悪いんだけど、宿題やっちゃおうぜ!」

公が繋いでいた自分の手汗を気にしている間もなく、みつるは一つもやっていない自分の宿題のことしか考えていないらしかった。

「…あっ…そだね…早くとっかからないとね…」

「そうだよ!じゃあさ、俺は漢字の書きとりやるから、公ちゃんは算数の計算ドリルやってもらえるかい?…ごめん、悪いんだけど、字はさ、なるべく俺っぽい字で書いてもらえるかなぁ…ホントにごめんね…じゃあ、はい、宜しくお願いします。」

「えっ?あっ、はい…」

強引な形で手渡された計算ドリルは、公の学校のものと同じだった。

なので、公は自分のドリルの答えを写すだけで良かったはずだったのだが、如何せん、家出の荷物の中にわざわざ終わらせてある夏休みの宿題を持って来ている訳はなかった。

「あっ!…あああああ」

一瞬、脳内に自分の机の上にきっちり重ねて置いてきた宿題のビジョンが浮かんだ。

だが次の瞬間、それらがない現実を突きつけられると、一度は自分で解いたものの、みつるから手渡された真新しいドリルをまた一から解いていかなくてはならないとわかり、公は愕然となり肩を落としてため息をついた。

「あ~…こんなことなら藤原君に出会わなきゃよかったな…家出するって聞いた時、一瞬でも一緒に愛の逃避行とか思っちゃった自分が情けないよ…でも…初めてなのに、こんなにいっぱい喋れた…手も繋いじゃったし…えへへへ…なんか嬉しいなぁ…やっぱり…普段だったら絶対に会えないもんね…中学に行くまで、会えなかったんだもんね…これは偶然かもしれないけど…いいことあったなってことなんだよね…って、それより、早いとこ宿題手伝わなくっちゃ!」

公の心はこの現実に混乱しつつも、なかなかどうして楽しんでいるのだった。

防波堤から見える岩だらけの海は、凪ていた。

時折ドリルから目を離し、遠くの水平線を眺めると、小さく真っ白いフェリーが出向していくのが薄っすら見えた。

ウインドサーフィンやヨットの姿も、微かに見えた。

手前の浅い海では、まだ幼い子供を遊ばせている家族連れや、低学年ぐらいのちびっこが岩の間に隠れているカニを捕まえるのに、割り箸で作った釣竿を大きな石のすき間に器用に差し込んでいる姿があった。

上空からじりじりと夏の太陽が容赦なく照り付けている。

公とみつるの集中力はその熱さに屈する形で、やり始めてまもなく根をあげる結果となった。

「あ~!あっちぃ~!なぁ、公ちゃん、ちょっと休もう!なんか飲まないと俺達倒れちゃうぜ…なっ、そうしよう…それと、どっかさ場所移動しない?やっぱさ、電車に乗らないか?電車で宿題やったら、きっと涼しいと思うんだ…勝手なことばっか言って悪いんだけどさ…」

みつるが案外勝手な人だと思いつつも、公もその方がいいと思った。

その為という訳でもなかったけれど、こうして家出しようと固く決心していたのだから。

「そだね、ここじゃ焼け死んじゃうね…電車で街まで行って、図書館でも行ってみる?」

「あ~、図書館かぁ…混んでそう…それに家出気分ちょっと味わいたいな…勝手だけどさ…」

「そっか…それもそうだね…そだ、確かさ隣町までは230円じゃなかった?片道…どうせなら隣町まで行っちゃおうか?親戚のおばちゃんの家あるんだ…急だけど、そこに行ってみるのもいいかも…」

「じゃさ、早速行こう!もたもたしてたら日が暮れちゃうから…」

そう言うが早いか、みつるは出し広げた宿題を雑にカバンに放り込むと、再び公の手を掴んで駅まで走り出した。

公は再びこうして自分の手を強引に掴んで走るみつるが、「素敵!」だなと感じた。

「男らしい」とも思った。

けれども同じクラスの男子だったら、そんな風には絶対に思わないとも思った。


お日様がそろそろ真上に差し掛かる頃、公とみつるはようやく電車に乗り込んだ。

夏休みとはいえ、平日の午前中の電車内はがらがらに空いていた。

この街の人々は大体がバスを利用している為、電車は知り合いに見つからないよう家出をするには格好の乗り物と言えるのだった。

一つの車両に人がぽつぽつ4~5人いる程度。

なので、みつるは海側のボックス席に早速陣取った。

向かい合った席で公が荷物を置こうともたついている隙に、みつるは重たい窓を開けてくれた。

下から開けるタイプの窓が開くと、待ってましたと言わんばかりの風が車内にふんわりと入り込んだ。

「あ~、気持ちぃ~!やっぱりこっちの方がずっといかったね…ごめんな、公ちゃん…最初っからこうすりゃ良かったね…」

すまなそうに両手を合わせたみつるは電車に乗る前、ホームの自動販売機で購入した冷たいコーラを公に手渡した。

「えっ!…藤原君…これ…いいの?」

公は少し戸惑いつつも、みつるのそんな優しさが嬉しかった。

「ああ、だって宿題手伝ってもらうお礼だから…今はそれぐらいしかお礼できないんだけど…ごめんな…」

「ううん…ありがとう…藤原君…」

本当に嬉しそうな顔でコーラを両手で大事に持つ公の可愛らしさに、みつるは一瞬ドキンとなった。

水泳講習会の最終日、ひょんな形で公の尻を目撃してしまった時よりも、みつるは今の方が数倍もドキドキしてしまった。

「…あっ、そだ…公ちゃんさ…俺だって公ちゃんって呼んじゃってるんだから…その…さ…何ていうのか…俺も名前で呼んでくれてかまわないんだぜ…」

みつるの急な提案に、もらったコーラに口をつけかけていた公はきょとんとなった。

「…えっ?」

「ああ、だからぁ…俺も君のこと、公ちゃんって呼んでるんだから…公ちゃんも俺のこと名前で呼んでくれてもいいんだけどなって話さ…」

「…ん?」

自分の説明や思いがなかなか公に伝わっていないのが、どうしてももどかしいみつるは、がしがしと頭の後ろを掻きながら少し声を荒げた。

「…あ~~…だぁかぁらぁ~…公ちゃんさ、俺のことみつるって呼んでくれって話だよっ!…ったく、公ちゃんはぁ…いつまでも藤原君ってさ…確かに俺は藤原君だけどさ…だけどさぁ…」

ぶつぶつとぼやくみつるを見つめていた公は、急に面白くなるとブッとコーラを噴き出した。

「あ~あ…」

自分だけじゃなく、みつるも同時に同じ台詞を同じタイミングで言った。

一瞬の間が空いた後、すぐに二人で顔を見合わせてゲラゲラ笑い出した。

「うふふふふふ…」

「あはははは…公ちゃん、何噴き出しちゃって…」

「だって…あはは、みつる君が急におかしなこと言うから…」

「…だ、だって…そうだろ?普通はさ…こっちだって公ちゃんの苗字知らないから、名前先に知っちゃったからそう呼んでたのにさぁ…」

「あれっ?そうだっけ?みつる君、あたしの苗字知らなかったっけ?確かさっき教えたよねぇ…」

公がちょっぴり脹れたように返すと、みつるはあからさまに焦った様子で、「そっ、そうだった…っけねぇ…え~と…え~と」なんて、必死に公の苗字を思い出そうとしていた。

「ほらっ!これ…あたしの名前…」

公はそう言うと、肩から提げている小さなポシェットにつけたハートのキーホルダーをみつるに見せた。

名札も兼ねているキーホルダーを手にとって見たみつるは、「三好ハム?」と呟いた。

「ハム」と聞いた公は、急にむかむかと腹が立った。

幼い頃から自分の名前が「ハム」という字になっているせいで、男子だけではなく心ない親戚のおじさん達などからも、随分とからかわれた嫌な経験があった。

「違うもん!あたし…ハムじゃないもん…公だもん…酷い!みつる君まで、そうやってあたしの名前馬鹿にして…」

キッとみつるを睨んだ公の目には、丸いビー球みたいな涙がどんどんと脹れて大きくなっていった。

「ごっ、ごめんねっ!公ちゃん…違うって…違うから…俺、君の名前、馬鹿にした訳じゃないんだって…俺、その漢字読めなかっただけだってば…ごめんよ…ホントにごめんよ…俺さ、ハム大好きだから…その…なんてのか…いい名前だなぁって思ったんだ…だから…」

「…ホント?」

「えっ?何が?」

「…だから…みつる君、いい名前だって思ったのホントって聞いたの…」

「うん、ホント!ホント!…キミって響きが可愛いよ!それにハムおいしいよなぁ…」

「…そだね…あたしもハムは好きだよ…ハムサンドとかハムカツとか美味しいもん…」

「なっ!美味しいよなぁ…あ~、なんかハム食いたいなぁ~…」

みつるは上手い具合に話の流れを変えることに成功したようだった。

「その前にさ、宿題やっちゃわない?時間なくなっちゃうから…」

膝の上に乗せたままだったドリルに気がつくと、公はすかさずそう促した。

「そうだね…早いとこ終わらせなくっちゃ…ごめん、ごめん…」

「ううん、いいよ…」

二人は車内の暑さで汗の粒がびっしりくっついている缶コーラを、同時にごくんと飲んだ。

窓から見える海の青さが堪らなく美しかった。


二人が乗り込んだ駅から4つ目のところで、この暑さの中信じられないスーツ姿の怖そうなおじさんが乗り込んできた。

宿題をしている二人のボックス席を通り過ぎる際、そのおじさんが不意に声をかけてきた。

「お嬢ちゃん達、大きな荷物だねぇ…二人してどこまで行くんだい?」

学校では見知らぬ人に声をかけられても、簡単に返事をしちゃいないと教わった。

着いて行くのもいけないと教えられている。

だが、ここは電車内。

列車が動いている限り逃げる場所など、どこにも見当たらなかった。

二人は黙ったままでいた。

すると、おじさんはまだしつこく二人に声をかけてきた。

「…お二人さん、まさかとは思うけど…家出…かな?」

全身が凍りつくほどの緊張感に襲われると、公はカタカタと震えだした。

熱くて掻いていた汗が、今度は違うタイプの汗に変わった。

「どうしよう…補導される?…どうしよう…みつる君…どうしよう…」

公は心の中で目の前にいるみつるに必死に助けを求めた。

膝で両手を拳骨にするのが、精一杯だった。

縋るような涙目でじっと自分を見つめる公の目に気づいたみつるはおじさんを睨みつけると、堂々と男らしく大きな声で「いえ、違います!俺達、駆け落ちしているだけですから!」ときっぱり答えた。

「えっ?」

二人に声をかけてきたおじさんと公は、みつるの突拍子もない発言に驚くと、一瞬言葉を失い固まった。

短く真っ白い時間を打ち消したのは、おじさんの大きな笑い声だった。

「あっははははは…そうか、そうか…君達、駆け落ち中なのか…そうか、そうか…もうすぐ学校が始まるだろう?それまでにはちゃんとお家に帰らなくちゃ駄目だぞ!いいかい?親御さんにもちゃんと連絡してな…おじさんと約束してくれたまえ!あははははは…そうか、そうか…駆け落ちかぁ…そりゃあいいや…気をつけてな…じゃあ…」

高らかな笑い声と共に、おじさんは隣の車両に行ってしまった。

「…あっ…あのさ…みつる君…かけ…」

公がそこまで言いかけると、遮る形でみつるが話し出した。

「だってよ、家出って言っちゃったら、絶対に補導されるって思ったから…だから…だから…それに、俺、公ちゃんと駆け落ちしてるつもりだから…別にいいかなぁって…」

みつるは照れ隠しの様に鉛筆を持っている右手でポリポリと頭を掻きながら、ぼそっと正直な気持ちを打ち明けた。

「ぶっ…ふふふふふ…みつる君…そもそも駆け落ちの意味知ってるの?知ってて言ったの?ふふふふふ」

少しだけ馬鹿にした様な言い方で、公はみつるにそう投げかけた。

「ああ、知ってるさ、知ってるとも…駆け落ちってのは好きあってる男と女が逃げることじゃないかぁ…俺だってそんなことぐらいちゃんと知ってるよ!」

怒った口調で顔を真っ赤にしたままのみつるは、真っ直ぐ公の目を見ることができなかった。

「えっ?…」

公はみつるが放った「好きあってる男と女」の部分に反応すると、やはり顔を赤らめたまま俯いて自分の膝に置いてあるドリルの問題の文字をジッと見た。

停車していた電車が動き出すと、それに合わせて反対側の窓からも風がザワッと車内になだれ込んできた。

しばらく沈黙が続いた。

お互い罰が悪いような手持ち無沙汰をどうにかしようと、与えられた宿題に集中した。

車内を縦横無尽に通り抜ける少しだけひんやりした風と、電車のガタンゴトン、それに言葉では説明できない様々な音が混じりあう中、公もみつるも黙ったまま。

ただ、時折額から流れてくる汗を、公は猫のキャラクターのタオルハンカチで、みつるは着ているTシャツの袖などで拭うだけだった。

「…ん!…」

ドリルだけの視界にみつるの手が見えた。

「…ん!…」

手のひらには、駅前の鄙びた商店で買った駄菓子のラムネが乗っかっていた。

薄い水色のラムネはサイダーのビンの形だった。

「…ん!って…」

公がなかなか受け取らないので、みつるは少しイラだった。

「あっ、ありがと…」

申し訳なさそうにラムネを受け取る時、ほんの一瞬みつるの手のひらに自分の指先が触れると、公は慌ててラムネを掴んで引っ込めた。

今日だけでも随分みつると手を繋いでいる。というのか、手を掴まれている。

その時はその時で十分ドキドキが止まらなかったはずなのに、今、みつると僅かに心が離れているような状態での触れ合いの方が、何故だか遥かに心臓がドクドクと激しさを増しているような気がした。

そうなると公は宿題のドリルに集中できなくなってきた。

同時に顔中に酷く汗をかき、体中の血液が頭に上っていくような感覚に囚われた。

「目がぐるぐる回るとは、まさにこんな感じなんだ。」と、今頃になってやっと知った公だった。

ぽとん。

真っ白いドリルの上に赤い一円玉ほどの丸が不意に現れた。

「あっ!ごめん!みつる君…」

そう言うが早いか、公はすぐに顔を上げ手で鼻を押さえた。

「どうしよう、どうしよう…ごめんね、ごめんね…」

片手で鼻を押さえながら、もう片方の手でカバンをがさごそ漁って出かける前に忍ばせておいた、毎月買っている月間の少女漫画雑誌の付録だったキャラクターが描いてある小さなポケットティッシュを探した。

「ごめんね…ホントにごめんね…」

鼻血を出しながら、涙も一緒に出た。

激しく動揺しつつも、公のやけに冷静な部分は「人間ってすごいなぁ…鼻血と涙が一緒に出るなんて…」と薄らぼんやりしたことを考えていた。

「公ちゃん、大丈夫かい?ほらっ!これっ…」

そう言ってみつるが出してきたのは、家で使う大きなボックスティッシュだった。

白いレースに花柄とリボンがついたティッシュカバーが、何とも言えないほど生活感で溢れていた。

レースの口からティッシュを数枚取り出すと、公はそれで鼻を押さえた。

「上向いたら駄目だって、先生が言ってたよ。だから、公ちゃん、ちょっとしんどいだろうけど、そのまま鼻押さえてな…」

みつるは公を心配そうに覗き込むと、すぐさまティッシュを1枚取り出しそれを小さく裂いて鼻に詰める丁度良い大きさのを作った。

「はい、これ…使って…」

公は手渡された白い詰め物を早速鼻に刺した。

鼻血が出た左の鼻の穴に白いティッシュの詰め物。

公はみつるにそんな顔を見られるのが辛くて哀しくて切なくて、また涙が溢れてしまった。

自分のことで精一杯だった公は、みつるがいつの間にかいないことに気づいたのがちょっぴり遅かった。

「あれっ?みつる君?…どこ行っちゃったんだろ?トイレかなぁ?」

立ち上がってきょろきょろ車内を見渡すと、ガラガラと戸が開いてみつるが何かを手に小走りで戻ってきた。

「みつる君…」

「公ちゃん、大丈夫かい?ちょっとのぼせちゃったかもね…そだ、これ…」

みつるは公を座らせると、熱さでほかほかしている公の頭の上に冷たい水で濡らしてきたタオルを静かに乗っけてくれた。

「あっ、ありがとう…」

「あれっ?頭よりも首の方がいいんだっけか?」

真剣な眼差しで心配しながら、みつるは公の首にさっきのタオルを当ててあげた。

「ひゃっ!」

濡れたタオルの冷たさに一瞬ヒヤッと背中がシャキッとなった公は、みつると顔の距離が近いことに気づくとまたまたドキドキが止まらなくなった。

「…どうしよう…みつる君の顔…こんな間近で見られるなんて…嬉しいけど、恥ずかしいけど…みつる君、優しいなぁ…あたし、鼻血なんか出しちゃって恥ずかしいなぁ…こんな鼻にティッシュ詰めてる顔なんて見られたくなかったなぁ…あ~あ…」

心の叫びがみつるに聞こえているのではないだろうか?

公は急にそっちが心配になった。

「どう?やっぱり首の方がいいかもね…公ちゃん、宿題はいいからさ…少し休んでよ…ねっ!そうして…それにもうちょっとで下りなくちゃならないし…」

「うん、そだね…みつる君、ありがとう…ごめんね…」

電車は海岸沿いを過ぎて、そろそろ隣町との境辺りまで進んでいた。

空いている電車だが、二人が乗り込んだ時とは若干メンバーが違っていた。

街の大きな駅からは夏休み中の学生と思われる、デッカイ荷物を背負い込み時刻表を手にしたメガネのお兄さん達グループが乗り込んできていた。

二人に話しかけてきたあのおじさんは、その大きな駅で下りたようだった。

首から高そうなカメラをぶら下げ、やはり大き目のリュックサックを背負った無精ひげのおじさんなども乗っていた。

「もう海見えないね…」

「ホントだ…これから山道なんだねぇ…」

緑でいっぱいの小さな駅を2つ過ぎると、二人は荷物を抱えて駅に下り立った。

「はぁ~、やっと着いたぁ…」

「なんか疲れちゃったねぇ…あっ、そだ、もう鼻血止まってるみたい…」

「そっか、良かったねぇ…でも、熱いから油断したら駄目だよ…じゃ、ま、とりあえず行こう!」

まだ鼻血の後遺症なのか少しよろよろしている公の様子を察したみつるは、さり気なく公のカバンを持って歩き始めた。

「あっ…」

みつるの優しさに「ありがとう」も言えぬまま、公は黙ってみつるの後を歩いた。

蝉時雨が耳障りなほどの駅の真上に、お日様がギラギラと眩しさを増しているのが鬱陶しかった。


駅から公衆電話でおばさんの家にかけると、迎えに来てくれることになった。

「なんかね、そこで待ってなさいって…だから、みつる君、駅の中で待ってよっか…涼しいし、宿題の続き少しでもやっておかないと…」

日陰でひんやりしている駅舎内の端っこにあるベンチに腰掛けると、二人は再び宿題をやり始めた。

平日の昼間の駅の中は、案外人が少なく静かだった。

30分ほど待っていると、出入り口から自分を呼ぶ大きな声がした。

「キミ~!」

それは公の母の妹、つまりは公のおばだった。

「おばさぁ~ん!ごめぇ~ん!」と公。

「あっ、こっ、こんにちはぁ…」とみつる。

でっぷりしたおばさんは公と連れのみつるを見るなり、「はい、こんにちは…それにしても、よく来たねぇ…ところであんた達、お腹空いてないかい?」と優しい笑顔で聞いてきた。

「お腹空いてないかい?」

その言葉に反応し、みつるの腹がぐ~と鳴った。

「あはははは…返事はそれか…よし!じゃあ、行くよ!あんた達何食べたい?」

おばさんに聞かれたけれど、突然のことだったのですぐに食べたいものなど思い浮かばない二人だった。

きょとんと数秒顔を見合わせている公とみつるの様子を察したおばさんは、「特にないなら、おばさん決めちゃうけどいいかい?」とだけ言った。

そうして、公とみつるはおばさんのピンクの軽自動車の後部座席に乗り込むと、ふぅ~と安心のため息を一つついた。

エアコンがついていない車の窓からは、電車とは違う街の匂いがなだれ込んだ。

運転しているおばさんは、にこにこ上機嫌。

「やぁ~、まさかキミが訪ねてくれるなんて…おばちゃん嬉しいわぁ~…しかも、ボーイフレンドまで連れて…あんたもやるねぇ~!…あはははははは」

「そっ、そんなんじゃないったら…」

照れて否定する公に、みつるはちょっぴりムッとした。

「俺達、駆け落ち中なんです!」

「あははははは…そうかい…駆け落ち中かぁ…そりゃいいねぇ…あははははは」

車はどんどんと街から外れて行った。

おばさんの家に向かう途中、街の隙間から青い海が見えた。

「さぁ、ここでお昼にしよっか!」

「はい!」

到着した喫茶店はおばさんの家に行く途中にあった。

外壁に蔦が絡まる洒落たお店に入ると、外とは別世界のような涼しさでいっぱいだった。

カウンターと僅かなボックス席。

どこかはわからないけれど外国風の店内には、小さくAMラジオがかかっていた。

公とみつるは名物だと言う冷やし中華と、デザートにふわふわのカキ氷までいただいた。

甘酸っぱいタレとスイカが1切れ乗っかっている冷やし中華は、子供が食べるには結構なボリュームだった。

だが、朝から色々あった公もみつるもあっという間に、それを平らげた。

二人は生まれて初めてスイカが乗っかっている冷やし中華を食べたのだった。

ある程度満腹になったものの、デザートはやはり別腹。

カキ氷はみつるはイチゴ、公はブルーハワイ、そしておばさんは宇治金時にした。

慌てたようにかき込むみつると、ゆっくり自分のペースで食べる公を、おばさんは交互に優しく見つめた。

常連と思しきタクシーの運転手さんや、病院帰りらしい老夫婦、近所の歯医者の歯科衛生士の若い女性達など、お昼時の喫茶店は、少しづつ人が増えていた。

すっかりお腹が脹れ、汗も引いてしまうと、途端に激しい眠気に襲われた二人。

おばさんの家に到着するまでの間、いつしかうとうとと目を閉じる公とみつるだった。


蝉の声が次第に大きくなるにつれて、景色も緑が多くなっていった。

車で寄り添うように眠ってしまった二人は、目が覚めると急にお互いを意識してしまった。

「さぁ、入んなさぁい…」

久しぶりに訪れたおばさんの家で、おばさんの息子で家庭教師のアルバイトをしている大学生の行雄お兄ちゃんとテニスの部活から帰ったばかりらしい高校生の娘の律子お姉ちゃんが待っていた。

ひと休みの後、事情を聞いたお兄ちゃんとお姉ちゃんもみつるの宿題を手伝ってくれる運びとなった。

「やった…これで楽勝じゃん!…やぁ~、ホントに助かったぁ…やっぱ公ちゃんと一緒でよかったぁ、俺…」

心からの安堵感と共に笑顔が収まらないみつるは、すぐに仲良くなった公の従兄弟達に宿題を手伝ってもらったり、教えてもらった。

学校で先生に習うよりも、ここで公の従兄弟に習う方が、勉強がずっとわかりやすいと感じるみつるだった。

夕方、公とみつるのお母さんが仕事から家に戻る頃、おばさんがそれぞれの家に電話をかけてくれた。

そして、「今日のところはこちらに…」と、おばさんの家に泊まらせてもらえることになった。

明日、家に戻ったら絶対に叱られるとわかっているけれど、公もみつるも今はそんなことはどうでも良かった。

それよりも目の前の宿題と、おばさん家族との楽しい交流などで普段よりもずっと特別で楽しい夜を過ごせた。

ドリルや書きとりなどが終わり、おばさんと帰宅したおじさんの手も借りて作った図工の宿題も終わると、残るのは「読書感想文」だけとなった。

「今から本を読むのは…」

普段、漫画ばかり読んでいるだけというみつるは、今から本を読んで感想文を書くなんてできないと思った。

不安そうな表情を浮かべるみつるに、律子お姉ちゃんがいい物を貸してくれた。

それは「漫画で読む名作シリーズ」

「みつる君、これだったらすぐに読めちゃうよ!それに感想も書きやすいと思うんだけど…」

手渡された本は「小公女」だった。

「これ…女子の本じゃん…」

一瞬みつるは嫌な顔をした。

だが、今はそれどころじゃなかった。

早く読んで原稿用紙2枚分ほどの感想文を書かなくては、宿題は完了しないのだ。

「あっ、ありがとうございます…すぐ読みます!」

自分を律するようにきりりとした顔に戻ると、みつるは早速本を開いた。

みつるを待っている間、公はカバンをがさごそ片付けた。

「…みつる君…これ食べながら読んだらいいよ…」

公はそれだけ言うと、テーブルの上にティッシュを1~2枚広げ、駅前の商店で買った駄菓子のスナックをざらっと出した。

少ない駄菓子はすぐになくなった。

なくなると、公はまたスナック菓子の袋を開けた。

「あっ…これ…つぶれちゃってる…」

冷たい麦茶で口をリセットすると、公はおまけでもらったキビ団子を出した。

「…えっ?どれっ?…」

半分ほどまで本を読み進めていたみつるは本を置いて、公の方を見た。

「あっ…キビ団子…そだ、俺も…」

みつるも急に思い出すと、カバンをがさごそ。

「あった…俺のも…」

そう言って出してきたキビ団子は、公の物と同じくつぶれてしまっていた。

「あ~あ…」

公ががっかりしている隙に、みつるは包みを破いてキビ団子を口に入れた。

「んくんくんく…公ちゃん、これ…全然大丈夫…美味しいよ…食べてごらんよ…」

「えっ、ホント!」

美味しそうに口をもぐもぐさせているみつるにつられて、公もキビ団子を食べてみた。

歯にくっつく粘っこい甘さが、疲れた体に沁みるのがわかった。

軒先にぶら下がっているガラスの丸い風鈴が、夜のひんやりした風に吹かれてチリンと鳴った。

虫の声と蛙の声が聞こえる中、遠くで救急車の音も聞こえた。

「ホントだ…んくんく…おいし…いね…んくんくんく…」

「なっ!俺の言ったとおりだろっ!」

「えっへん」とばかりに鼻を膨らませたみつるは、バタンと畳みに仰向けに倒れた。

「…はぁ~、疲れたぁ~…」

口の中にキビ団子が少し残る中、公もみつるの隣にバタンと仰向けに倒れた。

「ホント…疲れたねぇ…」

「…うん」

「今日…長かったね…」

「…そだなぁ…公ちゃんに会ったの、朝だったもんなぁ…」

「…まさかこんな風になるなんて、あたし思ってもみなかった…だから、すんごく不思議…」

「ホント、俺も不思議…水泳講習会で好きになっちゃった女の子と、こんな風に一緒にいるなんて…」

「…えっ?」

公はたった今聞こえたみつるの呟きにびっくりすると、眠くてとろけそうだった体が急にシャキッとなった。

「…みつる君…今、何て言ったの?…」

心臓の鼓動がドキドキしすぎて、すぐにはみつるの方を向けなかった。

「…ねぇ、み…みつる君さ…今…何て…」

今度は思い切ってみつるの方を向いた。

だが、案の定みつるは今日一日の疲れのせいで、す~す~と静かな寝息を立てながら熟睡してしまっている様子だった。

「えっ?嘘っ!もう寝ちゃったの?信じらんない…も~!」

本当に眠ってしまっているらしいみつるの寝顔が、何だかちょっぴり憎らしいと思う公だった。

「おじさぁ~ん、おばさぁ~ん…みつる君寝ちゃったみたいなんだぁ、どうしよう…」

公はぼやくような形で、隣の茶の間で歌番組を観ていたおばさん達のところへ行った。

「…えっ?みつる君寝ちゃったの?そ~う…今日疲れちゃったんだねぇ…可愛いもんだねぇ…ふふふふふ」

「したら、どら母さん、ちょっくら布団敷いてくれ…俺がみつる君抱っこするから…ちゃんと布団で寝かしてやるべ…もう、風呂も入ったから、そのままいいな、そのままで」

「そうね。」

少しだけ呆れた顔で優しくそう言うと、公の分の布団まですっかり用意してくれた。

「ありがとう…ごめんね、おじさん、おばさん…」

「なんもいいって…それより、公はちゃんと歯ぁ磨いてから寝るんだよ…疲れただろうから、公もゆっくり休みなね…」

「うん。ホントにありがとう…」

「なんもいいって…」

おじさんは優しく公の頭を撫でてくれた。

おばさんは公の肩を優しくポンポンとしてくれた。

昼間とは違う虫の声と柱にかかった古い振り子時計のチクタクという音が、やけに耳についた。


「…なぁ…なぁ、公ちゃん…公ちゃんってば…」

気持ちよく眠っていた公を起こしたのは、先にダウンしたみつるだった。

「…なぁ、公ちゃん、起きて…起きてくれよっ…」

「…え~…むにゃむにゃむにゃむにゃ…なぁに?誰ぇ?」

まだ開けたくない目を必死に開けると、そこに綺麗な男子の顔があった。

「ひゃっ!」

驚いて妙な短い叫び声を出した公は、まだ夢の中にいるのかと勘違いしてしまった。

「なぁ、公ちゃん…悪りぃ…俺さ、おしっこしたいんだけど…公ちゃん、ここのトイレどこだっけ?」

「へっ?」

頭上のオレンジ色した小玉電球の明るさにようやく目が慣れると、公の脳もやっとはっきりしてきた。

「…あっ、そっか…ここ、おばさん家だったんだ…って、やだ!みつる君っ!」

腹丸出しでよだれまでたらして眠っていたらしい公は、急に冷静に戻ると自分の状況が恥ずかしくて堪らなくなった。

公が慌ててタオルケットで体を隠してあたふたしているのをよそに、みつるはみつるで絶体絶命のピンチと言わんばかりの状況だった。

「公ちゃん、悪い、早くトイレに連れてってもらえるかなぁ?俺…もうそろそろ限界かも…」

夜の寝苦しい暑さの中、みつるだけは全身に鳥肌が立つほど寒気が走ってしまっているのだった。

「あっ、ごめん、ごめん…行こっ!こっちだから…」

幼い頃から何度も訪れているおばさん家なので、公はすんなりトイレまでの道順を進むことが出来た。

「ここ」

縁側の先にある扉を指差すと、公はみつるの用が済むまで月明かりが青白く光る縁側で大きなあくびをしながら待った。

ジャー。

みつると交代で公も用を済ませて出てくると、みつるが縁側に腰掛けて待っていてくれた。

「涼しいねぇ…昼間、あんなに暑かったのにねぇ…」

「そだねぇ…」

開け放っている窓の中から、おじさんとおばさんの怪獣みたいなでかいイビキが聞こえ、2階のお兄ちゃんかお姉ちゃんの部屋からは、深夜ラジオの下品な笑い声が薄っすら聞こえていた。

「ねぇ、みつる君…月!綺麗だねぇ…今日、満月なのかなぁ?ちょっと満月じゃないかなぁ?」

「あ~、ホントだぁ…まん丸に見えるけど、どうなんだろう…」

公もみつるもすぐに部屋に戻ろうとはしなかった。

今こうして二人で静かに明るい月を眺めているのが、何ともいえないほど穏やかだった。

「あたし達、知り合ったばっかりなんだよね、そう言えばさ…水泳講習会では顔だけ知ってたけど…こんな風に話すのって、今日初めてだったんだよねぇ…なんか信じらんない…」

「…そだなぁ…だけど、俺、公ちゃんとずっとおしゃべりしたいって思ってたけど…」

「えっ?」

「…そうだよ…俺、公ちゃんのお尻見ちゃう前から…」

「やだっ!みつる君…ちょっとやめてぇ、その話はぁ…」

公は不意に出た「お尻見ちゃう前から」というワードに、顔から火が出るほど恥ずかしくなった。

そして、眠くてまだぼんやりしていた頭が、それによってすっきりはっきりとしたのだった。

「あっ、ごめん…その…仲良くなりたいって思ってたんだぁ…それはホントだよ…だって、俺んとこの学校、女子たった8人しかいないだろ?小さい時から、みんな一緒って感じだし…公ちゃんみたいな…そのっ…なんだ…」

「えっ?何っ?あたし…なんか変だった?」

「ちっ、違うって…公ちゃんみたいな可愛い感じのやついないから…なんかいいなって思ったんだ…メロンっ娘倶楽部のユリちゃんみたいに髪がふわふわってなってて、目も大きくってさ…」

みつるに言われただけではなく、公は以前にも親戚の結婚式の際、遠い親戚のお姉ちゃんから「メロンっ娘のユリちゃんに似てる。」と言われたことがあった。

公は大人気の5人組アイドル「メロンっ娘倶楽部」、通称「メロンっ娘」の中でも、一番人気がある「ユリ」ちゃんに似ていると言われたことが、ちょっぴり自慢でもあった。

けれども、みつるの言葉が少々引っ掛かった。

「メロンっ娘のユリちゃんに似ているから、自分を好きなのか?」

「自分を好きになってくれたけれど、たまたまメロンっ娘のユリちゃんに似てるね。なのか?」

そこの部分をどうしてもきっちり白黒つけたい衝動に駆られた。

「…ねぇ、みつる君さ…メロンっ娘のユリちゃんが好きなの?…あたしは似てるから。代わりに好きってことなの?」

声のトーンが一段低い公は、下から覗き込むようにみつるの顔を見た。

「…そっ、そんなのっ…言わなくたってわかるじゃないかよぉ~…」

「え~!わかんないよ、そんなの…」

「…それはどうでもいいじゃないかぁ…大きな声出すとみんな起きちゃうじゃないかぁ…もう、公ちゃんはさぁ…」

公は逆に叱られた。

「あっ、そだ…それはそうと…みつる君、借りた本読んだの?」

みつるに反撃とばかりに、公は嫌なことを思い出させた。

「…えっ?…ああ…そだ…まだ途中だった…」

ドタドタと騒がしく部屋に戻ると、みつるはスタンドをつけて本の続きを慌てて読み始めた。

「あたしは寝よ~っと…」

にやにやずるくて意地悪な言い方をわざとすると、公はふかふかの布団にニコニコと横になった。

「ちっ!」

目を閉じた公に聞こえるように、「ずるい!」と言わんばかりのみつるが舌打ちをした。

夜が明けるまで、まだまだ時間はたっぷりあった。


公の目が覚めたのは、朝の9時を回った頃だった。

家に忘れてきてしまったとは言え、ラジオ体操のカードに判を押してもらえなかったのはやっぱりちょっと残念な気がした。

みつるは公よりもずっと早くに目が覚めていたらしい。

起きてきた公に開口一番、「俺ね、読書感想文書いたよ!」と告げたのだった。

「…あっ…おはよう…みつる君、早いね…もう本読んだんだぁ…そっか、良かったねぇ…あたし、もうちょっとだけ寝たいんだけど…」

「駄目だよ!起きて!起きて!おばさんがね、畑手伝ってって言ってたよ!」

みつるの言葉で、公はここが自分の家ではないことをようやく悟った。

だが、よくよく考えてみれば、みつるが起きてすぐにいること事態、どうにもおかしいに決まっていたのだが。

「そうだった!」

公は慌てて起きるとすぐに着替えて布団を片付けた。

連絡もなしに突然訪問した失礼を思い出すと、できるだけの手伝いをしなくては駄目だと思った。

おばさんの家の割と広い庭には、沢山の野菜や果物が育てられていた。

宿題の心配がなくなった公とみつるは午前中、おばさんの畑の作物の収穫を手伝った。

お昼は庭の石釜で焼いた、おばさん特製のピザだった。

上にはさっき収穫したばかりの野菜ととろけるチーズがどっさり乗っかっていた。

葡萄棚の下にある大きなテーブルには、獲れたての野菜で作ったサラダとおばさんのピザに、律子お姉ちゃんが作ったフルーツポンチにおばさん特製のフライドチキンなど。

たまたまお休みだったおじさんと行雄お兄ちゃんに律子お姉ちゃん、そしておばさんと公とみつるでちょっとしたパーティーになった。

「明日から学校だもんなぁ…宿題も終わったことだし、今日はゆっくりなぁ…夕方、家まで送るから…なっ、とりあえず…かんぱぁ~い!」

おじさんの音頭でみんなのグラスがカチンと合った。

日よけ代わりの葡萄棚には、白い袋がいくつもかけてあった。

中の実は見えないけれど、葡萄の良い匂いは漂っていた。

まだまだ頭上では、夏の太陽がギラギラと眩しく幅を利かせていた。


「じゃあね…また、連絡するよ!」

みつるとそう約束して別れた。

その後、公もみつるも両親にがっつり叱られたのは言うまでもなかった。

だが、そんなのは何故か平気だった。

公もみつるも叱られる以上に、素敵な一泊二日を過ごしたからだった。

後になってから、「あんな大それた冒険をしたなんて。」と自分自身に驚く公だった。


新学期が始まると、公とみつるを駅や電車で見かけたらしい誰かから、噂がどんどん広がっていた。

公は「そんなの気にしない。」と学校では強がりを通したけれど、いざ独りになると急に泣きたくなるほど辛くなった。

そして、みつるは今頃どうしているだろう?

自分と同じ目にあっているのではないだろうか?

そう考えると、不安で堪らない気持ちになった。

人の噂も75日とばかりに、公の水泳講習会でも「お尻事件」も、みつるとの「駆け落ち事件」も、いつしかみんなの記憶から徐々に薄くなっていった。

だが、公の心の中だけは、まだまだみつるとの出来事が熱く残っているのだった。

季節は流れて、中学に入学すると、ようやくみつる達の学校の生徒と合流することができた。

公はあの日のテンションのまま、みつるに会ったら話しかけようと思っていた。

あれから手紙や電話をしていたけれど、それもだんだんなくなって、6年生の水泳講習会にはついに生理がきたせいで、参加できなかった苦い思いがあった。

参加したよっちや他の友達からは、特にみつるに関しての話も聞かなかったので、何もなかったんだと信じていた。

ただ、みつるとの再会が伸びてしまったことだけが、残念でも有りまた、楽しみが先に伸びただけとも思った。

久しぶりに会ったみつるは、あの時よりも随分と男らしくたくましくなってはいたものの、もうあの時のみつるとは違う印象だった。

「みつる君!久しぶりぃ~!あたし、公だよ!覚えてる?」

仲良しのよっちと連れ立ってみつるに話しかけるも、「ああ」としかめっ面でそっけない返事しかしてくれなかった。

公は自分だけがいつまでもあの時の気持ちのままでいたとわかると、切なくて哀しくなった。

同じクラスにもなれなかった。

そんな状況が益々みつるとの距離を作っていった。

公はバレーボール部に入部した。

みつるは野球部に入部したようだった。

あの水泳講習会の最終日に、自分を庇ってくれた1つ上の先輩達は、まだ公のことを覚えていてくれていたので、他の女子のように目をつけられることもなく、平穏無事な生活を送れていた。

だがみつるは違ったようだった。

女子達からきゃあきゃあと騒がれるほど人気者になっていた為、それを面白く思わない男子の先輩達から随分呼び出しをくらったりしていたらしかった。

あんなに明るかったみつるも、いつしか陰のある男子の仲間入りをしていた。

自分達の駆け落ち騒動を知っていた女子の中に、「そんなのどうだっていい!」といった具合に、公にお構い無しでみつるに告白したり、ラブレターを送る女子が増えていた。

その中でまだ自分に少しだけ気兼ねしていたらしいカワに、部活がお休みの放課後急に呼び出された。

「…ねぇ、キミ~…あのさ、みつる君とさ…まだ、付き合ってるの?」

それは予想していた質問だった。

「…あっ、ううん…あれっきりだよ…もう全然好きでも何でもないもん!あたし、みつる君となんか全然関係ないもん!向こうだってそう思ってるだろうし…中学に入ってから全然話したこともないもん。クラスも一緒じゃないし…」

「そうなんだぁ…そっかぁ…そうなんだぁ…じゃ…あさぁ…キミ~…あたし、みつる君に告白してもいいかなぁ?」

「えっ!」

公は自分がそう言ったのだから、みつるを好きだと言うカワが告白したって別に構わないはずだった。

どうして自分に許しを得てから告白しようとしているのだろう?

公は一瞬固まったが、次の瞬間引きつった笑顔で「応援してるから!」なんて言ってしまっていたのだった。

「ありがと!キミ~!…あたし、頑張る!」

そう言うなり、公の両手をがっちりと包んだカワは、頬を赤らめて照れている様子だった。

「あっ、うん…」

「じゃあ、あたし先に帰るね!告白する時に一緒に手作りクッキーを渡そうと思って…えへへへへ…これから家に帰って早速作るわ!キミ~!ホントにありがとう!明日ねぇ…ばいば~い!」

「ばいば~い…」

みつるへの告白を決心したカワは、元気いっぱいどたどたと廊下を走って行ってしまった。

公以外誰もいない教室は、やけにガランと淋しかった。

「…そっか…カワ、みつる君に告白するんだぁ…そっかぁ…カワ、みつる君のこと好きだったんだぁ…あたし、何であんなこと言っちゃったんだろ…ホントは…まだ…みつる君のこと…」

心がざわつくと、公の目から涙の雫がぽとんと落ちた。

一人での帰り道、公はあの夏休みの出来事をはっきりと思い出していた。

「…みつる君…もう、きっとあたしなんて好きじゃないんだよね…だから…あんなにつっけんどんだったんだよね…」

哀しみで胸が張り裂けそうな思いだった。

とぼとぼと歩いていると、前方に部活のでっかいバッグを抱えたみつるが数人の男子と一緒に歩いているのが見えた。

公は声をかけたかったけれど、何故か逃げるように来た道を早足で戻った。

後ろを歩いていた公に気づいたみつるは、小走りで戻る公の後ろ姿を見送った。

すると、一緒に帰っていた同じ野球部の宮本と柳田が、ぼんやりと公の後ろ姿を見送るみつるに気づいた。

「あっ!3組の三好じゃねぇ~か…」

「ホントだ…あいつ、そう言えばよぉ…小5の時、水泳講習会で尻丸出しになってよぉ~!はははは…」

「そうそう、覚えてる覚えてる…俺の見ちゃったもん、あいつの尻…ははははは…」

「すげえよなぁ…しっかし…その後、駆け落ち…あっ!悪りぃ…それ、お前だったっけか?なぁ、みつる…」

ふざけた形で公のことを馬鹿にしたように話す宮本と柳田を、立ち止まったみつるはギッと睨んで呟いた。

「…うっせぇよ…お前ら…いい加減にしろって…ぶん殴んぞ!」

「はぁ?何っ?お前、まだ三好のこと好きなのかぁ?マジでぇ?…ははは、嘘だろっ?…」

俯き硬く拳を握り締めているみつるの顔を覗きこむように、ニヤニヤいやらしい笑顔の宮本がそう聞いた。

「おっまえ、うっせぇっつってるだろっ!ふざけんなっ!」

みつるは宮本の襟元を締め上げるようにして言い聞かせると、顔を近づけたままドスをきかせた。

「なっ、何だよぉ…みつる、マジになんなって…悪かったってば、放せよ…ごめんって、マジでごめんってば…」

殺されてしまうのではないかと思うほどのみつるの気迫に圧倒されると、宮本は引きつったびびり顔で宥めるように謝ってきた。

「なぁ、やめろって…みつる…俺も言い過ぎた、ホントマジごめんな…ホント、マジで許して…そんで、宮本も言い過ぎだって…お前、すぐ調子こくから…ちゃんとみつるに謝れって…なっ、みつる、ここは俺の顔に免じてよ、こいつを許してやってくれ…なっ、頼む…」

二人の間に割って入った柳田は、その場を何とか収めようと必死だった。

首もとの手を緩めると、みつるは無言のまま先に歩き出した。

後ろから宮本が小さく「ったく、何だよぉ、みつる…お前、やっぱり三好のこと、まだ好きなんじゃないかよ…」と言うと、「しーっ!馬鹿かお前、それは言うなって今言ったばっかりだろうが…」と柳田は宮本の頭をかつんと軽く殴った。

すると、今まで黙って関わらないようにしていた小杉が、口を開いた。

「お前らもさ、好きな子いるだろ?だったら、みつるの気持ち、察してやれよ!友達なんだからよぉ…」

大人びた小杉の発言が妙に琴線に触れた宮本と柳田は同時に、「そうだよなぁ…」と呟いた。

秋の夕暮れは釣瓶落としなのがよくわかるほど、空が赤くなるのが早くなったような気がした。


みつるから逃げるように違う道から帰ろうと思った公は、走りながら明日カワがみつるに告白してしまうことで頭がいっぱいだった。

自分は全然関係ないはずなのに、どうして気になって仕方がないのか、公にはまるでわからなかった。

ただ、どこへもぶつけることができないモヤモヤした気持ちだけが、公の全身を支配していた。

公は「泣きたくても泣いちゃいけない、泣いたらそれはただのわがまま」じゃないかと考えると、益々行き場のない心の辛さでどんどんと深みにはまっていくような気がした。

「あれっ?三好さん?」

声をかけてきたのは、夏休み明けに転向してきた同じクラスの真田君だった。

メガネで成績も優秀な文科系の真田は、クラス以外の女子からもそこそこ人気があった。

「あっ、真田君」

「どしたの?泣いてるの?」

真田は慌てた様子の公を心配すると、ポケットからハンカチを差し出した。

きっちりアイロンがかかった青いチェックのハンカチは、真田の性格そのままを表しているかのようだった。

「…ありがとう…だけど、大丈夫だから…いいよ、これ…」

手の甲で涙を拭き取ると真田のハンカチを丁寧に断った。

「遠慮しないで使って…ねっ…女の子が困ってたら助けてあげなくちゃいけないんだよ…だから…ねっ…」

優しい真田の気持ちを汲むと、公はこくんと頷いてからハンカチを受け取った。

「三好さん…家、こっち?」

まだ街を詳しく知らない真田は、自分の家と公の家の方角が一緒か尋ねてきた。

「…あっ、うん…こっち…」

借りたハンカチでまだ涙を拭いながら返事をすると、真田は「そっか…じゃあ、途中まで一緒だね…」と言って公の速度に合わせて並んで歩いてくれた。

誰かに縋りたい気分だった公は、真田に救われたと思った。

席が遠かったり、班が違ったりでまだちゃんと話した事がなかった真田と、公は沢山色んな話をした。


「あっ、あのっ…真田君、ハンカチありがとう…ちゃんと洗ってアイロンかけてから返すね…ホントに…なんかありがとう…」

結局、公の家の前まで真田が送ってくれた。

「ううん、そんなの気にしないで…それより、気持ち落ち着いた?もう大丈夫?」

「うん」

「そっか…じゃ、また明日学校でね…バイバ~イ!」

「バイバ~イ!真田君、気をつけてねぇ~!」

姿が見えなくなるまで手を振って見送ると、公はいつの間にかモヤモヤした気持ちがなくなっていることに気がついた。

「…真田君…優しいなぁ…」

公の心の中に、みつるではなく、真田の方が大きくなっていたのだった。


次の日は朝からシトシトと雨。

公はカワがみつるに告白するんだと思うと、学校に行きたくない気持ちだった。

それでも、放課後には体育館でクラブ活動があるし、休んで勉強についていけなくなる不安を考えると、やっぱり学校に行かなくてはならなかった。

「おっはよぉ~!」

カワは朝からハイテンション。

昨日家に帰ってから、みつるに告白する時用のクッキー作りに励んだらしかった。

だが、何度も失敗を繰り返し、日付をまたぐ頃にようやく人にあげられるような、まともなクッキーが出来たと言っていた。

カワの女の子らしい努力を耳にすると、公は何だか応援したいとも思ってしまった。

そんなカワの決戦をよそに、公は昨日の帰り道で真田から借りたハンカチを返そうと、彼の机の傍に来た。

丁度その時、今日の部活のことでみつるが公のクラスの野球部の男子を訪ねてきていた。

公はみつるが来ていることを少しだけ意識したけれど、告白しようとしているカワの盛り上がりを見ると、自分は部外者なのだと改めて思い知らされた。

「真田君、昨日はありがとう…これ、ちゃんと洗ってアイロンかけたから…ホントにありがとうね…」

そう言うと、公は真田にピンクのギンガムチェックの袋を手渡した。

「ああ、三好さん、そんなすぐじゃなくてもいいのに…でも、ありがとう…」

綺麗な袋からは何とも言えない女の子らしい香りがふんわり香った。

それは、公の家の柔軟材の匂いだった。

傍にいたじゃがいもみたいな男子がいきなり「なんだ、なんだぁ…三好と真田、できてるのかぁ?ひゅ~ひゅ~!熱いね、お二人さん!」と茶化しだした。

その声につられて、教室にいた全員が急に公と真田の方に注目した。

当然、教室を訪ねていたみつるも、その場面を見ていた。

「やだっ、やめてよ!山田…そういうんじゃないってば…あ~!腹立つなぁ~!もう!」

茶化した山田をばしばしと容赦なく叩く公の顔が真っ赤に照れていたのを、みつるは少しだけ淋しそうに見つめた。

真田は激しい公の様子を引き気味に見てから、ふと、みつるの方を見た。

すると、それに気づいたみつるは、さっと教室から出て行った。


放課後、まだ雨はしとしとと降り続いていた。

公のバレー部は体育館での練習だった。

とは言え、まだ1年生の公達は、コートの周りで玉拾い。

それが当たり前だった。

公は部活中、上の空だった。

外での練習ができない野球部は、廊下を走ったりストレッチをしたりだけの軽いメニューだった為、それを待って告白する予定のカワがどうしたのかが気になってしょうがなかったからだった。

「…もう野球部終わってるだろうから…そろそろカワ、告白したんだよね…きっと…」

体育館の時計をちらりと見ていると、公の頭にボールがぶつかってきた。

ボーン!という音の後、バタンと公は倒れた。

「わぁ~…キミ~!大丈夫~?」

倒れた公の傍にクラブ全員が集まった。

ふらつく公をよっちが付き添い、保健室に連れて行ってくれた。


保健室の真っ白い布団に仰向けになると、公は情けない気持ちになって涙が出た。

涙の線は、頬を伝うと耳に流れてきた。

「キミ~…大丈夫?」

「…うん、ごめんね、よっち…」

「ううん、そんなの気にしないでよ…あたし達親友でしょ?」

「ホントにごめんね…ありがとね…」

「…いいって…」

放課後の保健室は先生が職員会議中の為、公とよっちの二人だけ。

窓の外は薄暗い空が広がって、雨は段々強くなっているみたいだった。

「…ねぇ、よっち…カワ、もう告白しちゃったかなぁ?」

公は何気なくそう聞いた。

「…う~ん…どうだろう?…」

「そっかぁ…そうだよねぇ…あたし達、体育館でクラブの最中だったんだもんねぇ…」

「うん」

「上手くいったかなぁ?…みつる君、何て答えたんだろうねぇ…」

しばらく黙っていたよっちが、顎に手を当てたまま、眉間に皺を寄せて聞いてきた。

「…ねぇ…公さ…もしかして、みつる君のこと、まだ好きなの?」

「えっ?」

よっちのするどい質問に驚くと、公は慌てて布団で顔を隠した。

「ねぇ…どうなの?…入学してから、みつる君、全然素っ気無くってって言ってたじゃん?そんで、もう関係ないからって言ってたけどさぁ…あれから、学校で会ってもわざとらしくあっち向いたりしてたけど…やっぱり好きなんでしょ?違う?」

仲良しのよっちに咎められている訳でもないけれど、公は罪悪感でいっぱいになっていた。

「…わかんないの…よっち…あたしね、みつる君とは小学校の時のあれっきりだと、自分でも割り切ってたんだけどね…だけど…だけど…カワが今日告白するって教えてくれてから、あたし、なんか変なの…昨日も帰りにみつる君達野球部の人歩いてるの見たら、なんか堪らなくなって…走って逃げたの…逃げてる時、なんか涙出ちゃったの…そしたら、真田君に偶然会っちゃって、一緒に帰ったの…真田君、あたしとみつる君の事件のこと全然知らないから…だけど、真田君と色々面白い話、したの…そしたら、ちょっとだけ気持ちが軽くなったの…だけど…でもね…カワの告白がどうなったか気になって気になって…あたし、別に関係ないけど…でも、どうしたらいいんだろうって…どうもしなくていいのはわかってるんだけど…だけど…昨日、あんまり眠れなかったんだ…どうしてだろうね…」

涙ぐみながらも一生懸命自分の素直な気持ちを話す公を見て、よっちはいたたまれない気持ちになった。

「…キミ~…それってやっぱり…みつる君が好きってことじゃない…」

「…ああ…やっぱり…そう…なのかな?」

「そうだと思う…ってか、それしか考えられないよ…誰が聞いたってみんなそうだって言うに決まってるよ。」

「…そっか…やっぱ、そうなんだね…だけど…あたし、関係ないし…みつる君に避けられてるみたいだし…きっと…噂になっちゃって、みんなから色々茶化されたりしたから…みつる君、そういうの…鬱陶しいって思ってるよね…そしたら、もう…あたしなんか…嫌だよね…一緒にいるとこ見られたら…また、茶化されちゃうもんね…そんなの…もう、嫌だよねぇ…それにね、よっち…あたし、すごく悪いの…だって、カワが振られればいいなってちょっとでも願っちゃった…カワ、大好きな友達なのに…カワだってあんなに一途にみつる君のこと好きだってわかってるのにさ…酷いよね、あたし…どうしてそんなこと思ってるのか、自分でもよくわかんないんだ…だけど、つい頭の片隅に、そんな悪い心が芽生えてて…酷すぎるってわかってるんだけど…あたし…サイテー…カワにどんな顔で会ったらいいんだろう…よっち、教えて…あたし…あたし…」

「キミ~!」

公と一緒に、よっちも沢山泣いた。

二人の気持ちと同じくらい、雨も強さを増していった。


カワは見事に玉砕したらしかった。

みつるの部活が終わってから、3階の端っこに呼び出して告白するも、「ごめん。」とだけ言われたそうだった。

それでも、「夜中までかかって一生懸命作ったクッキーは受け取ってもらえた。」と嬉しそうだった。

だが、その後他のクラスの女子に聞いた話によると、みつるは受け取ったクッキーを野球部の宮本にあっさりあげてしまったということだった。

クッキーをもらった宮本も「みつる君、好き!」とチョコレートで書かれたクッキーを見て、何とも言えない気持ちになったとぼやいていたそうだった。

その話題は学校中を駆け巡った。

みつるファンの女子の中にも「みつる君、ひど~い!」と嫌いになる者も多数現れたが、逆にそれをチャンスと捕らえたファンもいたらしかった。

それを聞いた公は、複雑な心境だった。

「みつる君…酷すぎる…それじゃ、カワが可哀想すぎるよ…だけど…」

公の中に友達を哀れむ心と同時に、安堵する自分もいた。

公の心を知っているよっちは、公にどう声をかけてよいものか悩んだ。

最初からの事情をまるで知らない真田は、いつも静かに公を見つめているのだった。

それからしばらくは何事もなかったかのように静かな学校生活だった。

公は部活と勉強が忙しくなり、みつるを気にしつつも、特に何もしようとも思わなかったし、出来なかった。


大晦日の夜、公は仲良しのよっちやカワなどと一緒に、初詣に出かけることとなった。

この日ばかりは中学生同士で出かけてもお咎めなしだったので、地元の神社には学校のほとんどの生徒達がわいわいと集まっていたのだった。

さほど大きくもない神社だが、初詣を見込んだ出店が夏のお祭りほど出ていた。

オレンジ色の明かりの中、公達は夜に出かける特別さでテンションが上がった。

集合時間に全員が揃うと、そのまま神社の長い階段を上った。

履きなれない新品のブーツの公は、人込みの中で転びそうになった。

すると、傍にいた人がすかさず公の腕を掴んで助けてくれた。

「ありがとうございます…おかげで転ばずに済みました。」

人込みから少し離れた広場で深々と頭を下げてお礼を言って頭を上げると、公は驚いた。

自分を助けてくれた相手は、同じクラスの真田だったから。

「あれっ?真田君だったんだぁ…ありがとう…ごめんねぇ…えへへへへ…そだ、真田君、もしかして一人?」

公が尋ねると、真田は笑顔で首を横に振った。

「あそこ」と真田が指を指す方向を見ると、そこには公と一緒に来ていた女子の面々の他に、男子が数人立っていた。

「そっかぁ…真田君もみんなで来たんだねぇ…」

公と真田が楽しそうに話していると、「キミー!」とみんなが駆け寄ってきた。

「ねぇ、真田君達も一緒にお参りしようよ!大勢の方がご利益ありそうだし…」

よっちの提案にみんな賛成すると、早速お参りの列に並んだ。

誰かが仕切った訳でもないけれど、集まった男女は何故か二人づつ並んでいた。

よっちは小さい時からずっと片思い中の、野球部の小杉と並べて嬉しそうだった。

みつるに振られて傷心のカワは、今度好きになったらしい山口君と一緒でニコニコが止まらない様子。

あっけやみどは、別に何とも思っていない男子とのペアだったが、特に不満もなさそうだった。

そして、公はそのまま真田と一緒に他愛もない話をしながら、順番を待った。

公達が楽しそうにしている数列後ろに、みつるの姿があった。

みつるはしばらくろくに話もしていない公が、自分もあまり知らない男子と楽しそうにしているのが面白くなかった。

だが、だからといって間に割り込んで、強引に話の輪に加わるほど野暮じゃなかった。

公は100円玉を賽銭箱に放り込むと、「みつるとまた仲良くできますように。」と手を合わせた。


お参りの後、みんなでおみくじを引いた。

公は大吉だった。

そこには「待ち人来る」と書いてあった。

「待ち人って…みつる君だといいな…」

心の中でそう願うと、自然と顔がほころんだ。

「折角出店出てるから…」と、今度はみんなで店を見て回ることになった。

お参りのままのペアで店を見て歩くと、真田がふと足を止めた。

公が待っていると、可愛らしいべっこう飴を手にした真田が戻ってきた。

「はい、これ…」

「えっ!いいの…」

「うん…」

「あっ、ありがとう…嬉しいなぁ…うふふふふ」

真田に買ってもらったべっこう飴は、赤い小さなハート型だった。

それを目撃した公以外の女子全員、「真田君、公のこと好きだったんだぁ。」と思い、真田以外の男子全員は「やるなぁ真田…」と思った。

だが、真田の思いに全く気づいていない公だった。

べっこう飴の屋台の隣のイカ焼きの店で、醤油のこげた香ばしい匂いのイカを買っていたみつるは、真田の行動に苛立ちを隠せなかった。

そして、公達のグループ全員、傍にみつるがいたのなんか、まるで気づかなかった。


2年生になるとクラス替えがあった。

公とよっち、そして真田はまた同じクラスになった。

だが、やっぱりみつるとは一緒になれなかった。

公はみつると同じクラスになれないのは、あの「駆け落ち事件」のせいだと思っていた。

だから、自分達を一緒のクラスにしてしまうと、再び同じことが起こるのではないかという先生達や親の陰謀だとも感じた。

たった1つしか年が違わないのに、公も先輩になった。

それがどこかもぞがゆいような、照れ臭いような不思議な感覚だった。

公は後輩に恥ずかしいところを見せないように、「先輩」として部活に精を出した。

それは、みつるのことを考えないようにする為でもあった。

初詣の真田のべっこう飴での告白にまるで気がついていなかった公は、今までどおり真田との友達関係を続けていた。

それは男子だとて、なんら代わりはなかった。

みつるは後輩の女子からも、相変わらずモテていた。

公は心の奥底ではまだまだみつるに想いを寄せていたけれど、その気持ちは以前よりもやや薄くなっていた。

もうあの夏休みの時みたいな気持ちではなかった。

そうさせたのはみつるであり、中学生という思春期のせいでもあった。

取り立てて何事もなかった2年が終わると、いよいよ3年、受験が待ち構えているのだった。

2年の時と同じままのクラスは、やはり受験を控えて少々波立っていた。

部活も引退となると、益々勉強だけに集中しなくてはならない毎日。

そんな中、公はよっちだけではなく、成績が良い真田とも一緒に図書室で勉強することが多くなった。

基本は初詣の面々との勉強会だったが、時折公と真田の二人きりになることもあった。

1~2年生の時のように、男女が二人きりでいるからと誰も騒ぎ立てなくなった。

それよりもむしろ「誰でも良いから、わからないところを教えてくれ!」といった雰囲気だった。

3年生全体がぴりぴりした受験ムードの中、公は苦手な数学や英語を真田に教わることも多かった。

「…そだ、真田君はどこ受けるの?」

「…僕はぁ…とりあえず入れるとこって感じだけど…三好さんは?」

「あたしは…ちょっと難しいって言われたんだけどね、広陵受けたいんだぁ…でも、あそこ偏差値高いから…頑張らないと駄目なんだけどね…」

「ふ~ん…そっかぁ…広陵受けるんだぁ…じゃあ、僕もそこにしよっと…」

「えっ!そんな簡単に決めちゃっていいの?大丈夫なの?真田君だったら、もっと難しい南高とか受けられるんじゃない?いいの?広陵で…」

「…うん…だって…三好さんも受けるんでしょ?だったら、一緒に行きたいなって…駄目かなぁ…」

「えっ!…真田君…ちょっと待って…え~…え~…嘘っ!…え~…嘘でしょ?」

「ううん…僕さ…1年の時、転校してきたじゃん…それで、同じクラスになって…ほらっ、いつだったか偶然一緒に帰ったことあったでしょ?…あれから、何となく気になって…」

「ええっ!だけど…あたし…あたし…」

「知ってる…小学校の時の話、薄っすら聞いたけど…でも、今は藤原君と付き合ってないんでしょ?もしかして、まだ好きだった?…」

「…そっ…それは…」

たまたま来ていた図書室の本棚の後ろから、公と真田の会話を聞いてしまっていたみつるは、その場で固まってしまっていた。

そんなみつるの様子をこちら側からすっかり見ていた真田は、更に続けた。

「三好さんさ…もう藤原君のことなんて、好きじゃないんでしょ?…だって、川口さんから聞いたよ…1年の時、川口さんが藤原君に告白する前の日に三好さんに気持ちを聞いたら、もう全然好きでも何でもないって言ってたって…関係ないからって…」

「…それは…カワにはそう言っちゃったけど…だけど…あたし…酷いの…だって、カワ、振られちゃえばいいのにって思ってたの…そしたら、ホントに振られちゃったから、あたし、呪いをかけちゃったんじゃないかって…みつる君とは全然話どころか、近くにも行ってないんだ…だけど、しつこく姿を追っかけちゃうの…みつる君の姿、一日にちょっとでも見れたら幸せって…思ってるの…だから…ごめん…真田君のこと、友達として好きって思ってるから…みつる君とは違うから…ホントにごめんね…だけどだけど…真田君、友達やめないでくれる?人の不幸を願った悪い女だけど、これまで通りにずっと友達でいてもらえる?お願い…お願い…真田君…ごめん…勝手だよね…ごめんね…真田君の気持ち、踏みにじるようなこと言って…あたし、サイテーだね…ホントにごめんね…」

喉の奥に引っ掛かっていた魚の小骨が取れたかのように、公は胸の奥につっかえていた正直な気持ちを真田に話すと、涙と一緒に不思議と安心したような気持ちになった。

「…そっか…やっぱり…いつもさ、三好さんの視線が、時々どこを向いてるのか気になってさ…僕も目で追いかけたら、いっつもそこに藤原君がいるんだよね…廊下を歩いてたり、全校集会だったり…わかってたんだけど…どうしても、三好さんの口からホントのところを聞いてみたかったんだ…残念だなぁ、僕の方が藤原君よりも勉強できるんだけどなぁ…でも…これで僕の気持ちも吹っ切れたよ…ねぇ、藤原君もそうでしょ?」

途中から公の後ろに向かって少し声を大きくした真田の顔を見てから、公はそうっと後ろを振り向いた。

すると、そこには真っ赤な顔で硬直しているみつるの姿があった。

「みっ…みつる君…いつから?そこに?…」

驚く公に真田が教えてくれた。

「僕達が勉強を始めてほどなくぐらいかなぁ…藤原君の姿が見えたからさ…じゃあ、今日はここまでにしようか…三好さん、じゃあ、また明日ね…バイバーイ!」

笑顔の真田はさらりとそう言うと、図書室を後にした。

「みっ…みつる君…あのっ…」

「…あっ…公ちゃん…一緒に…帰ろう…か…」

「…えっ?あっ…うん…」


みつるとこうして並んで歩くのは、随分と久しぶりだった。

離れてしまってから沢山話したいことがあったはずなのに、公は何故か何も話せずにいた。

それでもみつるとこんなに近くにいられるのが、嬉しくて仕方がなかった。

みつるはみつるで、沈黙に耐えられなくなっていたのだが、かといって久しぶりにちゃんと向き合う公に何をどう話したらよいのか、脳内は忙しく活動していた。

「…あっ…あのさ…あの…さ…あの…さ…」

「…うん…」

公は一生懸命何か話そうとするみつるの横顔を、久しぶりにじっと見つめた。

そして心の中で、「みつる君、前よりもずっとかっこよくなったなぁ…大人っぽくなったみたい…背もだいぶ伸びたみたいだし…声も低くなったし…男の子って、こんなに変わるもんなんだぁ…そっかぁ…だもん、モテるはずだよねぇ…みつる君…ハンサムだもん…真田君も違ったタイプのハンサムだけど…優しいのはどっちも共通なんだねぇ…それにしても、嬉しいなぁ…こうしてみつる君と並んで一緒に帰れるなんて…」と呟いていた。

「…あの…さ…そだ…公ちゃん、広陵受けるんだね…」

「あっ、うん…そう思って…お姉ちゃんも広陵で、いいところだよって教えてくれたし…それにあそこの制服可愛いでしょ!だから、着てみたいなって…たったそれだけの理由なんだぁ…みつる君はどこ受けるの?」

「あっ、俺っ?…俺は南受けるつもりなんだぁ…」

「ええ~っ!すご~い!みつる君、頭良いんだねぇ…真田君もだけど、頭良い人って尊敬しちゃう…」

「あっ、あいつと一緒にしないでくれよ…だけどさ…あいつ…いいやつだね…真田だっけ?あいつ…ホントにいいやつだね…」

「…うん、そだね…真田君、優しいし、勉強教えるの上手だし、面白いし良い人だよ…友達として最高だよ…よっちもだけど、あたし真田君も親友だと勝手に思ってるんだぁ…」

「そっかぁ…そうなんだぁ…」

「あっ、そだ…みつる君、バスでしょ?あたし、バス停まで送ってく…いい?」

「えっ!あっ…いいけど…ホントなら、俺が公ちゃんを家まで送っていかなくちゃ駄目じゃん…」

「そう?」

「そうだよ…だって、俺、男だもん…公ちゃんは姫さんだから…」

「…やだっ!みつる君…姫さんなんて…そんな…姫さんって…あたし…そんな姫さんじゃないし…だけど…嬉しいし…えへへへへへ。」

公はみつるの口から飛び出た「姫」に激しく照れて動揺した。

今までの人生の中で、自分を「姫」と呼んでくれたのが、初めてだったからだった。

秋の終わり、冬の入り口辺りの夕暮れは、想像以上に早かった。


「あっ!流れ星!見た?今の、見た?」

公は生まれて初めて肉眼で流れ星を見つけた。

それはまだ昼間の名残が残る夜と夕方の間の時間だった。

「見た!ちゃんと見たよ!右から左に流れたね…なんか良い事あるのかなぁ?」

「あったよ…」

「えっ?」

みつるがきょとんとしていると、公はきっぱりとした笑顔でそう言ってきた。

「良い事あったよ…今…みつる君と一緒なんだもん。」

公の言葉にみつるは一瞬照れたような顔を見せると、静かに「そうだったね…」と返した。

「公ちゃん…俺達これから受験だけど…でも…その…なんてのか…一緒に勉強したりしないかい?」

「えっ?うん…いいよ。」

「ホントっ!勉強だけじゃなくって…その…なんてのか…付き合うってことだけど…」

「…あっ、そっか…うん、いいよ…みつる君は嫌じゃないの?あたしと付き合うことになったら、また噂になっちゃうよ、きっと…そんでもって、茶化されたりからかわれたり色々嫌なこともされるかもしれないよ…それでも、あたしと付き合う気ある?」

「あるさ…そりゃ…だって、俺ら駆け落ちしたんだよ!そんでもって、将来は結婚するんだからさ…そんなのイチイチ気になんてしないよ!そんなの俺が全部跳ね除けるし、公ちゃんだって絶対に守って見せる!」

「…みっ、みつる君…結婚って…」

みつるの思わぬ発言に、公の心臓はドキドキしっぱなしだった。

「あれ?言わなかったっけ?俺達将来結婚して…そんでさ、きみとみつるだから、きみつるって名前のハムの工房をやるんだって…だって、公ちゃんの名前、ハムって漢字で書くだろう?俺、ハムも公ちゃんも大好きだから…だから、南高に行って、酪農大に行ってハムの勉強しにイタリアとかフランスとかスペインとかドイツに修行しに行きたいって考えてるんだ…絶対に実現させたくて、俺、あの駆け落ちした後から自分で色々調べて、勉強いっぱいしたんだ…」

「みつる君、すごい!…すごい!すごい!…そこまでちゃんと考えてるんだね…素敵!素敵!…だけど…あたしなんかでいいの?ホントに…」

「いいに決まってるだろ!だって公ちゃんは…その…公ちゃんは…」

「…何?」

「…俺の初恋の人だから…」

将来を語る時の自信満々の大きな声とは違って、「初恋の人」と告げるみつるの声はあまりにも小さかった。

「…えっ?ごめん…今、何て言ったの?…ねぇ…みつる君…」

「…教えなぁ~い…あははははは。」

みつるはそれだけずるい顔で言うと、走り出した。

突然走り出したみつるに追いつこうと、公も負けじと走り出した。

頬を過ぎる風は冷たかったけれど、公とみつるの心はほかほかしっぱなしだった。


公とみつるの工房の完成祝いパーティーに、よっちも真田もそして地元に残った同級生達が集まった。

水泳講習会の集合場所だった古い駅舎が無人となったので、そこを改装させてもらい公とみつるの工房にしたのだった。

みつるは自分で言ったのとは少し違ったけれど、高校を卒業と同時にイタリアへ渡り、ハム職人としてあちらの技術をみっちり勉強した。

そして、フランスやドイツ、スペインにも生ハムやフランクフルト、ソーセージなどの修行をしにトータルでおよそ10年間過ごしてきた。

みつるを待つ間、公は調理師の専門学校へ通い、みつるを追いかける形でやはりヨーロッパへ渡った。

そして、みつると籍を入れて正式に結婚しながらも、あちらで本場のイタリア料理やフランス料理などみっちり習ってきた。

日本に戻るとみつるは街の大きなホテルで数年、こつこつと独立資金を貯めながら一生懸命働いた。

公もデパートのパン屋に勤め、やはりみつると同じく自分達の夢の為に必死になって働いた。

そんな二人が地元に戻ってきて、この場所に工房を作ったのは自然な流れだった。

一応は無人の駅舎内に、「きみつるハム工房」という看板を掲げたカフェレストランにした。

みつるのハムは街のデパートでも取り扱ってもらえるほどの人気商品で、勿論工房でも直接購入することもできるようにした。

公が作る美味しいパンも、カフェでいただくことも、買って帰ることもできるシステム。

明日から本格的に始動しようとしているのだった。

公もみつるも集まってくれた仲間に、自分達が修行してきた成果を披露する形で、沢山の料理を用意し振舞った。

貸し切りでお昼過ぎから始めたパーティーは、夜になるまで楽しく続いた。

よっちは片思いだった小杉夫人となって、中学生の女の子を筆頭に4人の子供達のお母さんになっていた。

真田君は整形のお医者さんになり、10歳も年下のモデルのような美しい女性と去年結婚したと言っていた。

楽しい時間がお開きになると、海が近い古い駅舎の工房は急にガランと静かになった。

「はぁ~、楽しかったねぇ…」

「ホント、みんな変わらないねぇ…すんごく楽しかったねぇ…明日から…頑張ろうねぇ…」

二人で手分けして片付けが終わると、みつるは公を外に連れ出した。

公はこんな風にみつるに手を掴まれて歩くのが、何だか懐かしくて照れ臭かった。

二人は駅前から目の前に広がる海に向かった。

昔あったあの鄙びた商店はもうそこにはなかった。

建物もすっかり壊して、ただの駐車場になっているだけだった。

歩きながら公はあの暑かった小5の夏を思い出していた。

そして着いた防波堤の上に上ると、二人で腰掛けて夜の海を眺めた。

月明かりに照らされて水面がキラキラと光る海は、言葉で言い表せないほど綺麗だった。

「はぁ~、懐かしいねぇ…ここ」

公がしみじみそう言うと、みつるもしみじみ「そうだねぇ…」と答えた。

「ねぇ、公ちゃん…俺、頑張るから…」

「…うん…あたしも頑張る…」

二人は笑顔で見つめあうと、ゆっくりと唇を合わせた。


最後まで読んで下さって、本当にありがとうございました。

拙い文章と誤字脱字もあることと思いますが、どうぞ温かい目で見守っていただけたら幸いです。

本当にありがとうございました。

これからもどうぞ宜しくお願いいたします。

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