プロローグ
僕は溜息をついた。
溜息をつきたくもなる理由はいくつも頭に浮かんでくるけれど、それを羅列していたらキリがないので割愛することにした。
中学生は立ち入り禁止、と書いてはいないけれど意訳としてはそうに違いないお店の風体。
ここがどんなお店であるかは事前に聞かされていたから、驚きも怖がりもしていない。
古い扉特有の軋む木の音。
店から出てくる大人たちは皆顔を赤らめ、陽気に歌なんか口ずさみながら出てくる。人によっては青ざめた顔をしながら、今にも勢いのあるものを口から発射しそうで……。もうカウントダウンが終了し、“発射”し始めてしまう人も居た。
恐ろしき哉、これが大人の世界。
悍ましい光景が広がっている最中、ダンジョンに飛び込む勇者の如く、店内へスタスタと入っていった。仕事後の汗とアルコールの匂いが混じった鼻にツンとくる臭いを我慢しつつ、天井の低い店の中を彷徨う。
やはり身長が低く、白いワイシャツと黒ズボンの僕はお店の中でも目立つようで、通りがかりに必ずや視線を向けられた。
葡萄酒やラム酒が発する、甘いようで、時々何かの薬品かと錯覚する匂いが脳にまで鋭く刺さり、おじさん達が口から吐いたタバコの煙りが溜まりっぱなしで、視界がぼやけてしまうような場所にずっと入り浸りたくない。
ここまで来て、やっぱり愚痴りたくなってきた。
未成年をこんな所に呼ぶとか、どうかしてる。
中学2年生である僕が、どうして夜中に酒場なんぞを徘徊せねばならないのか。
それもこれも、”彼”のせいだ。
タバコの煙のせいで涙目になりながら歩いてく中、ぺちゃくちゃと聞こえる耳障りな会話を、耳を両手で塞いで耐え、一人の男を探して店内を歩きまわった。
どうしてこう薄暗い明りの中で、体に毒とされるお酒を延々と飲み続けるのか、子供の僕には理解できない。自分で子供と言いたくはないが、これ程汗と泥くさい大人達が集まる場所に来てしまうと、中学生である自分ですら、子供だと思わざるを得ないものだ。
でも、怯んでいる場合じゃない。僕には果たさなければならない使命がある。
その使命を全うしたいのだけれども、カウンター席に居る美しい女性に目を奪われているその男を見つけた瞬間に、店ごと燃やして薪にでも焚べてやろうかと思った。
「ねぇロミオ。どうしてあなたはロミオなの?」
「私の名前がロミオっていう名前なのはね、君と出会うために名付けられた、運命の名前なんだよ。さぁ、もう一杯飲もう。君と出会うこの運命に乾杯」
「あぁもう、ロミオ最高」
赤いドレスを着ている長髪金髪お姉さんの隣で、顔を少し赤らめた奴が甘くとろけるような声で囁き、お姉さんの唇を奪おうと顔を近づけていく。
健気で純粋な少年の前で何を破廉恥な。
「おいおいちょっと待った。いくら美人だからって、キスまでは許さないぜ」
突然、黒いスーツを着た男の人が二人間に割って入った。スーツの左胸ポケットのあたりに何か入っているのか、若干ではあるが膨らんでいる様に見える。
男の人は、太陽さんが天高い場所で輝く時間でもないというのに、黒いサングラスを掛けていた。ネクタイまで黒いし、いかにも自分は怪しい者ですと言っているようなものだ。一体、何者なんだろう?
「彼女は、俺がプロデュースする女性だ。そう簡単に、手出しさせるわけにはいかないんでね」
「君から紹介してきたんだろうプロデューサー。こんな美人を見せられては、黙っていられる男なんて男じゃない。だろ?」
男の人の制止を聞かず、彼は男を手でぐっと除けて女性の唇を奪おうと、更に顔を近づけた。
「悪いがロミオさん。そろそろ仕事があるから帰らせてもらうぜ。昼も夜も、ずっと馬車に乗って移動はツライもんだよ。わかってくれ。プロデューサーも女優も今時期忙しい」
金髪美人が名残惜しそうに席を立ち、口を尖らせながら、少しばかり苛立ちの表情をプロデューサーに見せていた。こりゃお手上げだなと、プロデューサーは両手をぱっと挙げた。
潤いを帯びた唇へ近づけていた男の口が、行き場を無くして魚みたいに口の開閉を繰り返した。
顔を赤らめながら破廉恥なことでも言い始めるのかと思いきや、去って行こうとするプロデューサーに、こう言い放った。
「まぁまぁ、ちょいと待ちたまえプロデューサー。いや、こう呼んだ方がいいか?暗殺者」
眉をぴくりと上げ、卸したてのように綺麗なスーツを着ているプロデューサーは営業スマイルの上に、冷たい仮面を被った様に無表情となった。
酒を飲み続けている酔っ払いは、酔っ払っている時の饒舌さとは絶対に違う、何か問題を解く時の教授の説明と同様に、スラスラと言葉を発し始めた。
「どう考えてもおかしいよな。こんな時間にサングラス。その女性を女優としてプロデュースするなんて話も嘘だろう。上のスーツは卸したてのようにシャキッとしているが、アンタの靴とズボンの裾に付いている泥を見るに、あちこち走っていたみたいだ。不思議だよな?昼間は馬車で移動していたと言っていたが、アンタが歩いた場所、それと左胸ポケットに隠し持っている血液が入った試験管を考えれば、自ずと答えは出てくるってもんだ。それじゃあ、その金髪美人は一体ナニをするだろうな?」
「私はただのプロデューサーだ。しかし、君はどうだ名探偵。こんな人里離れた場所に燕尾服を着て現れるとは。店内でずっと酒を飲んでいるというのに、未だにその頭に乗せている黒いシルクハットを取らない奴も、十分不思議だと思うんだが?」
女好きの飲んだくれは、グラスに入った酒をくいと飲み干すと、美人さんに、にやけ顔でこう尋ねた。
「そういやさっき、私のことを最高って言っていたよな。どれくらい最高?」
夏の日のひまわりを連想させる表情が、毒を持つジャングルに咲く花のように猛々しくなる。
「どれくらい最高かって?それはね……アンタを殺してやりたいくらいに!」
彼女は手に持っていた恐らく高級な革の鞄を床に放り、白い歯を見せた。その歯は普通の人間では生えることのない、猛獣のような歯だった。どう見ても、彼女は普通の人間ではない。瞳がライトアップされたように赤く光り、虎視眈々とカウンター席でぽつりと一人座ったままの男を睨みつけ、彼の首を目掛けて走り出す。このとの出会う運命がどうとかで乾杯していたとは、少しくらい同情してあげてもいいかな。
茶番劇を傍観していた僕は、女好きの彼が襲われる前に、女優さんの首元を素早く両手で抑え込んだ。彼女は人間の目にも留まらぬスピードで僕の手を掴み、血が滲む程爪をたててきた。
痛いなぁもう。
これ以上キレイな肌を傷つけられても困るから、たまらず彼女を床へと叩き付けた。床に倒れるや否や僕の方を見て、床を這うように近づいてくる。その速さはまるで蜘蛛並み。蟲嫌いな僕が想像したくもなければ、できれば例に挙げることすら避けたかった。
「レオン君。さっさと片付けたまえ」
白いお髭を蓄えたお店のマスターから貰った、おかわりのお酒を楽しそうに飲んでいる。まるで僕らの決斗が見世物みたいじゃないか。氷とお酒の入ったグラスをくるくると優雅に揺らしている彼を、一発か二発くらい殴りたくなった。こちらの安否を気遣う素ぶりすら見せない。その怒りを、襲い掛かってくる女優さんに対してぶつけてやることにした。
僕の右手で作った握り拳が彼女の美しい顔面に直撃すると、文字通り鼻っ柱が折れ、崩れるように床へと倒れた。
倒れると同時に、タイミングを待っていたと言わんばかりに、ポケットから緑色に発光している輪形拘束具を取り出した。
一見緑色の紐に見えるのだが、人の両手に巻きつけると、金属の手錠よりも固く外れなくなる優れものだ。昨今の科学技術によって生み出されたこの拘束具は、そこらの人間が持てるものではない。たまに、こういった道具を自慢するかのように見せてくる。僕にとってはどうでもいいんだけど。
「予定より5分遅いぞ。もっと遅かったら私が女性を襲い……あ、いや。女性に襲われて殺されるとこだった」
「金髪美人で、目がギラギラと赤く光るヴァンパイアの女性が好みなんですね。覚えておきます」
僕は彼から拘束具を引っ張るように奪うと、床に倒れている女優さんの両腕を背で交差させ、動けない様にしっかりと結びつけた。
店内がざわつき、逃げ出す人も居れば、酔っ払っているので陽気に笑っている人も居た。何かのショーと勘違いしているらしい。
カウンターの向こうにいる白髭のマスターは、やれやれと言わんばかりに、肩をすくめていた。
ロミオさんは千鳥足になりながら、僕の元へと歩いてきた。ぽんぽんと頭を叩くと、流暢に喋りだした。イラッ。
「人ごみに紛れて逃げようとしてもダメだぞ暗殺者。お前は、最近起きたアルカディア議員を何人も暗殺した犯人だ。ただの暗殺者じゃない。魔族だろうが人間だろうが、その本質を見抜いては殺しを行わせるように仕向ける。ある意味、プロデューサー業を全うしている」
先ほどは穏やかな口調だったプロデューサーと称されている男は、胸ポケットから赤い液体が入った試験管を取り出すと、それを一気に口の中へ入れようとした。
僕は一歩、二歩と、ステップを踏むようにして彼に近づいた。表現は軽いけど、実際の速さはそんな生易しいものではなかったけれど。
手で払うと、小奇麗な音を立てて試験管が粉々になった。続いて、僕の2倍は身長があると思われる彼を、ひょいと床に背負い投げ。
この一連の流れを見た彼は、グラスをカウンターに置いて大きな拍手をした。イラッ。
「素晴らしい身のこなしだ。だが、安堵するにはまだ早い。私が予測していた通り、あれはヴァンパイアの血で生成された強化薬。普通の人間が飲んでも、巨人の如き力が得られる」
「ヴァンパイアの血ですか。あまり気持ちのいい話ではありませんね」
「この状況も、気持ちよくはなれないな」
店から大半の客が逃げ去り、扉からタバコの煙りが放出されたことで、店内をじ~っくりと見渡せる。
ようやくここで理解した。僕たちは、逆に狙われていたんだと。
「天才名探偵を捕まえるのに、そう苦労は必要なさそうだな」
床に倒れていたプロデューサーがふらふらと立ち上がり、復讐心たっぷりに目と口元を歪めた。
プロデューサーの近くに、数人の同じ黒服を着ている、黒いサングラスを掛けた男たちが集まる。まるでゴキブリみたい。うげ、蟲を例えで出してしまった……。
「ロミオさん。これは、給料割り増しにしてもらわないと困りますよ」
「う~む。考えておこう」
一人目の黒服が僕の顔面を殴ろうと、野蛮な右拳を繰り出す。僕は左に避けると同時に、右手で繰り出してきた腕を鷲掴み、壁へと放り投げた。面白いことに、黒服の男は窓ガラスに直撃した後、そのまま店の外へと吹き飛んでいった。まるでギャグ漫画みたいな光景。ちょっとばかし溜まっていたストレス消化になっていい感じ。
すかさず僕を狙う攻撃が、背後から来るのが空気で伝わってくる。うーん、普通の人間に分かりやすく言うと、団扇で思いっきり風を起こしてもらった時みたいな?
咄嗟に振り返りぶん殴ってやろうかとも思ったけど、その相手はぶるぶると震えたまま直立で動かなくなっていた。
「背後ががら空きだぞレオン君。10点減点」
「ここでもテストするんですか?ロミオさん」
女好きで酒好きで給料をケチる最低の探偵、それがこの男、ロミオさんだ。
黒いシルクハットに、仰々しい燕尾服。
ロミオさんは僕を襲おうとした男に電流の走る棒を突きつけていた。見た目は細い野球バットみたいな物だけど、その先端が身体に触れるだけで動けなくなる程の代物。これまた、最近の科学力で手に入った優れもの。
あれ、結構痛いんだよねぇ。特に、舌が痺れてたまらない。一週間はまともに食べ物の味がわからなくなるくらいに。
小さい子供と、小道具を次から次へと出してくる男に対し分が悪いと判断したのか、プロデューサーは出口へ走ろうとする。
ロミオさんは燕尾服の内ポケットから、輪ゴムサイズの紐を取り出した。それをプロデューサー目掛けて投げつけると、足に絡まって壮大に転倒。顔面を床に強打した後、ピクリとも動かなくなった。
「我々を相手にするには、少し数が足りないんじゃないか?」
「これくらいで十分でしょう。どうせ割増で給料出ないし、そろそろ帰りたいんですけど」
「まぁそう言うな。こういう時は虚勢を張った方がかっこよく見えるものだぞ?」
「その考え方には賛同いたしかねます」
「あ、そう」
余計なトークを繰り広げているうちに、僕が上を見上げないと顔を見えないくらい身長差のある黒服の大人達が、怯えて店から逃げていく“光景”はなんとも“滑稽”だった。ちょっと洒落た言い回しになったね。え?面白くないしギャグにもなってないって?まぁいいじゃないですか。
床に倒れたまま動かないプロデューサーの腕に、美人さんに使った物と同様の拘束具を結ぶと、ロミオさんはとても満足そうに頷いた。
「これで任務完了だな。帰るぞ、レオン君」
カウンター席に一枚のメモ用紙を残し、彼は店を出ようとした。すると、老年マスターはじっと睨みを利かせた。
「探偵さんよ!金を払っていけ!」
「マスター、ツケで頼むわ」
「前もそう言って払わなかっただろう。今日という今日は許さないぞ」
長い口論になりそうだったので、僕は先に店の外へと出て行った。お酒の匂いがたまらなく苦手だったので、どうしても新鮮な空気を吸いたかった。
とは言っても、ここはアルカディア。工場があちこちにあるため、空気が綺麗とはお世辞にも言えない。それでも店内よりは、幾分かマシだと思う。
「待たせた。さぁ行くぞ」
数分後、ロミオさんはご機嫌な表情で店から出てきた。一体、どんな悪知恵を働かせてマスターを騙したんだか。
「お店のマスターとは無事に事を済ませられたんですか?」
「どうとでもなるもんだよレオン君。それよりも教訓になっただろう?美しい女性には棘がある」
「僕は将来、ああいう店には出入りしない事にします。危険すぎですから」
「危険な香りが、男を呼び寄せるのだ。まだ子供のキミにはわからないさ」
いちいち心に針を刺してくる人だ。もう少し気の利いた事を言えないんだろうか。
「しかしながら、成人ヴァンパイアを呆気なく倒せるとは、流石だなレオン君。白いワイシャツに黒いズボンを穿いている見た目通り中学生である君が、こうも難なく事件を解決してしまうとは、実に頼もしいものだ」
「あの酒場に現れるという推理をしたロミオさんのお陰じゃないですか。神出鬼没で、どこに現れるのか警察もわからなかったのに」
「例えヴァンパイアでも女性は女性だ。美しい女性の居場所は、すぐにでも察知できるさ」
「この馬鹿は……」
「え、何か言ったかねレオン君」
恍けた顔をしながら、僕に片耳を近づけてみせる。鬱陶しい。
心無い口元がひきつった笑顔をロミオさんに向け、僕は帰路に着こうとした。
「ロミオさんにアホな間抜けなんて言う訳ないでしょう」
「ちょっと言葉きつくない?」
「さ、早く戻らないと。明日は報酬を貰える日なんですから、寝坊しちゃダメですからね」
「別にいいだろ暇なんだし。それよりもいやはや、面白い事件だった。アルカディアナンバーワンの天才名探偵にとって不足無し」
「自分で天才って……。天才であることは認めますけど、自分で言うのはどうでしょう?」
「いいんだよ。本当のことだから。さ、帰ろう帰ろう、おうちに帰ろう」
意気揚々と歩みを速めたが、ロミオさんは徐々に失速し、腰を折って口元を抑えた。
「だ、ダメだ……色んな種類の酒を飲み過ぎた所為で具合悪くなってき……ぅ」