迷路平原は終わる
迷路平原は終わる
見渡す限り田んぼが続いていた。空から見れば恐らく一定の面積で区画分けされた田んぼ。青々とした稲が晩夏の風にゆれて、さわやかな波をつくる。
雑草と砂利と土の畦道が縦横無尽にのびている。
その中僕は、歩いていた。当てもなく歩いていた。僕は、右を見て、左を見て、正面の遠くまで続く畦道を見つめる。どこも、どこにでもありそうな田んぼの中の景色だった。そこに不自然なものは何もない。何もない。
今度は空を見上げた。恐らく昼前後くらい――十時から三時ぐらいだろうか。青空は輝いていて、立ち上がる雲も白く煌いているように感じる。
僕は、ため息を吐く。
困ったことになったのだ。
一体全体、ここは、どこ――だろうか。
僕は、記憶を探ろうとする。どこでどうなってこうなってしまったか。
記憶にあるのは、夜だった。
夜だ。その日の僕は、色んな感情の中の失意のその中にあって、家を飛び出し、ふらふらと当てもなく歩いていたのだ。いや、正確には、目指していた場所はあった。それは海だった。昔も散歩と称して十五キロの道のりを歩いて海まで歩いていったことがある。今回もそれを繰り返そうとしたのだ。
しかし、その時の僕ほど、今の僕は優れた存在ではなかった。以前の僕は夕暮れから田舎の道をふらりふらり海を目指して歩くという奇行を働いたのだが、如何せん当時はよく運動をしていた体力があったのだ。それに精神面も今よりタフであった。それが違いだ。
今はと言うと、無駄に歳を取り、その割りに何の得物もなくて、そんな自分に嫌気が差して、その上に、精神がおかしくなっている。散々だったのだ。
精神がおかしい、これは自分でそう告げたところで、信じてもらえないかもしれない。だからしっかり僕は、言う。僕は不安と加害を障害として負っていたのだ。
僕の精神は常に負い目の中にあった。僕の行った行動で誰かが不幸に見舞われるのではないかといつも考えていた。例えば――。
僕が町を歩いたとする。そこは偶然人気のない路地で、そこに子供が僕の横を通り過ぎたとする。ただそれだけだ。わかるだろうか。僕には、こんなことが苦痛なのだ。頭が狂ってしまうぐらいに自身を追い詰める辛いことなのだ。
実際は、僕はその場において、何もしていない。しかしながら、僕の思考が至るのは、一つの可能性だった。
もし僕があの子供を怪我させたら――殺したら――どうなるだろうか。
そんな思考が頭を過ぎるのだ。だからと言って何かするわけではない。何もしていない――はずだ。無数の景色の中で浮かんでは消える水疱のような感想未満の感情の中に僅かにこのような想いが生まれる。それが芽を生やす。僕は何もしていないと考える。しかし、本当にそうか? ともう一人の僕が僕に問いただす。お前は本当に何もしていないか? と。
記憶の限りでは何もしていない。しかし記憶と言うものは曖昧で、意識しないとちょっと前のことも朧げなもの靄になって消えてしまう。僕が無意識に勝手に自分の都合の良いように記憶を改竄して本当は、子供に暴力でも振るったかもしれないのに、それをなかったことにしている、としたら。
それを否定する要素はあるだろうか。
僕はその時、子供の後ろ姿を見る。何もなく歩いている。いや、違うのだ。それは何もなく歩いているように見えるだけなのだ。本当は僕が暴行したかもしれない、それで強迫したかもしれない。誰かに言ったら殺すと言ったかもしれない。そんな想像が泡のように浮かび、何故か消えず、割れず、どんどん溜まっていく。どれもが現実のように思えて不安は広がる。そうして僕は何も信じることができなくなるのだ。
仮にそこに川などあったらどうしようか。僕は思ってしまうのだ。人を殺してその川に捨てた。と。そんなことあるはずないと思っているのに。深層の自分がどう思っているのか、わからない。本当は全部犯行を犯したあとかもしれない。自分がそうと気づかないと思い切っているのだ。つまりは胸の中にいるもう一人の自分を信じれず、彼が僕には化物のように思えてならないのだ。
また、彼、もう一人の自分と言ったところでそれはどう見たって僕自身なのだ。だから、その責任は彼であり、僕なのだ。
障害はもっと沢山僕に襲い掛かってくる。車を運転していて、道路に何か影が見える。通り過ぎたとき、思うことがある。
今、何かを轢かなかったか。
何か、動物か、子供か、何かを轢いた気がしたと、そう思い始めるのだ。やはりその後の考えは、何か轢いた事実を無かったことにしようとした自分の存在への疑いだ。
しかし誰がそれを信じえよう。誰がそれを否定できよう。同乗者がいれば、まだなんとなるかもしれない。聞けばいいのだ。今、何かいた? と。
一人のとき、信じられるのは、自分だけだ。しかしその自分が信じられないのだ。その自分が一番信じられないのだ。
別にそれぐらい良いじゃないかと思うこともあるかもしれない。もしそれが子供だったら大変だ。
僕はそんな時――不安に駆られたら、いつも引き返して路面を見る。何もない。今まではずっとそうだった。
別に動物ぐらい、と言うかもしれないが、僕にはそうは思えない。もし瀕死になった動物がいたとして、その場で引き返して、病院に連れて行けば助かるかもしれない。それはどうだ? もし飼われているものだったら、それで安堵する飼主がいるのだ。安心する人がそこにいるのだ。動物に家族がいて、探している親がいるかもしれないのだ。そうならば自分の何かを犠牲にしても行動するべきじゃなかろうか。しかしこの考えとこの行動が何度も行動の中に不安を生んで、終いに僕は何もできなくなってしまうのだ。
そして、一度だけ。僕は猫の死体を轢いたことがある。雨の日で良く見えなかったのだ。それは、言い訳でしかない。もう死んでいた。だから、いい、とは僕は思えなかった。引き返して、死体を轢いてしまったということに僕は、嘆いた。その時の僕はもう壊れかけていて、雨の中、呆然と立ち尽くすしかできなかった。
他にも、火事を引き起こすのではないか、甚大な被害を生むのではないか、そんな想像は取りとめもなく僕の前に浮かび上がる。それは留まることを知らず、どんどん割れない泡となる。僕は確認と必死の自己の弁護をもって泡を取り除こうとする。
取り敢えず、僕の精神が異常なのはこのような感じからだった。そして、それが取り敢えずのような言葉で彩れないのも事実だった。これが僕の生活のすべてであったのだ。
そのため、今回夜を歩いていた時、僕は気が気でなかった。失意の中にあったとは言え、自分の中には狂おしい――嫉妬とも不安とも怒りとも取れる――感情が渦巻いていて本当に自分が他人に危害を加えるのではないかと怖かった。できれば誰かに見張ってくれていればいいのにと思った。そしてならばちょっと事件を起こして刑務所にでも入ったら僕は楽に成るかもしれないなどとも考えた。
夜の歩道を歩く。田んぼばかりの平野を貫くような二車線道路の脇の歩道を歩いていた。対向車のヘッドライトが僕を何度も照らす。僕は僕を見張っている車があって嬉しいと感じた。車がなくなると、それはそれで静かで夜としては心地よいけれども、やはり不安でしかなかった。化物になるかもしれない――人間にとっての悪魔かもしれない――自分が、怖かった。
それでも僕は歩みを止めなかった。止めたくなかったのだ。海を目指して進んだ。だって、家に帰りたくなかったから。
しかし……果たして僕は、海に辿り着けたのだろうか。そしてどうして今、田んぼにいるのだ。その接点はわからないままだった。記憶はここで終えることになる。
辺りには誰も見当たらない。これは良いことだった。自分が誰かに何かする可能性もないと考えることもできるからだ。非常に気楽ではあった。
僕の行動は誰の迷惑にもならない。
僕はここで、ぼうっと歩いていても何も感じない。
ささやかな風の音が通り、過ぎ去ってゆく。辺りを包むような稲の騒々しさが駆けてゆく。今、この場において僕はあまり不安を感じなかった。天気の良さは景色の田んぼ一辺倒さが影響しているのだろうか。
にしても、僕は今どこにいるのか、状況が掴めないのはさすがにまずいだろう。きょろきょろと辺りを伺いながら、歩を進める。
いや、と思う。どこか解ったところで、どうしようと言うのだ。僕は戻りたいのか。その問いに対してはっきりと頷くことは今の僕には、できなかった。
僕は畦道の十字路で一度右に折れた。その先も永遠田んぼだけなのだが、そこからしばらく歩いていると、遠くに人影らしきものを捉えることができた。僕はほんの少しの喜びと幾ばくかの不安を綯交ぜにしながら、その人影を目指した。何となくそうしないことには先に進まない気がしたのだ。
太陽の関係で、向こうから歩いてくる人がよく見えない。それほど大きいわけでも小さいわけでもない。しっかりした足取りは僕と同じぐらいか近しい年齢であろうことが伺える。
数十メートルぐらいになって、その人影の輪郭がわかるようになる。その段で僕の心は揺り動かされた。相手は異性だった。
最悪だ、と脳裏に浮かぶ。
変な緊張が体を走る。しかし、諦めるしかないだろう。ここに来て逃げ出すのも変なことだ。
同じような背丈の女性。向かい合った時、僕も彼女もその場で立ち止まった。恐らくむっつりとしている僕に対して、彼女は、どこか所在無げな弱弱しい表情を浮かべていた。
「あの……」
「すみません……」
ほとんど同時に声を出し重なる。気まずい空気が明るい田んぼの畦道に漂う。僕はすかさず彼女の方に手を差し出す。
「さ、先にどうぞ」
女性は一度僕の手を見て、上目遣いでこっちを見てくる。そして、言った。
「すいません……私、ちょっと迷ってしまって――ここ、どこですか?」
僕は思わず口を閉じることを忘れて、ただ眼の前の女性を見ていた。彼女の言ったことを反芻する。体の中の肩の周囲の血液が熱くなった気がした。
「僕も、ここがどこかわからなくて、あなたに聞こうと思ってたんですけど」何とかそう言うことができた。別に女性が苦手とか、そういうわけではないのだ。この怯えは、自分が怖いだけなのだ。
「え、そ、そうなんですか」と女性はうな垂れた。「変な、話なんですけど、私、気がついたらここにいて、ずっと彷徨ってたんですよ。それで、あなたを見つけて、やっと……って思ったのに」
「その状況まるで、僕と一緒です」
女性は驚いた目をこちらに向ける。
「僕も、気がついたらここにいました。さっきまでずっとわからない道を適当に歩いていて――」ただし、別に戻りたいと思ってはいないということは言わなかった。
女性は眉を寄せて、顔を顰めた。
「奇妙ですね。なんだか気味悪い」
「ですね。空気はこんなに穏やかなのに」僕は思わず周囲を見渡した。平和な田んぼの景色と青空は相変わらずだ。その下で訳の判らない奇妙な空気が漂っている。
「そうですね」と女性は相槌をうつ。「――あなたは、これからどうしますか?」
そう訊ねられて僕は、ふと現実に引き戻される。若干、しどろもどろになりながら、答えるべき答えを探す。
「僕は、取り敢えず適当にまた歩きます。それ以外にどうしようもないし」
「……じゃあ、もし良かったら私も一緒に行っても大丈夫ですか」
「別に構いませんけど。こんな状態だし」
僕がそう言うと初めて、女性はほっとしたように微笑んだ。
「イヤマ、アキラです」
歩きながら僕らは自己紹介をしていた。正面を真っ直ぐ進む畦道はどこまで続いているのか、わからない。
「イヤマってどんな字です?」唐突に彼女は食いついてくる。この場においてそれはあまり意味のないことと思うが僕は答える。
「イタリアを示す漢字の伊に山」
「え?」殊更に女性は目を丸くして驚いた声を出す。「私と同じ――」
「あなたも、伊山さん?」
女性はこくりと頷く。
「私は、伊山ひかりです」
僕は彼女の名前を胸の内で暗唱する。伊山ひかり――。その瞬間にざわざわとした気味の悪いものが胸の辺りを過ぎる。
「同じ苗字だと呼び辛いですね。あきらさんって呼んでも?」
僕は頷く。
「年齢同じぐらいですよね。私は二五です」
「僕は二七」
「二歳差ですか。二歳と言っても、何だかあんまり離れてる感じしませんね」
「そうだね。――ひかりさん」僕は恐る恐る彼女の名前を呼んでみる。
「はい」彼女は微笑む。
その返事を聞いて、悟られない程度に胸を撫で下ろした。
「ひかりさん、は昨日の記憶ってある?」ここまで言ってから「あれ?」と疑問を感じる。僕の記憶に最後にあるのは、夜を歩いていたことだが、それが昨日であるとはまだ断定できない。最後の記憶が夜で、気がつくと昼だったので、昨日と思っただけなのだ。僕は訂正する。
「昨日じゃないな。ここに来る前の記憶、かな。それってどんなの?」
「ここに来る前の記憶……ですか」一度彼女は黙りこくってそれから口を開く。
「それは、あきらさんに会う前も考えてました。でも直近の記憶がよく思い出せません。覚えているのは、電車に乗っていたこと、かな。仕事帰りだったんですよ」
「電車?」
この田んぼ以外の人工物が何も見えない景色の中で電車とは、妙に浮いた存在に感じる。
「確か、会社の帰りで、地下鉄に乗って、それから乗り換えて。車内の冷房が寒いなってまでは思ってました。その後、地上に出て、そこから――……よく覚えてません」
懐かしさがあった。地下鉄――僕はその言葉に地下鉄のあの微妙に暗く、しんみりした旧世代の遺物のようなホームを想起する。その時、急に視界が暗くなり、辺りが涼しくなった。肌を縫う様に風が通り抜ける。顔を上げると、上空を雲が通り過ぎていくところだった。太陽が雲に隠れたのだ。僕は顔を下ろし彼女の方を向く。
「僕と一緒か。僕も途中までは覚えてるんだ。恐らく最後の記憶。でもどうしてこうなってしまったのか、それは解らない」
再び体にふわっと温かみがやってくる。視界は明るくなる。
ベージュと灰色を称えた雲と、白色の眩しい雲が一緒になって、そのまま、端々を散らしたような形を維持して遠くに滑り去ってゆく。
「変に似た境遇ですね、私たち」と彼女は微笑んだ。そう言って彼女は顔を上げ、遠くを見るようにする。横を歩く僕がそんな彼女を見ているのは、どことなく変な感じがした。その仕草が何か妙だった。
「どうかした?」
僕らの歩く足音だけが現実めいて生きていて、それ以外は陽炎の向こうの幻想にいるように思う。
ひかりは、僕の方を見て――やはり彼女は微笑んでいて――それからまた前方の空を見上げるようにする。
「変な気分なんです」
「変な気分?」
「言葉だけだと、よくわからなずもしかしたら、誘拐とか拉致とか不安げな空気がしますけど、こんな状況なんですけど、私ちょっと今ほっとしています。そんな自分がいることに気づいたんです」彼女は急に突拍子もないことを口にした。現状が突拍子もない状態であるにも関わらずだ。話が飛躍する。
「ほっとしてる? ひかりさんは何かから逃げるようなことでもしていたの?」徐に口にしたその言葉は僕自身にも思わず飛び掛る。僕もそうだ、自分という怪物から逃げようとしていたはずだ。生ぬるい体液が喉にまで詰まりそうな嫌な気分になる。
訊ねられた彼女は今度は真顔で「そうですね」と思案しだした。その表情は薄っすらと哀しみを帯びている。
「そうですね。逃げている――そうかもしれません。でも何から逃げていたのか、それはわかりません。日々、何かに攻め立てられて、それに追いつかれないように必死で前に進んで――いや、前に進んでいたのかどうかわかりませんけど。物理的な意味では――あんまり逃げていない、と……思うんですけど。でも逃げるって言うのは、あながち間違ってませんね」
彼女の話すのは、これまでの彼女の生活のことなのだろう。仕事帰りと言っていたから仕事と生活とそんな中での苦しみのようなもののことについてなのだろうと僕は想像する。
一瞬、同じ穴の狢かもしれないという期待を僕は彼女に持った。けれどもそれは違っていたようだ。彼女は僕よりも遥かに前進している。そんなことに期待してはいけないとわかっていても、やはり僕は僕一人で僕はそれを寂しく思う。そして自分が駄目でどうしようもない惨めな存在だと改めて突きつけられる。
「すごいな。それは、頑張ってたってことじゃないのかな。逃げているとは、違うと思うよ。そうやっていくことが前進していくものだと僕は思うけど。他の人と変わらないよ」
僕は当たり障りのない言葉を言った。しかし。
「そうすることが当たり前って酷い言葉ですよね」
心無い僕の励ましは、彼女に一蹴されてしまう。
「当たり前だからと、疑問に思うことが許されない、有無を言わせないっていうのは、ちょっとあんまりですよ。その辺りを疑問に思ってしまった人は思考を止めろっていうことですか。人間が得た疑問は、社会によって否定されるってのは、何か違う気がします」ここで彼女は言葉をつぐんだ。ため息を吐き、今度は弱弱しく口を開く。「……でも、みんな同じ風に思っているのかもしれませんね。同じように。進んでいるのか、逃げているのかわからないような」
僕には、彼女の言っていることがある程度わかる。その心情も少しは判ろうか。しかしそれだけだ。進退の狭間で右往左往し、けれども足は地面に着いている彼女は、僕とは違うのだ。
「だから、ここはのんびりしていていいところで、ほっとするんです。本当はこんなことしてる場合じゃないのはわかってるんです。でも今は何と言うか、ずっとここにいたいなって思ってしまいます。今はこの眼の前のこと以外何も考えなくてすみます。心が穏やかなんです。……疲れてるんですね私」
明るく振舞ってそう言う彼女に僕は、こう思った。あなたの気持ちが僕に全部理解できないように、実際に、逃げいている人の気持ちは、あなたには理解できない、と。
「確かに、ひかりさんはさっきからどことなく楽しそうだ。普通はもっと慌ててるかもしれないのに」
「それは、あきらさんがいるからですよ。他人がいれば、かなり不安は解消されますから」
「僕がどんな人か、――判らないのに?」
どんな人間か解らない相手、彼女にとって僕は未知数の存在だ。できれば警戒心をもって僕が何かしたらすぐに反撃して僕を殺すぐらいの態度であっても良い。僕でさえ僕が判らないのだ。何をするか判らなくて怯えているのだ。だから、出来れば近づかないで欲しい。そうであるなら、僕自身がどれほど傷つこうが構わない。他人に迷惑がかからないから。他人に危害が及ばないからだ。気持ちの悪い自己犠牲だが、そう思わずにはいられない。
しかし、彼女はそうではなかった。まだ会って僅かだというのに、どうも距離が近いように思える。それが僕を不安にさせた。僕が化物になってしまうのではないかと僕を怯えさせた。
「私は、他人は一度信用してみようって思ってるんです。根っからの悪いことを思う人ってのは、そういない。どこかが変わってる、変なっていうレベルの人ならあちこちにいますよね。それをしっかり見もしないで悪とするのは、いけないと思います。それにこんな状況じゃ、相手を信用してみるしかないでしょう? 判断する時間なんてないんだし。ここ以外にはあなた以外にいませんし」
「やっぱりひかりさんはすごいよ。前向きだ。僕はそんな風に思えない」実際は、自分に対して、そんな風に思えない。
「こういう困った時――と言ってもこんなこと滅多にあるものじゃないと思いますけど、こういう時は男の人が頼りって言うでしょう。私はあきらさんを頼りにしています」
「無条件に?」
「無条件に」
「――返答しがたい。ひかりさんも変わってるって言われるんじゃない?」
「あきらさん」彼女は、大きな声で僕を呼ぶ。「私は変わっていない人などいまいと思っています」
「ここ、どこだと思う」
もうどれだけ歩いたろうか。どれだけ歩いても、進んでいないかのように景色にほとんど変化が見られない。日も落ちず、ずっと同じ位置にあるように思われる。
そんな時に、どこまでも続く田んぼの中に一本の木が見え始めた。その木が何か意味のあるものであるのかと一縷の望みをかけたが何てことはないただの木だった。その下の木陰で僕らは休憩することにした。
畦道と田んぼの間の土手のような所はふかふかとしていて座り心地は悪くない。すぐ傍を側溝が通っていてゆるゆると水が流れていて、日向にあって水はきらきらと光の欠片をたゆたせる。
「すごく広い田んぼですね」
「そうじゃなくて、もっと具体的に」
これだけ歩いても何も見えてこないのだ。あるのは、青々とした田んぼだけだ。
「こんな景色はそうないはずだよ。日本なら、東北とか北海道とかじゃないかなって勝手に僕は思うんだけど」
「でも、私たちが得られた情報って一面田んぼ、ってだけですよ。当然、その稲の品種が何かなんてわかるわけもない。強いて言えば――あ、あんまり暑くない、ことですね。夏っぽいけど夏よりも涼しい感じ。……でもこれだけじゃ、どうしようもないですよ」
「少なくとも」僕は言う。「少なくとも、ここは僕もひかりさんも知らない遠くの地。そんな所に何故か僕らはいる」
「そういえば、そんな小説ありましたよね。知りません?」
「どんな話」
「中学生の頃に読んだんですけど、気がつくと赤い火星のような大地にいてってやつです」
ひかりさんはその小説のタイトルを言ってくれた。僕には、記憶があった。その小説を僕も中学の頃に確か読んでいるはずだ。タイトルを口にすると、ふわふわと情景が浮かび上がってくる。そうだ。生き残りを賭けた怖い話だった印象が残っている。
「それって確か、――何人かの人でサバイバルな環境で殺し合いをする話だったような」
急に気味悪くなる。そんなこと有得ないだろう。まさか、本当に生き残りを賭けたサバイバルゲームに放り込まれるようなことはない。しかし今の現状は小説の内容に言うほど遠くないとも思えてくる。
「出来れば、そう言ったことはご免被りたいですね」
思わず僕は、座りながら首をのばして周囲を伺う。青々と揺れる稲の向こうに誰かいないかと目を凝らす。しかしそんな影は一つもないようだった。
「誰もいないですよ」くつくつと隣りでひかりさんが笑う。「それにしても、何だか、偶然ですね。あきらさんも同じ小説を中学生の頃に読んでいたなんて。あんまり有名な小説じゃなかったと思うんですけど」
「偶然、か……」さっき、覚えた異常な気味の悪さ。それが、偶然という二文字を怪しませる。本当に、そうか。しかし、有得ない。
「さっき……。いや、ひかりさんの名前って漢字?」
唐突に話題が変わり、彼女は面食らう。が、すぐに答えてくれる。
「え、あ、漢字ですよ。あの光です」彼女は空を指差した。それは決定的だった。
この薄気味悪さ。この何でもない景色が――ほのぼのとした田園風景さえも異常にさせる事実。それは偶然か。……そんなわけ、ない。
「ひかりさん、僕のあきらってどんな字だと思います?」
「え? ――あきら、ですか。そうですね……」
彼女は顎に右手の人差し指を乗せて考え込む。
「水晶の晶か、昭和の昭とかですか。あきらって読める字結構ありますよね」
「そうなんだ。色んな字があきらって読めるんだ。これは――これは本当に偶然なのかな」
「どういうことですか」
「あまりにも似通いすぎてる。偶然と言えないこともないけど、偶然とは思いたくない。ひかりさん、僕を騙してる?」
「私がですか。どうして」
「そうも思いたくなる。僕の字はちょっと珍しくて、あんまりない。あきらってのは――僕の字は、君と同じひかりって書いて、それであきらと読むんだ」
木陰の中にあって彼女の顔色は青ざめているようにも見えた。
「あきらさんの字も光?」
「イタリアの伊に山に光。イヤマアキラ。ひかりさんと全く同じ字」
「あきらさん、それ嘘ついてませんか?」
彼女は口早に訊ねてくる。
僕は首を振る。
「そんなことしてない」
「私の言うことに合わせているだけ、つまり冗談を言っているだけって考えるのが、自然ですよ。そもそも光であきらって滅多にない名前です。ちょっと無理矢理に思えます」
彼女がほんの少し眉を寄せてこちらを見る。少々気まずい。彼女が口にした無理矢理という言葉が、僕の中でふらふらと揺れる。
僕の記憶の中で、僕が甲高い声で「無理矢理だ」と叫んでいる光景が浮かぶ。
「僕もそう思ったんだ。無理矢理だって抗議した」僕はぼそぼそと呟く。
「どういうことです?」
横でひかりと会話しながらも僕の脳内の映像は先に進んでいく。
「僕は、親から聴いたことがある。生まれるのが男でも女でも、光るって字を使うって決めていたって。光りって字が気に入っていたから」
僕はここで口を止めた。記憶の映像はその後を流している。無理矢理の言葉から思い出される過去が、ある不思議で不気味な言葉を生み出している。
「それに関しては、珍しくないと思います」
風が吹いた。周囲の青い稲が波となって揺らめく。僕はこの長閑な田んぼの平野が、怖くなった。人の意識が介在しない原始的な何かに思えて、純然たる無意識であって、そこに平和はないように感じた。
「僕は、何も作って偽っていない。これは僕の記憶だ。親はその時言ったんだ。男の子ならあきら、女の子ならひかりにしてた、って」
僕らは再び当てもなく歩き出した。
ひかりは暫く言葉を口にしなかった。黙ったままで、思案しているとも、呆けているとも取れた。思案している人を邪魔するわけにはいかないと僕も何も喋らない。ただ僕らは歩いているだけで、たまに風が吹くだけだ。言葉を紡ぐということが、人間の人間たる主張をするのなら、言葉を口にしないことは僕らが田んぼの景色の中に融けてしまったとも考えられた。
「もし、あきらさんが何も嘘をついていないとして、私も何も偽っていないのなら……。あきらさんの父親の名前は何ですか?」
「父は雄一。母は――」
ひかりが後を引き取る。
「汐子、ですよね」
「うん」
何故彼女が知っているのか。この奇妙な状態、何が何なのだろうか。
それが一つだけある。おぼろげに頭の中で形になろうとし、その前に消えていくもの。
「説明がつくことなんて何もないです。でも、私、わかりました。もしかして、私達は、同一人物なんじゃないんですか?」
僕らは立ち止まった。立ち止まって、顔を見合わせる。僕の目には、彼女の顔が映っている。意識しなくても、彼女の顔や体つきを確かめてしまう。僕と同じ程度の身長で細身ではあるが、それ以上どうとは思えない。
「仮にですよ、どちらも嘘をついていないのだとしたら、同じ両親を持った同じ名前の人間。気がつくと全く知らない土地。本当にSFにあるような、あれです。……パラレルワールド。あ、あれがあるのなら、私とあきらさんは同じ人間なんじゃと、私は今そう思いました」
次に、口をあんぐりあけて呆けるのは、僕の番だったようだ。
頭の中に朧げにもやもやとしていたものが、形になった。
まず、頭が働かない。頭の中に文字が浮かんでそれを一字ずつ読んでやっと言っていることの意味がわかってくる。
「何言ってるの?」
「私もよくわかりません」
次に、浮かんだのは現実的ではないという文句だった。彼女が言ったことなど、そんなものどこにも存在しない。あるとすれば、それは物語の中でのこと。筋は通っていると言えるのかわからない。しかしそれはないようにも思えた。
「同じ人間。性別が違うのに」
「だから、パラレルワールドなんですよ。伊山家の光りの字の子供が、男の子か女の子か、そこが違って分れたパラレルワールド」
僕はしばし考えた。考えてそれを否定するもの、肯定するものを並べていく。
「両親だけじゃ足りない。色々、合わせてみよう」
僕らは歩きながら、お互いの生活状況を並べていった。それがすべて符合するなら、パラレルワールドとかの有得ない可能性も存在することになる。
しかし、しょっぱなで話が噛み合わなくなった。
「僕は、秋田の実家で両親と、暮してる」
「私は東京で一人暮らし」
考えてみれば男女の違いがあるのだ。そうすれば、自ずと進んでいく道の差は広がって行くことは必然である。
「待って、ひかりさん、二五だったよね」
「はい」
「僕は、二七だ。年齢が合わないよ。……生まれ年は?」
「昭和六三年です。あ、誕生日は――」
「十二月三一日」
誕生日を口にすると僕は複雑な気分になる。横を歩く彼女も苦虫を噛み潰したように顔をしかめていた。
「……一緒、です。よく言われることは」
「面倒な日に生まれやがって、かな」
「そうです」
僕らは肩を落としどちらともなくため息を吐いた。夏のような空の中、青々とした田んぼが広がる土地で、このようなため息は似合わない。
「仮にそうだとしたら、僕は、ひかりさんよりも未来に生きてるってこと、かな」仮に、彼女の言うように僕らがパラレルワールドの相手と会っているとするのなら、そういうことだ。
歩きながら、僕は横を歩く彼女を見た。僕と彼女はほとんど背が変わらない。横にいた彼女は、何か、信じられないものを見た、と言った風に目を見開いていた。何にうろたえているのか、口をぱくぱくさせてから、彼女は、おぼろげに言った。
「……そうみたい、ですね」
符合する部分もあればそうでない部分もあった。これほどまでに細かいことを知ることなどそうできない。今自分の身に起こっていることは信じられないような出来事なのであろうか。
「あきらさんが、私の未来。あきらさんは、今何をしているんですか?」
必然として、「今」の話に辿り着くのは、わかっていた。
「……多分、秋田と東京で住んでる場所も違うんだ。参考には、ならないよ」
「そうですね」
「もし、君のいうように、本当に僕らが起源を同じにもつ存在なら、不思議な何かが起きているなら、これは何のためなんだ?」
性別も歳も違う自分の存在。二人だけの誰もいない土地。これは何なのだ。
「あきらさんには、心当たりないんですか?」
「こんな不可思議現象に陥る心当たりなんて知らないよ」
僕は、心当たり、を探る。自分の中の心当たり。気に障っているもの。自分に障っているもの。気に病んでいたこと。そのようなことは考えれば考えるほどに溢れ出てくる。しかし、そのどれもがそうとは思えなかった。
胸が閉めつけらる。
「僕は、今まで、普通の人生を歩んできたつもりだ。どこにでもある。それは、不思議などない。現実的なものだった。ひかりさんは、あるのかい?」
僕の質問に彼女はふっと笑った。
「ないですね。私も至って現実的な生活を、歩んでました。どこにでもあることしか、起きないんですよ」
何か灰色の想いを内包した、少しの諦めの混じった日々の憂鬱を持つ人はみなそのような笑顔を浮かべる。それは本当の笑みなのだ。しかし真実ではない。
「現実的な何も起きない、どこにでもあるものか。よく思ってしまうよ。そんなものに、何の意味があるのかって」
嫌な自分が浮かび上がってくる。強迫性から生まれた何に対しても自己否定する自分。何ものも頑張ろうとしない。
「生きれば生きるほどに悲しみは蓄積していく。生きるってことは、根源的に悲しみの連鎖でしかない、とでも思っているんですか?」
どこか僅かに面白がる口調で彼女はそう言った。
まるで内面を見透かされたようだった。僕が常日頃思っていたこと。捻くれた日陰者のような、何もしない若者のような何も生きることをわかっていないと評価されるであろう台詞。生きるということに対して、悲観しか感じ得ない考え方。それを彼女が口にした。それが僕の中ではどうやら決定的だった。
「よくわかったね。一字一句違っていない」
「纏わりついて離れないんですよ。このせいでいつも気分が落ち込むんです。でも考えは変わらない」
根源的な部分はどうやらやはり似通っているらしい。
「いつも、ああ、死にたいなって僕は考えてしまう。もう何ものに対しても死にたいなって」
何も出来ない自分。逃げてしまう考え。無理だと諦めてしまう心は、何よりも自分を追い立てる。死地へと追いたてようとする。それが常だったのだ。
「どんなに楽しくても、その表裏一体の反対側に辛いことがあるんです。それが離れない。だから、余計に辛くなる。私は最近、何も感じないようにしていました。楽しいということを楽しいと感じなければ、辛いことも耐えれると。辛い時に楽しかった時が浮かぶことが、私には、一番辛いんです」
日が動いていたのか。やんわりと世界は夕方手前の色に彩られ始めていた。僕らは相変わらず休憩しては歩いてを繰り返していた。どこまでも続く誰もいない田んぼの畦道。虚しい風と虚しい影が、僕の気分をさらに冷たいものにする。
僕はいぶかしんでいた。
「もうすぐ夕方ですね」
「夕方は嫌いだ」
「私もです。自分や何もかもが憐れに思えてならないんですよ」
「そうだな」
ただ広い田んぼの中の細い畦道はとても寂しかった。二つの足音がぽつぽつと跳ねるだけだ。横を向くと俯いたひかりの姿があった。僕の視線に気づいた彼女がまた、あの笑みを浮かべる。
「なんです?」
「いや、異性の自分といるって変な気分だ」
「あ、やっと信じたんですか」
「もうどうでもいいやとも思ってる」
「どうでもいいから信じるんですか」
「違う。必死に解明したところで、それで元に戻ったところで、だから何だ、って思えてきたんだ」
「自分ではない異性と二人っきりだったらよかったですね」
にっこりと笑う彼女から僕は目を逸らす。
「そんなわけじゃないよ。それだとしても変わらないさ。気分はこんな感じだ」
僕はそのまま人差し指を空に向ける。青空の一部が少し黄金色を呈し始めている。
「そんな、解りにくいことを瞬時に理解できるのは、私ぐらいですよ」
「確かに」
今度は、僕らはお互いに、生気も力もない笑みを浮かべる。
「それでも、理解できない、いや。解らないことがあります」
ひかりの口調が少し変わった。乾いた諦めに影が指したような感じだった。
「何?」
「あきらさんは、何があったんですか。そう思うには、何かがあったんですよね。私と、同じように。それが私と全く同じものなのか判らない。多分、決定的に何かが違ってる」
「違うことがあった?」
僕の訊ねた質問に、彼女が口にしたのは、暗い言葉だった。夕暮れの暗い夜の影の中を這う様な明るさのない冷えた言葉だ。
「あきらさん、先ほど実家で両親と暮してるって言いましたよね。
「うん」
僕の肯定に彼女は、悲しげな顔になる。少しの間言いよどむ。
「私もいずれ秋田に戻るかもしれません。でも、有得ないんです。私には、もう両親はいないんです。もう死んでしまってるんです」
彼女の滔滔とした口調がそれが真実であると示していた。しかし、僕は始めその事実を信じられなかった。
僕は視線が震えた。どこをどう見れば――横にいる彼女のどこを見れば良いのか、わからなくなった。
「両親が、死んだ?」自分の声が自分の意志で操作できない。
それは、全然違う。僕たちの間には、何か有得ない差があるというのか。何が何なのだ。よく、いや、全く訳がわからない。
「去年、親が、私を訊ねて東京に来たんです。その時に、高速で……。だから、私は、もうずっと一人なんですよ」彼女の言葉は沈んでいく。「だから、ずっと一人です」ひかりは繰り返した。
言葉を理解しにくい中で僕は、彼女の言ったことを噛み砕いていく。
「そうだったんだ」
考えが、纏まっていきその時に僕は。
考えていた。もし、両親が、自分に会いにきて、その時に死んだとしたら。自分はどうなるだろう。どんな気持ちになるだろう。僕は嫌なやつだ。正直、僕は一瞬、彼女の立場ではなくて良かった、などと思ってしまったのだ。
「私は、それから……あ、こんなこと他人に……。って違うんでしたね。あきらさんも私でしたね」
動揺した彼女は、やがて憔悴しきったような笑みを浮かべた。僕は黙っていた。
「それから、私は、何してるんだろうって思うんですよ。必死に頑張って仕事をして。あきらさんがどうかは知りませんが、私は大学を卒業してから東京に行ったんですよ。家を離れて、親から初めて離れて、それで。それが自分のためになると思って、頑張ったんです。自分の目的のために必死になったんですけど。でも、もうそれがすべてどうでもいい。もう意味のないことになってしまいました。私にとって何よりも支えであった人たちを失ってそれで、何にもなくなりました。もう何もかもが意味をなさないんです。存在する必要が全くないんです」
「何もかもが意味をなさない……」その言葉を呟き僕は思う。何もかもが意味を成し、またなさない僕と正反対のようで、それは同じのようだ、と。
「私にとって、もう全くの無価値なんです」
「そんなことない、とよく聞く。無価値ではない。時は万能であり、解決してくれると、僕はよく聞いた」
「あきらさんは、それを信じているんですか」
「どうだろう?」そんな風にはぐらかす。が、多分、僕は信じていないのだろう、根拠なくそう思う。
僕の反応を見て、彼女は笑みを零す。
僕は思った。
ああ、同じなのだ。
「一年たちました。私は以前より失意の中です。そんな程度なんです、時間っていうのは。無価値というのもそれが私の中で、未だに無価値であるからです。ただの惰性なんですよ。私は、はっきり言って死にたかった。いつ死んでもよかった。どうせ大したものじゃなかったんです。必死になって戻るべき場所もない」
彼女は笑みを崩さなかった。夕暮れの田んぼの茜に染まろうとする空と影が伸びた地面に挟まれて、こんな景色の中で笑っているのだ。
それは、僕もだった。
決して楽しくはなかった。
しかし、今は笑み以外出てこないのだ。ただの全くの無価値の笑み以外は。
「結局、苦しみの方向が変わるだけ、なのかな」
ひかりは黙っていた。
「苦しみってのは、どうやったって訪れるものなんだと僕は思ってる。どうやったって避けられない。生きるってのは苦しみの連鎖でしかない。殺し殺されるかの生命なんだ。根源的に生命は苦しむ。だから、人間は生きるか死ぬかの苦しみを別の何かに起因する苦しみに変えた。が、それだけに過ぎない。そしてそれは、その人にとっては生きるか死ぬかの苦しみなんだ、と――」
自分の言っているのは、独り善がりの論調に過ぎない。若人が斜に構えたような何も知らないものの言葉でしかないように僕は思う。だから、今までこんなこと僕は僕自身以外には話さなかった。
「これが、当たり前ってことですか?」
「僕たちの中でってこと。僕たちは性別と言う差を受けたけども、変わらなかった。僕たちはどうあっても苦しみしかないって言いたかったんだ」
「傷の舐めあいですね。自分が悲劇のヒロインみたいな。そんな風に思うと滑稽です」
しかしそれが、どうしても僕の中で消えないのだ。大人になって消えていき馬鹿らしいと思うはずだと思っていたのにも関わらず、それは消えなかった。寧ろ考えは支えになったのだ。何もできない自分のいいわけであり、支えなのである。それはもう本人と切り離せない。
「滑稽でもここには誰もいないけどな。伊山家の子供一人だけ」
「こんなことばっかり思ってるなんて本当に大人になれなかった子供、ですね」
僕らは僅かに肩を震わせた。一体何が可笑しいのか、全く理解できない。
空が赤くなってきた。これが朝焼けなら、今に昇る青空に、胸に空気を吸い込むことだろう。
しかし今眼前に広がるは、終わりの世界。
大世界の前に言葉にならず、声が出ず、音のないため息のようなものがでるだけだった。
「じゃあ、」彼女はゆっくりと口を動かす。「私は、言いたい事を言ったので、次はあきらさんですね」
「僕が?」
「さっきは私があきらさんに問いかけたのに、私が話してしまいました。だから次はあきらさんです。あきらさんも、あるんでしょう? 生死から移り変わっただけの苦しみが」
僕たちはそれまで、いくつかの畦道どうしの交差路に出たことがあった。しかしどこにも曲がらずに一つの方向だけを進んでいた。それに関しては二人の歩みが意図して変化しなかったからに過ぎない。こんなところはやはり同一人物であって似ているのだ。
「僕の苦しみ、か」
僕は少し首を上げて青空の名残を見る。気が重い。自分のことを話すのは得意ではないのだ。それも一番言いたく、また言いたくもないことを。誰かに必死に知って欲しいと思いながら決して言えないのだとして、そのことにさえ、喜びと苦しみを感じた僕の苦しみを。
僕と彼女の苦しみは、方向が違う。多分それだけだと思いたい。
「僕は……精神障害を負っている。それで、僕は引き篭もりなんだ」
言ったことを直後に僕は後悔した。直後の一秒が長く感じたのだ。空気の流れが淀みを生んでたゆたいゆったりとするように、それらはみな立ち止まろうとしていた。
「引き、篭もり?」
僕は目を背けて、頷いた。とてもではないが、彼女の顔を見れなかった。
「でも、それは」
「どうなんだろうな。僕は――」
強迫障害は、僕に外での、内での活動を酷く制限させた。何もかもが、一つ気になると、それが誰かの不幸に繋がるのではないかと、不安は恐怖に変わる。人を殺してしまうのではないか、人の一生を台無しにしてしまうのではないか、生命の一生を潰してしまうのではないかと、不安と恐怖しかなかったのだ。自分のする僅かな行動が廻ってしまうことが怖かったのだ。だから、何もできなくなった。
人の少ない駅のホームに立つことが怖くなった。後から忍び寄って誰かを線路に突き落とすのではないかと考えてしまうのだ。誰もいない道を歩くのが怖くなった。誰も見ていない間に自分が何かしてしまうのではないかと。
僕は仕事に出ることもできず、結果辞めることにした。
そして実家で、休養することで、障害を少しでも和らげようと思った。
しかし、それは正しくはなかった。
精神障害により一時一歩引くのは逃げることではない。けれども、障害はさらに僕の中で目立ち始め、各所に根を生やし、悪化の一途を辿るのだ。例え部屋の中で安心できても外に出た瞬間に様ざまなことをふと考えてしまう。
結果、徐々に。徐々に僕は普通の生活から離れていった。そして、普通の生活と言うものが遥かな高みになって、届かなくなったのだ。それは崖の下から上を見上げることではない。崖を落ち続けながら、その果てない谷を見つめることに相当する。際限なく恐怖が撒かれるのだ。
だから、僕は、何も出来ない引き篭もりになってしまったのだ。僕は僕のあらゆる行動が他者に対して不幸を生むとそれしか考えられず、それが行動のすべてになって、恐れてしまったのだ。
僕はすべてを話した。
「――それは別に……あきらさんが悪いんじゃ」ないと……思います、と言う言葉に僕は小さく首肯する。
「そうだ。でも、それを言い訳にして、何もしようとしなくなった自分が許せないんだ」
「言い訳?」
「病気が甘えとかそう言う風に僕は思っていない。実際に何も僕はできなくなってしまったんだ。何もかもが怖かった。けれども、それを言い訳にして、何もしなくてもいいやって思ってしまった自分が、そんなことで満足してしまった自分が、嫌いだ――」
強迫障害も、それに屈して病気といえども何も出来なくなって、しなくなってしまった、諦めてしまった。病気であることに安心してしまった、そんな自分に、僕は苦しみを覚えた。
僕は見るのだ。
崖を落ちるとき、稀に、空が見えるのだ。その時感じるのだ。そのあまりの遠さを。あまりの広さと崖の口の狭さを。僕はそれを見て、ぽっかりと穴の開いた心の空虚さを自分の胸に覚えるのだ。
教唆は、空虚さで、何もないという絶望だ。
「――自分は何もしない、という、努力の差を見せ付けられる僕の絶望だ」
何かのせいにしないといけない。そんなこといけないと解っている。しかししようとしない、そして出来ない。これが僕の苦しみだった。自分の中に溜まり続ける吐き出すことの出来ない化物は、僕の苦しみに喜んでいる。そのすべてを忘れて僕は、外を自由に何も考えずに進みたかった。進めなくなった言い訳をして、しかしそこに仕方ないと安堵もしているのだ。
「苦しみは、その形が変わるだけ、ですか」
夕焼けで、空が轟々と山となって、その峰と谷とそれらすべてが鋼鉄のように燃えて真っ赤になっていた。
「ひかりさんとどちらが、何て思えない。僕にとってこれが耐え難い苦しみだった」
「私は、そんなこと想いませんよ。そんなことわかっていますから。でも、そうですね。私もあきらさんも同じようで違いますね。違うのは、苦しみの性質。同じなのは、無いものねだりをしているから」
「ないもの?」
「無くなってしまったものが、本人が何よりも望んでいたってことです」
本人が、何よりも、望んでいた……。
「望んでいたもの? 病気を治したいと思ったけど、それが望んだもの?」
「違いますよ。あきらさんが言ったじゃないですか。あきらさんが望んでいたものは苦しみです」
僕には意味が理解できず、首をかしげた。
「あきらさんは、望んでいるんです。もっと違う形の苦しみを。今は望んでいない苦しみに苦しむことが、それ自体が苦痛だった、私には、そう思えました」
何度も何度も苦しむ言葉が横行して、よくわからないものになる。何度も反芻して僕は、ああ、なんとなく、そうなのかな、と思った。
「あきらさんが、会社を辞めたのは、いつです」
ぼんやりと歩いていた僕に彼女はふと顔を向けてきた。それを感じ、僕はうろたえる。
「――二四になる前かな」
「勤めていたのは、東京ですよね」
「そう」
ほんの少し彼女が言いよどむのが感じられた。しかし意志を持って彼女は口を開く。
「だから、ですね。あきらさんがそこで帰ってしまったから、両親は東京にに来なかった。――そういうことです」
分かれ道は、出発点だけではなかった。そう僕も気がついた。
「だから、死ななかった。――私は、あきらさんの苦しみを完全に理解することはできません。けれどもそれが辛いであろうことはわかります。でも私には、そっちの方がいい。両親が生きているんですから」
強く力説しその後急に弱弱しくなる。
「――でも、苦しむん、だろうな、何も出来ないしない自分に」
それに対して、僕も同調する。
「僕も、さっき思った……。両親が死ぬくらいなら、今のままでいいやって。……でも違うよ。それは苦しみを二重に感じるからだ。どっちも経験してしまうと感じているからだ」
無いものねだり、この言葉が頭を過ぎる。そして同時にそれは現状で安堵している印にもなっている。『現状このようだから仕方ない。ああ、なった方がいいけど、やっぱりそっちは嫌だ。それなら現状は変わらないでいい。苦しむことの望んでる。このままの不幸のヒロインで良い。どうせ変わらないのだし仕方がないことだから』そんな風に。
「悲しいですね」一度赤く煌く空を背に、彼女は言った。
無言だった。夕焼けがゆっくりと空を覆いながら、その下で、先端に茜を、胴に影を携えた田んぼの稲は、風に揺れる。それは何故か静かにと言いたくなる音だった。
ぽつりとひかりが喋る。
「人一人殺せない兵器って知っていますか?」
「急に何?」
「人一人殺せない兵器って存在すると思います?」
「そんなもの意味があるの?」
「はい、そんなものに兵器としての価値はありません。でも、兵器として存在するという意味があります。そして、それはやはり兵器としては全くの必要無きものです」
「ひかりさんは、何が言いたいわけ?」
突然何の前触れもなく口にされる彼女からの兵器の言葉の真意が伝わらない。
徐々に。徐々に、夕焼けは燃え盛りそして消えようと峠を迎え始める。
「人の中で生きていけない人に、価値はありますか?」
その瞬間に僕には彼女の言わんとすることが理解できた。
「殺さない兵器ではないんです。殺せない兵器です。私達は……私達には、価値がないのかもしれません。戦争にとって人を殺せない兵器が必要でないように、私たちがいた世界にとって私達は必要のないものなんじゃないでしょうか? だから、今ここにいる、としたら……」
「だから、ここにいる?」
「あきらさんはここが現実の世界だと思いますか? 私には、何だか思えません。そもそも私とあきらさんは別の世界の同一人物です。パラレルワールドです。その出会うはずのない二人が出会っているんです。そんな二人がいる場所が現実と地続きの場所であるはずがないでしょう」
「じゃあ、ここは何だと思うの」
「南米よりも、月よりも、どこよりも遠く辿り着けないどこか、だと私は思います。あきらさんは私の考えが有得ないと思いますか?」
「いや、僕には、どうもひかりさんの案を否定することができない。でもそうだと絶対に信じることもできない」
「私もですよ」彼女は青暗さが空を覆う下で微笑んでくる。「私も信じてませんよ。そうだと、思っているだけです」
火の残滓が水平の先にちらちらと揺れる。昼が終えようとする。その光景は、今まで幾度となく見た事あるものだとも、全く見たことのないものだとも、どちらとも思えるものだった。最後の瞬きと共に胸を掴まれ締め付けられるような苦しさと虚しさを僕は覚えた。
「そうかもね」
何かが終ってしまったような心持ちだったため、諦めにも似た思いで僕はそう口にする。
「かも――ですね。でも、だから、そうだとしたら。私はここはそんな何か世界から弾き出された人が来るところなんじゃ、と考えてしまいます」
ここには、町のざわめきも屋内の風の流れもない。
僕の生活圏から遥か遠く離れたところなのだろうか。
僕の知る同じものが何ものもない場所なのだろうか。
しかし、田んぼの平原は当然の事ながら見たことがある。しかし、その記憶のどこともここは合わない。
「そうだったら、僕たちはどうなってしまうんだろう」
「あきらさんは、まだ思い出せませんか。私は駄目です。ここに来る前、何をしていたか。きっとそれですよ」
そうか。僕はその問題を思い出す。ここに来る前、何をしていたか。
僕はまだそれが思い出せない。
「歩いていたってことしか僕は思い出せないんだよな」
「そもそも、どうして歩いていたんですか?」
「どうして?」
「外に出たくなかったんでしょう?」
外に出ることが苦しみだったのだ。自分が誰かを攻撃するのではと、殺めるのではと、生命としてを否定するのではとそんな自分の存在が苦しかったのだ。
しかしならばどうして外に出たのだろう。外に出て何をしようとしたのか。
外に出ることが大変で気が重くなって、死にたくなるくらいに追い詰められるのにも関わらず。
――死にたくなるくらいに。
耳に風の音が聞こえる。夜がやってくる。夜特有の遠くのびた遠い音が。遠くに消える一筋の明り。ふいに光る眩しさ。
そうだ。眩しかった。
「暗くて、眩しかった」
僕はぽつりと呟く。今になって思考がゆっくりと記憶を明かそうとしている。暗い夜と明るい何か。
「え?」
「僕は、眩しかったんだ」僕は震える声でそう繰り返す。
「眩しい……眩しい」その言葉を彼女を繰り返す。そして、「あ……あ」と言葉にならないものをもらす。
僕らはどちらともなく、お互いを見た。
動揺している相手の目が僅かな光の下にうかがえる。それが示していた。
同じなのだ。
僕と、彼女は。
「ひかりさん、まさか、思い出した?」
僕は彼女に訊ねる。
彼女は視線を右往左往させる。そして呟く。
「思い出し、ました。私は…………夜、電車に轢かれたんです。もうどうでもいいやって、倒れるように崩れ落ちたんです。――そのときが、暗くて、眩しかった……」
僕の心音が高く鳴る。周囲が完全な暗闇になろうとする。自分の足元も何もがゆっくりと覚束なくなり、暗闇と一体に境目が無くなる。足元もすべて暗い海のように。底のない、深く泳ぐことのできない、何も出来ない海のように。
「まさか、あ、あきらさんも……ですか?」
僕は頷く。
声が上手く出ないために、途切れ途切れ言葉を紡ぐ。
「夜、僕は……歩いて、いたんだ。……死ぬ、ために。海で、海に落ちて、死のう……って。……でも、その前に、車に轢かれた」
そのとき、暗くて、眩しかった。
言い終えると、体がふらつくも立っていた僕と違い、ひかりはその場に崩れ落ち、顔を手で覆った。そして、すすり泣く声が耳に届きはじめる。
それを聞いて僕も、思わず膝を折った。全身から力が抜けるようだった。
もう、無理だ。
僕は、もう歩けない。
すんすんと泣く彼女の横で、僕は何もせず、黙ってうな垂れていた。死ぬことがこわかったのか。死んでしまったかもしれないことに後悔しているのか。間違った行いをしたと自責の念に駆られているのか。
恐らくどれでもない。
僕は、もう何も感じなかった。
真っ暗の何もない完全なるからっぽだった。
「同じだったんですね」
どれくらい経ったろうか。呆然としていた僕に、泣き止んだひかりが語る。
「私達は死んだんですね。眩しい列車と車と、私はそれから先はもう何も思い出せません。だから、死んだんですね」
「そうみたいだ」自分の声が乾ききっていて自分のものと思えない。「別にショックって訳じゃない」
「そうですね。それを望んでいた、ともいえますし。でも、何だかよくわかりませんが、何だか……何だか……」
彼女の言葉は消え入る。それ以上の続きはやってこなかった。
「言葉に出来ません」
「言葉は万能じゃないからね。僕も感じてるよ。空虚さに似た、でもそれとも違う、何か」
「自分のことなのに、どこか劇を見ているようです。でも私は、本当に死んだ。もう、私を取り巻いていたあらゆる苦痛は去っていった、はず。……なのに、どうしてでしょう。どうして、全く嬉しくないんですか。望んでいないことじゃなかったのに……全く何も感じません」
「きっと、僕もだ。僕も、死を求めて歩いていた。それなのに、今、それに気づいても、僕の中には、何もない。幸福感も絶望感も、虚無感も、何もない」
辺りは暗く何も見えない。空には星もない。太陽はとっくに消えてしまった。あるのは、僕らの意識だけ。
ふふ、と笑みがこぼれる音が、僅かに聞こえた。
「わかりました。私、わかりました。これが、死ぬってことなんですね。苦しいも、嬉しいも何もない。ずっと望んでいた解放ってこういうことなんですね」
僕は思わず彼女の位置を探す。すぐにそれに触れることができた。僕は彼女の肩に触れていた。それから、するすると腕を伝い彼女に手まで手を滑らせて、その手を握る。彼女から握り返されることはない。
「どうしたんですか。私は、あきらさんと同じ人間ですよ」
力ない笑みが生まれる。
「いや、なんでもないよ。ただ、何となく」
自分でもその行動の意味は如何ともしがたい。
「死んだことで、どうして僕らだけこうして顔を合わせることになったんだろうって思ったんだ。何か意味があるのか。だから、何となく手に触れたくなったんだ。今ひかりさんが見えないしね」
「何ですか、それ」
彼女は呆れた声を出す。
「何だろう」
「他人に近づきたくないんじゃないんですか」
「ひかりさんは、同じ人間だって今言ったじゃないか」
「そうでしたっけ」
「そうでした」
そう僕は断言する。
今度はもう少し色の篭った笑みが彼女からこぼれる。
「……多分、もう意味なんてないですよ。偶然なんじゃないですか。死にたいと思った同じ人間が偶然同じ場所に、みたいな」
「そうかなあ」
「あきらさんは、……」彼女は何か言いよどむ。「戻りたいですか」
それが何を意味しているか。
「元の世界に?」
「はい。死んでみて、どうです。何もない。それを感じて、どうですか? 戻りたいと思いますか?」
「そんなのわからない」
「ですよね」
その時初めて彼女から手が握り返された。
「もう終わりですね。一日が終わります。きっとこの不思議な散歩も終わりです。だから言っておきます。これが、最後かわかりませんが、私は、あなたに会えて、良かったです」
「自分に感謝するなど、変な話だ」
「そうですね、本当に変な話です」
握っている手を少しだけ強く握ると握り返される。僕の手に温かみが返ってくる。
「生きていることに苦しみがあるのなら同じように喜びもある。そういう文句を聞いたことがある。今、思ったよ。そうだなって。これからどうあれ、僕は、ひかりさんに出会えてちょっとよかったかもしれない」
僕は何を言っているのだろうか。全く奇妙だった。
「あきらさん、違いますよ。もう『生きる』、ではないと思います。この状態が、この異世界が、私たちにとって生きることだとは、思えません」
「そのとおりだ」
ゆっくりと彼女が消えていく。すべてが完全に終わるのだ。
ゆっくりと感覚が戻る。鼻腔に粘りつくような潮の香り。耳には心音にも似た漣の転がる音。僕は、海辺に立っていた。夜の海に面した橋の上だ。
辺りを見渡すと、そこが主要道路の一部であるとわかる。しかし、車通りはない。街灯も皆消えている。
目的地に着いたのだ。しかし、ここは現実だろうか。死後だろうか。街灯が皆消えていることも、車通りがないことも異常さしか示さない。
しかし、だからどうだというのだ。
橋の手すりに触れて身を乗り出す。手すりが冷たい。今、僅かな寂しさを胸に見る眼下に、海は伺えない。黒々とした暗闇に漣だけが聞こえる。
橋の上に身をおろす。
今が現実なのか、夢なのか。
もし僕が戻りたいと思えば、戻れるのかもしれない。一度轢かれたのに橋の前で再開したのは、そういうわけではなかろうか。死にたいと思えば、死ねる。僕が決めることなのだ。今度こそ。僕が自分の意思で決めることだ。
逃げてきたと――何かのせいにして自分を追い込んで迷い込んだきたと、感じる自分の中で、今こそしっかりするときなのだ。
胸の内は異様にすっきりとしていた。
僕は波の音に耳を傾ける。
今までの光景を脳裏に再現させる。自分の人生。悩んできたこと。田んぼの平原。思い起こされる苦痛の日々。
ふと自分の手を見る。
僕は、何も信じることができなかった僕の中でただ僕のことを理解できるひかりの存在だけが信じることが出来た。僕は――伊山光はどうしたって死に直面する運命なのだ。
けれども、僕がどんな選択をしようとただ一人許してくれる人がこの世界ではないどこかにいるかもしれない。
何も握ることのない手をやんわり握る。
いないかもしれない。
けど、そんなこと、構わない。
僕は、もう生きることは、できないのだ。