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夏色のピアス

 恋人になったからと言って、これといって大きな変化はない。

 朝は「おはようございます」と挨拶をし、廊下で会えば「お疲れ様です」と言う。帰りは「お疲れ様」だったり、「お先に失礼します」だったり。

 少し変わった事は、その変わらない日常の中で、視線を合わせる回数が増えたという事だろうか。

 勿論周囲に露見してはいけない関係なのだから、何も変わらない事が当然なのだ。

 課長との連絡は自分の携帯電話でする事にした。

 社内にネット環境は整備されているが、万が一を考えると自分の持ち物を使った方が良いだろうという結論に達した訳だ。


 7月に入った。

 昼間は高い位置から一直線に射す陽に射られ、痛みすら感じる。まだ蝉は鳴いていないが、時間の問題だろう。学生の頃は気にしていなかった日焼けも、社会人になってからは意識するようになった。

 仕事帰りに寄ったドラッグストアで、日焼け止めを三本買った。日焼け止めってどうしてこう、容量が少ないんだろう。毎年そう思う。が、小分けになっている事で、自宅用、持ち歩き用、職場用、と分けられるというメリットもある。

 ドラッグストアを出て、並びにある廉価なアクセサリーが売っている店で足を止めた。

 夏らしい、綺麗な水色や黄色のアクリルが連なっているピアスが陳列されていた。

「可愛い――」思わずそう呟いてしまった。

「買ってあげたいな」

 その声に驚いて振り向く。私の緩くカールした髪が、放射状に広がった。

 声の主は課長だった。

「課長、どうしたんですか?こんな所で」

「沢城さんをつけてきたって言ったら、どうする?」

 ニコニコと笑っている。

「ストーカーって言って頬っぺた叩きますよ」

 叩く真似をすると、ひょいっと顔をずらして避けた。

「うそうそ、台所用の洗剤が切れてしまったんだ。それを買いにドラッグストアにね」

 私が手にしていたビニール袋と同じものを、課長も手に提げていた。

「このピアス、綺麗だね」

「はい、そう思って見てたんです」

 課長は私の横をすり抜け、店の自動ドアをくぐって行った。中にいた店員に何か話し掛け、店員は店の奥に一度入り、そして出てきた。課長は支払いをし、店を出てきた。

「どうぞ、僕からの初めてのプレゼント」

 あっという間の出来事に茫然としながら手渡された小さな紙袋を見つめていがた、そのうち頬が上気してくるのを感じ、自然と顔が緩んだ。

「ありがとうございます」

 出来得る限りの飛び切りの笑顔でそう言うと、彼は私の頭を二度、撫でた。頭から頬へと移動するその手は少し冷たく、最後のひと指が離れる瞬間を憎らしく思った。


「沢城さんの家は、駅から近いの?」

 会社は大きなターミナル駅の傍にある。私の家はそこから二駅行った閑静な住宅街にあるマンションだ。

「電車に乗るんです、これから」

 神谷君の「男の部屋みたいだな」という言葉が頭をよぎる。

「寄ってもいいか」なんて、絶対言ってくれるなよ、課長。

「遊びに行ったら、迷惑かなぁ?」

 あぁどうしよう、こういう時にどうしたらいいんだろう。

「あの、姉が、姉がいるんです。一緒に住んでるんです。すみません」

 二つ上の姉がいる事は事実だった。時折顔を見せる。ただ、一緒には住んでいない。

 一過性の要件で断っては今後も誘われかねない。姉の存在を使う事にした。

「そうか、無理を言ってしまって済まないね」

 そう言って俯いて、細い銀縁の眼鏡を少し持ち上げた。

「もし」顔をあげて課長が口を開いた。

「もし一晩一緒にいたいと思ったら、僕はどうしたらいいだろうか」

 それは即ち、身体の関係を持つ事を前提に話しているのであろう。私はそれを不愉快には思わないし、むしろ望んでもいたと思う。

「寮に行く訳にもいきませんし、やっぱりホテルとか――」

 私が口籠ると、課長はまた私の頭を撫でたので、彼の顔を見上げた。頭を撫でたその少し冷たい指先は、先ほどと同じ様に頬へと降りて来た。

「ラブホテルじゃ沢城さんには相応しくない。そうだな、駅の近くのビジネスホテルがいい。金曜日、都合は悪いかなぁ?」

 手に持ったままの小さな紙袋を見つめながら返事をした。

「金曜日、大丈夫です。空けておきます」

「その袋、貸してみて」

 私の手にあった紙袋を少し強い力で引き抜き、テープを剥がすと中から夏らしい色が連なるピアスが覗いた。

「今つけているピアス、外せる?」

 私は両手で耳を挟み、リボンをモチーフにしているスミレ色のピアスの両方を外した。

 課長は紙袋から取り出したピアスを、私の耳につけた。その優しい手つきがくすぐったくて、身体の芯が揺れる感覚があった。耳だって性感帯なんだ。

「痛くない?」

「はい」

 私の前に回り込み、正面から見て「うん」と頷いた。

「凄く似合うよ。帰ったら鏡を見てみて」

 それじゃ、と言い残し、彼は寮の方角へと歩いて行った。

 通りの真ん中でこんな事をされた事は恥ずかしかったけれど、課長の顔が間近に迫っていた事が私の頬を染める一番の原因だった。

 爽やかな香料が香った。その香りを、覚えた。


 橙に染まっていた筈の空は濃い群青へと変わり、星が出ていた。

 さぁ、帰ろう。「本当の自分」の住処へ。

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