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課長の恋人

 金曜日という事もあって、サンライズのそう広くない店内は、八割方埋まっていた。

 窓の外に向かっているカウンターに席を取り、座った。

「僕は黒ビール、ジョッキで」

「私はカシスオレンジを」

 オーダーをした後、暫く窓の外を無言で見ていた。ビルの二階にあるこの窓から見えるのは、ただの都会の喧噪だ。定期的に変わる信号と、それに伴って動く人や車の動きが見えるだけ。

 口を開いたのは課長だった。

「実はね、僕、異動する前に一度、君に会ってるんだ」

 目を見開いた。さっきよりも距離が縮まった分、課長の端正な顔がよく見える。

「いつですか?」

「二年前の全国合同会議の時、受付をしていたよね、沢城さん」

 あぁ、あの時。全国の支社と本社の経理幹部が集まって経理システムの会議が行われた。私はその際に受付として駆り出されたうちの一人だった。それにしても、受け付けは五人ぐらいはいた筈。

「たまたま沢城さんに受付してもらったってのもあるんだけど、君の纏う、何て言うのかな、柔らかい雰囲気と、手入れされた指先と、綺麗な声が暫く頭から離れなくてね。年甲斐も無く、一目惚れみたいな物だね」

 ククッとくぐもったような笑い方をした。私は心臓の高鳴りを覚えた。

「私みたいな何の個性も無い人間を覚えていて下さったなんて、嬉しいです、私」

 近い距離でにっこり笑うのはとてもわざとらしいと思い、薄く微笑んだ。

 飲み物が届き、グラスを合わせた。

「個性が丸出しの人なんて稀だと思うよ。皆、誰かの個性やら特徴、好きな所を見つけて、見つけた者同士が結婚したり、付き合ったり、するんじゃないかな」

 彼は窓の外に目を遣り、何かを考えている風だった。

「私、課長が笑う時の顔が好きなんです。あと、歯並び。それと青空みたいな声」

 彼は窓から目を外し、私の目を見た。私の目は潤んでいたかもしれないが、それを止める事は出来なかった。

「歯並びなんて言われた事無いな。可笑しいけど凄く嬉しい。青空みたいな声って言うのも何だかくすぐったいけど、嬉しいね」

 私は彼の柔らかな視線に耐えられなくなって、微笑みながら俯いた。好きになってしまったような気がする。どうしよう、好きになっちゃった。

「こうやって、お互いの好きな所を言い合うと、余計その人が好きになるんだ。不思議だね」

 課長は私から目を離し、外に目を遣ったのを雰囲気で感じ取り、私は顔をあげた。外を見る彼の横顔は、口角を上げ、微笑んでいた。

「正直に言うよ。僕は君に惚れている」

 嬉しかった。こんなに嬉しい事はない。その嬉しさを、出来れば全身で表現したかった。だけど相手は妻子持ちだ。そして私は――私の纏う柔らかい雰囲気は、全くの虚像だ。

「でも課長、あの、奥さんとか――」

「いいんだ、それは。とにかく僕は好きなんだ。沢城さんが」

 まっすぐな視線を向けられ、私は困ったような顔になった。うまく笑えなかった。こういう時、どういう顔をすればいいの、どうしたら顔を作れるの。

「何かしたいとか、贅沢を言うつもりはない。ただこうして時々、一緒にお酒を呑んだり、時に触れ合える仲になれたら僕は嬉しいなと思ってる」

 私は返事すらできず、困ったような顔は張り付いてしまった。

「沢城さんが、胸に決めた人がいるなら正直に迷惑だって言って欲しい。僕は結構しつこいから、嫌なら嫌と言ってくれていいんだよ」

 思っている事を口にする事が、これ程難しかった事が過去にあっただろうか。私の虚像に惚れている課長。課長に惚れている本当の私。

 まるで磁石だ。ある程度の距離まで近づくと、勝手にカチリと音を鳴らして繋がり合う。好きになってはいけない人だとは分かっているが、少し距離を縮め過ぎた。

 課長はいずれ東北支社に戻るだろう。それまでの間、虚像でも課長といられるのなら、愛されるのなら、愛せるのなら、それでもいいのではないか。


 私は言葉を発するよりも先に、テーブルに置かれた白く透き通る様な彼の手に触れた。手に手を重ね、そして握った。

「嬉しいです」

 桜色のネイルの先が、照明に反射してキラリと光った。

「へ?」

 少し上ずった声を出し、彼は目を見張った。この返事は想像していなかったのだろう。私は課長を見つめた。

「私も課長が好きなんです。今迄も素敵だなと思ってました。だけど今日一日だけでも、凄く好きになりました」

 まるで作文の様な語り口でしか、彼に想いを伝えられないのが歯痒い。伝わればいいなと思った。この気持。

 課長は私の手を両手で包み込んだ。

「僕は既婚者だけど、君を『愛人』なんて名前で呼びたくない。横浜にいる間だけでいい、恋人だと思っても、いいかい?」

 それは、終わりのある恋である事を宣告されている様な、残酷な申し出だったが、私はそれでも良いと思った。今この瞬間、この人を愛おしく思っている。その事に嘘はなかった。

「はい。恋人でいさせてください」

 その言葉を聞くと、彼は一度俯き、何かを決意した様に顔を上げた。そして私の頬を寄せ、軽いキスをした。誓いのキスみたいだった。嬉しかった。

「でも課長、こういう所でキスしてる所、誰かに見られたら事ですからね、気を付けましょう」

 耳打ちするように呟くと、「あぁ、そうだね」と照れ笑いをした。細い目は一層細くなり、視界はほぼゼロだろうと思った。



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