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◆二滴目◆

 私は、ようやく辿り着いた彼の部屋の前に立っていた。閉じた傘を、左手で持つ。右手は塞がっていたから。

 表札を見上げる。彼の名前。間違ってない。

 一瞬の躊躇いの後、意を決してチャイムのボタンを押した。

 ぴんぽん、と、素っ気無い電子音が一度だけ辺りに響いた。機械の音は、この雨の中でも更に、冷たい。

 ばたばたと部屋の中を走る音がする。慌てなくてもいいのに、と少しだけ可笑しかった。 すぐにドアが開く。

 彼の顔が、押し開けられたドアという境界から覗く。その顔は私を見て驚愕の色にみるみる彩られていった。

 ――どうしたの?

 彼が私に問う。やっぱり、彼は覚えていなかった。彼自身が生まれた日を。

 私は手に提げていた、ケーキが入った箱を軽く持ち上げた。

 ――ハッピーバースデー。

 意識したわけでもないのに、私は微笑んでいた。自然と笑みが零れた事に嬉しさを感じた。

 ――あっ。 彼の目が見開かれる。それは一瞬の事で、直後、破顔した。

 ――もしかして、お祝いに来てくれた?

 ――うん、そう。上がっていい?

 ――勿論。どーぞ。

 そう言って体を横に除けて私が入れるスペースを開けてくれる。

 私は傘の雫を払う。中へ入り、玄関で靴を脱いで上がる。そして傘を下駄箱に立て掛けさせてもらう。

 部屋の中央に置かれたテーブルに近づき、ケーキの箱を上に置く。夏には少し早いが、何だか暑い気がした。雨の所為だろうか。外は、寒いくらいだったけど。

 彼へと目をやる。キッチンの所で、何かごそごそしていた。

 彼が、頭を掻きながら戻ってきた。恐らくは冷蔵庫を覗いていたのだろう。

 ――わりぃ、飲み物ねぇな。……水、はちょっとなぁ。

申し訳なさそうに彼が言う。

 ――ううん、いいよ。だって私も

 落としてきちゃったから、と言いそうになって、慌てて言い換える。

 ――……買ってくるの、忘れちゃったから。

 危なかった。だが、不自然になっていまいか。怪しまれなかっただろうか。不安だった。

 ――あー、そっか。じゃ、別にいっかなー。

 言って背を向ける。またキッチンへと向かった。ケーキを乗せる皿でも取ってくるのかな。

どうやら、彼は気付かなかったようだ。ほっ、と胸を撫で下ろした。

 しばらくして、小皿とフォークをそれぞれ二つずつ持って戻ってくる。

 ――んじゃ、食べようぜー。

 彼はそう言う。私も、いつもならそうしていたのだろう。

 でも。

 私は胸の前で掌を合わせる。今度は意識して顔の筋肉を動かし、笑みの表情を形作る。上手くいったかどうかは、私にも解らない。

 ――あはは、ゴメン。悪いんだけど、急用ができたんだよね。だからすぐ家に帰らないといけないんだ。

 ――えー、マジかよ。折角来たのに。ケーキだって……

 ――ゴメン、本っ当にゴメン。 酷く残念そうな彼の言葉を遮るようにして、私は続ける。時間が、無いから。だって。

 ――帰らなきゃ、いけないんだ。

 私はきっと真剣な目をしていただろう。その証拠に、彼の気圧されたような瞳が揺れた。戸惑っているのがありありと見えた。

 ――そ、そっか。なら仕方ないよな。

 そう言って譲ってくれた。とても有難い。本当に。

 ゴメンね、ともう一度だけ言って、私は玄関へと行く。 靴を履き、傘を掴み、ドアを開けた。

顔だけで振り返る。見送りに来てくれた彼に、私は告げた。


誕生日おめでとう。

 

まずそう言って。


ゴメンね。

 

 次にこう呟いて。

 そして、最後に、一言囁いた。


… … … … … …。


 困ったような彼の表情を振り切るようにして、外に出た。

 後ろでばたんと苦しい思いにさせる音が響く。

私が閉めたはずなのに、勝手に閉まったように感じた。

小走りに急いで彼のアパートから離れた。早くしないと、心の弱い私は彼の元へ戻ってしまいそうだったからだ。

 小脇に傘を抱え、ずぶ濡れになる事も厭わずにひたすら雨の中を駆けた。途中、擦れ違った人が怪訝そうな顔をしていたが、それに構う余裕は最早残されていなかった。

 足を水溜りに突っ込ませながら走った。跳ね上がった水や泥は靴に浸入し、肌を汚した。だがそれらは全て、すぐに洗い流された。

 振り返るな。引き返すな。

 必死になって私は念じていた。

 何度も何度も、繰り返し自分に言い聞かせた。

 壊れたテープレコーダーのように。

 だってもう二度と。


 彼には会えないのだから――


 アパートが見えなくなった頃、ようやく私は足を止めた。

 闇雲に走ったせいで、気付けば知らない場所に来ていた。路地裏のような場所。無人で、静寂が満ちている。良かったと、私は安堵した。ふっと、息を吐いた。ずぶ濡れになった私。服がべったりと肌に張り付いて気持ち悪い。服からも靴からも鞄からも、空から落ちた雫が溢れている。

 全身が酷く重かった。鉛を背負い込んだみたいだ。走ったからだろうか。水を吸い込んだ布を纏っているからだろうか。

 それとも――――…………。

 私は肩で息をしながら、考える。


 明日になれば、私はこの世からいなくなる。


 そして彼はブラウン管もしくは紙面で事実を知るだろう。彼はどう思うだろうか。悲しんでくれるだろうか。涙を流してくれるだろうか。


嫌だな――


 私は、心と目頭が熱くなるの感じた。

 雨水は容赦なく私の体と空間を打った。

 無数の雫、いつになったら止まるのだろう。

 明日? 来週? 来月? もっと後? それとも、もう二度と止まないのか。

 私はその結果を知る事すら叶わない。頭上を仰いでも、曇天が無表情に広がるばかり。何も答えてはくれない。雨水が目に入り、痛んだ。

 私はゆっくりと、瞼を下ろした。

 嫌だな、本当に。

 彼に悲しい思いさせたら――



嫌だなぁ――――――――――………………



 そうして私の意識はゆっくりと、薄れていった。

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