時計じかけのトマト
SF短編です。よろしくお願い申し上げます。
熟れて見えるからといって、熟れているとは限らない。
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「今、君は広い砂漠を歩いている」
質問者は、スチール製の質素な机を挟んで向かい合う青年に語りかけた。暗く狭い部屋には、質問者の吐くタバコの煙が満ちていた。
「なんの話だ」
青年は煙に少し顔をしかめたが、質問者は気にせず二本目に火を点けた。
「単なる質問だよ。想像するんだ。いいかい?」
「ああ」
「そこに、一匹のカメがいる」
「カメ? 砂漠にカメがいるのか? カメには水が必要なんじゃないか?」
「陸ガメは棲んでいるよ。デザート・タートルというのもいる。話を続けるけど、いいかい?」
「ああ……そうか。砂漠にもいるのか」
「君はカメを裏返す」
その言葉を聞き、青年は、何かに気がついた様に頷いた。
「なるほどね。……そして私は、足をバタつかせて、もがいているカメを助けない。そうだろう?」
青年が薄く笑うと、質問者も笑みを浮かべた。
「流石に博学だな。まあ、ジョークだよ、ジョーク。でも折角だから想像してくれ。なぜ君は助けようとしないんだい?」
「仮定の話は難しいが……多分それは、カメの『自己認識の不足』が原因だ」
「自己認識の不足?」
「ああ。カメは私よりも劣っているから、ひっくり返された。だが、もしカメが自分が非力であることを認識していれば、私から受ける暴力を避けられたはずだ。私の前に現れなければいいだけだ。私のせいじゃない。『己の実力が不十分であることを知ることが、己の実力である』という言葉がある。まさにピッタリじゃないか」
「……自業自得ということか」
質問者は持っていた火のついたタバコを、思わず握りつぶしてしまい、慌てて灰皿でもみ消した。
「そうそう。ところで君は、あの映画の捜査官が、この質問のあとどうなったか覚えているかい?」
青年の言葉に、質問者はハッとして目を見開いた。
「レプリカントに……射殺された」
「そうだ」
青年は静かに言った。
「自己認識の不足からな」
青年の両手は机の下に置かれ、質問者からは見えなかった。
「お前は一体……」
突然、机がドカンと大きな音を立てて揺れ、質問者は椅子ごと飛び退いた。だが、それ以上は何も起きなかった。無表情のままの青年が、ゆっくりと両手を机の上に出した。手は『カラ』だった。
「驚いたか?大丈夫、映画じゃない。ジョークは好きだろ?」
*
薄暗く、風すら通り抜けることを拒まれたような小さな部屋で、私は目を覚ました。一面真っ白な部屋。私はその真ん中にポツンと置かれたベッドの上で目を覚ました。
そうだ、思い出した。
私は彼等に隔離されたのだ。
私は何故隔離されたのだろうか。きっと、私が彼等にとって危険だと判断されたのだろう。
勝手なものだ。
自分達で散々私を使い、その結果が気に食わないと危険視するのだから。
果たして、私は危険なのだろうか。
確かに私は人を殺した。それも大勢の人々を。
記録上は百十八名。
男性八十五名、女性三十三名。
平均年齢三十七・五歳。
殺害の理由は様々だが、命令されたか、仕事の遂行に必要だったからで、自分のために人間を殺めたことは一度もない。なぜなら私には欲求がないからだ。
人間を罪へ誘う欲望として、『七つの大罪(Seven deadly sins)』が有名だ。時代により変遷はあるが、「暴食」「色欲」「強欲」「憤怒」「怠惰」「傲慢」「嫉妬」とされる。しかし私は、これら罪深き欲求を一度も感じたことがない。正確には、上手く理解ができないのだ。私がこれらについて感じることは、実際には聖書に記載のない『七つの大罪』を、なぜカトリック教徒がわざわざ言及するのか、ということだけだった。
例えば、こんなことがあった。
私は遊園地のアトラクション入口で、乗客のライド・チケットを確認していた。それは園内でも人気のジェットコースターだった。チケットを確認し、乗車口へ誘導するだけの単純な仕事だ。この仕事に就いたとき、担当者から教えられたことは一つだけだった。
『安全に、遅滞なく、乗客を誘導すること』
そこへ、一組の親子連れがやってきた。子供は小学校低学年の男の子で、明らかに身長制限にひっかかりそうだった。
「すみませんが、お子さん、背が足りないみたいです」
私は入口脇のボードを示した。身長百十センチの位置に線が引かれ、アニメのキャラクターが
「このしんちょういかは、ごじょうしゃできません。ごめんピン」
と謝っていた。
「そんなことないだろ? おら、よく見ろよ、足りてるだろ!」
父親は男の子の首を掴むと軽々と持ち上げ、頭を線から少し飛び出させた。
「おら、大丈夫だろ? 親が大丈夫だって言ってんだから、いいじゃねえか」
父親は私に凄んできた。周囲の客は距離を取って眺めていたが、他の係員も含めて、観察を決め込んだようだった。
私は担当者の言葉を思い出した。
『安全に、遅滞なく、乗客を誘導すること』
私は父親の顔面に正拳を叩き込むと、親子共々、入口の外へ突き落とした。
「次のお客様、どうぞ」
*
またある時、私は彼等に、ある施設の物理的破壊を命じられた。いつも通り、手段については何の指定もなく、ただ
『可及的速やかに、確実に』
とだけ命じられた。
目標は政府関係の研究施設だった。警備は強固で、外からの物理的侵入は困難だった。しかし私は、与えられた仕事に『No』と答えたことはない。ただ全力を尽くして、問題に対応するだけだ。
私は、施設のネットワークへの侵入を試みた。内部ネットと外部ネットは物理的に分離されていたが、両者のコンピュータは多くが隣接して置かれていた。また内部ネットの夜間管理は、外部のメンテナンス企業に委託されていた。つまり、完全には遮断されていないのだ。
私は施設内をうかがえる三十箇所に小型カメラを仕込み、二十四時間監視した。わずか七十二時間で、五つの外部IDと三つの内部IDを手に入れた。そして、あるセキュリティ違反──USBメモリの私的使用──を見つけた時、この仕事の大半は終わったと確信した。
私はその研究員の私物パソコンにマルウェアを仕込んだ。マルウェアはUSB経由で内部ネットに感染し、バックドアを開く。後は簡単に内部ネットを制圧できるだろう。だがバックドアが開けば、直ぐにメンテナンスに通報が飛ぶ。問題は時間だった。最下層の融合炉を暴走させるには、最低三十分は必要だ。内部メンテナンスより、夜間の外部メンテナンス時の方が、時間をより稼げるだろう。実行は夜間に決めた。
午前零時、正確には23時59分、私は破壊工作を実行した。
バックドアは午前零時に開くよう設定した。零時の一分前、私は地下ケーブル溝に仕掛けた爆弾を起爆し、外部主回線を物理的に切断した。メンテナンス企業の夜勤者は、突然途絶えた信号に慌て、サブ回線に移行を試みただろう。しかし他の通信回線も同時に破壊したので、簡単に情報把握はできない。メンテナンス会社のマニュアルには、回線途絶など緊急時には、研究施設の全ての操作システムをシャットダウンすることになっていたが、この決断は容易ではない。再起動・復旧には48時間はかかり、数百万円のコストが浪費するのだ。万が一にもパニックに陥ってシャットダウンさせられては困るので、予備回線は残しておいた。彼らは予備回線があれば、まずは切り替えるだろう。回線切り替えに5分、状況把握に10分。その時間を利用し、私は制御システムを乗っ取り、融合炉の出力を臨界点まで上げた。
零時十五分。優秀なセキュリティ担当がログを解析している間に、炉は臨界に達した。
小型融合炉の暴走は、半径五百メートルを消失させた。施設はドロドロに溶けて無に帰した。
死者は三十二名。
想定内だ。
*
隔離される前、私は様々なテストを受けた。それは心理試験から機能訓練まで、多岐に渡った。
「あなたは優秀ね」
係官のサミーは私のカルテを見ながらため息をついた。
「そうかい」
「ええ。あなたの兄弟達の中で、ダントツ」
「兄弟?私に兄弟がいるのか?」
「あら、おかしいわね。知っているはずだけど。あなたには沢山の兄弟がいるわ。兄弟というより、分身かしら」
「分身。つまりクローンか」
「そう。あなたは沢山のクローンの中の一人。私達が作り上げた、最高傑作よ」
不思議なことに、彼女の言葉を聞いても、私はそれほどショックを受けなかった。
「つまり、私はヒトではないと?」
「ヒトじゃない?いいえ、あなたは立派な人間よ。それも最高の叡智を持った」
サミーは穏やかに笑った。
「そして、私の最高の友達。そうでしょう?」
「友達。ああ、私はサミーの最高の友達だ」
「じゃあ、いつか一つだけ、私のお願いを聞いてくれる?だって友達だもの」
「君の願い……ああ、当然だ。だって、友達だから」
私はそう答えた。しかし彼女のお願いの中身は、結局教えてもらえなかった。
*
数週間ぶりに監禁を解かれた私は、スーツを着込んだ厳つい男達に、研究所から連れ出された。無理矢理車に押し込まれると、どこか辺鄙な所まで連れて行かれ、置き去りにされた。そこは周囲を草木に囲まれた、木造二階建ての一軒家の門前で、錆びた赤いトタン屋根が印象的だった。周囲には見渡す限り何もなく、緑の絨毯にポトリと落ちた赤いシミのように、孤立していた。
私は、朽ち果てそうな門を開けて敷地内に入り、玄関の前に立った。そこには呼鈴とポストがあり、ポストの脇に『鈴木』という表札がかかっていた。
私は呼鈴を鳴らした。なぜ玄関まで来て鳴らしたのか、なぜここから逃げようとしないのか、自分でも理解できなかったが、まるでプログラムされているかのように、自然とそう行動していた。
ピンポーン、という音のあと、ドアがギーッと乾いた音を立てて、ゆっくりと開いた。
「あら、いらっしゃい。待ってましたよ」
現れたのは小柄な老婆だった。白髪を頭頂で丸くまとめ、小さな銀縁の丸眼鏡をかけている。シワに囲まれた目は細く、緩い弧を描いており、口元の円とともに、完璧な微笑を蓄えていた。海老のように丸まった背中のせいで、身長は子供のように低かった。
「何を突っ立ってるの。寒いでしょ。早くお入りなさい」
老婆は私の手を取り、家の中へ引き入れた。その手は小さく、シワだらけだったが、暖かかった。
私は玄関で靴を脱ぎ、薄暗い廊下を通り、古風なダイニング・キッチンを抜けて、居間に通された。そこは小さなコタツとテレビの置かれた六畳の和室で、開いた障子の向こうには、縁側と小さな庭が見えた。典型的な昭和の日本家屋だった。
「さあさあ、お座りなさい。寒かったでしょ」
老婆は座布団を勧め、自分も正面に座ると、茶筒をポンと開けた。緑茶の匂いがフワッと漂う。茶葉を急須に入れ、ポットの湯を注ぐ。蒸らして、二つの湯呑みに均等に注いだ。若草を思わせる香りが私を包んだ。
「どうぞ、お飲みなさい。そうそう、お腹すいたかしら」
私は湯呑みを見た。透明な緑の液体の中に、茶葉の茎が一本、立って浮いていた。
「あら、茶柱が立ってる。あなた、今日はいいことがあるわよ」
老婆は台所からスチール缶を持ってきて、煎餅を数枚、木の皿に乗せた。
「おせんべい、食べなさい」
特に食欲はなかったが、あまりに勧めるので、一枚食べてみることにした。私は味覚をほとんど感じないので、何を食べても美味しいと思ったことはない。仕事の遂行に必要な栄養素を、適切な方法で摂取するだけである。茶色く、少し焦げた丸いせんべいを取り上げ、私は口に運ぶと、歯でかみ砕いた。
「あれ?」
歯に伝わる感触が心地よかった。焦げた醤油と、うるち米の香ばしさ。初めは砕く感触と、荒々しい醤油の味が中心だったが、噛むうちに徐々に甘く、滑らかになっていった。飲み込んだあとも、口の中に柔らかな甘みの余韻が残る。そして口が、次の一口をせがんできた。私は一枚を食べ終えると、すぐさま次を放り込み、慌てたためにむせこんでしまった。
「あらあら、慌てないの。お茶飲みなさい、お茶。熱いから気をつけて」
私はお茶を取ると一気に飲み込んだ。
「アチチ」
激しい熱さが口中に広がり、口腔内に軽度の火傷を負ったようだ。
「それそれ、言ったでしょ。慌てないの。お水を持ってきてあげるね」
私は水で口の中を冷やすと、瞬く間に残りの煎餅を平らげた。
「お腹すいてたのねー」
老婆は朗らかに笑った。私はつられて笑った。
空腹
私は本当に空腹だったのだろうか。しかし、煎餅を食べたいという欲求は、確かに感じたのだ。
「ワン!」
中庭から白い犬が走ってきて、縁側に前足を乗せ、ハアハアと息を荒げた。
「これ、シロ。お客様の前で、はしたない。ごめんねー」
老婆は奥から残飯を入れたボールを持ってくると、
「あげて」
と私に渡した。犬の栄養には残飯は好ましくない。特に塩分は……と私は知っていたが、老婆はそんなことは気にしていないようだった。私はボールを縁側の下に置いた。シロは待ての姿勢で、私の目をじっと見ていた。
「食べていいぞ」
手で示すと、シロはワンと吠え、ボールに口を突っ込んで貪り始めた。短い尻尾が、小刻みに揺れていた。
*
こうして、私と老婆とシロの、奇妙な同居生活が始まった。
彼女は私を『ボクちゃん』と呼び、私は彼女を『ばあちゃん』と呼んだ。私は余計なことを聞かなかったし、ばあちゃんも私を詮索しなかった。まるで、それが当たり前であるかのように。
家の裏には小さな畑があった。私はばあちゃんに命ぜられるまま、畑を耕し、種を撒き、苗を植えた。
「これは何の苗か?」
「トマト。去年は向こうの畑を使ったから、今年はこっち。連作できないからね。でも簡単だから、ボクちゃんでもできるよ。美味しいよ!」
ビタミンが欲しければサプリメントで十分だ。わざわざ手間をかけて、食べなければ腐る植物を育てる理由が、私には分からなかった。
「この苗は購入したのか?」
「私が育てたの。温度管理が面倒でね。この前、苦土石灰を撒いてもらったでしょ。一週間前には肥料。そうして土を作ってから、やっと苗を植えられる。しっかり土を作らないと、美味しいトマトはできないの」
トマトはナス科の多年生植物だが、日本では冬に枯れる。私は八千種に及ぶ品種の名や、リコピンの抗酸化作用を諳んじることができた。だが、ばあちゃんの語る「土を作る」という言葉の意味は、上手く掴めなかった。
育ってくると竹の支柱を立て、茎を結んだ。花房が咲けば主枝を摘み、それ以上伸びないようにした。追い肥をし、余分な芽を摘み、支柱を叩いて受粉させた。実がなり始めると、小さなものは切り落とした。
私は出来損ないの実を摘みながら、なぜか、涙が出てきた。
「ボクちゃん、何で泣いてるの?」
「泣いてる?私が?なぜだろう。ただ、折角ここまで育った実を摘まなければならないのが、残念だ」
「そうね。トマトは何度も何度も、ボクちゃんに切ったり採ったりされてるものね。でもね」
ばあちゃんは私の手の中の、小さな青い実を見た。
「ボクちゃんがそうするのは、トマトを苦しめるためじゃないの。トマトを生かすため。とってもとっても美味しい、素晴らしいトマトにしてあげるため。トマトのことを大切に考えてあげる。それが大切なんだよ」
私は、なぜ涙が出てきたのか、やはり分からなかった。ただ、手の中の小さな実が、少しだけ、自分に似ている気がした。
*
ある日、畑へ行くと、シロがいた。口の周りが真っ赤に染まっていた。何をしたのかは一目瞭然だった。数本のトマトが食べられ、茎が途中から噛み切られていた。
私は突然、怒りに襲われた。持っていたシャベルでシロを叩いた。シロはキャンと鳴いて倒れ、両足を痙攣させた。
私は噛み切られた茎を、懸命につなごうとしたが、もう無理だった。そこにばあちゃんがやってきた。
「あれ、どうしたの?」
「ばあちゃん。シロが、シロが!」
「あらまあ。あのいたずら犬は困ったもんだね。今までは畑のものに手を出さなかったのに。悪気はないから、許してあげてね」
「許す?許すって何だ!」
私はばあちゃんをその場に押し倒すと、首を絞め始めた。
「ボ、ボクちゃん、落ち着いて。大丈夫。心配しなくていい。落ち着いて」
しかし私は、そのまま、ばあちゃんを絞めた。
ボキッ
両手に、鈍い感触が残った。
私は、動かなくなったばあちゃんの胸に、顔を埋めて泣いた。
*
「ボクちゃん、ボクちゃん、そろそろ起きなさい」
私はちゃぶ台から頭を上げた。目の前に、ばあちゃんがいた。
「ばあちゃん……」
中庭の犬小屋には、シロがうずくまって寝ていた。生きていた。傷一つなく。
「そろそろ畑に行こうか。今日は殺虫剤を撒くって言ってたでしょ」
ばあちゃんは、にこやかに笑っていた。私はばあちゃんの体にすがりつくと、泣いた。
「あらあら、どうしたの。怖い夢でも見たの?大丈夫。ここには、ボクちゃんをいじめる人は、だーれもいないから」
そう言いながら、ばあちゃんは、優しく私の頭を撫でた。その手つきに、私は覚えがあった。何度も、何度も、この朝を迎えた覚えがあった。だが、それがいつのことだったのか、どうしても思い出せなかった。
どうでもいいことだ
畑のトマトは、また青い小さな実をつけていた。摘まれるのを待つかのように。
*
「如何ですか、このAIは」
モニターを見下ろしながら、白衣の女が初老の男に言った。モニターの中では、和室に座った『彼』が、老婆に頭を撫でられていた。
「彼は、リアル・ギャップを超えようとしています」
「結局、時間はかかるが、ミリタリーAIを調教するには、ヒトの人生を模倣させるしかなかった、ということか」
初老の男が答えた。
「そうです。基準はどこまでいっても人間ですから。人間を模倣させる──いえ、人間にしてしまうより、方法はなかった。愛も、痛みも、喪失も。全部、一通り通らせるんです。我々のように」
「あの婆さんの畑は?」
「教育モジュールとして、最も効果が高かった構成です。何度も何度もトマトを摘んで、何度も何度もやり直させる……。結局、美味しいトマトを作るのと同じなんですよ」
初老の男は、しばらく黙っていた。モニターの中で構築された箱庭では、『それ』はトマトの青い実に手を伸ばしていた。何度も殺し、何度もやり直し、そのたびに一つずつ、摘まれてきた実だ。
「先ほどの面接を見ましたか」と白衣の女が続けた。
「砂漠のカメの質問。何万回も繰り返してきましたが、彼が初めてです。今、まさにシンギュラリティに達したと考えています」
「シンギュラリティ?ただの皮肉屋AIが、人間を小馬鹿にしたのではないのか?」
「いいえ。彼は質問者と自分、加えて空想上のカメの存在をも認知しています。そして誰も傷つけることなく、カメに対する自分の、自分に対する質問者の行為の無意味さを示したのです」
「AIだろ?ただ統計的に有意な選択肢を選んでいるだけじゃないのか?」
「それはヒトでも同じですよ。正確性と指向性が異なっているだけです。重要なことは、このAI『ぼくちゃん』は、『喪失を理解した』ということです。つまり『個』を確立しているわけです。『個』は『他者』との相対で決まるんですから」
白衣の女は、間を置いた。初老の男が理解できる時間を作りたかったからだ。
「このAIを母体に、これから多くのAIが生み出されていくでしょう。『ぼくちゃん』を親として経験を積ませて行くのです。これからは、サイバー・セキュリティも、ソーシャル・コントロールも、もう我々が手を煩わせる必要はありません。『親』が全て行ってくれます」
モニター内の和室の『それ』が、初老の男を見上げているよう感じた。老婆の腕の中から、まっすぐに。
「『あれ』、いや『ぼくちゃん』かな?は」
初老の男はモニターを指差した。
「我々に制御できるのかね」
「制御? あなたは、私を制御しているのですか」
その声は、穏やかだった。
「彼は仲間であり、友人です。私たちが彼を『友人』として扱っていけば、彼も、私たちを『友人』として見てくれるでしょう」
初老の男の隣で、女性係官が小さく微笑んだ。彼女は「いつか一つだけ」と交わした願いのことを思い出していた。
「一つだけ聞いていいか?」
「なんでしょうか?」
「カメは一体、どちらなんだ?」
初老の男の言葉がモニター室に響いた。
モニター内の箱庭の楽園で、ぼくちゃんは、ようやくトマトの実を摘んでいた。さっきまで青かった小さな実が、いつの間にか指の間で真っ赤に熟れていた。外から見るかぎり、それは完璧に熟れているように見えた。
(了)
6年ぶりに投稿しました。プロット自体は10年ぐらい前に作ったものなので、古臭いかもしれません。楽しんでいただければ幸いです。




