「断念」
裁量ということを仕事で考えるなら、分かりやすい話しかもしれない。
ここから、ここまでのことは「なんとなく出来そうだ」と考え、それより先のことは「なんとなく出来なそうだ」と判断するところから、ひとまず、自身の裁量でもって仕事を請け負う。もし、その料簡に間違いがあったなら、程度の差こそあれ、仕事が出来なかったで済んでしまう。
ただし、人生の方はそうもいかない。「なんとなく出来そうだ」と考えていた物事をしくじり、「なんとなく出来なそうだ」とあぐねていたことが、存外出来たりする。そんな妙な力が働くのである。こういう事が意識されていくと、断念の言葉は次第に浮かんでくる。心臓を鷲掴みにされ、弄ばれるような肉体的、精神的疲労がつきまとうのである。
断念ということは、連続を断たれることである。可能性を断たれることである。ここには、あったであろう未来はもうない。あるべきであった未来が残るだけである。私たちは無意識にしろ、あるべきであった未来を考えている。より良い未来というやつだ。断念は、これを木っ端みじんにしてしまう。しかしここで考えを止めては報われない。
断念によって失われるものに何があろうか。用意された幸福であろうか。あるいは、思い浮かべることによって、現実を肯定する力であろうか。もし、これらのポジティブな諸力が奪われてしまったとして、私たちは生きていけるのであろうか。
断念そのものが持ち得る力を考えよう。名状し難い苦しみがある。誰もが孤独の内に持っているものである。この苦悩を克服せんと、躍起になって、あるべき自分であろうと頑張る。弱さは弱さであるという強者の認識でもって、社会に躍りでる。大なり小なり、成功を重ねる。実験は徒労の上、成就しそうである。その青天に霹靂が走る。無論、霹靂は自身で招いた愚行によるものである。雷は、これまで後生大事に築き上げてきた孤城を崩壊させる。その時だ、私たちは孤城を呆然と眺め、再築不能になってしまったことを知るのである。断念せざるを得なくなるのである。
孤城をまじまじと見つめてみる。自信、虚栄、倨傲、慰み、郷愁、散り散りになった破片が胸を刺すようである。これらの破片に私を見ていた人々の顔も浮かぶ。
しかし、崩壊した孤城もまた、私を見つめている。裸の私。言葉をなくし、ただ悶え、眠ることしか出来ない私を、無機質に見つめているのである。
破片をひろう。また、築城してやろうという気も、ないではない。さながら、シーシュポスのように。手に持った破片をひとつ見つめる。破片ひとつ。そこに意味は見出せなかった。自信、虚栄、倨傲、慰み、郷愁、吟味もせず、ただ城を成すひとつの物としてでしか、捉えることは出来ていなかった。ここに、断念の力がある。築城する夢を見ず、破片をみつめる力である。この際時間は考えなくてよい。破片をみつめるだけでも、大いに暇は潰せるさ。いつか、またいつか、形にしたらいい。断念は続くだろうから。
しかし、破片を見つめる習慣を続けていれば、破片の意義は変わり、造りたいと願うものは城ですらなくなっているかもしれない。
その時、宿命は近くにある。断念は、宿命を捉えるための、通過儀礼であったと知る。
カミュの「シーシュポスの神話」に引かれたエピグラフを最後に。
ああ 私の魂よ 不死の生に憧れてはならぬ、
可能なものの領域を汲みつくせ
- ピンダロス『ピュテイア祝捷歌第三』