エピソード1「始まり」
彼の歩みは、深い闇と共にあった。冷たい風が頬を打ち、遠くから聞こえる鈴の音が不気味な調べを奏でている。かつて栄えた階層都市ポリスは、今や不安と恐怖に包まれていた。街角には崩れ落ちた建物、道には無数のミュータントの残骸。だが、その中を進む者が一人いた。彼の名は「最後の騎士」。血塗られた剣と鎧に刻まれた傷が、幾度の戦いを物語る。彼の目には迷いはなかった。すべては、深き闇を打ち破り、真実を掴むため。物語は、ここから始まる。
階層都市ポリスの中心とされる場所には、見えないほどに高いビル群の間を縫うように、人々の絶え間ない往来が命を刻んでいる。階層の端には、商い、珍品、狩猟の戦利品や装飾品…ありとあらゆるものが溢れている。そんな喧騒の中を、鉄の兜をかぶり、片手には巨大な剣、もう片手には屈強なミュータントの首を鷲掴みにした男が歩いていた。人々の視線は、兜の縁から滴り落ちるミュータントの生血に集まる。
彼の名は「最後の騎士」と呼ばれていた。傭兵として生きる彼は、街の外れに建つ二階建ての木造の家に一人住んでいる。重い鎧を脱ぎ、シャワーを浴びると、その瞳には深い悲しみが滲んでいた。夜な夜な見る悪夢に苛まれながらも、冷たく沈黙した日常に未だ馴染めないでいた。
早朝、扉を叩く音が彼を起こした。戸口に立つ勇ましき風貌の者は、重要な任務を告げ、そして昼過ぎに階層から出る門の前に来るようにと言い残し、去っていった。
騎士は一瞬逡巡しながらも、周囲を見回し、武器を整えて再び鎧を身に纏った。冷たい風が頬を撫で、近くの木の枝の影が薄暗く交錯する。しかし心には、得体の知れぬ期待と不安が静かに燃え上がっていた。
騎士は家を出て、ポリスの中心へと向かう道すがら、雑多な人の群れ、腐敗の匂い、賄賂に塗れた商人たちの囁きに飲まれながらも、一歩一歩確かに進み続けた。傷ついた身体と鋭い眼差しは、迷いを知らなかった。
彼を待つ者は誰か?どんな任務、どんな危険が彼を待つのか?その問いを抱えながら、やがて彼はまだ開かれていない扉の前に立った。
すると背後から声が囁いた。
「時間通りだ。今、すべてが始まる…」
騎士は深く息を吸い、剣を握り締めて振り返った。
そこには、黒いマントを纏い、長い帽子で顔を隠した長身の男が立っていた。顔は見えないが、その声には不思議な力が宿っているようで、騎士の心を微かに震わせた。
「何が始まると言うのか?」と騎士は冷たく問い返した。
「お前が知ることになる。今は、私について来い。」
言葉を交わす間もなく、彼らはポリスの市場の喧騒を抜け、細い裏路地へと足を踏み入れた。騎士は注意深く周囲の音に耳を澄ませながら歩を進めた。影が蠢くような、時折胸騒ぎを覚えるような沈黙が支配していた。
やがて足元の石畳は湿り、彼らは冷たく薄暗い地下通路へと入っていった。騎士の呼吸は徐々に荒くなる。だが迷いはなかった。彼は黙って男の後を追い、やがて小さな木の扉の前に辿り着くと、黒マントの男が軽く頷いた。
「中でお前を待つ者たちがいる。」
中から声が響いた。
「入れ、傭兵よ。」
騎士は剣をしっかりと握りしめ、ゆっくりと扉を押し開けた。軋む音と共に薄明かりが広がり、煙と酒の香りが鼻をかすめた。部屋には男女混じった数人の者たちが、鎧を纏い、地図や文書、壊れた剣やナイフを並べていた。彼らの瞳には焦りと恐れ、そしてわずかな希望が光っていた。
彼の姿を見ると、部屋の人々は一瞬沈黙し、やがて小柄な椅子に座っていた一人の女性が立ち上がった。淡い金髪を持ち、その瞳に不屈の光を宿していた。
「騎士よ、私たちにはお前の力が必要だ。この階層は崩壊しかけている… 残された者を救うために、お前を呼ぶしかなかった。」
「階層の守りはすでに失われた。ミュータントの数は増える一方。これは偶然じゃない。誰かの手による組織的な襲撃だ。私たちには時間がない。」
彼女は机に近づき、古びた木箱から一枚の紙を取り出した。
「これは最も重要な情報だ。47階層に潜む古代の力… そしてミュータントたちを率いる指導者について。」
彼女はそれを騎士に渡し、続けた。
「この“黒い秘密”こそが、ミュータントの猛攻を止め、階層の均衡を取り戻す鍵。だがそこに辿り着くのは容易ではない。そこに向かった者は誰一人戻っていない…」
部屋はしんと静まり返った。騎士は紙を受け取り、そこに書かれた古代文字と謎めいた印をじっと見つめた。選ばれし者だけが読めるかのような文体だった。
「私たちが渡せるのは地図だけだ。だがこの道は、強き者だけが越えられる。階層の中央にある“影の間”へ辿り着け。そこで答えを見つけなければならない。」
「ミュータントの頭目…」
人々は騎士を秘密の扉の前へと導き、表には見えない細い地下道を示した。最後に女性が彼の肩に手を置き、優しく言った。
「生きて帰ってきて。」
騎士は無言で頷き、剣を強く握りしめた。地下道の奥から冷たい風が吹き抜け、恐怖、希望、闘志が入り混じる。騎士はすべてを受け入れ、歩みを進める準備が整っていた。
騎士は階層都市の喧騒を背に、静かなる覚悟と共に歩みを進めた。足元を濡らす霧は、まるで試練の入り口を示すかのように彼を包む。暗い通路を抜けるたびに、心の奥に眠る決意が研ぎ澄まされていく。やがて、微かな光が遠くに灯り、影の間から囁く声が聞こえた。「この道を進め、答えはそこにある」と。その言葉は、運命への誘いだった。剣を握り、騎士は再び歩を進める。すべてはまだ始まったばかりだった。