四十一話 ダリア・ベルローニ
「着いたよ」
メイロウ婆の店を出発してから、十分程度。中心街を抜けた少しのところにダリアの家はあった。
この辺りは住宅街らしく、一軒家が道沿いに並ぶ。はしゃぐ子どもたちがボール遊びをしていた。ダリアの家の庭にもブランコがあるのだが、風によって錆びた金属の音を寂しげに奏でていた。
「まさかこんな近くに、伝説と謳われた女がいたとはなぁ……」
玄関先で、車から降りた一行。ウォルターがダリアの家を見上げて呟く。
一時代を築いたマフィアの親玉ならもっと豪邸に住んでいると思いきや、外観そのものは一般家庭が住むようなこじんまりとした家だった。長年手入れもされていないのか壁も汚く、玄関へと上がるための小階段も木製で軋みを上げた。
「ここ……本当に人が住んでるんですか?」
下手に体重をかければ踏み外してしまいかねない。響里はそっと階段を上がる。
「幽霊屋敷って周囲から忌避されてるけどね。実態は、外に出る気力さえ失った女がいるだけさ」
メイロウ婆が嘆く。
「ここは元々セーフハウスでね。外敵の多いダリアはここで子育てをしてたってわけさ」
静かに玄関の扉を開けるメイロウ婆。
足を踏み入れた瞬間、埃臭さが鼻を突いた。そして充満したアルコールの匂い。鬱屈した生活を送っているのが、これでもかと伝わってくる。
外界とを遮断するようにカーテンが閉め切られ、照明さえも点いていない。リビングも、散らかっているどころではない。衣類や物が散乱して、足の踏み場さえなかった。
「こりゃあ、ひでぇな……」
思わず顔をしかめるウォルター。以前、ウォルターの家にも入ったことがあるが、見かけによらず管理が行き届いていた。それに比べると、荒れ放題だ。テーブルには酒の空き瓶が山ほど転がっていた。
「あんのバカ娘、一体どこに……」
ソファに投げられた服を雑に放り捨てるメイロウ婆。
生活感はあり過ぎるくらいだが、当の本人の姿は無い。周囲を見渡す四人。
その直後だった。
「響里、後ろ!!」
切り裂くような芝原の声。
振り返るよりも速く、一瞬の殺意が響里の首筋を撫でる。気配は皆無。視界が捉えたのは、振り上げたナイフの危険な光だった。
「――ッ!?」
完全な油断。咄嗟に顔をかばおうと、腕を前に出そうとする響里。刹那、手のひらに何かの感触が宿った。太刀の柄だ。響里は強く握り締め、即座に振るう。火花が散った。高い金属音と共に、ナイフを弾き飛ばした。
響里はすぐさま後方に飛び退く。
「……誰だい、アンタたち」
ゆらり、と。
響里に奇襲をかけた人物は頼りなくその場に立っていた。
暗くて色合いは分かりづらいが、恐らくは茶系のロングヘア。無造作に顔に垂れているために、容姿は見えない。女性のようだが、バイカーが着るような革のベストとパンツがぴったりと身体のラインに張り付いている。
「強盗なら他所をあたりな。ここには金目の物なんてありはしないよ」
生気を失ったような声。威嚇するでもなく鬱陶しそうに言いながら、手に持っていたナイフを雑に床へ放り投げる。
「だ、大丈夫か!? 響里!」
「う、うん……」
動悸が激しい。間一髪、奇襲に対抗できたのは響里の中に宿る咲夜の力だろう。彼女の怒気が魂を通じて、全身を伝ってくる。
「……随分なご挨拶じゃねぇか、えぇ?」
ウォルターもすかさず銃口を女性に向けている。
「アンタ、相当殺り慣れてるな。躊躇なく攻撃しやがって、どういう了見だよ?」
「勝手にアタシん家に不法侵入してくれたんだ。殺されても何の文句もないだろ」
雑に前髪を掻き上げる女性。
ようやく見えた相貌は、不健康そうの一言。血色が悪く、目元は落ち窪んでいる。三十代前半に一見思えるが、判断が難しいところだ。
「じゃ、じゃあ貴女がダリアさん……?」
「あ? 誰だい、アンタたち」
響里が構えを解く。ダリアが怪訝そうに眉間に皺を寄せた。
「私を知っている奴の場合、大抵どちらかだ。ご近所さんか、それとも過去の同業者か。前者は見たこともないツラだし、後者ってのも……笑わせるよな」
学生服を着たマフィアなどいないと、言外に言いたいのだろう。と、ダリアは横目にウォルターを見る。
「……いや、アンタはそれなりに鉄火場を経験してそうだな」
「流石の洞察力だぜ。ま、広い意味じゃアンタの後輩ってとこさ」
「どちらにせよ、碌なモンじゃないね。とっとと帰んな」
虫を追い払うように右手を振るダリア。
「ちょっと待ってください、俺たちは――!」
「名を売りたけりゃ、別の奴にしな。私に喧嘩を売っても何の価値もないよ」
「そうじゃなくって――!」
響里の言葉を待たず、リビングの奥に行こうとするダリア。テーブルに転がっている酒瓶を持ち上げた瞬間、天井の照明が点いたのか部屋中が明るくなった。
「まったく、陰気臭い娘にせっかく手土産を持って来たんだ。もうちょっと歓迎してくれてもいいもんだけどね」
壁際のスイッチに手をかけていたメイロウ婆が、呆れたように息を吐く。
実の母との対面。ダリアの表情が驚愕の色に満ちる。
恐らく、久しぶりの再会なのだろう。沈黙の時間が、その歳月の長さを現しているかのようだった。
やがて、ダリアが全てを理解したかのように長い溜息をついた。ソファに乱暴に腰を下ろす。
「なんだい、アンタの客か」
酒瓶に口をつけ、一気にあおるダリア。こぼれた液体を手で拭うと、鼻で笑う。
「こんなガキを連れて何の用だ? エージェントへの斡旋だけじゃなく、身売りまで始めたなんて聞いてなかったが」
「馬鹿をお言いよ」
と、メイロウ婆も笑い飛ばす。
「生憎、お前と違って生活には困ってないんだ。コイツ等もアタシの大事な客でね。お前も噂ぐらいは耳にしてるだろ。望月のことを」
「ビジネス面でやり手の男だった、ぐらいはな。近頃、とんと耳にしなくなったが……誰かにやられたか」
「この子たちだよ、“ザ・ペイン”を壊滅させたのはね」
「……何?」
鋭さを帯びたダリアの瞳が、響里たちに向けられる。値踏みでもするかのように睨めつけた後、肩をすくめた。
「信じられないね。どこからどう見ても只のガキにしか見えないが」
「与太話だと笑うかい? アタシが真実しか話さないのはアンタが一番よく知ってるだろう?」
「はっ、どの口が」
「なんなら私の店に来な、証拠を見せてやる」
「…………」
ダリアが押し黙る。彼女もまた、メイロウ婆の情報網の広さを熟知しているのだろう。真意を確かめるまでもないと、ゆっくりと酒を飲んだ。そして、飲み干した瓶をそっとテーブルに置く。
「ま、いいさ。アタシには興味ない」
「おや、残念だ。せっかく久しぶりに外の空気を吸わせてやろうと思ってたのに」
「そんな報告の為にわざわざ来たってんなら、“はい、ご苦労さん”ってやつだ。用件は済んだんだろ、さぁ帰りな」
「まぁ、そう言うな。まずはこの子たちの話を聞いておくれよ」
「……気分じゃないね」
億劫そうなダリアは、別の酒瓶を取ろうと手を伸ばす。が、寸前で響里がかすめ取った。
「ダリアさん、貴女の力を貸してほしいんです」
「……はあ?」
何を藪から棒に、という顔で睨むダリア。響里は構わず続ける。
「女の子が一人、この世界に迷い込んだんです。俺たちはその子を助けたい」
「勝手にすりゃいいさ。私に何の関係があるというんだい」
「ここが危険な場所だということはダリアさんもよく知ってるはず。友達を死なせたくないんです」
ダリアは酒瓶を響里から強引に奪い取り、口をつけた。
「馬鹿馬鹿しい。人の死すら軽視されるミッシリオで人助け? 笑える」
「ダリアさん、俺たちは真剣なんです」
「やめときな。その純情さはこの街じゃ汚穢と同義だ。その友達は運が悪かったとして、もう諦めな」
「迷い込んだ場所が、シルバー地区でもですか」
ピクリと、ダリアの形のいい眉が反応する。
「……なんだって?」
「しかもその子が、銀城栄介の娘だったとしてもですか」
ゆっくりとダリアが響里の方に首を動かす。響里も感情的になるでもなく、静かに彼女を見据えていた。
「……どういうことだ?」
「銀城栄介はこの街の要は中枢。というか創造神ですよね」
「なんか妙な例えだが、あながち間違っちゃないよ」
「その子は多分、銀城栄介に会いに行く。だけど、きっと殺されてしまう」
「感動的な親子の再会にはならないってことか?」
皮肉めいて笑うダリア。
「こじれた関係に決着をつける……そんなところだと思います。銀城栄介という人物像は知りません。だけど、そんな穏やかな会話で済む展開には決してならない」
「普通の親子なら喚き散らした挙句、“あぁゴメンよ”の一言と抱き合って終わりかもな」
「銀城栄介は天権。自分の造った世界に酔いしれ、本来の自我を失っているかもしれない。陽ノ下さんは、それがいかに危険か知らないんです」
ミーアレントの場合がそうだった。天権の宮井は現実から逃げて、自身にとって都合のいい異界で本能のままに暴れていた。
天権には計り知れない力が与えられる――それがこのミッシリオでも当てはまるなら。残虐性に満ちた街を創造したくらいだ。きっと現世の理性なんて無いに等しいのではないか。
「……さっきから妙な単語が飛び出してるが……。おい、コイツ大丈夫なのか?」
メイロウ婆に向けて、ダリアは自身のこめかみを指でたたく。少しづつ聞く耳を持ち出したダリアも、まだ要領を得ていない。
メイロウ婆はそんな彼女を面白がるように、響里へ顎をしゃくる。瞬時にその意図を理解した響里は、学生服のズボンをまさぐった。
「これを見て下さい」
響里が差し出したのはスマホだった。
画面に表示されていたのは、数日前に月村綾音の快気祝いとして記念に四人で撮っておいた写真だ。
「――なんだい?」
「この子が陽ノ下さんです」
響里が画面に指をさす。月村が主役だろうに、何故か中央で映っている陽ノ下澪。満面の笑みを浮かべる彼女を見た瞬間、みるみるダリアの瞳が瞠目していく。
「――!?」
手で口元を覆うダリア。
「ジェンナ……」
「似ているだろう、お前の娘に」
小さく震えるダリア。そんな彼女に、メイロウ婆は優しくダリアに言った。
「まるで生き写しじゃないか。きっとジェンナが成長したらその写真の子にそっくりになっていただろうね」
「違う……。違う……。他人の空似だよ、こんなの……」
「そうだね。だけど、これも因果ってやつとは思えないかい?」
言葉にならないダリアから嗚咽が漏れる。失った娘を思い出し、頬に涙が伝う。
響里は何も言わず、自分のスマホをダリアに手渡した。
「ジェンナ、ジェンナ……!」
画面の陽ノ下に向かって自身の娘の名を呼び続ける。
慟哭。
自身の稼業のせいで失った大切な命。ダリアは絶えず自身を責め続けていた。終わらない後悔。そして今、爆発した感情。メイロウ婆が娘に近寄ると、優しく背中を撫でた。
それから、どれくらい時間が経っただろうか。嗚咽も徐々に収まり、泣きはらしたダリアは目元を拭うと、大きく深呼吸する。そして、響里に問うた。
「……アンタたちはこの子を助けるつもりなのかい?」
「はい」
「そのために、あの銀城栄介に喧嘩を売るつもりなのか」
響里は首肯。
「陽ノ下さんのお母さんも、二人のことを心配していました。すごく悲しんでます。その人のためにも俺たちは行かなきゃならない」
ダリアは「そうか……」と呟きながら、響里にスマホを返す。考え込むようにソファに深くもたれかかった。
「ダリアよ」
メイロウ婆が呼びかける。
「アンタはもう十分悲しんだ。そろそろ呪縛から解き放たれてもいいんじゃないかい?」
恐らく、その言葉こそメイロウ婆が長年言えずにいた本心。静かに、染み込ませるように聞いていたダリアが己の母を見つめる。
「……なあ」
「なんだい?」
「もしも、ジェンナが今の私の姿を見たらさ。幻滅するんだろうか」
「きっと天国で怒ってるさ。お前だって、私がしょげてるのを見てられないだろう」
「……ぶん殴りたくなるね」
苦笑して、ダリアは立ち上がる。
「いいだろう。協力してやる」
「ホントですか!?」
「ただし――」
ダリアの声が消えかけると同時。彼女の身体が沈む。一瞬にして響里の懐に入ったダリアが、拳を固めた。
「――!?」
槍の如き鋭い突きが響里の腹部を捉える――寸前。響里は無意識に太刀の腹を前にかざしていた。聖傑の力の発現。が、それをもってしても彼女の威力を防ぎきれなかった。
拳の衝撃が響里を貫く。そのまま壁に叩きつけられ、粉砕。響里は家の外にまで吹き飛ばされた。
「がは……!」
「響里!」
芝原が大きな悲鳴を上げる。
「何を……!」
脳が揺さぶられている。思考が働かない。横たわる響里が理解できたのは、唐突に殴られたという事実だけ。その腕力は人間を遥かに超えるものだ。
「なぁに、テストさ。アンタたちが私の背中を預けられるかどうかの、ね」
自らの家を破壊しておきながら愉しげに笑うダリア。穴から出てきた彼女はこれまでの態度とは一変。獰猛な獣のように、瞳に鋭い光を宿らせている。
「一度目の不意打ちを防いだ時点で証明にはならないってことですか……」
「アタシの本来の得物はコッチでね。ヤワな刃物はあくまでオプションさ」
指の関節が気味の悪い音を立てる。
「それに、ババアがいくら保証したって私が自分の目で確かめないことには安心できない。相手はあの銀城栄介だからね。依頼人がすぐにおっ死んじまってもコッチは困るわけさ」
口内に溜まった血を吐き出す響里。視界の端ではメイロウ婆が頭を抱えている。
太刀を杖代わりに、響里はよろめきながら立ち上がる。
「……受けて立ちますよ。その代わり、後悔しないでくださいね」
聖傑状態の高揚感。全身の疼きが、攻撃的な口調へと変わる。
響里の全身から沸き立つのは、可視化された闘気だ。咲夜との同調がさらに強まったのだ。
「いいねぇ。アタシも大分錆ついてるからね。いきなりマックスでいかせてもらうよ!」
ダリアが仕掛ける。
軽やかなステップから、一瞬で響里との間合いを詰める。人間の動体視力では捉えられない速度。響里の眼前に、鋭い拳が迫りくる。
「――くッ!」
咄嗟に上半身を引く響里。ダリアのリーチを考えれば、避けられる距離にまで仰け反ったつもりだった。
しかし。
ダリアの姿が再び消える。
「!?」
「遅いよ!」
次の瞬間には、ダリアは響里の背後に回り込んでいた。すなわち、フェイント。初撃が牽制だと気付いたときには、ダリアが回し蹴りを放っていた。
「がッ!」
無防備な背中に蹴りを喰らい、響里は地面を弾む。ダリアが追撃を図ろうとするが、踏みとどまった。響里が跳ねた勢いを利用して体勢を整えたからだ。
通常の人間ならあの一撃で勝敗は決しただろう。しかし、肉体が強化されている聖傑状態では、さほど堪えていない。
着地と同時。強靭な脚力で響里はダリアに迫る。
腰元に据えた刀から横薙ぎの一閃を放つ。加減などしない。
「ははッ!」
反撃されることが予定外だったのか、ダリアが痛快に笑う。太刀をかわし、後方へ逃げる。
(逃さない!)
響里が地面を蹴り、彼女を追う。瞬時に肉薄し、これまで以上の速さで連撃を見舞う。
しかし、そのことごとくをダリアはかわしてみせた。
恐るべき反射神経。聖傑並みの運動能力に、響里は舌を巻く。
さらに驚くべきは、ダリアは微笑んだまま攻撃をいなしていることだ。生と死の境界線に愉悦を覚えているのか、単純にマフィアだった頃の血が騒ぐのか分からない。
ただ一つ確かなのは、味方になってくれればこれほど心強いことはないということだ。
「いやあぁぁぁぁああああ!」
「ハハハハハ!」
互いに腕試しのつもりだったが、いつのまにか本気になっていた。
響里が一歩、強く踏み込む。
吐き出す呼吸と共に、地面を抉るように太刀を振り上げる。全力の一閃。
しかし、そのタイミングに合わせ、ダリアが拳を引いた。完璧なカウンターだ。
――刹那。
静寂が下りた。
二人は、ピタリと動きを止めていた。
響里の切っ先はダリアの首筋に。ダリアの拳は響里の額に。どちらも僅か数センチの距離。どちらも決定打を前にして、強制的に停止したのだ。
「やるじゃないか、お前」
すぐさま構えを解いて、ダリアは肩をすくめる。一方、闘争心がすぐさま抜けない響里は、時間を置いてようやく太刀を収めた。
「本気を出せる奴に会ったのは久しぶりで楽しかったよ。危うく殺すところだったけどね」
「俺も……です」
ダリアは豪快に笑い、響里の背中を乱暴に叩く。
これが年季の差というやつだろうか。幾度となく戦場を経験してきたダリアにはたっぷり余裕が残っているのに対し、響里は呼吸が荒く指の震えも止まらなかった。
「いいぜ。それじゃ神様に挑むとしますか」
髪を掻き上げながら、ダリアは空に浮かぶ太陽を眩しそうに眺める。
その様子を外野から見ていた三人は、揃って胸を撫でおろしていた。




