第三十九話 誓い
内臓が圧し潰されそうな圧迫感は、目的地に近付くにつれて徐々に強くなっていった。吐き気すら催す悪寒。張り詰めた糸が肌に強く食い込むような痛みは、前回の商店街のときよりもずっと酷い。
銀城家の屋敷に到着する。後部座席から車外に出た響里は、すぐさま空を見上げた。
「やっぱりか……!」
群れを成す黒の群れ。人間を小型化し、骨ばった身体に羽を生やしている醜悪な見た目。記憶から消したくても、消せはしない。紛れもなく、商店街を襲ったものと同様の悪魔が空を蹂躙している。
「あ……あ……」
反対側のドアから降りた芝原がたたらを踏んだ。呼吸もままならず、喘ぐ。無理もない。悪魔の軍勢は、力のある者にしか視認できない。異界に触れたものにしか、そのフィルターは生まれないのだ。
「なん、なんだ、あれ……」
アスファルトに腰を抜かす芝原。常人ならば間違いなく絶望する光景に、発狂しないだけ立派というものだろう。
「大丈夫? 芝原くん」
響里が声をかけるも、芝原の耳には届いていない。気が触れないまでも、精神的ショックで失神なんかされたらたまったものではない。正気を取り戻してもらうため、響里は彼の背中を強く叩く。
「がはッ!」
「しっかりして、芝原くん!」
咳き込みながらも、芝原の瞳に光彩が戻る。響里は、彼の腕を取って強引に立たせる。
「きょ、響里……」
怯えた表情。響里は、掴んだ芝原の腕をさらに強く握りしめる。痛みを与えることで現実から離れないように。そして、彼の目をしっかりと見据え、宥めるように頷く。
「どうしたんだ、お前ら」
銀城家の門の前で、少年二人を怪訝そうに見つめる銀城蒼。彼にとっては自分の暴力組の前で臆しているようにしか映らないのだろう。
今でこそこの町も洋風の家造りが増えたが、ここだけは違った。広大な敷地を取り囲む高い塀。瓦屋根に二本の木の柱に挟まれた鉄の門は、歴史の重みを感じる。観光施設であれば、どれほど気分が高揚するか――威風堂々たる門構えも、今や悪魔の巣に他ならない。
その証拠に、既に襲撃は始まっていた。
帯状に昇る無数の赤い光。紛れもなく、刈り取られた人間の魂だ。異界のエネルギー源になる人間の魂を奪う為、次々と悪魔が屋敷の中に下降していく。
「行こう、陽ノ下さんが危ない」
「お、おう」
響里は銀城蒼に視線を向け、「お願いします」と頷く。やや呆れ気味の銀城蒼がそっと門に手をかけた。重厚の音と共に門が開かれる。
まるで武家屋敷のような外観は、こんな事態でなければさぞ趣があったことだろう。庭園に敷き詰められた石畳。傍らには大きな池まであり、屋敷を飾るのは立派な松の木だ。広い玄関口には垂れ幕があり、銀城組の代紋が刻まれていた。
「おい、どうしたお前等!?」
叫ぶと同時、銀城蒼が駆け出す。庭園には、スーツの男たちがそこら中に転がっていた。その数、十名余り。獰猛な顔つきをした銀城会の組員が、泡を吹いたまま意識を失っている。
「一体何があった!? カチコミか!?」
その問いに答える者はいない。誰もが空を浮遊する悪魔たちに魂を抜き取られたのだ。外傷自体は皆無なため、異界経験者でない一般人には判断が一切つかない。困惑の極みだろう。怜悧な銀城蒼もやり場のない怒りで、地面に拳を叩きつけていた。
「き、響里……。これって……」
「思い出した? そう、商店街のときと一緒だよ」
確信めいて声を震わせる芝原に、響里は空を睨む。
「あのときはまだ芝原君には視えてなかったよね。商店街の事件、そして今回……。意識不明に陥った原因はアイツ等なんだ。ミッシリオに行ったときに説明したけど、分かってくれた?」
「あ、いや……。お前を信じてなかったわけじゃねぇけど、正直、半信半疑だったんだ。じゃあ、この赤い光は全部……」
「ここの人たちの魂。きっと自分が何をされたか分からないまま倒れたんだろうね」
嫌悪感を剥き出しに、響里が唸る。重力に逆らう魂の光。それがうねりとなり、空へと昇っていく。ただし、肝心なのはその後だ。響里は記憶を辿り、魂を奪った悪魔たちが何をしたかを思い出そうとした。
そのときだ。
「――!? 危ない!」
響里が警告を発するも、遅かった。
降下した一体の悪魔が、銀城蒼の背中に爪を突き立てる。
「が、は……!」
悪魔の腕が、銀城蒼の胸元を貫通。細く鋭利な指先には、鮮血のように美しく輝く丸い球体。魂を握った悪魔が、勢いよく銀城蒼の身体から引き抜く。
「銀城さん!」
叫ぶ響里を嘲笑うように、悪魔は再び飛翔。紅蓮の光が密集した仲間の元へと戻っていく。そしてそのまま、響里が想像した展開へと進行していく。
小さな光の粒だった魂が、結集し始めたのだ。まるで細胞のように。吸着し、脈動し、肥大化する。最早輝きすら失われ、醜い肉塊とも思える巨大な球体へと変貌していった。
「あ、あ……あ……」
言葉にならない微かな呻きが、芝原の口から漏れる。
現実世界では何ら為す術のない聖傑。響里は悔しさに歯噛みするしかない。異界という不条理なシステムの循環を止めるには、この魂の集合体をどうにかしなければならない。あるべき場所へと帰す――そのためには。
「義矩くん!」
その呼び声は、響里が心から待ち望んだもの。振り返れば、期待通りに彼女が門の前に立っていた。
漆黒のスーツ。教師にしては顰蹙を買いそうな短めのタイトスカートを履く藍色の髪の女性。親戚である響里からすれば、もう少し慎みを持ってほしいと願わずにはいられない。
――有沢深雪。
悪魔の瘴気を感じ取ったのか。まだ学校にいたはずの彼女は、自身の車でここまで飛ばしてきたらしい。
「深雪さん、悪魔がまた!」
「分かってる!」
響里の言葉に被せるように有沢が答える。力強い足取りで屋敷内に踏み入った彼女が響里たちの横を通り過ぎる。
「み、深雪っち……?」
思わず生徒間のみ許される愛称で呼んでしまう芝原。有沢の普段では見せない厳しい顔つきに気圧されている。
倒れている銀城蒼の前で立ち止まる。その足元。静かに、円を描くように白い光が生まれた。燐光が有沢を包む。彼女は厳かに舞い踊りながら、さながら巫女のように祝詞を唱える。
「我、古の大地に伏する守り神の眷属の名において宣誓する。陽炎は全ての害悪を討ち滅ぼす。暁の威光より自在の通力を得たりて、極光の針を放つ!」
しなやかな動きで有沢の両腕が天へと掲げられる。無数の光は鋭い刃物と化し、即座に射出。勢いよく放たれた地上からの光弾は、悪魔に抵抗すら間も与えない。次々と光に貫かれ、あっけなく消滅。数もみるみるうちに減っていく。
問題は、あの巨大な魂の塊だ。
前回は間に合わず、持ち去られてしまった。そのせいもあって被害に遭った町民の中には意識の回復が遅れた者もいる。
焦った悪魔たちがその魂を囲む。魂は異界構築のエネルギー源。自分を盾にしても死守するように群がって、そのまま逃げるつもりだろう。
「やらせない……ッての!」
彼女の足元に輝く光輪が、より強い光を放つ。地面からじわじわとせり上がってくる十字の柱。それは長身の有沢をも超える、杭だった。淡い輝きを放つそれは物質へと変化し、刻印が浮かび上がる。
有沢の全身全霊を込めた霊槍。放出した力を乗せ、杭が放たれる。
「“夢幻霊槍”!」
直線的に伸びる十字架が悪魔を粉砕し、巨大な魂を直撃。魂の中に侵入し内部から浄化する。穢れの一切を除去しながら、本来の美しさを取り戻した魂が霧散する。それはまるで春に降る雨のように、温もりを持って地上に降り注いでいった。
「やった……?」
一部始終を見守るしかなかった響里は、呆けながら呟く。
「対処療法でしかないけどね。でも、ま、提供者に一泡吹かせられたかしら」
ぐったりと肩で息をしながら、有沢は響里に向けて片目をつぶる。
「こっちもプロ。毎度毎度、向こうのいいようにやられるかっての」
「でも助かりましたよ。俺たちじゃどうしようもできないから。ホントに何なんですか、その力」
「義矩くんには説明したよね? この地にはレイラインがあるって」
「確か、神性のものが多く密集しているっていう?」
事も無げに回答する響里に、嬉しそうに頬を緩める有沢。
「そう。私たち“龍源の穴蔵”は、その並び立つ古代の聖地から少しばかり力を拝借しているの。霊的な力は地脈を通る。それらが自然と調和することで、この御伽の地は豊かな歴史を紡いできた」
「龍源の穴蔵……?」
「私が属する組織の名前。いかにも年寄りが考えそうな名前よね」
サラッと毒を吐きながら有沢は肩をすくめた。
「でも、いいの? 俺たちに教えちゃって。前はあまり言いたくないような素振りだったけど」
「ま、私も色々あるってことで」
本音を漏らさないのは相変わらずだが、響里にとって有沢の存在は頼みの綱だ。聖傑というだけで状況の把握は現時点では皆無に等しい。情報源があるだけで助かる。
「あのー……」
と、芝原。二人の会話に申し訳なさげに割って入ってくる。
「一体何がどうなってんスか……? 俺にも説明してほしいんですが……」
「え~と、どう言えばいいかな……」
困ったように頬を掻く響里。
「深雪さんは、昔から俺たちの知らないところで密かにこの町を守ってる組織の一員……ってとこかな?」
「“龍源の穴蔵”は御伽町の管理人と思えばいいわ。本来は霊的な力が暴走しないよう見守るだけのお役目なんだけど、提供者なんてウザい奴が現れたもんだから、その調査っていうメンドーな副業が出来たわけ」
「教師は世を忍ぶ仮の姿ってやつ……スか」
「どちらも本職。君たちの将来もちゃんと考えているわよ?」
自慢げに胸を張る有沢。単純に二足の草鞋とでも言えばいいのか、どちらも疎かになっていないのは事実なのでそこは従姉ながら素直に尊敬する響里。
「訊くまでもないけど、芝原くんも聖傑なのは知ってたんだよね?」
「まっさか、義矩くん以外にも資格を持った人間が現れるなんてね~」
あっけらかんと笑いながら、有沢は少しだけ真剣な表情を作る。
「まあ驚いたけど、君たちがその力を悪い方向に使わなければこちらも敵対するつもりもないわ」
「お互いに最優先は提供者ですしね」
「そういうこと……って」
何かを言いかけた有沢は、ふと思いとどまったかのように口を閉じた。「……いや、何でもない」と首を振って、改めて問う。
「それより、義矩くんたちはどうしてここへ?」
「陽ノ下さん、今日学校休んだでしょ? 様子を見に行こうとしたんだけど、どうやらここに来たらしくて……」
眉根を寄せて考え込む有沢。そして、不可解とばかりに呟く。
「隔絶している関係だった父親の元に?」
「知ってたんだ。陽ノ下さんと銀城家の関係を」
「これでもクラス担任よ? あの子はひた隠しにしているようだから私も静観していたんだけど……。そう、陽ノ下さん、いなくなったのね?」
「この家のどこかにいると思ったんだけど、来たらこの悪魔騒ぎだった」
「いや、彼女ならもういないと思うわ」
やけに確信めいた口ぶりに、今度は響里が眉をひそめた。
「知ってるの? 陽ノ下さんがどこにいるか」
「私たちの調査で今回の異界の天権が判明したのよ。――十中八九、間違いない。銀城会組長、銀城栄介よ」
「…………!?」
響里が息を呑む。芝原も同様の反応。
「あのミッシリオが……?」
芝原が呆けたように呟くが、響里には納得できる部分もあった。
警察や病院などがない異界――ミッシリオ。それが日頃鬱陶しいと感じる相手なら最初から排除した世界を願い、前提として構築する。異界は天権の想いが叶う場所なのだから。
「ついてきて。きっとこの家の中にアレはあるわ」
言うが否や、有沢は玄関に入っていく。三和土には靴類は下駄のみで、陽ノ下のものは見当たらない。そもそも本当にここにいるのかという疑問が頭をかすめるも、有沢を信じて家の中に土足で上がっていく。
畳張りの広い部屋がいくつもあり、壁には日本刀や掛け軸が飾られてあった。厳然とした空間は無人ながらも委縮してしまうが、伝統と格式は重んじているようだった。
――が。
奥座敷に入ったところで、響里たちは立ちすくむ。
あまりに場違いなものがそれも無遠慮に、鎮座していたからだ。
異界への扉だ。
外国の芸術家がデザインしたような豪奢な白磁の扉が、そこにはあった。
「ビンゴ」
不愉快そうに鼻を鳴らす有沢。広々とした座敷を見渡して、舌打ちする。
「提供者の気配は無し……か」
「深雪さん。陽ノ下さんもこの中に……?」
「でしょうね。単身乗り込んだ彼女は、この扉を見つけた。そして異界へと誘われた」
容易に想像がつく。本来ならば外で倒れている組員に止められるはずだが、運悪く悪魔の襲撃があった。視えるはずのない陽ノ下は、易々と家の中に突入できたのだろう。
響里はグッと拳を固めて、背後にいる芝原へ振り返る。
「行こう。陽ノ下さんを助け出すんだ」
「お、おう!」
そして響里は、自分を見つめている有沢に言った。
「深雪さん。俺は決めたんだ、聖傑として戦うって。提供者のやってることは許せないし、現にこうして友達が巻き込まれているのを放っておけない」
「義矩くん……」
「俺は俺の意志でやり通す。深雪さんの組織が、俺たちをどう扱おうと関係ない」
唇を噛み締める有沢。瞳は潤んでいた。彼女の中で複雑な感情が渦を巻いているのだろう。従姉として。龍源の穴蔵の使徒として。瞳を強く閉じて、何かを堪えるように――やがて、有沢は儚げに笑みを見せた。
「安心して。私だけはあなたたちの味方です。龍源の穴蔵の総意は介在しません」
扉がゆっくりと開かれる。資格のある者を待ち望んでいたかのように。光の奔流が響里と芝原を包む。
「託します。彼女を助け出して」
懇願する有沢に応え、響里はしっかりと頷いた。




