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聖傑  作者: 如月誠
第三章 母の愛編
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第三十八話 朱に染まる空

「えぇ……。あれってよ……」


 陽ノ下のアパートが見えてきたところで、芝原は頬を引き攣らせた。

 アパートの敷地を囲むブロック塀に、車が駐車してあった。黒塗りの高級車。間違いなく、商店街で見たもの同じ車種だ。


「こんなところにも……。どうする?」


 周囲に銀城会らしき人影はない。となればアパート内にいる可能性が高い。一介の学生風情がそういう大人の組織の邪魔になる事案を抱えているわけもないので気にする必要はないかもしれないが、やはり不要な接触は避けたい。


「……行こう」


 二の足を踏む響里たちを他所に、意を決したように月村が歩き始める。大人しい印象の彼女だが、意外に肝が据わっているのかもしれない。

 二階建ての六部屋ほどある小さなアパート。近くで見ればより分かるが、築年数はかなり古そうだ。家賃も安そうで空き部屋もない。一人暮らしには最適なのだろうが、家族で住むには手狭だろう。

 敷地内にも銀城会の組員の姿は無い。その点はホッとしたのだが、耳の片隅に男女の会話が聞こえてきた。一階部分の角部屋だ。玄関先に立ち、中年の女性がスーツの男を応対しているようだった。


「あれって昨日の……」


 響里の記憶にうっすらと残るその男。インテリ風で眼鏡の奥に鋭い眼光を宿した男を見て、陽ノ下は突然態度を変えたのだ。会話の内容までは判然としないが、どうも怯える女性にスーツの男が詰め寄っている構図だ。


「おばさん!」


 月村が声を上げ、その二人に駆け寄っていく。強引に二人に割り込んでいく様にギョッとする響里と芝原。剣吞な空気に混じるのも躊躇われるが、行くしかないと月村の背中を追う。


「ああ、綾音ちゃん」

「おばさん、どうしたんですか」


 月村はスーツの男を一瞥。女性を庇うように寄り添い、男に背を向ける。


「何かトラブルでもあったんですか?」

「ううん、そんなのじゃなくてね。それにしても久しぶりね、綾音ちゃん。昔はいつも遊びに来てくれたのに、さみしかったのよ」


 と、女性はおっとりした口調で眉を下げる。


「今日はどうしたの? 澪ならまだ帰ってきてないわよ」

「それは、おばさんが具合悪いからって……。って、澪がいない?」


 怪訝な月村が困惑気味に呟く。


「月村さん。その人が陽ノ下さんの……」


 きっと学生服で判断したのだろう。響里たちが追い付くと、その女性は柔和な笑みを見せた。


「あらあら。澪のお友達かしら。私、澪の母親で陽ノ下紗枝といいます」


 丁寧にお辞儀をされ、反射的に響里と芝原は頭を下げる。

 近寄れば一目瞭然だった。血色は薄いものの温和そうな顔立ちは、どことなく陽ノ下澪に似ている。遺伝なのか、同じ髪の色は赤みがかっていて、自然なウェーブの髪を背中辺りで結っていた。娘は快活な印象だが、彼女においては警戒心というものが薄く隙だらけで騙されやすそうなくらい朗らかだった。だからこそ陽ノ下澪がしっかりしているのだろうが。

 エプロン姿ということは、直前まで家事をしていたのだろう。だが響里はそこに違和感を覚えた。


「あの、俺たち陽ノ下さんが今日学校休んだって聞いて」

「そ、そうなの。おばさん!」


 事情を説明しようとする響里に、呆けていた月村が言葉を継ぐ。


「おばさんの容態が悪いから、澪が休むって連絡がきたの」

「私? 今日は全然。むしろ調子は良い方よ」


 とぼけたように首を傾げる陽ノ下の母。微かに開いたドアの隙間から空腹感をくすぐるような香ばしい匂いがしてくる。料理の最中だったらしい。


「それより澪、学校行かなかったの? 今朝は普通に着替えて出かけて行ったんだけど……」

「え? そんな……」

「ホントに澪がそう言ったの?」


 不可解そうに尋ねてくる陽ノ下紗枝に、月村は無言でスマホの画面を見せた。ゆっくり目を通した陽ノ下紗枝は、「変ねぇ」とばかりに頬に手を当てて嘆息する。


「どうなってやがんだ、こいつは……」

「陽ノ下さんが嘘をついたってことだろうね……理由は分からないけど」


 響里の推測に、月村が重々しく頷いた。

 母にも内緒。一番の友人でもある月村にも黙ってどこかに行ったきり、行方が分からない。なんでもオープンな性格の彼女が、隠し事をしているようには思えない。大したことじゃないと思いたいが、不安を助長させるのはやはり連絡がつかないことだ。


「澪……」


 スマホの画面に目を落としたまま、月村が心配そうに呟く。さすがに事の重大さを理解し始めたのか、陽ノ下紗枝も血の気が薄い顔色をより悪化させている。


「――アイツもいなくなったのか」


 低く澄んだ声音で、不穏な空気を裂いたのはスーツの男。縁なし眼鏡の位置を直して、切れ長の瞳で三人の学生を見下ろす。


「親子で行方不明とは……。人騒がせにも程がある」

(あお)さん!」


 頭を抱えるスーツの男。おっとりした陽ノ下紗枝の鋭い声にも驚いたが、なにより聞き捨てならないのは蒼と呼ばれた男の口から吐かれた言葉だ。


「親子……?」

「響里くん。それは……」


 月村が沈痛な面持ちで呻く。男を咎めるように叫んだ陽ノ下紗枝も唇を結んでしまっている。

 響里がゆっくりと視線を蒼と呼ばれたスーツの男に這わせる。視線が交錯。彼は眼鏡を外して眉間を揉みながら、やがて疲れたように息を吐く。


「俺の名は銀城蒼。銀城会組長、銀城栄介の息子だ。そして――」


 銀城蒼が、陽ノ下紗枝の方をちらりと見る。


「陽ノ下澪は、その銀城栄介と紗枝さんの間に生まれた子。つまり、俺とは兄妹になる」

「は……?」


 唖然と、気の抜けた声を出す芝原。


「アイツが、銀城会の娘……? いやいや……え?」

「信じられないだろうな。澪の奴もそれを隠して生きてきたんだろうからな」

「おい、マジかよ……」


 これまで親しくしてきた友人が暴力団組長の娘。彼女自身はシングルマザーとしか語っておらず、父親には触れたこともない。自分を強く抱き締めるようにして沈黙する陽ノ下紗枝のその反応が、眼前の男が語った言葉を真実だと示している。


「月村さんは……知っていたの?」


 陽ノ下紗枝に寄り添う月村に訊ねる響里。彼女は、うつむき加減に小さく頷く。


「小学校の頃から一緒だから。澪の方から教えてくれたの。蒼さんとも度々会うこともあったし。でも、お父様の顔は私も知らないの」


 陽ノ下は、余程月村のことを信用しているのだろう。真実を打ち明けても嫌厭されないと。年端も行かない子どもには重たすぎる秘密を暴露するには相当の勇気が必要だっただろう。


「俺も若かったからな。親父には接近禁止命令を出されていたが、どうしても気になっていたからな。ちなみに、俺と澪は異母兄弟。紗枝さんとは何の血の繋がりもない」


 獣のように獰猛な空気を纏う銀城蒼から、ほのかに年相応の青年としての顔が覗かせる。ただ、次々と彼の口から語られる真実に、響里の理解が追い付いていかない。


「私は……後妻なんです」


 補足するように、陽ノ下紗枝が震える声で言った。


「蒼さんのお母様と私は友人同士でした。当時、彼女の結婚には反対していましたが、本人の気持ちは頑なで……。周囲の反応など考えれば辛いのは分かっているのに、おまけに看護師となればね」

「それがどうして……」


 貴女も同じ運命を辿ることになってしまったのか――その疑問を口にしようとして憚れる響里。不躾が過ぎるというものか。口を噤んだ響里に、陽ノ下紗枝は困ったように笑った。


「どうしてでしょうね。彼女が病気で亡くなる寸前、託されたんです。旦那を頼むって。別に彼女の意志を受け継いだわけでもないんですけど。ああいう世界に生きるからこそ孤独なのかなって思ってしまったんです」


 過去を正直に話す彼女は、寂しそうに微笑む。


「ですが、やはり厳しいもので。私に対する風当たりも当然のように強かった」

「俺も子供の頃の記憶で曖昧だが、組員の反発は強いように思えた」


 顔をしかめる銀城蒼。


「次期組長である貴方の影響を考えたからでしょうね。栄介さんは凄く崇拝されていたから、きっと蒼さんにもそうなって欲しかった。それには私が邪魔だったのよ」

「俺は気にしないというのに……」


 歯噛みする銀城蒼には後悔の色が見て取れた。ある種、任侠という別世界で生きる彼の心は意外にも純粋なのかもしれない。


「だから澪をお腹に宿したとき、離婚しました。私も精神的に参ってましたし、なにより澪への影響も考えて。栄介さんから援助の話もありましたが、あの人の立場もありますし断りました。組とは一切の関係を断つために」

「じゃあ、陽ノ下さんが生まれてからそのことを打ち明けたんですか?」

「まさか」


 弱々しく、陽ノ下紗枝はかぶりを振る。


「直接伝えてなんかいません。ですが、心無い噂話は聞こえてくるもの。あの子に問い詰められても嘘をついて誤魔化していたんですが……」

「知ってしまった」

「はい。あの子にも銀城家の屋敷には近づくなと言っておいたのですが、きっと確かめたかったのでしょう。それからです、澪が格闘技を習い始めたのは。私を守るために、と。そして、銀城家を憎むようになったのは」

「いつも澪が言ってたの。お母さんを苦しめたのはアイツ等だって」


 月村が呟くと、陽ノ下紗枝も胸を痛めたように呻く。


「それも根も葉もない話を信じているの。一方的な離縁をされたとか。だからこんな不遇な生活を強いられているとかって思いこんで」

「組員の仕業か、噂好きの連中の井戸端会議を聞いたのか……。きっと前者だろうな。親父を慕うあまり、年端も行かない澪に吹き込んだんだ」


 頭痛をもよおしたのか、銀城蒼はこめかみを押さえる。


「他人のせいにしないでください。あなたもこうやって澪の前に現れるから、澪も苦しむんです」


 静かに怒りを滲ませて、睨みつける月村。


「そうだな。すまない、あまり妹と紗枝さんを刺激しないよう親父にも言われていたんだが、当の本人が忽然と消えてな。俺も混乱しているんだ」

「さっきもそう言ってましたよね。いなくなったって」


 この町に最近来た響里は、どこか冷静に俯瞰的に状況を捉えていた。

 銀城会という組織には確かに本能で恐怖を覚えるが、先天的に植え付けられているものでもない。加えて、異界での修羅場を経験したこともあるのだろうが。

 銀城蒼も純朴な高校生の奇妙な落ち着きように目を丸くしていたが、深く頷いた。


「数日前からな。どこへ行ったかは知らないが、誰にも何も言わず突然消えて帰って来ないんだ。組員も躍起になって探しているんだが、一向に見つからなくってな」

「まさか商店街にいた人たちは……」

「ああ。組総出で捜索しているところだ。幸い、他の町にいる組織にはまだ情報は漏れていない。そうなれば一気に戦争だからな。早いところ見つけたいんだが……」

「むやみやたらに町の人を怖がらせないでください。迷惑なんです」


 さらに声を荒げて月村が抗議する。


「嬢ちゃんは昔から威勢がいいな」

「…………」

「いや、悪い。何分、若い衆は血の気が多くてな。失礼のないようにとは言い聞かせてはいるんだが、堅気の方々には迷惑をかけるなという親父の理念がまだ浸透していない部分も多々ある。後で謝罪に回るつもりだ」

「是非、お願いします」


 月村の瞳が充血を帯びていた。周囲には勇敢に思えても、やはり怖いのだろう。勇気を振り絞って、親友を想っての行動なのだ。


 そのときだ。


 銀城蒼がスーツの内ポケットから携帯端末を取り出す。電話がかかってきたらしく、すぐさま応答する。途端、彼の表情が変化した。


「……何? おい、どういうことだ。澪がそっちにいるって」


 いなくなった少女の名前が出た瞬間、弾かれたように全員が銀城蒼に注目する。


「クソッ、入れ違いだったか。それで? ……は? 若い衆が全員、急に倒れた? 馬鹿が、何を言って――って、おい! おい!」


 通話は強制的に終了したらしい。

 釈然としない銀城蒼。スマホの通話口を険しい表情で睨みつけている。


「何かあったの? 澪がそこにいるって――」


 張り詰めた沈黙を破ったのは、陽ノ下紗枝だった。


「分からない。何かひどく怯えていた感じだったが……。とにかく、俺は屋敷に戻る」

「蒼さん。澪はどうして――」

「おそらく、堪忍袋の緒が切れたのかもな。単身屋敷に乗り込んできて、親父に会わせてくれと叫んでいたらしい」


 陽ノ下紗枝は、あぁ……と嘆きながら、両手で顔を覆う。母親として予期していた最悪の事態。そのまま崩れ落ちそうになる彼女を、月村が慌てて支えた。


「私のせいだわ。あの子に、真実を誤魔化さずちゃんと話していれば……」

「おばさん……」


 いわゆるカチコミというやつだろうか。

 これまでの父親と銀城会に業を煮やした澪が殴り込みを図った――断片的な情報だけだとそう思える。

  疑問なのは、格闘技を習っているだけの女子高生が本物のヤクザを相手になど出来るのかという点だが。


(どう考えても無謀だ。危険すぎる。陽ノ下さんを止めないと――!)


 瞬間、ゾクリと悪寒が走った。

 陽ノ下の安否を想像してのことではない。全身に這い寄るどす黒い感覚。脳の神経が侵されていく“死”の映像が響里を襲う。


「…………!?」


 響里の視線が、自然と空の彼方へと向く。広がっていた光景を目にして、響里は愕然とした。

 そこにあったのは禍々しい暗幕。夜が落ちるにはまだ早く、夕焼けの時間なのだが太陽の純粋な光もない。

 絵の具を噴射したような、無数の朱が闇に散りばめられていた。


「これは、まさか……」


 おぞましい記憶が脳内に呼び起こされる。

 星のような朱色の光は、無秩序な動きで徘徊しているようだった。

 間違いない。

 過去にあった商店街での集団意識不明事件。その真相は、翼を生やした異形の悪魔が人間の魂を刈り取ることで起こった。人間の魂は、異界の栄養源となるのだ。

 それが、今度は銀城会の屋敷で起きている。


「どうした? 響里」


 声をかける芝原を無視して、響里は駆け出した。そして、車に乗り込もうとする銀城蒼を呼び止めた。


「あ、あの!」

「なんだ?」

「もしかして、銀城会ってあっちの方角ですか?」


 響里は無数の悪魔がいる空を指さした。銀城蒼には普通の夕焼けにしか見えていないので、反応も薄く軽く頷いた。


「そうだが……それがどうした?」

「あの、俺も連れて行ってくれませんか?」


 勇敢どころか、気が触れたのかとでも言いたげに銀城蒼が響里を睨む。そこへ、芝原が慌てたように響里の腕を掴んだ。


「お、おい響里! お前、何バカ言って……」

「芝原くんも行こう」

「はぁ!? いや、俺はその……」


 チラッと銀城蒼の方を見て、芝原は口ごもる。しかし、響里の眼差しは訴えかけるように真剣だった。

 明言は出来ない。が、聖傑でしか成し得ないことがある――と。


「……あそこに何かあるんだな?」


 響里が頷く。芝原は、肩を落としながら諦めたように息を吐いた。


「俺もいいっスか?」

「あ、ああ。構わないが……」

「俺たちも陽ノ下のアホを助けたいんです。乗せてってください」


 銀城蒼が後部座席に顎をしゃくって、運転席に乗り込む。緊張しながらそっと乗車する芝原の隣に座ろとした響里は、思い出したように月村に叫ぶ。


「月村さんはおばさんとここで待ってて。陽ノ下さんを必ず連れて帰るから」

「……うん、分かった。気を付けて」

「待ってください!」


 呼び止めたのは、陽ノ下紗枝。彼女は勢いよく駆け出し家に入っていったかと思うと、何かを抱えながらすぐに戻ってきた。


「これを……持っていってもらえるかしら?」


 息を切らして激しく咳き込む、陽ノ下紗枝。差し出された変哲な物体を見て、思わず響里は首をかしげた。


「これって……」

「あの人たちにはきっと必要なものです。だから会ったらこれを渡して下さい。お願いします」

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