第三十四話 親友
巨大な霊峰の奥深くに、その洞窟はあった。
地元民でも普段立ち寄らない神聖な区域。陽光を拒むかのように天高くそびえる樹林と水分をたっぷり含んだ草木が陰湿さを醸し出しているが、不思議と周囲にはそれを感じさせない。むしろ壮麗であった。
自然に囲まれた洞窟の入り口は、何百年と歴史を感じさせるような無骨な石造り。苔やひび割れがあるものの、だからといってすぐさま崩落するような雰囲気もない。
その場所は、入り口から地下に進んだ場所にあった。
洞窟の内部こそ手入れが充実しており、職人が熟練の技を駆使したかのように磨かれた空洞。歴史は古いはずだが、壁も床も鏡のように反射している。
最奥は石室だった。ひんやりとした広い空間には燭台が二本立てられ、炎が揺れている。まるでどこぞの王家が残した墳墓かのような造りだが、装飾品などといった華美なものは一切置かれていない。生活感というものは微塵も感じられなかった。
「これは……大いに想定外じゃないか」
中央に敷かれたラグカーペットに座る男が、頬杖を突きながら言った。
白のローブに、フード目深に被っている。口元の皺と、しゃがれた声は齢七、八十を思わせるが、定かではない。身近な人間でさえ把握していないのだ。とはいえ、厳かな口調と鍛え抜かれた広い肩幅は只ならぬ空気を纏っていた。
「そうは思わないかね? 有沢君」
彼の眼前には女性が立っていた。彼女もまた男と同じ白いローブを羽織っている。おもむろにフードを取ると、藍色の長い髪がふわりと揺れた。
「はい。まさか聖傑の資格を有する者が二人も現れるとは思いませんでした」
緊張した面持ちで重々しく頷く――有沢深雪。
「それにしてはあまり驚いていないようだがね?」
からかい半分……とまではいかないが、心の内を覗くかのような男の言い方に、有沢はあくまで平坦な声色で返す。
「……一人目が誕生したこと自体が、既に奇跡。ともすれば、古の神は愉しんでおられるのかもしれません」
「神々のイタズラ……。そうだな、彼らは盤上に新たな駒を配置して遊ぶのがほとほと好きなようだからな。」
くつくつと喉の奥を鳴らす男。
「提供者などというふざけた連中を放置しているのも、我々神の子がどういう対処をするのか見ておられるやもしれんな」
「問題なのはそちらの方でしょう。調査は芳しくありません。このまま手をこまねいていては、脅威は増す一方です」
「本音が透けて見えるな。可愛い従弟から矛先を逸らしたいのかね」
「邪推はやめていただきたい」
有沢がぴしゃりと言い放った。揺らめく剣呑な瞳が男を射抜くも、老獪らしく笑みを漂わせたままだ。
「まあ、いい。確かに君の言う通りだ。我々“龍源の穴蔵”は神が敷いたルールの遵守。この地の厄災の一切を排除することだ」
「提供者はこの地の力を利用し、人々を危険に陥れているのです。甚だ遺憾でしかありません」
「魂搾取、それに伴う異界の創造……。そんなもの、きわめて大掛かりで繊細なシステムに違いないはずなのだがな。この狭い御伽の地で探し出せないのは、私も不可解だよ」
有沢の下腹部辺りで組んだ手に力がこもる。
提供者の所在。御伽町の全域はほぼ調べ尽くしている。それでも見つからないのだ。悪魔が現れた際の魂搾取。その魂の行く先を調べようにも、市民の安全を第一に考えるなら悪魔の排除が最優先だ。そこに手を裂かれ、いつも後手に回る始末。提供者の拠点はそもそもこの町には無いのか、それとも巧妙に……そう、この龍源の穴蔵のアジトのように人払いの結界が施してあるのかもしれない。
とはいえ、この組織にも問題はある。
(十人ぐらいいるにも拘らず動いているのは私だけとか、どんだけブラックなのよ)
有沢は心の中で盛大な舌打ちをかます。
この地を古くから守ってきた龍源の穴蔵の構成員は歴史の重さに反して数が少ない。当然のように破邪の能力も先祖代々から受け継がれるもので、有沢のように特別変異として目覚める方が特殊なのだ。
おまけに構成員のほとんどは、老人ばかり。精力的な活動よりも保守的に物事を捉える方が圧倒的なのだ。
「私もこれまで以上に捜索範囲は広げようとは思っていますが、まだ時間はかかるかと」
「うむ。こちらもレイラインの監視が最優先だ。対処療法にはなるがね、引き続きよろしく頼む。……聖傑を利用しても構わん」
「彼らに犠牲になれと?」
声が震えていた。さすがに聞き捨てならないと、有沢は眉間に深い皺が刻みながら、一歩踏み出す。
「提供者はこれからもこの地に災いをもたらす。市民を守るためには聖傑という奇跡の生命体は必要だ」
「あの子たちはまだ子供ですよ!? 大人の我々が彼らを矢面に立たせるなど――!」
「現状、聖傑というのは異界内部でのみ力を発揮する。しかし、未来は不透明。その力が若者を狂わせることも大いにあるのだ。提供者のように混沌とした現実を作り変えるやもしれん。ならば、共倒れというのも悪くないだろう?」
「いい加減に――!」
どこまでも自分たちのことしか頭にないリーダーを前に、有沢の血が沸騰しかける。感情的になりそうな彼女に、男はあくまで冷淡に息を吐いた。
「ならば有沢君が聖傑の首に鎖でもかけておくかね? そうすれば君としても安心だろう?」
「…………!?」
「聖傑の件は君に一存しよう。利用するか放置するか、よくよく考えて決めたまえ」
行く当てのない震えた拳。思考は煮えたぎっていたが、僅かに残された理性が勝る。「失礼します」と唸るように呟きながら、有沢はローブを翻した。
◇ ◇ ◇
響里と芝原は、御伽町総合病院の敷地を出て、下り坂をとぼとぼと歩いていた。
時刻は十八時。夕焼けの赤い日差しが消えかかり、同時に街灯がつき始める時間帯。異界から戻った二人は、遠く離れた商店街の方面を目指していた。
その道中、お互いに言葉を発しようとはしなかった。
気まずい沈黙の原因は、望月の存在だった。病院裏の雑木林で目を覚ました二人は、倒れていた望月を発見。どうやら同時にこちらの世界に帰還したらしく、すぐに病院へと連れて行った。病院側も行方知れずとなっていた望月の身を案じ、警察に連絡するところだったという。当然、異界にいたことは喋るわけにはいかず、たまたま山を散歩していたら彼を見つけたという強引なウソをついて、その場をしのいだ。
「なんか……疲れたな」
「……うん。そうだね……」
少し肌寒さを感じながら、芝原の呟きに同調する響里。どこからともなく聞こえる鈴虫の鳴き声が、現世に帰ってきたと実感させる。
「……大丈夫かなぁ、雄太郎」
「…………」
夜道に映える車のヘッドライトが眩しかった。過ぎ去る走行音にかき消されそうな芝原の声。響里は無言のまま歩き続ける。
望月は意識不明の状態だった。それは病院に連れて行っても変わらず、二人も、一時間以上付き添っていたが結局意識は回復せず。医師も当然のように原因が分からないため治療のしようがないものの、容体は安定しているので経過観察になるという。今頃は親御さんに連絡しているところではないだろうか。
「お医者さんはあんなこと言ってたけどさ、楽観視は出来ないと思う」
声色を落として響里は言った。
非情な言い方なのは承知の上だった。こういう場合、下手な慰めは無責任だと感じたからだ。
「…………」
「宮井のときもそうだったんだけど、異界からの帰還って脳系にすごく負担がかかるらしいんだ。もしかしたらそれが原因で目を覚まさないのかもしれない」
「……でも俺たちは何ともないじゃんかよ」
「それはきっと聖傑の恩恵だと思う。望月さんは特にあそこで長い時間過ごしたみたいだから、負荷が大きかったのかも」
「じゃあ、アイツも死んじまうのかよ!?」
声を荒げて、響里の肩を掴む芝原。だがすぐに我に返ったのか手を離し、「ワリィ」と謝罪した。響里も気にすることなく、首を振った。
「それは分からないよ。宮井の死因がそこに直結しているとは言い難いしね」
「……だったら、その提供者ってやつが?」
「かもしれない。だから望月さんが目を覚ましたとしても安心はできない。口封じされる可能性もある」
「なんだよ、それ……」
芝原が歯噛みする。努めて冷静に、響里は彼を見据えて言った。
「あの人を助けるには、逐一様子を見て怪しい人がいないかチェックする必要があるかもね」
「……ああ、そうだな……」
重苦しい息を吐き出して、芝原は頭を掻く。無理に気持ちを落ち着けるためか、作った笑みはどこかぎこちない。
「にしても、お前も意地が悪いよな。そんな大事なこと黙ってるなんてよ」
「俺だって確信がないんだ。憶測でべらべらと喋れないよ」
それに、と響里は真剣な面持ちで芝原に問う。
「もし俺がそんなことを最初に言ってたら、芝原くんはあの人を倒すことを諦めてたかい? 違うでしょ?」
「お、おう……」
響里の声音の低さに、思わず気圧される芝原。
「ケジメをつけたかった――そこに俺は乗っかった。中途半端な気持ちじゃこっちがやられる。だから言ったんだよ、覚悟が必要な世界だって。自分自身の心のリミッターを外さないと、救えるものも救えないんだ」
学生服の胸の辺りを、ギュッと握りしめる。
異界にも沢山の人たちがいる。そこには確かに命があり、生活をしている。響里は、彼らが死んでゆく様を見てきた。
咲夜やウォルターは救えたかもしれない。
だが、他の人は?
夢の出来事なんかじゃないのだ。散った命は帰ってくることはないのだ。
「そ、そうだな……。な、なんか色々すまん……。ってかサンキューな……」
「あ、うん。俺の方こそ何様って感じだよね……」
「いやいや、いいって。気にするな、うん。お前が正しい」
「は、はは……」
「へへへ……」
ばつが悪そうに頭を掻く芝原。響里も少々熱くなってしまった自分に反省。互いに照れくささを誤魔化すため、妙な笑い声を出す。
「じゃあさ、お前はどうするんだこれから。このままってわけにもいかねぇだろ?」
芝原の静かな問い。響里はゆっくりと顔を上げ、夜空に浮かぶ満月を見た。それから遠くの住宅街に目を移してしばらく眺める。
御伽町。決して広くはないこの小さな町にもたくさんの人が住んでいる。
実際のところ、あの異界はまだ残っている。天権はまだそこにいて、現世に悪影響をもたらそうとしている。そこに自覚があろうとなかろうと関係なく。
何の罪もない人々が今、危険にさらされているのは変わりはないのだ。
それだけは止めないといけない。
「俺も覚悟を決めなきゃいけないんだよね」
従妹である有沢には、あの昼休憩のときに明確な答えは出せなかった。戦うことへの恐怖や迷いも、心に大きく占めていた。だけど、もう迷っていられないだろう。
「提供者を見つけ出す。じゃないと、この町の人々が知らず知らずのうちに苦しめられていく。それを見て見ぬふりは出来ない。それが、聖傑になった使命だと思うから」
強い瞳で、明確な意思表示をする響里。正義感なんて大層なものをかざすつもりもないが、ここで出会った人たちや迎え入れてくれた人たちの恩に報いるためにも、やるしかない。
決意の眼差しを受けて、芝原はにかっと白い歯を見せる。
「俺も協力するぜ! こんなこと許せねぇしな。きっとさ、ほらあれだろ? 俺たちが行ったあの異界をさ、消滅したとしてもその提供者ってのがいればまた別の異界が生まれるわけだろ?」
「間違いないと思う。その為には、まずまたあの異界に行って、天権を探すところからだと思う。何か提供者のことを知ってるかもしれない」
「おう!」
親指を立てて満面の笑みを見せる芝原に、響里も笑いがこぼれる。
「じゃあ御伽町の平和を陰ながら守るヒーローだな、俺たち!」
「いやいや、遊びじゃないんだよ」
「分かってるって。俺もあんな死線を経験したんだ。きっとこっからは生きるか死ぬかの戦い――だろ?」
「うん。頑張ろう」
「おう!」
響里としても、芝原と共に戦えるのは心強い。聖傑になったのも少し先だったというだけで、戦いは素人なのだ。
(そういえば深雪さんにも報告しないといけないかな……。芝原くんも聖傑になったこと、多分知ってるとは思うけど……)
そのときだった。
「おーい!」
遠くの歩道から誰かが歩いてくる。二人の内、一人がこちらに向けて手を振っているようだが、暗がりに目を凝らせば同じ学校の制服。確か以前、放課後に芝原を遊びに誘った他クラスの男子生徒だ。
「なんだよ、お前ら。こんな夜によ」
いかにも迷惑そうな表情で訊く芝原に、その男子生徒たちはニヤリと意地の悪い笑みを浮かべる。
「これからさ、合コンがあるんだよ。しかも! あのレベルの高い紫陽花女学園の女子とだぜ。テンション上がるだろ!?」
「はぁ。……で?」
「人数が足りなくてさ。お前も来るだろ?」
盛大に呆れた溜息を吐く芝原。無論、これまでの会話を聞いていない彼らだが、こちらにとって内容は不謹慎極まりない。というか、下らない。だからこその芝原の反応。
「ワリィーけど、パス。そんな気分じゃないんだ。色々あって疲れてんの、俺」
「バッカやろ。都会じゃ有名な紫陽花だぜ? セッティングすんのにどんだけ苦労したと思ってんだよ!」
「だったら他の奴にチャンスをやれよ。俺は帰るから。響里、行こーぜ」
男子生徒たちの脇をすり抜け、さっさと行こうとする芝原。言われるがままに、響里も彼の背中に続く。
「なんだよ、つれねーな。俺たち親友だろ~?」
まるで彼の弱みを知っているかのような、下衆な言い方。芝原の背中が微かに震えたのを、響里の瞳は捉えていた。
――しかし。
振り返った芝原の顔は、以前のような臆病さは微塵もなく。
むしろ清々しく。自分の腕を響里の肩に回し、こう言い放った。
「悪いな。親友の枠はもう埋まっちまったんだ」
まるでウォルターが乗り移ったかのような言い回しに、響里は思わず目を見張った。思いがけない返答に呆然と立ち尽くす男子生徒たちを残し、響里と芝原は肩を組んだまま帰り道を歩んでいった。