第三十一話 唸る疾風
セクション4では、芝原と望月の戦いが続いていた。
真っすぐに、その獲物――芝原へと衝動のままに突進する望月。
巨躯を揺らし、一歩ごとに地を震わす圧力。それは、どんな猛者でさえも動物的本能が恐怖を抱いてしまう。死のサイレンが爆音で警告を鳴らすのだ。
――しかし。
対峙していた芝原は、自分でも驚くほど冷静だった。
憤怒に満ちた望月の形相が迫りくる僅かな時間。芝原はしっかり見据え、望月の出方をうかがう。
薬物によって膨れ上がった丸太のような右腕が、金槌のように振り下ろされる。まともに喰らえば、まず間違いなく圧死。その何トンという衝撃に怯むことなく、芝原は横っ飛びしてかわした。
「うわぁっ!」
拳が叩きつけられ、床が陥没する。
ただし、芝原が驚いたのは、その威力に対してではなかった。
軽く飛んだつもりが、勢いのあまり壁に衝突。背中を強打したが、痛みは皆無だった。
そこへ、さらに望月の追い打ちがかかる。巨大な拳が今度こそ芝原の顔面を捉えた――かと思われた矢先、芝原は真上に跳躍していた。
感覚としては、そこまで高く跳んだつもりはない。が、全身が羽根のように軽い。軽すぎるのだ。
実際には二メートルを超す望月を余裕で飛び越えてしまっていた。
「す……」
着地した芝原が他人事のように感嘆する。
「すげー……。どーなってんだ、俺の身体……」
聖傑がもたらした肉体強化。飛躍的な身体能力の向上に芝原自身、頭が追いついていないのである。
「これが……聖傑……」
脳裏に焼き付いた響里の姿。魅せられた彼の力を、自分も体感している。
喜び、戸惑い、驚き、不安。
様々な感情が混ざり合うものの、満たされる高揚感が全てを塗りつぶす。
『浮かれてる場合じゃねぇぞ、智樹』
唐突に、頭に響いてくるウォルターの声。芝原の感情を読み取ったのか、その声音には呆れのようなものが含まれていた。
「ウォ、ウォルターさん!? 生きて――!」
『これが生きてるのか死んでるのかって言われても、判断のしようがないな。今の俺は、いわばソウルだけの存在だ。確かに、生物としての俺は消滅した――が、これはお前が蘇らせてくれたってことなのかね?』
「いやぁ……分からんッスわ。多分、ウォルターさんが死ぬ間際になったところで、何かあったぐらいしか……」
と、芝原は微妙にはぐらかした。
聖傑については、ここに来るまでに響里から説明を受けていた。二つの魂の繋がりが重要だと言っていたが、そのときは全く理解できていなかった。
だが、ウォルターが瀕死になった、あの場面。
彼の本音が吐露した。復讐という闇の炎をまとっていたウォルターの中にあった奥底の願い。芝原を案じ、託したその想い。きっと、そこで絆のようなものが結ばれたのだと芝原は思い至ったのだが、ウォルターにそう伝えたところで認めない気がする。
芝原も、男にそんなむずがゆいことを直接口に出すのは、照れくさくてたまらないというのもある。
『だが、まあ悪くない気分だ。そうだろ、智樹?』
「へへっ、そうッスね」
ウォルターが、聖傑としての運命を悲観的に捉えていないのは、その軽口で分かる。
芝原も自然と口角が上がる。
芝原にとって、ウォルターは憧れ。望月の件で口論にもなったが、彼の立ち振る舞いは芝原の理想とする『カッコイイ大人』を体現していた。スクリーンの中にいる、ヒーロー像そのままなのだ。
この世界が誰の願いで生み出されたものなら、皮肉にも感謝しなければならないだろう。
よくぞこんな最高の男に出会わせてくれたものだと。
『さて、あのバカをどう料理するか……だが』
「目覚ましがわりに、ブチかましまくるしかないんじゃないッスかね」
芝原の瞳に強い光が宿る。
『ハッ! いいねぇ。なら好きなようにやってみな!』
少年の心意気を感じ、ウォルターも嬉々として応じた。
結びついた魂が、ガソリンを投下したかのように燃え盛る。芝原の全身が強い輝きを放つ。
『ド派手にイケよ。力は貸してやる!』
「了解!」
芝原が地面を蹴る。果敢に、望月の真正面へ突っ込む。
その速度。迎撃準備も整わない望月の肩を踏み台にし、巨体の背後に飛ぶ芝原。大きく盛り上がった、がら空きの背中。銃弾を即座に放つ。迷いのない連射によって、文字通りハチの巣となった望月が苦悶の雄たけびを上げる。
芝原の握る銃も、ウォルターが愛用していたシルバーのガバメントがそのまま引き継がれている。心地よい重みと、手のひらに馴染むグリップの感触。まだ二回目だというのに、まるで何十年と使い続けてきたかのような不思議な感覚がある。
加えて、弾丸も一般的な鉛玉ではない。
聖傑――芝原とウォルターの特性。放つ緑の粒子は、風の力が圧縮されたもの。それが弾丸となり、どんな硬質なものでも確実に穿つ。
――が、しかし。
望月は少しよろめいただけで、傷口も浅かった。
無論、薬物の効果だ。耐久力に加え、肉体もすぐに再生を始める。紫色の血液もすぐに止まり、望月は平然と芝原に向き直る。
「――ッ!?」
予備動作の大きい蹴りが、芝原の腹部を直撃する。壁に叩きつけられる芝原。全身を駆け抜ける激痛に、呼吸が止まる。
「ウガアアアアアアアアアア!!」
距離を詰める望月。剛腕が、空気を求め喘ぐ芝原の頭部を狙う。咄嗟に身をよじってかわした芝原は、着地と同時にすぐに反対側へと退避した。振りぬいた拳は分厚いコンクリートの壁を粉砕。貫いた先はセクション3の研究室だ。あれが顔面に喰らっていたかと思うと、思わず青ざめる芝原。
クリーチャーと化した望月は、その膨張しすぎた筋肉が邪魔となって瞬発力には難がある。芝原にとって見切ることは楽だが、それよりも厄介なのは、室内ということだ。望月の鈍重さをカバーするように、部屋の狭さが芝原の自由を奪ってしまっている。
「やりづらい……」
苦々しい表情で、言葉をこぼす芝原。緩慢な動作で振り返った望月が、ゆっくり地面を揺らしながら近づいてくる。
『ありゃあ、ちょっとやそっとじゃ死なねぇな』
「みたいッスね。……って、殺すつもりはないけど」
ウォルターの嘆くような溜息が聞こえてくる。
『その甘ちゃんな思考を捨てねぇと、やられるのはコッチだぞ』
「分かってますけど……。あんなすぐ再生されちゃ、どうしたもんか」
『……お前、何のために俺と融合した?』
「え?」
『聖傑ってのは人智を越えた存在なんだろ? 無限の可能性を秘めてんじゃねぇのか?』
確かに……と、芝原の頭にすぐ思い浮かんだのは、響里の戦う姿。
恐らくは英傑の特徴を宿しつつ、能力を昇華させているのだろうが、その点は芝原も同じだ。
『ポーカーで勝つには相手よりも強い“役”を作る。手札がダメなら、よりいいカードをドローするんだよ』
また回りくどい言い方を……と、さすがにげんなりする芝原だったが、単純に攻撃方法を変えろという意味なのだろう。
「だからどうしろと……」
『分かるはずだぜ? 考えるより感じろ。なら答えは自然と出るもんだ』
ズシンッ、と大きな揺れが起こった。床が陥没するほど踏み込んだ望月が飛び掛かってくる。
「おわあぁぁぁあああああ!」
咄嗟に構えた銃。その銃口に緑の粒子が集まる。それは巨大な光となり、高出力のエネルギー弾へと変化。覆いかぶさる望月も、さすがに逃れる余裕はなかった。
振り上げた右腕に、まともに直撃する。
――瞬間。
爆撃を受けたかのような炎が巻き起こる。
「ガアアアアアアアアアアア!」
荒れ狂う風が研究室の設備を容赦なく薙ぎ倒す。壁面のガラスも粉々に砕け散り、芝原も紙きれのように廊下まで飛ばされた。
ウォルターの言う通り、無意識の一発だった。だからこそ加減など調整しようもなく、自身が起こした破壊力の凄まじさにただただ呆然とする芝原。
『ヒュー……』
「いやっ、やりすぎだコレ!」
頭を抱えたのも束の間、爆炎を払って望月が姿を現す。あの強烈な銃撃を喰らって無傷なのか。唖然とする芝原の眼前にある脆くなった壁を豪快に蹴り飛ばして、望月は咆哮を上げた。
「――!?」
いや、違う。
咆哮が痛みによる喚きだと理解したのは、煙が完全に消失してからだった。
爆散した望月の右腕。焼けただれた肩口から、おびただしい量の血が滝のように落ちている。
「望月!!」
やりすぎた――と僅かに抱いた同情心も、すぐに無駄だったと悟る。
新しい右腕が一瞬にして生えたのだ。
肉片が蛇のように高速でうねうねと動き、結合。筋肉が修復し、皮膚まで完璧に蘇る。元の腕に戻るまで十秒も経っていない。
「うげっ!?」
『グロいな! マジかよ!?』
張り詰めていた意識が、そこで途切れる。
その一瞬。望月の猛攻が始まる。これまでが小手調べだと思えるぐらいに、鋭く速い打撃が芝原を襲う。
初撃が胸をかすめた。かろうじて避けられたが、その判断の遅れが後に響く。望月の重い連撃が、華奢な芝原の身体を攻め続ける。
「があッ……!」
ふわりと浮く芝原の全身。望月は芝原の脚を掴み、勢いよく壁に向けて投げつけた。
砲丸のように飛ばされた芝原が壁を突き抜ける。
研究所の中央部分は緑豊かな庭園。芝生を削りながら芝原は転がった。
「ぐふ……!」
激痛どころではない。身体中の骨が粉砕したかのように、痛みをとうに通り越して動かない。喉の奥から赤い飛沫が噴く。
『おい、しっかりしろ!』
「だ、大丈夫だっつーの……」
腕が、脚が、軋みを上げている。逆に、あれだけ殴られながらよくこれで済んだと思えるほどだ。
だが、悠長にオネンネしている場合ではない。
反撃しなければ、死ぬ。
霞む視界でも、望月がゆっくりと近づいてくるのが分かる。
(クソバカ野郎が……! ちっとは手加減しろっての……!)
歯を食いしばり、どうにか身体を起こそうとする。そして、血流の全てを、銃を持った右手に集中。もう一度、あの光弾を撃つ準備を始める。
ただし、望月も警戒していたのか、気付くと同時に歩調を早めた。
「うぉぉおおおおおおおおお!」
芝原も己を奮い立たせ、駆ける。
目指すは望月の大きな懐。最大火力を至近距離でぶっ放す。
望月が、眼下に接近した芝原に拳を下ろした。
衝突する――その直前。
芝原が芝生を滑り、倒れこみながら望月の股まで潜る。
空を切った望月のがら空きの胸。その一点に照準を絞り、引き金を引く。
放たれた風の弾丸が、芝原の肉を喰らう。
暴走する怪物を止めるには心臓を射抜くしかない。旧友の顔をこの一時だけは忘れて。この一撃に賭けた。
だが。
怪物と変貌したその顔が、嗤った気がした。
「ッ!?」
弾丸が命中したのは、胸の僅か上。肩を抉っただけに過ぎなかった。
威力も先ほどと比べて弱い。躊躇してしまったのか。この期に及んで、まだ遠慮が邪魔をしたのか。ノイズのように駆け巡る思考が次の判断を遅らせてしまった。
――だめだ、やられる。
振り上げた拳が、芝原を軽々と吹き飛ばす。
円形の構造をしているこの研究所は、中央部分のこの庭園だけが突き抜けるように建っており、さながら尖塔のような形をしている。芝原は、天井のステンドグラスを勢いよく突き破って宙を舞う。落下寸前の奇妙な浮遊感。意識は、飛びかけていた。
迫りくる巨大な影。
自前の跳躍力だけで空高く跳んできた望月が、青空に埋め尽くされた芝原の視界を遮った。
右脚を振りかぶった望月が、声高に吼える。
「コレデオワリダ、シバハラ!」
その死の宣告は、果たして芝原の耳に届いていただろうか。
乾いた打撃音が、空中を激しく揺らす。