第三十話 破滅への抗生剤
セクション4内で爆発的に吹き上がる風。
触れるもの全てを切り裂いてしまいそうに鋭くも、同時に神秘的な輝きを放っていた。
「芝原……くん……」
響里は戦いの最中だということも忘れ、クラスメイトが覚醒した瞬間に目を奪われていた。
「まさか芝原くんも聖傑だったなんて……」
喜びも悲しみもない、単純な驚き。彼自身が背負ってしまったものに対する資格のようなものを考慮する余裕もなかった。
異界にとって歓迎されない客――それが聖傑だ。
自分が特別だと自惚れていたわけでもないが、まさか彼までもが発現するなんて。
ウォルター・レイブンという、魂を得て。絆を結んで。
『かの英傑が、こと死に瀕してようやく認めたのでしょうね。芝原殿が大事だと。だからこそ結合に至った』
慈しみを込めた声で、咲夜は言った。
『造形物である我々が、誰かに心を委ねること自体、不可能に近い。いわば、魂を鎖に繋がれているようなもの。英傑もまた選ばれし者ですが、その魂の鎖を解き放ってくれる方を待ち望んでいる……。私も理解したのは、義矩さんと結合してからですけど』
そう言って、クスクスと笑う咲夜。
『ですが、あの英傑は本当に素直じゃないのでしょうね。私が見ていた限り、とっくに魂は結ばれていたのに頑なに認めようとしなかった。無自覚もここまでくれば、滑稽ですね』
「きっと、それどころじゃなかったんだよ。ウォルターさんには復讐が全てだったんだから」
力なく、響里も笑みを浮かべる。
ウォルターは、芝原を自身の弟と重ねていたのでは無いだろうか。だからこそ、もう一度失いたくなかった。
死を引き換えにしても。
故に庇ったのだ。それが、聖傑になるために必要な決心だった。
「それに、芝原くんの覚悟が最後の一押しになった。条件が揃ったってことなんだよ」
『――はい』
芝原たちの絆に影響されたのか、はたまた彼らに対抗心を燃やしたのかは分からない。
不意に、身体が軽くなった。あれだけ疲れ果てていたのに、咲夜との再会時よりも力が湧き上がってくる。
咲夜との同調がより強くなったからか。
聖傑とは絆の力。英傑との関係が強固になればなるほど、能力の限界を超えるのかもしれない。
響里は刀の柄を強く握り締め、改めて構え直す。
側近の男もまた、視線は芝原たちに注がれていた。ただ、やはりというか、そこには何の感情もない。よくよく彼の視線を辿ってみれば、その先にあるのは上司である望月に向けてだった。
「……これで、ようやく終わりだな」
肺腑に溜め込んだもの全部を吐き出すように、側近の男は低い声音で言った。ネクタイを強引に剥ぎ取り、無造作に投げ捨てる。
「…………?」
独り言だとしても、意味不明。
戦いでいえば、これからが本番だ。望月側からいえば、圧倒的有利な状況が覆りそうという場面。予期していない展開のはずだが、発言の真意が分からない。
「何を言って……」
側近の男の視線が、再び響里に戻る。緊張感を高めた響里だったが、男は戦意というものが明確に失われていた。
「――すまなかったな、乱暴をして。組織を代表して謝罪しよう」
目を伏せ、側近の男は軽く頭を下げる。次いで、穏やかな口調でこう言った。
「……お前も転移人、なのだろう?」
「……ッ!?」
瞠目する響里。
「じゃ、じゃあ貴方も……?」
側近の男は首肯した。そして、さらなる驚愕の事実を、実に淡白に告げた。
「ああ。ついでに言えば、この研究所には俺や望月以外に十人ほどの転移人がいる」
「は!?」
革靴の小気味い音を鳴らしながら、側近の男は響里を通り過ぎ、セクション3へと戻る扉に歩いていく。
異界は天権の望んだ世界。確かに、ウォルターから聞かされてはいたが、響里の想像以上に多い人数だ。それも、この施設に集中しているとなれば、やはりここがこの異界の中枢なのか。
情報の整理が追い付かない響里をよそに、側近の男は振り返りもせず一方的に告げる。
「ついて来い。この下らない児戯を終わらせる」
「ちょっと待っ――!」
叫んだ先に、男の姿は無かった。扉の閉まる音が虚しく響く。
(一体何なんだ、あの人……)
すっかり毒気を抜かれた響里は、だらりと腕を下げた。横目には衰えることのない強い光が室内を満たしている。
――どうする。どうしたらいい。
芝原を放っておいていいのか。
聖傑になったとはいえ、あんな怪物を相手にたった一人で倒せるのか。だが、あの男の発言も気になる。
『どうしますか?』
迷いがダイレクトに伝わったのだろう。咲夜が不安げに語りかけてくる。
「咲夜さんはどう思う?」
『なんとも言えませんね。罠の可能性もありますし……』
「だよね……。こちらの戦力を分断する気かな?」
僅かな間があった。『かもしれません』と断定は避けながら、咲夜は自身の率直な感想を投げる。
『ですが、あの方からはもう何の気も伝わってきません。騙そうとするならば、不穏な波長のようなものが出るものですが』
訝しむ彼女に、響里も心の中で同意する。
逡巡の末、響里は決意する。
「ごめん、芝原くん」
室内にいる友人に後ろ髪を引かれつつも、響里は側近の男の後を追うことにした。
◇ ◇ ◇
「待ってください!」
足早に行こうとする側近の男の背中に見えたのは、セクション2の区画まで戻ったところだった。
「説明してください、どこへ行く気ですか!?」
「セクション1だ。そこに、この研究所の所長がいる」
ズシン、と大きな震動が研究所内を揺るがす。芝原たちの戦闘が再開したようだ。向こうの様子も気が気でないが、響里はようやく男に追いつき、歩調を合わせながら訊ねる。
「あなたはさっき転移人だと言いましたよね? どうして俺のこと――」
「簡単だ。望月とお前の友達は知り合いなのだろう? だからだ」
端的に言って、男は柔和な笑みを浮かべた。
「ついでに言えば、お前も御伽町の出身――だろ」
「は、はい」
厳密には違うのだが、円滑に会話を進めるためここは敢えて伏せておく。
「俺もだ。この世界では一応素性を隠しているが、名を喜美塚という。まあ、忘れてくれ。どうせすぐお別れだからな。御伽町総合病院に入院していた」
「あの病院に……?」
「望月もそうだが、ここにいる転移人は皆、あの病院の入院患者だ」
「は? 全員ですか?」
「ああ」
扉が出現した場所の近くにあった病院。今回の件も御伽町の住人が関係しているのか。
「誰に連れてこられたんですか?」
「覚えていない。いや、知らないといった方が正しいな」
喜美塚は、弱々しくかぶりを振った。
「俺は交通事故であの病院に入院していてな。ずっと意識不明だった。目を覚ましたときには、もうこの世界に来ていた」
「そんなのどうやって……。周囲の目もあるのに」
十中八九、提供者の犯行だろう。大胆不敵にも程がある。
「ちなみに、他の奴に同様の質問をしても無駄だぞ」
「誰も知らないってことですか?」
「ああ。どいつも重篤な病状だったらしくてな。寝ている隙にやられたらしい」
「むしろ、共通しているからこそ狙われた……のか」
「望月以外の連中と結託して、あらゆる場所を探したんだがな。どうもこの世界にはいないらしい」
「そうですか……」
それだけの人数を放り込む理由は何なのか。提供者も、一人ではなく組織で動いているのか。分からないことだらけだ。
現実世界で、それだけの患者が突然姿をくらましたとなれば病院は大騒ぎだろうかと思ったが、響里は即座に否定した。現世と異界では時間のズレがある。喜美塚たちの消失は、まだ発覚していないのかもしれない。
(提供者は何を考えているんだ……? 世界を創らせ、自由に遊ばせる……。本当に、子どもがやるようなママゴトをさせて、大人がそれを見守る……。訳が分からない)
不意に、喜美塚が立ち止まった。
提供者の意図を探る内に、セクション1に着いたらしい。喜美塚がドア横の端末にカードキーを通し、中に入る。
こちらはセクション4とは違い、いわゆる想像通りの研究室といった内装。長机の上に並べられた実験器具の数々。恐らくは一般で販売される薬品の開発をしているのだろう。冷凍保存された沢山の試験管には、思わず驚嘆する。
「来たかね、喜美塚君」
こちらの来訪を待っていたのか、部屋の中央に白衣を着た老人が立っていた。
筋肉というものも全部剥がれ落ちた身体。しゃがれた声に、脚を悪くしているのか杖をついている。相当な年齢というのが一目で分かる。
「あれは完成しているか?」
「ようやくな。大変だったよ」
老人が、白衣のポケットから小型の瓶を取り出す。
中には、水のように透明度の高い液体。瓶を揺らし、しわだらけの頬を少しだけ緩ませる。
「あの、喜美塚さん。この方は……」
響里が恐る恐る訊ねる。
「この研究所の所長だ。彼も転移人でな、俺の計画に賛同してくれた」
「計画……?」
白衣の名札には、大迫と書いてあった。彼から薬品を受け取った喜美塚は、その中身を眇め見つつ、はっきりとこう答えた。
「望月の支配を終わらせる。いや……正確にはこの街自体の機能を崩壊させるんだ――こいつを使ってな」
「それは……望月さんを裏切るってことですか?」
「俺たちはな、疲れたんだよ。アイツのやり方にな。身も、心も」
悄然と呟く喜美塚の横で、所長の大迫も沈痛な面持ちを浮かべている。
「構成員に投与した肉体硬化の新薬。そして、望月が自身に投与した異常な活性化を促す、新薬の進化版。薬品名、アザゼル。あれは見ての通り、人をバケモノに変えてしまう。あのバカの計画は、完成した新薬を市販薬として売り出すつもりだったんだ」
「そんな!? それじゃまるで……!!」
愕然として、響里はそれ以上の言葉を繋げなかった。
要はウィルスだ。薬品だと騙ったその中身は、大規模なパンデミックを引き起こす細菌。あれを街中にばら撒こうというのか。
「無論、“クリーチャー”になりますなんてのは隠蔽してな。望月はアザゼル計画と呼称した。このノースポイントに留まる支配権を、より広げようと考えているのさ」
「あんなものが世に放たれたら、街が滅茶苦茶になるだけじゃないですか!?」
望月でさえ自我をコントロールできていなかった気がする。指揮系統がなければ、街の多くの人間がバケモノと化したところで混沌と破壊するだけの世界になり果てるだけだろう。
「あれは望月にも誤算だったんだ。そもそもアザゼルには、望月の細胞を元に作っている。望月の言うことだけには従うようにするために、な。だが、見積もりが甘かった」
「愚かだよ。そんなもの出来るはずもないのに。儂らも散々抗議したが、頑として望月は受け入れなかった」
骨と皮だけの痩せ細った手で、大迫は顔を覆う。
「だが、ヤツは止まらない。実験を繰り返せば、確かに完成には近づくだろう。儂は……儂はそれにもう耐えられなかった」
「どうして? なぜそこまでして望月の言いなりになるんです!?」
涙で震える大迫の肩に、そっと喜美塚が手を置く。
「望月が俺たちを救ってくれたからさ。今にして思えば利用されていただけだが、先にこの異界に来ていた望月は転移人だけのコミュニティを作り上げた。俺たちも生きなきゃならない。だから縋るしかなかったんだ」
「だからって……!」
もはや怒りしか湧いてこなかった。
良心の呵責を覚えていたとはいえ、マフィアの構成員を実験道具として扱っていたのは事実。一方的に罪の告白をされたところで、同情心なんか起きるわけもなかった。
「だが、アザゼルは着実に完成へと進んでいる。手遅れになる前に秘密裏にこいつを作ってもらっていた」
喜美塚が響里の元へと歩み寄る。響里の腕を取り、持っていた薬品を彼の手に乗せる。
「コイツをお前に託す」
「……なんですか、これ」
嫌悪感を隠そうともせず、響里は訊いた。
「いわゆるワクチンだ。時間の関係でまだこれ一つしかないが、こいつさえあればバケモノと化した望月を無力化できる」
「元に戻せるってことですか?」
「ああ」
また建物全体が大きく揺れた。天井から砂埃が落ちてくる。
断続的な揺れは、次第に間隔が短くなってきている。戦いが激化しているのか。
「芝原くん……」
「そのワクチンを望月の体内にぶち込んでくれ――頼む」
「そんな勝手な……」
睨みつける響里に、力なく喜美塚が笑う。
「お前なら、アイツを倒せる力を持っていたのだろう? カメラでお前の映像を見たとき、ようやく機会が訪れたと思ったんだ。望月も恐らく焦ったんだ。そうじゃなければ自分に投与なんて真似はしなかったんだと思う」
「それで俺が協力するとでも?」
「お願いだ。俺たちの地獄を終わらせてくれ」
喜美塚が深々と頭を下げる。自分勝手な言い分に、響里は到底納得いくわけもなく、思わず薬品を握りつぶしそうになった。
しかし、望月のあの力は脅威だ。この男たちを信じるならば、芝原を助ける重要なアイテムになる。
「信じていいんですね」
「ああ。信用してもらえないなら、ここで死んでもいい」
喜美塚の代わりに答えたのは、大迫だった。白衣のポケットにでも忍ばせていたのか、手には拳銃が握られている。その銃口をこめかみに当てようとしたところで、響里は待ったをかけた。
「やめて下さい。そんなもの見たくない」
ブラフだとしても、光景を想像するだけで寝覚めが悪すぎる。
常軌を逸した街だ。長年いれば、精神がおかしくなっても仕方がない。罪の意識でどれだけ苦しんでいたかは知らないが、響里も残酷な言葉を突きつける。
「望月さんを倒したとして、元の世界に帰れるかどうかは分かりませんよ」
「……いいんだ。それが目的じゃない」
願望は自滅とばかりに、喜美塚が呟く。
「俺たちの願いはこの世界の終焉。それだけだ」
「それは逃げでしょう。この世界の人たちも決して人形じゃない」
「ああ。俺たちは既に罪人だ。許されると思っちゃいない。この世界と共に消滅するのが筋だろう」
「そんなことを言ってるわけじゃ……!」
言いかけて、響里は唇を噛んだ。
そもそもの話で言えば、異界を生み出した天権に全ての責任がある。
どうしてこんな不条理な世界を創るのか。そこにどんな思想があるのかなんて知りたくもないが、天権以外の人間全員は最初から被害者なのだ。
提供者。
そして天権。
やるせない想いを胸に、響里は二人に別れも告げず部屋を後にした。