第二十二話 悪逆都市ミッシリオ
三度目の異界。
その目覚めは以前に比べて、ごく自然なものだった。
寝起き特有の倦怠感もない。眠り、というよりも、目を瞑った一瞬の間に転移してきた感覚。かすむ視界を払いたくて、響里は二度三度と頭を強く振った。
「ここ……は……」
どうやら自分は、しっかりと地に足を付けて立っているらしい。その点も前の世界とは異なる。まさかこれが慣れというものなのか。そんなもの歓迎したくもない――と、響里は苦虫を噛み潰したような顔になりながら、辺りを確認することにした。
近代的な世界観なのは一目瞭然。中世風だった宮井の世界とは真逆だ。
雲まで突き抜けようかと思える、屹立する超高層ビル群。あまりに高すぎて、首を痛めそうなほどだ。そのどれもが似たような建築様式で、都会を構成する街並みは全体的に統一感がある。区画のマス目全てに敷き詰めたように、ビルがびっしりと建っていた。
極めて目を引くのが、その建物の外壁に埋められた超大型ディスプレイだ。あらゆる企業広告が数秒おきに流れながら、煌びやかに街中を照らしている。他にもネオンや色とりどりの看板があり、とにかく主張が激しい。
爛然とした繫華街。響里はそこから少し離れたカフェの前で目を覚ましたらしい。
「外国……か……?」
行き交う車も日本では見かけない車種ばかり。雑踏を注視しても、ありとあらゆる人種が集っており、ファッションも現代よりだ。外国の中心街はこういうものなのかだろうか。海外に行った経験のない響里はここが異界ということも忘れ、思わず感嘆の息を漏らす。
「う、うぅん……」
足元から聞こえる、微かな呻き声。響里はそこでようやく、芝原が隣にいたことに気付く。
ぐったりと、芝原はカフェの外壁にもたれかかりながら座っていた。響里とは時間差で目を覚ました彼は、まどろむように頭を揺らしている。
(やっぱり芝原くんも、巻き込まれたか……)
芝原の姿を見て、響里は落胆すると同時にほんの少しだけ安堵する。
一緒に扉の中に吸い込まれたとはいえ、同じ座標に転移されるとは限らない。誰が創造した世界かも分からない状態でバラバラに放り出される危険性は回避したらしい。
「な、なんじゃぁあ、こりゅぅあああああああああ!」
跳ね起きて絶叫する芝原。行き交う人々が何事かという視線でこちらを見てくる。注目を浴びることに焦った響里は、芝原の腕を強く掴む。
「お、落ち着いて芝原くん!」
「何これ!? どこココ!? 一体どうして、何がどうなってんの!?」
「芝原くん!!」
喚き散らす芝原を宥めようと、響里が叫ぶ――が、その大声さえも突如響いた強烈な衝撃音によってかき消された。
何事かと振り返れば、交差点で乗用車同士が衝突したらしい。よほど速度が出ていたのか互いのフロント部分が潰れ、ブザーのようにクラクションが鳴り続ける。両方の運転手は無事だったらしく、ドアから身を放り投げて怒声を浴びせている。
只ならない剣幕に、不穏な雰囲気になっていく。いよいよもって収拾がつかない事態になりそうなところで、驚愕したのはその直後だ。
片方の運転手が銃を取り出し、何の躊躇もなしに発砲したのだ。
胸を撃たれ、くずおれる相手の運転手。どこからか女性の悲鳴が上がった。
「な――!?」
愕然とするのも束の間。
今度は、別方向から窓ガラスの破砕音が聞こえてきた。カフェから何軒か先の銀行だ。割れた窓ガラスから、煙が大量に流れ出る。催涙弾らしく、客や銀行員が慌てて逃げだしていた。
銀行強盗である。しばらくして、銃を持った男たちが大きな革袋を手にして颯爽と逃げていく。
堰を切ったかのような、犯罪の連鎖。銃刀法すらないのか、無秩序さが露出する。
「な、なんだよ……? なんだよ、これ!?」
「芝原くん、こっち!」
響里は隣のビルとの境にある路地裏のスペースを見つけ、芝原を強引に連れていく。
華やかな表の景色とは反対に、裏路地は湿っぽく腐臭が漂う。ゴミ箱だらけの足の踏み場もない狭い道をしばらく来たところで、響里は足を止める。
「イテテテ! 痛いって響里!」
「あ、ご、ごめん」
余程力が入っていたのか、慌てて手を放す響里。だが、おかげで冷静になってくれたようだ。響里は、腕をさする芝原に静かに告げた。
「驚くのも無理はないよ。ここは、俺たちがいた御伽町じゃない」
「んなこと見りゃ分かるよ。……って」
妙に落ち着いている響里に違和感を覚えたのか、芝原は冷静な友人をまじまじと見つめて、おずおずと尋ねる。
「まさか響里は知ってんのか?」
響里は重々しく頷く。
「ましてや現実世界でもない。通称、異界と呼ばれる別時空の世界なんだ」
キョトンとする芝原。
信じられないのも無理はない。だが、信じてもらうしかない。
響里は「よく聞いてくれ」と前置きし、異界について話し出す。
響里が体験した事実を順序立てて。有村の名は伏せ、異界とは天権のイメージを再現した世界であり、維持するために数多の人間の魂を必要とすること。ピンとこない芝原も、商店街の事件を離せばようやく理解してくれた。
「――ってことは、なんだ? ここは、その俺たちの世界にいる“天権”って奴が生み出した造り物の世界だと。で、俺たちは見事に迷い込んだと」
「林で見つけた扉は覚えてるよね? あの扉は、現世と異界を結ぶ入口なんだ。どうしてあんなものがあそこにあったのか、謎なんだけど」
啞然とする芝原の向かいで、響里は顎元に指を添える。
まさかまた、今度は別の異界に放り込まれるとは。天権がまた現れたことにも驚きだが、それとは別に扉が設置された場所にも疑問が残る。
一度目――宮井の件では、駅近くの林。今回は病院裏の山下にある森林だ。鬱蒼とした林、という点では共通しているが、どうして位置が違ったのか。
(もしこれが提供者の用意したものであるなら、彼らが利用するのも踏まえて同じ場所にした方が分かりやすいんじゃ……。それとも天権の方に関係があるのか……?)
人目につかず、そもそも秘匿にしたいなら設置する必要さえない。まるで、自分のような“聖傑”を迎え入れるためにあるような気さえするではないか。
「道理で、お前が宮井に対して異様に食いつくわけだぜ。そんなことがあったのか」
腕組みをしながら唸る芝原。それから通路の先を見やり、唇の端を歪めた。
「けど、異界……ねぇ。まるで俺がやるゲームの世界そのまんまだな。箱庭タイプの」
「あー、芝原くんって洋ゲーもやるんだっけ。そういえばこの街並みもそれっぽいかも。そう説明すればもっと早く理解してくれたかもね」
響里は苦笑しながら、ふと疑問が浮かび上がった。困惑から一転、好奇心に満ちたように周囲を見回している芝原に、響里は投げかける。
「あのさ、どうして芝原くんはあそこに扉があるって分かったの?」
「え?」
「黒い霧に襲われたときにさ、急に走り出したじゃない? それから一直線に病院裏の森林まで行って、見つけた。まるで導かれるようにさ」
響里の場合は、異常現象の恐怖から逃げ出した先で遭遇した――いわば偶然。芝原も黒い霧に怯えながらも、自らの意志であの場所に辿り着いたようだった。そこに響里は引っ掛かりを覚えていた。
「それは……」
芝原の表情に影が差す。何かを言いあぐねているのか、唇を強く噛み締めた。
「……なあ。あの気味悪ィ霧は、この異界から漏れた“悪意”なんだよな」
「……?」
芝原からの問いに、僅かに眉根を寄せる響里。そして、軽く頷く。
「うん。異界は天権の強い想いが形となったもの。人間の負の感情は特にエネルギーが大きいから、現世にも影響が出てしまうらしいんだ。原理は俺にも分からないけど」
「じゃあ、その悪意の霧が実在する人間……ってことはあるのか?」
「……え?」
今度ははっきりと怪訝な表情を浮かべる響里。
「どういうこと?」
「あの中の一体がさ、昔の俺の友達に見えたんだ。それが気になって追いかけていったら、あそこに着いたんだ。結局、見つからなかったけどよ」
考えもしなかった。
黒い霧は、魂を刈り取るために悪魔と化す変異の前兆だと、有沢は言った。これまでに襲われた霧は、大抵は区別のつきにくい人のシルエットでしかない。が、確かに思い返してみれば妙に輪郭のはっきりした人の影が一つだけ確かにあった。
車椅子に乗った、男性の姿。芝原はそれに友達を思い浮かべたのだ。
「それは俺にも……。ただその人影がここに誘ったのであれば、この世界と関係があるのかもしれないね」
響里が弱々しく首を左右に振ると、芝原も「そうか……」と嘆息する。
「なら、アイツもこっちにいるかもってことだよな」
「まさか……探すつもり?」
「俺は、アイツに……。雄太郎に伝えなきゃいけないことがある」
悲壮感を滲ませながら、芝原は拳を握りしめた。
「危険だよ?」
「構わねぇ。むしろ、その機会を雄太郎が作ってくれた気さえする」
「死ぬかもしれないのに?」
「俺は逃げていたんだ。ずっと、何年も。だからもう……この後悔を終わらせたいんだ」
震える声音。潤んだ瞳。項垂れ、芝原はヘアバンドごと額を強く鷲掴む。
「芝原くん……」
「協力してくれだなんて、都合のいいことは言わねぇよ。でも、ここに雄太郎がいるんだとしたら、俺は一人でもアイツを探すから」
どうしたものかと響里は思い悩む。
異界の危険性は響里の方が熟知している。真っ先に思い浮かぶのは天権の存在だ。それをどうにかしない限り、異界から脱出することも現世への悪い影響を防ぐこともできない。多くの人々の命を考えれば、優先すべきは何よりも天権なのだろうが、かといって目の前の友人も見捨てるなんて非情な真似も響里はしたくなかった。
「……分かった。俺も手伝うよ」
「響里……」
申し訳なさそうに頭を下げる芝原に、響里は頬を緩ませながら少し途方に暮れる。
(問題はこの街でどう動くか、なんだろうけど……)
前回も戦争真っ只中の世界だったが、今度は部類が違う。
いうなれば、犯罪の横行する倫理観の狂った社会だ。その中をどう生き抜くか。人口もかなり多そうだ。学生が二人、どう探し回ればいいものか。
「おやおや~? ボクたち、こんなところで何してるんでちゅか~?」
通路の奥。
響里たちが来た方向とは反対側の出口から、いかにもガラの悪そうな風貌の男が二人、こちらに近付いてきていた。色違いのタンクトップにハーフパンツ。さらけ出した筋肉隆々の腕にはタトゥーがびっしり刻まれている。片方はスキンヘッド、片方はモヒカンという違いだけで、身長も響里たちよりもはるかに高い。
「ダメだろ~? こんな場所に用もなくプラプラしてたらよ。俺たちみたいな悪~い大人に絡まれることになるぜ~?」
「そうそう。ち~とばかしお話しようか~?」
男たちの下卑た笑い。見るからに関わっちゃいけない大人を前に、響里たちの全身が竦む。
「い、いや~……、ちょっとボクタチ忙しいんで。またの機会にさせていただけると……」
顔を引きつらせながら芝原が愛想笑いを浮かべる。響里も不良を相手にすれば、本能的に恐怖が働く。男たちとの距離が縮まらないようゆっくりと後退りしながら、来た方の出口へ芝原に目線で合図。芝原も小刻みに頷く。
「遠慮すんなって。ちょっと遊ぶ金を恵んでくれたらいいだけだからよ」
猫なで声から一変。声音を低く、猛獣のような犬歯を剥き出すスキンヘッドの男。腰のあたりに隠していたものを取り出し、こちらにちらつかせる。
――拳銃だ。
それは言外に逃げるなよという、響里たちへの警告。
「びびび、貧乏学生なもんで、そこは遠慮していだけるととと!」
膝が震え、声が上擦る芝原。遂には男たちに囲まれ、壁を背にして逃げ場を失う。
「金がなくてもいいんだよ。俺たちがイイトコに連れていてやるから」
「と、仰いますと……?」
「お前らの身体を金にするって方法もあるのさ。そのままでも、バラバラにするもよし。若ぇ肉は高く売れるからな、いくらでも欲がる業者はいる。ま、お前たちはおっ死んで何に使われるか知ることもねぇがな」
響里の全身から血の気が引く。死の恐怖。脳裏に、前回のミーアレントでの戦争が呼び起こされる。
数多の兵の死体。血の色、鼻をつく鉄錆の匂い。その惨憺たる光景が。
(ヤバい――!)
視界の端に光る物体が映った。モヒカンの男がナイフを握りしめ、これみよがしに響里の頬を叩く。舌なめずりをしながら、ゆっくりとナイフを引く――白い肌に、薄く赤い裂け目が生まれる。
「――邪魔だ」
不意に声がした。
いつからそこにいたのか定かではない。
陽の光も届かない路地裏の影と同化するように現れたのは、見知らぬまた別の男だ。
長身瘦躯。くすんだ金髪に丸縁のサングラスと、少しやさぐれた雰囲気をまとった青年。響里たちよりか少し年上だろう。整った顔立ちで、カラーレンズ越しの垂れた瞳が気怠そうにこちらを睨む。
「あぁん?」
「道を塞ぐな。通れねぇんだよ」
「……なんだぁ、てめぇは」
スキンヘッドの男が響里たちから離れ、金髪の男に近付く。威圧的に顔を寄せ、足元からじっくりと睨めつけると、盛大に吹き出した。
「そりゃあ悪かったな。だけどどうした、色男。かこった女にでも刺されたのかい?」
金髪の男の目つきが鋭さを増す。
彼は脇腹を押さえていた。白いハーフコートについたべっとりとした染みは血液で間違いない。時間がかなり立っているのか、いつ意識を失ってもおかしくない程の出血量だ。
「いいからそこをどけ」
「俺たちが薬を用意してやろうか? おっと、介護料としてお代はたんまり貰うがな――なぁ?」
スキンヘッドの男は同意を求めるように、にやけた顔を片割れの男に向ける。しかし、モヒカンの男はなぜか警戒した様子で答えようとしない。
「それとも何か? 通行料としてこのガキ共の肩代わりをしてくれるんだったら喜んで場所を譲るぜ?」
再び金をせびるスキンヘッドの男。金髪の男は、痺れを切らしたかのように嘆息を一つ。かすれた声で呟く。
「いいぜ」
その動きはあまりに速く、そして滑らかに。コートの内側から抜いた銃をスキンヘッドの男の額に向ける。
「そのおデコに風穴開けて、自販機みたく突っ込んでもいいならな」
「て、てめぇ……!」
とても大怪我しているとは思えない。不意を突かれたスキンヘッドの男は面食らう。
「お、おい。そのシルバーのガバメント……」
何かを思い出したのか、今まで金髪の男を観察していたモヒカンの男が言う。
「こ、こいつ……ウォルター・レイブンじゃねぇか……?」
「な、なに……!?」
その名を聞き、動揺するスキンヘッドの男。特徴的な外見から思い至ったのだろう。界隈では有名なのか、途端に腰の引ける屈強な男二人。
「――どうする?」
「くっ……お、覚えてやがれ!」
逃げ出す男たち。ふんと鼻を鳴らして銃をしまうウォルターと呼ばれた男。緊張が解けて安堵した響里はお礼を言おうと、ウォルターに近付こうとした――そのとき。
「あ、危ない!」
やはり限界だったのだろう。膝から崩れ落ちたウォルターを慌てて響里は支える。虚ろな瞳を向け、うっとうしそうにウォルターは言った。
「なんだ、ガキ。お前らもとっととあっちへ行け」
「助けてくれて、あ、ありがとうございます。はやく手当しないと」
「俺に構うな。邪魔なんだよ」
「そんなわけにはいきませんよ。俺たちこの街に来たばかりで、病院も分からないんです。案内してくれれば連れていきますから」
「病院……? んなもんねぇよ。いつの時代の話をしてんだ、お前」
珍妙な物を見るような目で、呆れたように笑うウォルター。
「無い? そんなバカな……」
「お前は空飛ぶ円盤で未来をからきた旅行者か何かか? 言っとくが、無法地帯のミッシリオには慈善って言葉はない。クソとして下水からどこかに流れていっちまったよ」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
ミッシリオというのがこの街の名らしい。そんな情報よりも、病院が存在しないという疑問が頭を占める。それに、犯罪に満ちたこの街にはもう一つ、重要な組織も抜けている。
「じゃ、じゃあ警察は? あれだけ危険なのにサイレン一つ――」
「はぁ? だから無いって、そんなもん。遺物だよ、遺物」
どうなっているんだ。法的機関すら皆無。響里は眩暈すら覚えた。
理由として考えられるのは天権が創造の際に、不要物として端から排除した可能性だ。歴史として残ってはいるようだが、これが敢えてだったとしたら、天権は頭のネジが吹っ飛んでいる。
「お前ら、面白いな。見慣れない服装だし……。そんなにお礼がしたいなら、連れて行ってほしい場所がある。それでチャラにしようや」
「わ、分かりました」
「顔なじみでな。というか、この傷の責任はあんのババアのもんだからな。依頼料込みで請求してやらねぇと」
響里はウォルターの腕を自分の肩に回し、彼を立ち上がらせる。顔色は青ざめ、一刻を争う状態だ。ぐったりと身を寄せるウォルターの体重を支えきれそうになかった響里は、立ち尽くす芝原に助けを求めた。
「芝原くん、反対側持ってくれる? このままじゃ歩けそうになくって」
「…………」
「し、芝原くん?」
「かっ、かっちょいい……」
どうやら安堵して気が抜けていたわけではなく。惚けた表情はウォルターに対してのもの。憧憬なのか、感激の視線を向けている。
ともあれ、響里たちはウォルターの案内に従うまま、路地裏を抜けることにした。