第二十一話 扉、再び
「それじゃ、また来週お会いしましょう。ホームルーム終わり!」
教壇に立つ担任教諭の有沢深雪が、パンッと手を叩く。
一斉に席を立ち始めるクラスメイト。解放感と共に、和やかな空気で満たされる。
金曜日の授業が全て終了し、これからの休日をいかに過ごすかという話題に各々花を咲かせている。
「よっしゃー。帰りますかー!」
机を倒さんばかりの勢いで立ち上がる陽ノ下。テンション高めなのはいつものことだが、さすが週末とあって存分に喜びを爆発させている。
「さあさあ! お主らも帰るぞよ、スタンダップ!」
「ははっ、そうだね」
彼女の元気に圧倒されながら響里も腰を浮かせた。そのとき、ふと前方にいる芝原に目が留まった。陽ノ下のあれだけの声量を受けて聞こえていないのか、頬杖を突きながら彼の視線は窓の外に向けられていた。
「芝原……くん?」
「……お? どした?」
芝原が反応するまでに数秒。僅かな間の後、ようやく振り返る。
「なーにをボケっとしとるのかね、チミは。帰るよって言ってんの」
「おお……そっか」
気の抜けた返事で、芝原もようやく机にかけられたカバンに手をかける。響里と陽ノ下は互いに顔を見合わせ、肩をすくめる。
まるで生気がない。
後ろの席から観察していたのだが、芝原はこの一日、ずっとこんな調子だった。陽ノ下に負けず劣らずの陽気さがどこに消え失せたのか、ほとんど口も開いていない。前日、友人たちと隣町に行ったことがバレて先生に怒られでもしたのかと思ったが、そんな気配もない。
「元気ないね。また寝不足?」
響里が訊ねてみると、僅かに考える素振りを見せてヘアバンド越しに頭を掻く。
「違うって。……いや、まぁ……そういうことにしといてくれ」
「?」
不可解な回答に、首が折れそうなほど傾ける響里。
前日の妙な反応。そのことが頭にこびりついて離れない響里は、喉から絞り出すように彼の名を呼ぶ。
「芝原く――」
「ちょっといいかしら」
涼やかな声が、三人の中に流れ込む。
パンプスの小気味いい音を鳴らしながら、有沢がこちらに近付いてきていた。名簿を片手に三人の傍まで寄ると、男なら誰もが卒倒しそうな微笑をたたえる。家とは真逆の清楚モード。もとい、仕事モードというやつだ。
「どうしたんですか、先生。俺たちに何か用事でも?」
「響里くん、そう緊張しないの。用があるのは陽ノ下さんにね」
顔を引きつらせて響里は乾いた笑いを浮かべる。有沢との関係性が従姉だということはこの場の三人しか知らない。そこを踏まえた上で、彼女はからかっているらしい。
「え、私? なんですか?」
キョトンとする陽ノ下に、有沢が名簿の裏から同じ大きさの茶封筒を取り出す。中身は重量物なのか、かなり分厚い。
「これ、月村さんに届けてくれる?」
「あ。もしかして休みの間の……?」
「そ。彼女、一週間以上休んでいるでしょ? その間テストもあったし、一応補習対象になっちゃうから。授業内容をまとめたプリントと、行事予定なんかもあるから」
「ありがとうございます。綾音もきっと喜びます」
月村綾音。
このクラスの生徒なのだが、新学期からずっと病欠だった。なので、響里は転校以来、まだ一度も顔を合わせたことがない。陽ノ下と仲が良いらしく、三人でいるとたまに話題にあがっていた。席も芝原の隣とあって響里も気にはなっていた。
「どう? 月村さん、来週には来れそう?」
「はい。毎日電話して様子聞いてるんですけど、だいぶ良くなったって言ってました。これ、必ず渡しますね」
「うん。よろしく言っといて」
陽ノ下はいそいそと茶封筒をリュックにしまい込み、颯爽と鼻歌まじりに帰っていった。
「じゃ、俺たちも帰りますよ」
「はーい。雲行き怪しいからね、誘惑もあるかもしれないけど惑わされないようにね」
「分かってますって。寄り道なんかしませんって」
ぶっきらぼうに返答しながら、響里はどこか違和感を覚えた。担任からの忠告。その言い回しに妙な点はない。ただ、冷淡な声音が気になった響里が逸らした視線を有沢に戻すと、彼女はいつものように人懐っこい笑みを浮かべている。
(気のせい……か?)
後ろ髪を引かれつつも響里は別段深く考えず、芝原と共に足早に校舎の外に向かうことにした。
◇ ◇ ◇
夕暮れ時にしては妙な暗さを感じたのは、学校を出てしばらくのことだった。それもそのはず、淀んだ鈍色の雲が暗幕のように空を覆い尽くしていた。早めの街灯の点灯――そこに反射する水滴が、道路をゆっくりと濡らしていく。
「あちゃ~、降ってきたな。深雪っちの言ったとおりだな」
「さっきまでそんな気配無かったのにね」
天気予報なんて気にする年頃でもない二人は、揃ってカバンを頭上にかざす。降り始め特有の埃っぽいアスファルトの匂いが、歩調を無意識に早くさせる。
「なあ、響里。どうよ、こっちに引っ越してきて」
「――え?」
「もう結構経つだろ? 生活には慣れたか?」
くぼんだ路面の水たまりを踏んでしまった芝原が「やっべ!」と叫ぶ。スニーカーが濡れたことがショックらしく、唇を尖らせた。
「そうだね。もう、二週間になるか……。あっという間だったよ」
「つってもこんな田舎町じゃ何にもないだろ? 退屈じゃねぇ?」
体感速度は目まぐるしいなんてものじゃなかった。現世と異界……その両方を経験していた響里にとって、この日々は良いも悪いも判断できないぐらい早さで過ぎ去っていった。
「そんなこともないよ。割と充実してるかな」
「そうか? ならいいけどよ」
苦笑する響里。異界の件は置いておくにしても、都会では味わえないような温かみがこの御伽町にはあった。
人口は確かに都会の方が圧倒的だが、無機質さは明確に感じていた。反対にこの町は地域密着というか、人との繋がりを大事にしているような気がした。
「人情っていうのかな。それはあるじゃない? 正直、前の生活に疲れていた俺にはすごく助けられたよ」
「ふ~ん。生まれたときからずっとここにいる俺には、あんま分かんねぇ気持ちだわ。ま、気に入ってくれたならそれに越したことはないけどな」
「うん――あ、ちょっと待って」
不意に、響里が住宅街の狭い路地の一角で足を止めた。その先を睨むように見つめる。特に何の変哲もない路上を。
「わちゃちゃ! おい、急にどうしたんだよ」
足元が滑り、危うく転びそうになる芝原が非難の声を上げる。
「芝原くん、ここってさ……」
「――んん?」
引き返して響里の見つめる先を、芝原は目線で追う。彼も何かに気付いたのか、顔をしかめて呟く。
「ああ、そっか。ここって……」
「事件現場だよね。宮井の……」
陽ノ下が今日はいないとあって、二人は近道を使っていた。土地勘のある芝原に言われるがままついてきたのだが、その一角だけは響里にも見覚えのある場所だった。
ニュースで連日映し出された路地。違いといえば、警察はおらずバリケードテープも既に撤去済み。生々しい現場の跡という空間だけが脳裏の記憶と摺り合わされる。
「なんか気味悪いよな……。ワリィな、こんな道選んじゃってよ」
「いや……」
「早く帰ろうぜ……って、おい!」
早々に立ち去ろうとした芝原の言葉を無視して、響里は現場の方に足を踏み入れる。雨脚はさっきよりも少し強くなってきているが、響里は意に介さず宮井が倒れていたであろう路面に、くまなく視線を這わせる。
「おい、やめろって。こんなところ誰かに見られたらどうすんだよ」
「――ねぇ、芝原くん」
「……なんだよ?」
「宮井の家ってここからかなり遠いんだよね? 町外れって言ってたし」
「そうだな。どっちかっていったら反対方向だ。……それがどしたんだよ?」
「なら変だよね。どうして宮井はこんな所にいたんだろう? 不登校なら尚更……」
「あ~、そうか? 俺にはわっかんねぇけど」
落ち着かない様子で辺りを見回す芝原。一方で、響里はその場にしゃがみ込み、濡れた路面をしばらく見つめながら唇を噛み締めた。
(やっぱり……犯人に繋がる証拠なんて残ってないよな……)
提供者。そう、有沢は呼称した。
天権と成りし者に、世界構築のきっかけを与える存在。どこの誰だかは知らないが、彼らが宮井を殺した。その痕跡が残されているのではと考えたが、無駄だったようだ。
有沢や彼女の所属する組織も、当然ながら調べているだろう。情報を得られるか分からないが、また訊いてみるのもいいかもしれない。
「お……おい」
震える声。
思考の渦に浸っていた響里は、芝原の声で我に返った。見上げた響里が目にしたのは、怯えた芝原の表情。何かを指し示すように上げられた腕のその先に、ゆっくりと響里は首を動かす。
「ッ!?」
路地の向こう側が見えなくなっていた。
正確には煙が景色を遮断するかのように、水蒸気が充満している。
ただし、降りしきる雨から発生した自然現象ではない。
――黒い霧。
どこまでも淀み、重苦しさを纏った微細な粒子が天鵞絨のように音もなく広がっている。
響里が引っ越し早々目撃した、あの気味の悪い濃霧だ。
「な、なんだよ。あれは……!?」
気付けば、響里たちの周囲も黒い霧は覆われ付近の住宅も視認できなくなっていた。
「あれは――」
ハッとして、響里は瞠目して傍に立ち尽くす友人を見た。
……どうして。
霧の正体は異界から漏れる悪意。
異界を保持し続けるためには人間の魂が必要だ。あの黒い霧が悪魔の形となり、商店街の人々を襲ったことがあった。結果として有沢が祓ってくれたのだが、その当時、黒い霧を認識できるのは彼女と響里しかいない。
同じくその現場にいた芝原には見えていなかったはずなのに。
「芝原くん。あれが見えているの……?」
「は? 何を言って……」
芝原の言葉が詰まる。驚愕に見開かれた瞳は、信じ難い何かを映していることを証明していた。
黒い霧は濃淡を所々変え、やがて幾つもの人影へと形作っていた。様々な背丈で、シルエットはかろうじて男女が判別できる程度。ただ一つだけ、特徴的な物体がある。それに芝原の瞳は釘付けになっていた。
「……車椅子……か?」
黒い霧特有の圧迫感による息苦しさを感じながら、響里は注視。どの影も足先は霧散しているものの、この人影だけは輪郭がはっきりしている。大きな車輪の上に手を置き、ゆったりと腰掛ける男性。相貌は露わになっていないものの、こちらをただ見つめているようだった。
「雄太郎!」
それは、芝原の悲鳴だった。愕然と叫んだ彼に応えたのか、人型の黒い霧は風にさらわれたかのように路地の更に奥へと逃げていく。響里の経験上、黒い霧の状態で明確な意思を表したケースは初めてだった。
「――ま、待ってくれ! 雄太郎!」
「芝原くん!?」
カバンも捨てて、車椅子の霧が消えていった方へ走り去る芝原。唖然とする暇もなく、響里は立ち上がる。
黒い霧イコール異界の証明。その不安を抱きつつ、響里は急いで地面を蹴った。
◇ ◇ ◇
御伽町総合病院。
町の北西に位置し、住宅街から離れた場所にあるこの病院は、地元住民の安心を一手に担う巨大な医療機関だ。一般外来に加え、急患や入院施設も整えてあるため、敷地面積はかなり広い。専用のバス車両もあるくらいだ。
裏手にそびえる荘厳な山々。病院の外を迂回するように、その山の入り口付近まで追いかけてきた響里は、ようやく芝原の背中を捉えてていた。
「し、芝原くん……!」
息を切らす響里に対して、芝原は運動神経がいいのか肩を揺らしているだけ。もしくは肉体的な負担さえ意識の外かもしれない。導かれるように、芝原はここに誘われたのだ。
「芝原くん、だめだ!」
響里の制止が耳に届いていないのか、そのままゆっくりと雑木林の中へ足を踏み入れていく芝原。「くそッ」と吐き捨てながら、荒い呼吸が落ち着かないまま、響里もその後ろについていく。
本格的な夜の帳が降りてくる時間帯。まだ雨も止む気配もなく、一メートル先の視界も確保できない状態になってきた。ぬかるんだ地面によって足元を取られ、芝原の遅い歩調でさえも見失いそうだった。
「な……なんだこれ……」
そう呟き、芝原が立ち止まる。
芝原の背中の奥――微かな光が漏れていた。ようやく追いついた響里は、ぐったりと息を吐きながら前方を見やる。そして、言葉を失った。
「嘘だろ……」
扉だ。
白磁の色。縁には豪奢な装飾を施したそれは、デザインこそ差異はあるが、間違いなく異界へと通じる扉だった。
「まさか、また……?」
「お前……、知ってるのか?」
畏怖しているのか、強張った表情で芝原が問う。
確信はなかった。背筋を這う寒気は決して、雨に濡れたからではなく。黒い霧という前触れがあったこその、まさかという思い。
(天権がまた現れたっていうのか……!)
歯噛みしながら響里が扉を睨みつける。芝原は動揺しながら、響里の肩を揺らした。
「おい! なんだっていうんだ!」
「……芝原くんは早く逃げた方がいい」
「……は? お前、何を言って……」
「早く!!」
切迫した響里に、ビクリと肩を震わす芝原。――しかし、既に遅かった。
扉が重厚な音を立てながら、ゆっくりと開いていく。溢れた光の奔流が二人を容赦なく包み込んだ。
「おおお、わぁぁああ!」
「……くそッ!」
間に合わない――そんな気持ちを嘲笑うかのように、響里の意識は次第に遠ざかっていった。