第十八話 響里の涙
翌日。
午前の授業が終わると、生徒たちの動きが一気に慌ただしくなる。授業中の気怠い空気が一変、昼食選びの戦争が始まるのである。
購買部のパンか食堂、育ち盛りの高校生にとってメニューの確保は何よりも重要であり、その時間に全てを注ぐと言っても過言ではない。
お弁当持参の響里は、猛ダッシュで教室から去っていく生徒たちに毎回驚かされながら彼らを見送る。腹を空かせた敗北者の苦しみは気の毒に思いながら、毎日お弁当を用意してくれる祖母には感謝である。
「ふぁ~あ……」
そんな大きな欠伸をかましながら、のっそり起きてきたのは前の席にいる芝原。夜更かしでもしていたのか、午前中の授業はずっと寝て過ごしていた。
「あれ? なんだ、もう放課後?」
「寝ぼけすぎ。まだ昼休憩だよ」
苦笑いする響里の机に置かれた弁当箱を見て、「あ~」と気の抜けた声を出す芝原。目をしょぼしょぼさせながら、もう一回欠伸をかました。
「この頃、あんま寝れなくてな~」
「何? 新しいゲームでも買ったの?」
「いや、そうじゃねぇんだけど……」
まだうつらうつらしながら寝言のように答える芝原。寝不足のせいか、どこか顔色が優れない。響里より重度のゲーマーである彼は、普段から夜通しゲームをしていることが多く、体調が悪そうなのはざらなので響里もあまり気にせず言った。
「でもいつもならチャイム鳴った瞬間、一目散に教室から飛び出すのに今日は珍しいね。陽ノ下さんならもう行っちゃったよ」
響里のもう一人の友達、陽ノ下はそれこそ猛者だった。競争率の激しい購買部のパンをほぼかっさらい、教室に戻って来るなり勝どきを上げるのである。一方で芝原は、陽ノ下と同時にスタートするのだが結果は芳しくない。
「アイツは常に腹ペコ丸だからな。というか俺とアイツをセットにすんじゃねぇっての」
そう言いながらカバンから自家製のお弁当箱を取り出した芝原に、響里は首を傾げた。
「あれ? 今日は弁当持参?」
「ん? ああ、今日は母さん仕事休みだったんだ。誰かが代わりに出てくれることになったみたいでさ、時間があるってんで。俺は別に要らないって言ったんだけどな」
思春期特有のむずがゆさなのか、芝原が困ったような笑みで頬を掻く。布をほどいて弁当のふたを開けようとした、ちょうどその時だった。教室の扉が勢いよく開く。
「おーい、芝原! これから食堂に行こうぜー!」
こちらに向かって叫ぶのは、三人の男子。響里には名前も知らない隣のクラスの生徒だが、度々芝原と一緒に行動しているのを目にしていた。
「あ~……」
あからさまに顔をしかめて、芝原が弁当箱に視線を落とす。
「悪ィ。俺、今日はここで……」
「え~、いいじゃねぇかよ~。早く行かねぇと、人気の日替わり定食無くなっちまうだろ」
「…………」
気乗りしないのか、しばらく悩んでいた芝原は乱暴に頭を掻きながら、立ち上がった。うんざりしたような口調で彼らに言った。
「分かったって。行くよ」
そして、弁当箱にもう一回布を包み直して芝原は、響里に向かって申し訳なさそうに手を振った。
「ごめん、響里。俺、行くわ」
「あ、うん。別にいいよ、気にしないで」
別段一緒に昼食を取る約束をしていたわけでもないので、快く響里は見送った。一見して個性の強い外見だが、芝原は人に対して気を遣う性格らしい。頼まれると断れない、というのだろうか。なまじまだ浅い関係の自分よりも、昔からの仲間の方を優先するのは二択としては正解だと響里も思う。
(――なら、ちょうどいいか)
少し残念だと思いつつ、響里もおもむろに席から立ち上がる。
今日に限り、響里も元々は一人で食べようと決めていた。いや、というよりも別の目的があったのだ。芝原と昼食を共にするならば諦めようと思っていたが、彼には申し訳ないがこれで都合がよくなった。
◇ ◇ ◇
響里は校舎の屋上にやってきていた。
昼休憩のみ解放されるこの空間は、フェンス越しではあるものの御伽町の景色が一望できる絶景のスポットだった。手入れの行き届いた花壇や木製のベンチとテーブルがあり、カフェのような気分が味わえる。主にカップルたちの憩いの場となっていた。
響里がここに来た理由。それは誰かと待ち合わせをしている、というそんな甘酸っぱい想いをするためじゃなかった。
むしろ、胃が痛くなりそうな思いだ。だが、確実に彼女はここにいる。
いつもは学生で賑わっているが、今日はやけに少ない。響里としてもそれは逆に好都合だった。
響里が広い屋上を歩き回っていると、その女性は思った通りそこにいた。通用口の裏、あまり目立たない端に悠然とたたずみ、澄んだ風を浴びている白いスーツ姿の女性。有沢深雪だ。
「深雪さん」
意を決して、響里は声をかけた。
彼女も待っていたわけではない。響里が今日、ここに行くことも伝えてはいない。
しかし、彼女は知っているような気がした。だから会えると確信があった。
そして予想通り、彼女は柔らかな笑みをたたえて振り返る。
「あら? 義矩くん、奇遇ね。あなたもここでお昼ごはん?」
「そんなとこです。そういう深雪さんは、何も持っていないようですけど?」
「私はもう済ませたから。というかダメよ、義矩くん。学校内じゃ先生って呼ばなきゃ」
からかうように言って、年上の従姉は悪戯っぽく微笑む。家でのだらしなさを知っている響里からしてみれば、教師の凛とした姿は違和感があり過ぎて接するのにどうにも困ってしまう。
「私とあなたの関係は一応、秘密ってことになってるんだから」
「そういうややこしい言い方やめてくれます? わざとやってるでしょ」
大きなため息をつきながら、響里は有沢の横に座る。コンクリートのザラザラとした感触が少し痛いが、我慢するしかない。祖母が作るお弁当は主に和食中心で、どれもこれも出汁がきいている。特に卵焼きは絶品だ。しっかり味わいながら、しばらく二人の無言の時間が続く。
ただ、きっかけを探っているのは響里だった。どう切り出していいものかと悩みながら、休み時間ももうそれほど長くないため、響里は一旦箸を置いた。
「やっと帰ってきたんですね。三日ぶりぐらいですか」
「ん? ああ、そうね。ほら、今度校外学習があるじゃない? その現地の下見やら会議とかで忙しくてさ」
このところ有沢は家にも帰ってこなかった。クラス自体は副担任が見てくれていたのだが、やはり教師というのは過酷らしい。学校では何も感じないが、家となると彼女がいないだけでこんなにも静かなのかと思ったものだ。
「ごめんねぇ、さみしかった?」
「……おばあちゃんは少しそんな感じだったよ」
「私は君のことを聞いているのにな~。でも、今晩からは普通に帰れるから」
互いに視線を合わさない。そして、また沈黙。そうして風が二人の隙間を通り抜けると、今度は有沢の方から口を開く。
「そんなことを聞きに来たんじゃないんでしょ?」
びくりと響里の肩が震えた。響里が視線を横に移すと、有沢は景色に目を細めながら風になびいた髪を遊ばせていた。かぶりを振った響里は視線を前方に戻し、低い声音で言った。
「……宮井のこと、何か分かりましたか?」
「やっぱり……気になっちゃう?」
「当然でしょ。調べてたんじゃないんですか?」
言葉が震えていた。感情的になりそうなのを無理矢理押さえつけたためだ。
「どうして……あいつは死んだんですか。知ってるんでしょ? その裏側を」
事件当時の様子は、ニュースで語られているところでしか知らない。
現場は住宅街の狭い路上。当時、時間帯は昼間にも拘らず物音どころか目撃者さえもいなかった。既に倒れていたところを通行人が発見した。
「目立った外傷もなし。彼自身、持病もない。調べても手がかりは何も出ないでしょうね。警察も混乱してたわ」
「まるで見てきたかのような言い方ですね」
「見てたもの、遠くから」
平然と言い放ち、有沢は肩をすくめた。
現場は警察が封鎖していたはずだ。多くの報道陣が詰めかけているだけに一般人が様子を確かめるなんてできるわけもない。空でも飛んで見ていたのかと、響里は突飛な想像を膨らますが、案外有沢ならばやれるかも知れないと思い直す。
それだけの力が、彼女にはある。
「……深雪さん、あなたは何者なんですか?」
改めて有沢に問う。
異界について教えてくれたのは彼女だ。
異界は数多の人間の魂によって構築されたもの。あれだけの規模を持つ世界だ。具現化させるにはとてつもないエネルギーが必要。天権と呼ばれる創造神のイメージだけではいわば“プログラム”でしかなく、違和感なく“立体化”させるための材料がなければならない。なので、より多くの魂を集める方法が、響里も遭遇したあの霧だ。霧は異界から漏れだした悪意らしく、その進化系が商店街を襲った悪魔だった。
「深雪さんは、この町を守る役目を担っているって言ってましたよね? でも聖傑じゃない……」
「そう、私は別物よ。君が特別」
聖傑。それは、天権に対する唯一の能力者。異界にいる英傑と融合することで凄まじい力を手にすることが出来る。響里もその資格を有する者だった。どうしてそんな資質があったのかは知らない。だが、そのおかげでこの御伽町は救えたのだ。
「じゃ、深雪さんって一体……」
響里が有沢の顔を見ると、彼女は町を見下ろしたまま観念したかのように肩を落とした。
「私にも守秘義務があってね。あまり詳しくは教えられないの。それでもいいなら」
「はい」
「……この御伽の地にはね、遥か太古から霊的な力が宿っている。古の神々が眠る大地にはレイラインがあって、ここは特に密集した場所になっているの。――ということは、どういうことか分かる?」
「……なんか分からないけど物凄い力が……溢れてくる?」
「四十点。この間のテストもそんな感じだったわね」
呆れたように苦笑して有沢は言った。テストの答案はまだ返ってきてないだけに、思わぬ暴露をされてしまった。しかも予想より低い。
「神性を持つ力というものは、あるだけで様々な影響を及ぼす。神の善悪と人間の善悪の基準は違うように、天変地異さえも簡単に起きてしまうものなのよ。人間が無条件に神を敬うとしても、神は万物に対して公平に裁定を下すからね。……ともかく、その神性によって我々が滅ぼされないようにするために調整、維持する機関が存在するの。私はその一員ってわけ」
「じゃ、あの悪魔を屠ったあの魔法も……」
「厳密には魔法じゃないんだけどね。私にはその素養があった。だから機関に属して、訓練したの」
「なんなんですか、その機関って……」
「そこから先はごめんなさい。教えてあげられるのはここまで。機関の人間は耳がいいからね。この会話も聞かれてたらマズイし」
人差し指を唇に当てる有沢。もしかしたら、こちらが追及することで彼女の立場が危うくなるのかもしれない。響里としても巻き込まれた側なのでもっと深く知りたいが、退くべきだろう。
響里の複雑な表情から察したのか、「ありがとう」と小さく呟いた有沢。硬い口調のまま、彼女は続けた。
「代わりの情報として、一つ。宮井公平の死因は多分脳系の損傷。それだけ異界の創造は負担がかかるし、破壊されたことによる心身のダメージは大きいの」
「――!」
「でもね、それだけとは限らない。おそらく向こう側が手を加えている可能性が大きい。」
「向こう側?」
「提供者とでもいうのかしらね。ほら、想像してみて。宮井という少年に天権としての力があったとして、どうやって異界を生み出せると思う?」
「異界は魂が集まって造られるんですよね?……そうか、天権のイメージを再現させる為のサポートが必要なのか」
「そういうこと。私は、いえ私たちはそこを調査している」
勘違いをしていた。響里も体験したあの中世の世界観はあくまで宮井の頭の中の想像であって、そのイメージを抽出して具現化させたのは別の手によるものなのだ。
「そうだったのか……。じゃあ、そいつらはどうやって宮井が天権だと分かったんだろう。そもそもそいつらの目的は……?」
眉間に皺を寄せて、有沢はかぶりを振った。
「残念ながら分からない。選定方法にしても、攫ったのかそもそも行方不明者だったから都合が良かったのか。異界の作成方法にしても、全く。判明しているのは天権が敗れれば異界は消失する、ということだけ」
「……情報が少ないですね」
「今年になって活発化してきたからね、私たちも大混乱よ。ただ、提供者と私たちは呼んでるけど、そいつらは本気よ。失敗作にはこうして口封じさせてるんだからね」
有沢が響里の方へ身体を向けると、地面に膝を付けた。そして、唐突に響里の首元に腕を回した。
「み、深雪さん!?」
有沢に抱き締められ、顔を真っ赤にする響里。こんなところを誰かに見られでもしたら大問題だ。あたふたする響里に、有沢は優しく囁いた。
「だからね、君が殺したんじゃないよ」
「…………!」
「それが知りたかったんだよね。断言する、君は殺人者じゃない」
まぶたが熱くなった。
溢れそうな涙をこらえられず、感情は滅茶苦茶で何も考えられない。
宮井が異界から消え去る時点で、彼は確かに生きていた。響里に復讐を誓いながら現世へと戻ったはずだったのだ。
だが、死んだ。
自分が手を下したことへの影響。少なからずあったのではないか、と響里は自身を責めた。
宮井に殺されたことがあった。しかし、響里が生きたままこの世界に戻ってきたことを考えれば、宮井も生存しているのが当然だと踏んでいた。それが現世と異界の関係性だと。
しかし、響里がそうだからといって、宮井にもそのルールが適用されるとは限らない。
世界の崩壊イコール天権の死。むしろ、そう考えた方がしっくりきてしまう。
だから死なせたのではないか。殺害したのではないか。その罪悪感に苛まれながら、数日を過ごしていた。
有沢の言葉はそういった響里の不安を全て取り除いてくれた。安堵の涙だった。
「だけど今回で終わるとは到底思えない。またきっと動きを見せる」
有沢の体温の心地よさに浸っていると、自然と響里も落ちつきを取り戻してきた。待ってくれていた彼女は、響里の耳元に声を押し当てる。
「俺もまた……協力しないといけませんか?」
「どちらにせよ、私の組織も聖傑が生まれたのは知っているし、きっと向こうの連中にも義矩くんの情報は伝わっている」
頬を伝う水滴を指先で拭いながら、有沢は目を細め優しく微笑む。
「ごめんね、怖かったよね。だけど、次もし同じことがあったとしても、上がどう言おうと私は無理強いさせるつもりはない。それは従姉としての率直な想い」
「でも、そんなの……」
「そうね。本当にそうなったしまえば私は逆らえない。それだけの危機だから。だからまた利用してしまうかもしれない。その時は……」
「…………」
唇を噛み締めて、有沢はその先の言葉は口にしなかった。
響里も答えははっきり出せなかった。戦うか否か。その選択を迫られたとき、どうしたらいいのだろうか。
ごめんなさい――。そうささやき、有沢が不意に立ち上がり、通用口の方に歩き出す。そして背を向けたままに、普段の口調で彼女は言った。
「あ、このことはくれぐれも内緒ね。おばあちゃんも知らないことだから」
昼休憩の終了を告げるチャイムが鳴り響いた。
響里は心の整理がつかないまま、青空を茫然と見上げていた。