第十七話 噂
古き良き景観を残した御伽町の春は、四季の中でも最も美しい時期といえた。
自然の大部分を残しているために、木々は様々に色を変える。四月の中旬、桜が咲き乱れる景色はわざわざ県外から撮影する人もいるくらいだ。
その絶景の場所の一つが、私立明霊山高校へと続く坂道だった。傾斜沿いに桜並木があり、風に吹かれた花弁が空へと舞い踊る。およそ二週間という短い時間だが、限定的で幻想に溢れた世界を堪能できる要所として有名だった。
その桜もそろそろ見ごろが過ぎようとしていた頃。
明霊山高校の学生にも、試練が訪れようとしていた。
各教科、これでもかという小テストの嵐である。不意打ちともいえる教師からのテスト週間前日での通達。主に前学年時の復習という意味合いが強く、進級したからといって怠惰をむさぼっていた学生には地獄の三日間になっていた。
彼らの心中を察するかのように、テスト期間中にはすっかり桜の花は散っていくのであった。
そんなこんなでテスト期間が終了。学生たちが最も嬉しい解放感に浸れる瞬間だ。放課後のチャイムが鳴り、ぞろぞろと生徒たちが立ち上がる中、窓際の席に座る響里義矩は学習椅子の背持たれにゆっくりと体重を預けた。
この春から転校してきた響里にはテスト範囲は把握しづらかったが、おおむね前の学校と授業の進み具合が変わらなかったのが救いだった。高得点とはいかないまでも、全教科まずまずの出来に、一安心していた。
「やっと終わったー!」
と、突然、響里の前の席にいる男子が両腕を掲げる。
茶髪をヘアバンドで上げた、少し軽薄そうな見た目の芝原智樹である。響里が転校早々に出来た友達だ。彼は、鬱憤を晴らすかのような雄叫びを放った直後、そのまますぐさま机に突っ伏す。
「そして終わった……。俺の未来も……」
言葉と共に魂まで抜けていくような芝原に、響里は苦笑を浮かべた。
テスト中、背中越しでも彼が苦悩しているのは丸わかりだった。それも全教科である。想像するまでもないテスト結果を前に、悲しみに暮れている。
「あたしも芝原ほどじゃないけどギリギリだな~。赤点になりませんよーに!」
何やら真剣に拝むように手を合わせているのは、響里の隣に座る女子――陽ノ下澪。芝原よりも明るめな赤っぽい髪色のショートボブ。格闘技を習っているためか、活発そうな女の子だ。まだ少し寒さは感じるというのに、セーラー服の袖はいつもまくり上げられている。
「母ちゃんにお小遣い減らされるなぁ、きっと……」
「あたしも下手したら、その道にいくわ……。道場の月賦でいつも金欠なのに、これ以上は勘弁でっせ……」
どんよりした空気にかける言葉も見つからない響里に、陽ノ下が唇を尖らせる。
「響里くんは大丈夫そうだよね。なんかスラスラ解けてたし」
「いや、まあ、そこそこ出来たとは思うよ。決して良くもないけど」
「いいなぁ~、これからテスト返却までの間悩まなくていいのは」
羨む陽ノ下に同意するかのように、起き上がってきた芝原が頬杖をつく。
「まったくだぜ。頭のいいやつは羨ましいよ……。赤点獲得者には、もれなく補習と追試のコンボだからな」
「ウチって、辺境の学校だけど意外と偏差値高いのよね。あたしと芝原、よく進級できたもんだ」
「進学校に比べりゃまだマシなんだがな。この町が過疎りつつあるのを打破したくて、この高校もレベルを上げようとしているなんて噂もあるくらいだしな……知らんけど」
「出ていく人たちばっかだからね~。うちらの年代も結構生徒が減ってきてるもんね……」
颯爽と下校していく生徒たちを眺めながら、寂しげに呟く陽ノ下。と、何かを思い出したのか、机に前のめりになって声を潜めて言った。
「進学校といえばさ、知ってる?」
「なんだよ、急に」
大っぴらには言いにくいことなのか、つられたように響里も芝原も顔を寄せ合う。
「今さ、すっごいニュースになってるじゃん。ほら、この近くで行方不明だった高校生が殺されちゃった事件」
「…………!」
声を漏らしかけた響里が、目を大きく見開く。一方で、拍子抜けしたように芝原は肩を落とした。
「そのことか。こんな狭い土地だからな、テレビなんか観なくても町中の人間が噂してるぞ」
「そうなんだけどさ。やっぱさ、大事件じゃん?」
「だからこそ、情報がすげー勢いで広まってるんだよな。どこまでホントかウソか分かんねーけど」
先の商店街での集団意識不明騒ぎも、数日の間はその話題で持ちきりだった。しかし、今回ばかりは殺人事件。町の人々の過熱ぶりは比ではなく、至るところで憶測が飛び交っている。特に主婦の井戸端会議は、ある種のお祭り騒ぎだった。無関係な人間にしてみれば、退屈な日常に訪れたスパイスのようなものにしか思えないのだろう。
「でも一つだけ確かなのは被害者なんだよな。公表は勿論されねーんだけどさ。確か……名前はなんつったっけな、え~と……」
「宮井……公平……」
響里の呟きに、二人の視線が集中。目を丸くした陽ノ下が、意外そうに口を開く。
「響里くん、知ってるんだ」
「えっと、家でもおばあちゃんが話してて。被害にあったのは、多分その宮井さん家のお子さんじゃないかって」
ややしどろもどろになりながら誤魔化す響里に、芝原は「あー」と間延びした声を出す。
「長年ここに住んでる人には、独自のローカルネットワークがあるんだよな。町の全域まで一瞬だから、プライバシーもあったもんじゃねぇよな」
「そうだよね~。知らなくていいことまで知っちゃうっていうか」
「あることないことな。尾ひれはひれ付くから本物か分からんし」
友人二人の会話を耳に入れながら、響里は自分の右手に視線を落としていた。
その殺人事件が起きる直前。響里は特殊な体験をした。
この現実とは次元の違う世界。通称“異界”と呼ばれる場所に響里は飛ばされ、命のやり取りというものを肌で感じた。異界は、人間の強い想いから生み出された架空の世界であり、その創造主が宮井公平という少年だった。響里にしてみれば敵という間柄だったが、接触した期間としては短い。人物像もあまり分からずじまいだった。
「ねぇ」
響里が顔を上げる。
「その宮井って子……、どんな人間だったのかな?」
「ん? 性格とかか?」
「まあ……。例えば、恨まれるような背景があったとか……さ」
陽ノ下は軽く肩をすくめた。知らない、ということなのだろう。一方で、芝原も腕組みをして黙っていたが、天井を見上げてぽつりと言った。
「……ある意味、有名だったからなぁ。アイツ」
「芝原くん、知ってるの?」
「俺も直接面識があるわけじゃねぇよ。あくまで噂だ、噂」
どんな些細な情報でも欲しかった響里は、前のめりに芝原の言葉に耳を傾ける。
「町外れに豪邸があるだろ? そこが宮井ん家らしいんだけどな、要はお金持ちの一人息子なんだとさ。だから親御さんも教育には力を入れてたようでさ、その甲斐あってか、宮井もすんげー頭が良かったらしい」
「おばあちゃんもそんなこと言ってた。他県の高校に進学したんだよね?」
「天才ってやつ? 俺には分かんねぇけどな、努力を知らず常に好成績。親から甘やかされて育ったのも相まって、ひねくれた性格だったんだと。頭がいいのを鼻にかけて見下すもんだから、周囲からも疎まれてたらしいぜ」
「あたたたた……」
陽ノ下が顔をしかめる。
「でも、それは中学生時代の話。――で、問題は響里が言った高校に入ってからなんだよ」
「……何かあったの?」
「ちょーが付くほど偏差値の高い進学校ってな、どこもかしこも天才ばかりだ。当然、授業のレベルも高い。宮井は付いていけなくなったんだ、そのレベルの高さに。周りの生徒はいとも簡単に高得点を出す、でも宮井は……」
「そうか、宮井の世界もズレたのか……」
響里の胸中に苦いものがこみ上げてくる。
「今まで天上天下唯我独尊で生きていたヤツがそんな目に遭うとどうなると思う? ポッキリ折れるわな。簡単に言えば挫折だ」
似たような境遇だ。響里は宮井のような驕りはないものの、周囲との間に分厚い壁を感じていた。だから宮井と対峙したとき、響里の言葉には過敏な反応をしたのだろう。
「井の中の蛙だったのさ。でも、プライドが高いってのは早々治るもんじゃない。ある日、遂に爆発したらしいぜ。テストの採点を見て、喚き散らしながら机をひっくり返して……」
「…………」
「そのまま不登校だとよ」
響里は深く目を閉じて、改めて思い出してみた。宮井が創り出した異界を。
願ったのは、自分にとって居心地のいい世界。おだてられ、かしずかれ。与えられた力を振りかざし、頂点に君臨する。自分という存在を認めてほしい、そのために。
努力しないということは土台がないということ。だから、自分の地位が崩れ落ちたらどうすることもできない。知らないのだから。挽回する方法を。当たり散らすしか、自分を保てないのだ。
「でも、ま、殺されるにしちゃ、ちょっと可哀そうだけどな」
「自宅から結構離れた路上だったっけ。通り魔か、恨みを持った犯行か……。にしても、アンタほんと詳しいな」
感心する陽ノ下に、憮然と返す芝原。
「ちげぇって。単に俺のダチの弟が宮井の同級生だったんだって。又聞きみたいなもん。真意は確かじゃない」
「……ありがとう、芝原くん。教えてくれて」
「お、おう? なんで礼を言われるのかわからんけど」
響里の真っ直ぐな視線に照れたのか、芝原は話題を変える。
「でもよ、どんな物騒な相手でも陽ノ下なら大丈夫そうだよな!」
「アンタはあたしに何を求めてんだ。あたしだって、いざそんな状況に遭遇したら怖いっての。でも許せないよね、そんなヤツ。んんん……、チェストー!」
陽ノ下は椅子を勢い良く倒し、回し蹴りからの正拳突きを放つ。クラスの生徒が誰もいないとはいえ、凄い胆力である。
彼女は汗をぬぐう仕草をしながら、満面の笑みでこう提案してきた。
「それはそうとさ、せっかくテストも終わったんだし打ち上げしない?」
「打ち上げ〜? どこでよ?」
「ここはやっぱ、“焼軍”っしょ!」
「お前ってやつは……」
焼軍は地元でも旨いと評判の鉄板焼き屋だった。強面の大将が作る料理の数々はどれも絶品で、老若男女問わず人気。こぢんまりとしたスペースなために、営業開始から閉店まで常に満席という名店である。
盛大にため息をついて項垂れる芝原。呆れているのかと思いきや、こちらも嬉々として親指を力強く立てた。
「サイッコーなヤツだぜ! よ、陽ノ下さん、天才!」
「それほどでも~」
「俺、豚肉そばダブル! お好み焼きしか勝たん!」
「んふふ~。ステーキって、すてーき~」
ご機嫌な様子でカバンを肩にかけながら教室を去ろうとする二人。響里としても非常に嬉しいお誘いなのだが、その前には立ちはだかる難問があることを心苦しくも告げなければならなかった。
「あの~。まだ集団下校は解かれてないんじゃ……」
二人の時間が止まる。
ぎこちなく振り返った友人たちは、なんとも言えない顔をしていた。そして、この世の終わりかと思うくらい打ちひしがれてしまった。
「そ、そうだった……」
「知るか、んなもん! って言いたいが……深雪ちゃんにバレたら、補習や再試験よりも恐ろしい目が待ってるもんなぁ……」
宮井の一件で集団下校はさらに延長することになり、それどころか増々強化されてしまい、下校時間には町内のあちこちで教師が目を光らせていた。
生活指導の餌食になりたくない三人は、渋々帰ることにした。