第十一話 異界の真実
赤色灯が、夜の商店街を照らしていた。
異常ともいえる集団の意識不明者。救急車が何台も駆けつけ、倒れた人たちを数時間がかりで搬送している。パトカーが現場を封鎖し、その様子を付近の住人が不安そうに見つめていた。その傍らには地元テレビ局の報道カメラが数台。この一大事件を逃すまいとアナウンサーの実況と共に撮影していた。
遠巻きに消えていくサイレンの音。響里は有沢に連れられて自宅とは別方向に歩いていた。芝原と陽ノ下は、有沢の判断ですぐさま帰らせた。精神的な負担を考慮してのことだろう。有沢は救急車の手配だけを済ませ、早々に商店街から離れた。現場にいた者としては経緯の説明をする義務があるのかもしれないが、それよりも大事なことがあると、響里を強引に連れ出したのである。
街灯の少ない夜道を歩くこと十分。到着した場所に、響里は息をのむ。
「深雪さん、ここって――」
「私と義矩くんが再会した運命の場所……なんて少しロマンティックかしら?」
とぼけたように言う有沢だが、到底笑う気にはなれなかった。
宵残しの林。小さな石階段の先にある入り口は、夜になると一層見えづらく不気味さが増していた。
「なんでここに……」
「色々と知りたいんでしょう? 教えてあげる。入りましょ、義矩くん」
「え、ちょっ……」
響里の返答も待たずに、林の中に消えていく有沢。慌てて響里は彼女の後を追う。
月の光さえ届かない暗闇を、有沢は明かりもなしにどんどん進んでいく。道なき道は、もう引き返すことすら敵わない。恐怖を押し殺しながら、有沢の背中を見失わないようついていくしかなかった。
踏みしめる枝葉の音が大きく反響する。
奥深くまで来たところで、これまで黙っていた有沢が静かな口調で言った。
「あの悪魔どもはね、漏れ出した悪意の具現化なの」
歩みも止めず、振り返りもしない。響里の疑問に、ようやく答える。
「悪意……の具現化?」
「怨念、執着、悔恨、嫉妬……。そういった負のオーラが外気を汚すの。あの霧はその前兆。霧は密度が濃くなると影となり、やがて悪魔となって現世に悪影響を及ぼす」
「それが……人間によって生まれると……? まさか感情だけで……」
有沢は黙っていた。普段は明朗快活な彼女だが、この状況。負の情念は人間特有のものだ。信じないわけにいかないが、抽象的なためにすぐには飲み込めない。ただ、有沢の固く握りしめられた拳だけは、それが真実だと訴えていた。
「だけど、そんなものどこから……」
足を止め、首を響里の方に回す有沢。暗がりも相まってなのか、彼女は妖艶な笑みを浮かべていた。
「あら。それは義矩くんも心当たりがあるんじゃないかしら?」
有沢が右腕を前方に差し出した。
小さな光だった。まるで蛍のような微弱な輝き。だが、一瞬にして眩い光を放つ。
「うわっ!?」
反射的に目を瞑る響里。光はすぐに止んだが、網膜に刻まれたせいで目を開いても視界の焦点が合わない。ただ、有沢の前に何か遮蔽物のようなものが現れていた。
「――!?」
その正体を知って、響里は愕然とする。
扉だ。
間違いない。この町に来て、響里を別世界へと導いたあの扉が、眼前にそびえている。
「どう……して……。あれは無くなっていたのに……」
「私が一時的に封印していたの。本当はこんなものブチ壊したいんだけど、残念ながら私の力じゃできなくってね」
「は……? 何がどういう……」
さすがに理解が追い付かなくなってきた。響里は呼吸困難になった魚のように口を開ける。
「この扉の奥にある――通称、異界。悪意の元凶はこの中からよ。異なる時空の境界線……そこは何をも通さない。ただし、どんなフィルターにも小さな網目はある。強烈な悪意はその僅かな隙間を縫い、霧となって現世を混沌たらしめているわけ」
ふぅ、と有沢は長く息を吐いた。これまで涼しげだった彼女の表情に疲労の色が見えた。こめかみから顎先にかけて汗が滴り落ちる。
「悪意自体は恐ろしいけどもっと恐ろしいのは、進化した悪魔にはある目的がある。人間を襲い、エネルギーを奪うこと」
「エネルギー……? まさか、あれが……」
響里の脳裏に浮かんだのは、人々の身体から出て来た赤い光。年齢性別問わず、同じ色、同じ大きさ、同じ形。鮮明な血に似た不思議な物質だった。
「言い換えれば、あれは魂。人の命とは異なる、けれど命同様、それ以上に人を構成するのに必要不可欠なもの。悪魔は魂を刈り取ることで、異界を創造するための材料になる」
「ま、待って。いよいよもって話が……」
「要はサイクルになっているってことよ。義矩くんが行った異界も、根本は人間の魂で構築されているわけ」
「そんなバカな……」
「でも貴方は見てきた。実際に体感した。異界を」
途方もなさ過ぎて乾いた笑いすら浮かぶ響里に、鋭く言い放つ有沢。ごくりと生唾を飲んで、響里は訊いた。
「魂が結集してあの世界が生まれるって……。じゃあ、あの世界観は? イメージは……?」
「ま、“天権”となった者の仕業でしょうね」
「て、天権?」
「“誰しもが持てない天に属する権利”。異界の創造神ってこと。天権の強い願いが形となった世界――それが異界の真実」
「ちょ、ちょっと待ってください! あの世界にはいろんな人たちがいました。自分の意志で行動して、生活を送っていたんです! あれも造り物だっていうんですか!?」
「そ。だから恐ろしいの」
素っ気ない返答だった。響里は膝から地面に崩れ落ちた。
異界で過ごした日々は一瞬だった。だが、鮮明に記憶に刻まれている。
人々の関り。向けられた笑顔。国を救いたいという決意。あれが全て誰かが創り出した人形だっていうのか。
だったら、あの人も……?
「だけど、これは本来存在してはならないの。今日のように私たちの世界に危険が及ぶ。私はそれを防ぐ役目を担っている」
「深雪さん、あなたは一体……」
異界のこと、霧や悪魔、そして人間に宿る魂……。この世界の裏側を知っている彼女は、本当に自分の従姉なのか。少なくとも響里の記憶の中では、幼少期を含めてどこにでもいる普通の女性だ。
悪魔たちを屠ったあの力も、例えるなら魔法。言動から推測して、これまでもあの力を使ってこの町を守ってきたのだろう。何年にも渡って。誰にも知られずに。
「困ったことに、長々と説明している時間もないのよね。私のことよりもまずはコイツをどうにかしないと」
ふんっ、と鼻を鳴らす有沢。封印を解かれた扉は煌々と光を放っている。
「どうにかしないとって……」
「破壊するのよ。徹底的に」
実に端的に、有沢は言い放つ。
「は、破壊ってそんな無茶苦茶な……」
「でないと、根本的な解決にならない。とはいっても、爆弾とか使ってあらゆる万物を消滅させるっていうアホな方法じゃない。創造した時点において異界は既に一人歩きしているわけだからね」
「……じゃあ、まさか……」
「そのまさか。管理している者を倒して現実世界に送り返せばいい。中に入って天権を倒す――そうすれば異界も消えて元通りになる」
有沢は硬直する響里に近づき、手をそっと彼の頬に触れた。困ったような笑顔で。
「私はこの世界に入れない。そういう身体なの。でも義矩くんは入れた。本当は危険な目にこれ以上遭わせたくなくて封印していたのだけれど……、もう君に頼むしかない。救って、この世界を」
「そんな……、いや、俺になんて無理だろ……」
「無理でもなんでもやるしかない」
自分勝手なお願いだと思っているのか、有沢は辛そうに表情を歪めながら言う。
「第一、天権が誰かも分からないんだ。あの中は確かに、一つの世界が出来ていて広大なんだ。それを――」
「分かるはずよ、天権とはいわば特異点。その世界の異物だもの。義矩くんと同じ境遇にあるもの」
「…………!」
宮井公平。
あの少年は自分があの世界の管理者のような、ほのめかす発言をしていた。まさかあんな自分とあまり歳の変わらない男が……?
「選択の余地はないわよ。さあ、覚悟を決めて」
「無茶だ! アイツとは戦ったけど滅茶苦茶強いんだ! 敵うはずない!」
自分は既に一度、宮井に殺されている。無防備に行ってまた死んでもしたら……。またこの世界に帰ってこられる保証もない。その恐怖が、有沢を強引に振りほどき、彼女から扉から背を向ける。
「……義矩くん」
有沢は、震える響里の身体を背後から抱きしめた。
「異界に入れる――その時点であなたには資格があるの。聖傑に至る資格が」
「聖……傑……?」
「“聖なる結合、そして至る傑物の領域”。天権に対抗する能力者よ。彼の地にいる英傑と融合することで、義矩くんは唯一無二の力を得る」
「やめてくれって。もう頭がこんがらがって訳が……」
弱々しく呟く響里。有沢は冷たくなった響里の手を握りしめる。
「魂が惹かれ合う者と出会わなかった? 運命なんて言葉じゃ安い。心が揺れ、頭からその人のことが離れない。うずいて、焦がれて、猛って。五感全てが震えるような、そんな人に」
「――!?」
脳裏に真っ先に浮かんだその女性は、過去の日本から転移してきた。
源咲夜。
彼女は常に誰かのために、その刀を振るっていた。他人を守るためには自身の手をも汚して。戦いに身を置くものの宿命として受け入れ、強い覚悟を宿していた。
反対に、戦いに悲観的な響里を責めもしなかった。臆病だから、弱いからと逃げそうになる響里を突き離そうとせず、また鼓舞もせず。咲夜は、自らを否定せずありのままの響里でいろ、と優しく言った。
己の魂に従え――と。
その小さな背中に憧れ、響里は知らぬ間に源咲夜という女性を意識していた。
「そ、それは……」
「いるのね」
有沢は自分の方に響里を向かせ、穏やかな笑みと共に今度は両手で彼の頬を包む。
「英傑と触れ合いなさい。混ざり合いなさい。願いなさい、力を。そして戦うの」
「それが咲夜さんを救うことになるの……?」
にっこりと微笑んで、有沢は頷いた。
気になっていた。咲夜はあの後どうしたのか。日常生活を送っていても彼女のことが頭から離れない。昨晩の夢も、何かしらの予知かもしれない。
そのすべてが聖傑という資格のもののためなのか。
響里は頭を強く振った。
(――いや、もう一度咲夜さんに出会える。俺の心を救ってくれたあの人に)
響里はしっかりと有沢を見据え、力強く言った。
「行くよ、俺。聖傑だがなんだか知らないけど、あの人を助けたい」
「――うん」
有沢は響里から離れ、扉の横に立つ。少し寂しげな表情を浮かべているのは、半ば強行的に送り出した響里がもしかしたら死ぬかもしれないという罪悪感だろうか。そんなことを考えつつ、響里は扉の前に向かう。
厳かな音を立てながら扉が開く。光が響里を包んだ。
待ち望んでいたものを迎え入れるかのように、響里の身体は吸い込まれていった。