第六話 話の分かる快男児じゃあないか
「アナスタシウス、そろそろ家督を継いでみないか?」
鹿狩りから帰ってくると、父にそう言われた。
継いでみる、ということは気分次第でやめられるのだろうか。そんな疑問が頭をよぎったが、まあ、ちょうど伯爵になってみたいと思っていたから二つ返事で引き受けた。そろそろと言っても自分は二十代で、父もまだ一人で猪を仕留められる程度には元気であったから、嫌になってもどうとでもなるだろうという心持ちであった。
アナスタシウス・フォン・イガルギッター。
父の名であるヴァイゼの語感が好きであったから、我が名前から消えてしまうのは些か心惜しく感じるところもあった。代わりに入ってくるフォンというのがなんだか素っ気ない印象であまり好きではなかったのだが、使用人に「様になっておりますよ」なんて褒められれば不思議と悪いものでもない気がしてきた。
しかし、やはり領主というのはどうにも退屈だった。家臣団の小難しい話に適当な相槌を打ちながら、領のあらゆるを書面のみで動かしていくのは、私のような身体を動かしていたい人間にとって苦痛の極みであった。
世間は数百年ぶりに復活した魔王との戦争で大いに騒がしくなっており、戦の経験がある貴族は軍を指揮するために戦線へ行くよう命ぜられたが、幸いにして未熟な私を補佐するために父は出陣を免れた。せめて領の兵士たちを貸し出すようにと王家からの要請があったようだが、今まで不満なんて言ったこともなかった農民たちが一揆をおこし、治安維持のために戦線への出兵さえも断念する運びとなった。
父が商人から買い付けた異国の食べ物をご馳走してやると、一揆に参加していた総勢六人の男たちは満足して帰っていった。いい加減な連中である。
一度ならず二度までも頼みを断られ王家は怒り心頭。嫌われてしまえばタイヒラント候のように冷遇されて零落の道を辿るやもしれん。さてどうしたものかと思っていると、ある大貴族から交渉が持ち掛けられた。内容は単純で「これからの時代頼れるのは偉い王家じゃなくて頼れる親戚。助け合う代わりにうちの娘と婚約しませんか」というなんとも胡散臭い申し出であった。
人の弱みに付け込むなど言語道断。詐欺紛いな申し出など断ってしまえと憤慨したが、父が「美人な娘だったらお得じゃない」と笑うので、そういうものかと応じることにした。
「よくぞ来た。流石ヴァイゼ卿のご子息、話の分かる快男児じゃあないか」
詐欺師もといカッセルハイム伯は、やせこけた禿頭の老人で、大きな鷲鼻が特徴的だった。ハゲタカの異名は後ろ暗い噂が由来だと思っていたが、単に見た目がそうであっただけらしい。私は自らの視野狭窄を恥じて、改めて公平な目線からこの老人を見定めようと思い直した。
「面倒くさい話は済ませてある。君はとかく娘と仲良くしてやってくれ」
一度や二度に留まらず三度も問題を回避するとは、我が領は本当に運が良い。道理でのほほんとした父が領主をやれていただけのことはある。「人徳は運を引き寄せるんだよ」と言っていたが、私も他人を無下にせぬよう気を付けねばなるまい。
しかし、だ。
結婚というのは一生ものである。母はしきりに父の愚痴を他のご夫人方に漏らしていたし、父は側近に嫁が怖いと涙ながらに語っては慰められていた。夫婦というのは助け合うべきだろうが、やはり理想だけでは上手くいかないのが人間関係なのだろう。妻となる人がとんでもない性悪であったら、果たして私の心は平静を保っていられるだろうか。
そんな不満は、彼女を前にして簡単に吹き飛んだ。
「おい、挨拶しなさい」
「……………………ムート・ハイデマリー・マルテ・カッセルハイム。あなたと結婚するからムート・イガルギッターと名乗ればいいかしら。なんでもいいけど」
着せられているという感想が先行するぐらい、彼女といかにもあつらえましたといった感じの白い礼服は似合っておらず、本人も動きにくそうにしていた。
『高貴なる剣』の話は戦線から遠く離れたイガルギッター領でも広く知られている。似顔絵も出回っており、目にしたことも何度となくあった。貴族の血筋に生まれながら家を飛び出し、荒くれ者に囲まれながら勇者をやっている娘がいる。まるで酒場のホラ話みたいな筋書きだが、ムートこそがその娘だった。
「手合わせ願いたい。駄目か?」
「へえ。言っておくけど、手加減はしないわよ」
負けた。
父と同じく戦闘技術には自信があったが、勝ち筋がどこにも無かった。顔合わせはカッセルハイム伯の別荘で行われ、広い庭で三度手合わせして、三度負けた。あまりに痛快な敗北ぶりに私は爆笑し、彼女は呆れ、親愛なる義父は困惑していた。
強い。妻を選ぶにあたり、これ以上良い条件があるだろうか。才能に溢れ、才能を伸ばすだけの努力ができて、才能を昇華させるための計画性を持って行動してきたのだ。こんなに素晴らしい人間であれば、拒む理由などなかった。美人かもしれないという言葉に釣られてやって来たが、容姿の問題などどうでもよくなっていた。
「弱いのね。ゲヴァルトならもっとやれてたわ」
彼女が男の名前を口にした時、私の中にある対抗心が湧き上がった。
負けていられない。負けっぱなしでは彼女の伴侶としてふさわしくない。父はよく「何百回と負けても最後の一回で勝てればいいんだ」なんて真面目なんだかふざけているんだか分からない助言をしてくれていたが、その意味がようやく掴めた。
つまり、どれだけの難敵でもひたすらに経験を積んで勝てばいいのだ。
「そのゲヴァルトという男、君に勝ったことはあるのか」
「…………………………一度だけね」
一度。たった一度の勝利でゲヴァルトを超えられるのであれば、易いものだ。
まずはその男を超えてみせる。次に君を超える。いや、超えられるとは断言しないが、たとえ何百、何千という敗北と傷を重ねようとも、その果てに隣で並び立てるぐらいには強くなってみせよう。
などというのは言うだけ簡単だ。口先だけの目標を告げたとしても一笑に付されて終わりだろう。大切なのは行動だ。子供の時分から父には行動力が取り柄だと褒められ続けてきた。
経験を積まなければ。彼女たちに並ぶ経験を。
言葉を失っている義父へと近寄り、その両手を取った。節くれだった長く細い指は猛禽類を思い出させ、ますますハゲタカの異名が似つかわしく感じられる。
「お義父様、カッセルハイム方面の激戦区を教えていただきたい。準備が整い次第、私も参加させていただく」
「は、えっ、な、何を言っとるんだお前」
猛反対を押し切り、一人の騎士として戦争への参加を決めた。領へとんぼ返りして父に事情を説明すると「お前はいつも予想を超えてくるね」と困り顔をされたが、子供はいつか親を越えるものだ。妻を娶り、私も一端の男にならねばと改めて決意した。義父は護衛を付けるように勧めてきたものの、それでは自分磨きにならないと断った。
前線への出発前日、再び義父の所有する邸宅へ赴くと妻は私を見るや否や珍獣と出会ったような眼差しを向けた。旦那の顔を忘れてしまったのかと落胆を禁じえなかったが、仕方があるまい。これも弱い私にこそ責があるのだ。改めて自己紹介をすると「知ってるわよ」という返事を貰った。
「まだ式も挙げてないのに伴侶を置いて戦場へ行くなんて意味が分からない。これもヴァイゼ卿の計画なの?」
「父は息子夫婦の関係に口出しするほど不遠慮な人ではない。安心したまえ」
「…………なるほど。結婚までは言いなりになるけど共に暮らすのは我慢ならないというわけ。妻と離れるのはあなたなりのお父上への抵抗なのね」
抵抗なんてとんでもない。一揆をおこした農民たちでもあるまいし父への不満など微塵もない。強いて言えば、かのモルゲンブルグ候が如き勇壮さと威厳を備えていれば他方から侮られることもないだろうにと歯痒くなる時はあるが。
母も昔ほど口うるさくなくなったし、私が不在の間、悪事を企む輩に誑かされないか心配だ。
「我慢も何も、経験を積むために戦場へ行くのだ」
「はいはい、好きなだけ言い繕えばいいわ。こちらも自由にやらせてもらうし」
夜も明けたばかりで、遠くに並ぶ山嶺はまだ赤く染まっていた。木を組んで作られた家を背に、私たちは真珠色の空を写す湖の淵をゆっくり歩いていく。
妻は立ち止るとその場に屈み込み、拾い上げた小石を水面に投げ込んだ。広がる波紋は空の虚像に歪みを生み出し、覗き込む彼女の影が浮かび上がる。その表情はどこか虚ろで、もしかすると寒気で体調を崩しているのではと心配になった。
伴侶を気遣うのも立派な務め。家に戻ろうと提案するために口を開くも、先に喋り始めたのは妻だった。
「でも、いいのかしら。あなたがいない間に私がイガルギッターを乗っ取っちゃうかも」
彼女が我が領を?
私や父あるいは母を差し置いて?
それは、なんと。
なんと。
なんと素晴らしい提案だろうか。
「たとえ『高貴なる剣』であっても容易ならざる道となるだろう。用心するといい」
なにせあの領にいる人々はいい加減だ。良いも悪いも曖昧な態度しか示さない父や、何かと細かいが抜けている母、難しいことばかり言ってくる家臣団。気分次第で反乱を起こす農民の中には軍人を差し置いて農具を片手に自分たちだけで魔獣を狩ってしまう荒くれ者もいる。手なずけるにあたり苦労するのは間違いない。
我が領に付いて回る幸運が彼女にも与えられれば良いのだが。
「侮らないで。戦争が終わる頃にはあなたの居場所はないと思いなさい」
「妙なことを言う。私こそがイガルギッターであり、イガルギッターとは私だ。そなたがやがて全てを手中に収めるのであれば、我が居場所は当然そなたの隣にあるだろう」
別れ際、形容しがたい顔つきの彼女が棒立ちでいたのを覚えている。
それから私は戦争に赴き、強き男、強き伴侶、強き領主となるために戦い続けた。たまの休みに故郷へ帰り、示し合わせて王都から戻って来た妻と試合をすることもあったが、やはり負け続けた。
勇者フランツが現れて戦況が激化していくに伴い、帰郷の機会は減少し、残念なことに手合わせも難しくなってしまった。
残念ながら、戦争が終結した今も私は彼女に相応しい伴侶であると証明できていない。
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王都の門は、貴族とその側近たちによる怒号と抗議でかつてないほどに荒れていた。哀れな守衛は弱々しく宥めるばかりで、彼らの間にまともな交渉など存在していない。
華美な礼服や厳つい鎧をかき分けて我らが伴侶の姿を探しているのだが、どうにも見当たらない。ちょっとやそっとの喧騒に埋没するような人ではないのだから、少し歩けば見つかりそうなものだが。
「アナスタシウス、妻はどうした!」
背後から不躾な口調で呼び止められ、この忙しいときにと顔をしかめながら振り返ると、面長の男が私よりもはるかに怒気を露にしながら立っていた。
「ドミニク閣下。私も彼女を探していたところなのです」
彼はタイヒラント領の伝統的な悪態を吐き捨ててこちらににじり寄る。
「あの女に伝えておけ。ドミニク・フォン・タイヒラントは自領へ帰り、軍を整えて戻ってくるとな。王家の威光を汚しあまつさえ侯爵家さえも愚弄したクソベルトを許しはしない。王都のエーアスト通りにあの暗愚のはらわたをぶちまけてくれるわ!」
凄まじい剣幕だ。可能であればすぐにでも王城へ赴き、腰からぶら下げている短剣で国王陛下の脇腹に突き立てそうな勢いである。
いや、かの貴人はすでに国王の位にあらず、書類上はゴルトオヴァール領の主に過ぎないのだったか。
私と義父の連名で主催した勇権会議は、概ね妻の目論見通りに終わった。王都の家臣団は各領での再就職に関する密約に応じ、最大の敵であったモルゲンブルグ候は国王の安全を確約するのと引き換えに我らの支持者となり、ザイテドルフをはじめとする有力貴族諸家はこれに追従した。唯一タイヒラント候だけが最後まで難色を示していたが、義父の説得でことなきを得た。
そうして全会一致でギルベルトの王位はく奪が決定したのだが、問題はそこからだった。
この結果を不服としたゴルトオヴァールの領主は領軍を出動させ、会議に参加していた貴族諸家とその側近たちを王都から追い出したのだ。側近の中には武芸に秀でた者も少なからずいたために一触即発の空気となる場面もあったが、どうにか無血のままでここまでやってきた。
陰謀家の企みを砕くのはそれを理解していない人間である。愚か者ほど度し難いとはこういうことらしい。
「暗愚の暴力と専横を許すな!」「王家の風上にも置けぬ無頼の徒、ギルベルトを殺せ!」「砂糖菓子をもっと甘くしろ!」
「ゴマ擦り翁も大変ね。これで名実ともに王家の命運は絶えたわ」
いつからか、妻が隣に立っていた。
大衆に向ける素敵な笑顔は誰の目にも止まっていない。勿体ないと思う反面、私だけが独り占めしているのだと思うと面映ゆい気持ちもあった。
「タイヒラント候が自領へ戻られるそうだ。兵を率いて……」
「聞いてました。面倒くさいからあなたの影に隠れていたの」
「いつの間に」
相も変わらず期を逃さない人だ。
勇者フランツが帰って来たとの報せが届いた時も、彼女の判断は迅速だった。
当初の計画ではゲヴァルトが王都へと帰還した時点で勇者一行を確保し、彼らを利用して王を糾弾する予定だったのだが、諸般の事情でそれが叶わなくなったと悟った妻は勇権会議なるものを開くと言い出した。悪人を罰する証拠を提示できないなら、多数の賛同を得て罰を正当化しようというわけである。
会議の名前である『勇権』は、勇権王授説に由来する。
王家の王家たる所以は民草から勇者を見出すことにあり、逆にフランツを追放しようとしたギルベルトひいては今のゴルトオヴァールにいかなる政治的正当性も認められないというのが妻の主張であった。
貴族諸家は大義名分と未来に生じる新しい利権に食いついてきたが、ギルベルトが暴挙に出たことで今日までの努力は水泡に帰したかに思えた。
「イガルギッター領へ伝令を。タイヒラント候に先を越される前に派兵するよう手配してください」
「そなたはどうする?」
「お父様に掛け合いますわ。いい、アナスタシウス。王都を封鎖している今の王国軍はゴルトオヴァールの平民隊で構成されていて、練度も知識も足りていない弱兵ばかりです。そしてこれからカッセルハイム伯の呼びかけで貴族諸家は連合軍を結成し、足並み揃えて、よーいどんで王都へ進軍するようになります。あなたと部下たちの活躍次第で今後の王位争奪戦が決するのです。なので、イガルギッターからは選りすぐりの強者を派遣するよう申し伝えてください」
つまり、すでに妻は未来を見据えているようだ。
それなりに夫婦生活を続けて判明したのだが、我が伴侶はとても賢いようだった。彼女は誰よりも早く一歩先に生じる問題について考察し、制御し、自分の最も望む結果を手繰り寄せては、まるで預言者のように振舞うのを好んでいる。そして意地悪な冗談を言って、人が困る様を見て楽しんでいるのだ。
私がどうするか尋ねると、必ず計画が用意されている。世間一般で考えれば褒められる部類の人間ではないが我らには必要不可欠な存在だ。
ムート・イガルギッターこそ、我が生涯の導き手なのである。