第三話 君が噂の作家先生か
ルートヴィーヒが国を興して以来、王国には無数の物語が生まれてきた。
原初の悲劇たる『建国神話』に始まり、若者たちの瑞々しい恋が領を巡る一大騒動に発展した『カッセルハイムの恋愛事変』や王家の悲運な嫡子の運命を描いた『物乞い王子の流離譚』、平民の何気ない日常を面白おかしく描いた『水玉とヴェンデ』。
それは人々を戒める寓話であり、胸を打つ神話であり、紛れもない実話である。
吾輩は劇作家として膨大な物語に携わってきた。
深く共感することも、学びを得ることも、憤りのままに用紙を破り捨てたこともあったが、我が生涯において最高傑作と形容しうる作品と出会ったことは無い。
とある勇者の栄光と追放を描いた『再来』ですらも、よかれと思って描いた幸福の結末は形を得た途端に陳腐となり、執筆当初に漂わせていた非凡な気配は久遠の彼方へと消え去ってしまった。ええい、これならばいっそ勇者は追放されたままのほうが良かったではないかと怒りに震えたが、冷静に考えてみれば平凡な悪しき結末は平凡な幸福の結末に劣るものである。
つまり、題材が悪かったのだ。
優れた物語は優れた題材にこそ宿る。
まことに遺憾ながら、簡単に見つかるものでもないというのが難儀である。
「おはようございまーす。手紙、読んでいただけましたー?」
こちらは寝起きで瞼もまだ重たいというのに、相手は元気一杯ときた。
明らかに脇役が適任であるといった顔つきのギルド長が、吾輩の館に来訪して開口一番に質問を浴びせた。この者を題材にしても面白みのない脚本しか描け無さそうだ。没!
「…………ホルン、本当に侯爵様は手紙を書いてくれたのかしら。ヴィルヘルム先生はなんだか怒ってらっしゃるみたいだわ」
小声で話しているつもりだろうが、丸聞こえである。
劇場の支配人として、職員や俳優を統括する以上はいかなる小言も聞き逃さない。それは吾輩が若い頃から心掛けていることである。
主役とするには気構えも人間的成長も望めなそうな赤髪の魔術師はびくびくしながらこちらの機嫌を伺っている。深堀りすれば波乱の一つや二つは見つかるだろうが、他人に依存することでしか生きていけないような人物は相応しくない。没!
「俺までここに泊まる必要はねえだろ。安宿のぼろ寝台のほうが寝付きも良いだろうしな」
鎧を身に着けた短髪の中年男が大きなあくびをする。
英雄と言えば荒くれ者であるのは常道だ。経歴を遡っても申し分ない逸話がいくらでも出てくるだろう。なにより荒っぽい物語は老若男女を問わず好まれやすい。
しかしこのくたびれた傭兵の裏には吾輩の埒外な陰謀家が睨みを利かせている。下手に関わればエライことになるであろう。没!
「吾もどこでもいい。フランツが近くにいるなら」
「腕に絡むな。その上目遣いをやめるんだ。こらっ、はしたないだろう!」
「知らない。約定のほうが大切」
「がーっ!」
ううむ、没。
「ユーリエもアルケーもはしゃがないでよ。人前なんだからさ」
女と少女が声をそろえて「はしゃいでない」と反論すると、金髪の男は苦笑した。
勇者フランツ。
どこぞの田舎者にも関わらず復活した魔王を打ち倒し王国を救った英雄。新しき国の象徴であり、今後百年は都から農村の家庭まで広く謳われ続ける伝説となるはずだった人物。
そして今代の国王に疎まれて、一度は誰も知らぬ土地へと追放された人物でもある。
不可思議な運命が多くの人々を導き、勇者は王国へと帰って来た。初代勇者でさえ成し遂げられなかった偉業を目の前の平凡な青年は果たして見せた。純粋な願いが陰謀に勝利する素晴らしい結末だった。
だが、やはり主役とするには足りない。どれだけ経歴を漁っても、この者の原動力が見えてこないのだ。酒も女も興味なし。休日は鎧磨きや鍛錬にばかり興じており、観客が共感しうる動機が分からない。うすっぺらい登場人物は物語もうすっぺらくしてしまう。
没。
「……貴様らのことはジークから聞いておる。玄関先で喚くな。さっさと入れ」
その手紙は、旧友ジギスムントから数日前に送られて来た。
英雄が帰還したことで追放を目論んだ国王の所業が明るみになった。これを処断するために各地から有力貴族共が王都に集い、勇権会議とかいう偉ぶった名前の話し合いがされることになった。
要するに、貴族の連中はやらかした国王を玉座から引きずり降ろそうとしているのだ。
王国でも三人しかいない侯爵の位を持つ旧友も招待を受け、都へと出向いている。この間に勇者フランツ一行を館へ滞在させよと、まあそんな内容であった。
吾輩の館は宿舎でも何でもないのだが。
「あ、侯爵様から伝言ですよー。『お前とホルンしか信用できん。頼むぞ』だそうでーす。それじゃ!」
若きギルド長はへらへらと笑いながらやたら滑らかな動作でその場を後にした。どう見ても厄介ごとを押し付けられてせいせいしているといった具合だ。
全く、我らが友が帰ってきた暁には晩酌に付き合ってもらわねばなるまい。
幸いにして、元は侯爵の妻が使う別館として用意されていた我が館は広く、念のため使用人には暇を出している。五人ぐらいであれば収容は難しくない。
「おい、勇者の使い。あの女児はなんだ。勇者の子か?」
「そんなわけっ……ええと、フランツが道中で保護した難民です」
なるほど、だからあの青年によく懐いているわけだ。
魔人との戦争が終わって数年、家族を亡くした平民の話は枚挙に暇がない。
王国は古くより孤児を手厚く保護する取り組みを続けてきたが、やはり完璧とはいかないのだろう。そういえば赤髪の魔術師も孤児院の出身ではなかったか。
「わわ、こういう置き物は高級だから落とさないように。いいわね、アルケーちゃん」
「分かった。気を付ける」
「ねえ、私の時と対応が違くないかな?」
やかましい。
喜劇の一場面を切り取ったような喧噪だ。これでは新しい劇の脚本を執筆するどころではない。これから人生で最高の傑作を生みだそうというのに集中できない。
若い頃にも、こんなふうに憤りながら原稿と向き合ったことがある。
あれは王都で学生をやっていた頃だ。
成り上り商人だった親に無理やり王立学校へ入れさせられた吾輩は、魔術の勉強や、貴族の子息らとの政争ごっこに微塵も興味がなく、毎日仕送りの金で買った原稿用紙と格闘していた。書いた小話を新聞社に寄稿して小遣いを稼ぎ、なんとか学費と生活費を賄う日々だった。
部活動にも所属せず、自前の木版と原稿用紙を持ち寄って、指に瘤ができるほどに筆を握り締めていた。同年代の者たちと関わろうなどとは考えもしていないかった。
「なあ、君が噂の作家先生か」
その青年が話しかけてきたのは、校舎の中庭の一角に腰かけて、殴ることしか知らない魔術師の喜劇を執筆しているときだった。
取り巻きは見るからに劇のげの字も理解していないような連中で、吾輩の校内における振る舞いをひとしきり揶揄した後に帰っていった。その後少しして、彼一人だけが戻って来た。
無視を決め込んでも意に介さず、青年は吾輩の横に座ると、原稿を覗き込んできた。
「先ほどはすまなかった。彼らと君とで重きを置いている場所が違うんだ。許してやってくれないか」
正直に言えば、有象無象が絡んで来ようとどうでもよかった。
この手の活動に無理解はつきものだ。その道を選んだのは自分であったし、他人に何を言われようとも今さら気にすることは無かった。
だが、吾輩は無性に腹が立っていた。くだらん貴族共にではない。自分は善人ですという面で平然と他者の悪意を謝罪するその青年が気に食わなかった。吾輩が「詐欺師め」と呟くと、彼は目を白黒させていた。
「あの連中は誰も謝意を示すつもりはないし、貴様もそれを知っている。その謝罪は自分を善人に見せたいがための身勝手な行いだろう。不愉快極まりない。帰れ」
貴族という生き物はおしなべて存在しない権威を後生大事に抱えて下劣な格式とやらをありがたがるものだ。雑な扱いをすれば帰っていくと思ったが、隣からはくすくすという押し殺した笑いが聞こえてきた。
「気鋭の若手作家ヴィルヘルム。どんな破天荒な人物かと思ったが、なんだ、きちんと人間というやつを見てるんだな」
「……見ていなければ、物語など書けるものかよ」
「それも道理か」
青年は吾輩の目の前に手を差し出して「ジークと呼んでくれ」と言った。
それがジギスムント・ギュンター・モルゲンブルグとの出会いだった。
モルゲンブルグ候の長子だったジークは歯に衣着せぬ物言いをする吾輩を気に入り、事あるごとに絡んでくるようになった。多くの場合は学友を引き連れていたが、回数を重ねるごとに、彼らの間からは吾輩を揶揄するような発言は消えていった。むしろ、おおよそ似つかわしくないような古い文献を引用して、真面目に吾輩の作品を論じる姿勢まで見せ始めた。
これら目まぐるしい変化の裏側に侯爵の息子が関係しているのは明白だった。
珍しく一人でやって来たジークを問い詰めると、彼はあっさり白状した。
「彼らは味方であることを示すために俺の真似をしたがる。だからいろんな本を読むそぶりを見せて、彼らが自主的に教養を深めるように誘導したんだ。今じゃ学級のちょっとした流行さ」
「なぜそんな真似をする」
「君と同じだよ。侯爵の息子は魔術の勉強をするためにここへ入学したわけじゃない。人の使い方を学ぶために入学するんだ。つまりこれは、ちょっとした実証実験ってわけだ」
「物語がどれだけ人の心を動かすか、のね」と語り、ジークは木版の上に重ねられた原稿を指で叩く。
馬鹿げている、と思った。
青年自身が言ったように、彼らが教養を深めているのはその先端に侯爵の息子がいるからだ。これが物語である必要はどこにもなく、吾輩が出汁にされているようで不快だった。内心を表明すると、彼はいやいやと手を振った。
「誰もが権威に盲従するなら、とっくに生徒たちは偉大な先達を見習って優秀な魔術師になっているさ。だがそうはならない。どうしてだと思う」
「…………勉強がつまらんから?」
冗談だったが、ジークは「その通り」とため息を吐いた。
「嘆かわしいが人は退屈なものに容易く靡かない。俺が瓶底眼鏡をかけて真面目に魔術を学んでも、彼らは勤勉な態度を褒めそやすだけで勉強机にかじりつこうとは思わないだろう。つまり、きっかけがなんであれ、彼らは楽しいから物語を嗜んでるんだ」
「ここでヴィルヘルム君に質問です」と言って、彼は人差し指を立てた。
「もし、これらの物語を生身の人間が演じる場所があればどうなるでしょう。それも王国で最も規模の大きな施設を建てるとしたら、どれだけの人が集まると思いますか?」
「まさか…………演劇のことか?」
ジギスムントは骨の髄まで領主の息子だった。
山間の積雪地帯であるモルゲンブルグは観光資源に乏しく、王国の端に位置する関係上商人たちも交易路に選びたがらない場所だ。領を発展させるには外部から収入を引っ張ってこなければならないが、お隣のカッセルハイムが商業都市として成功している都合上、同じ路線は受けない。だからこその芸術、だからこその演劇。領都を王国有数の文化先進都市へと進化させるのだ。
そのために、まずは人がどれだけ物語に惹きつけられるのか確かめているのだという。
これがジークの主張だった。
「貴様、創作をそんなことに利用するなど……!」
原稿が地面に散らばるのもお構いなしに吾輩は立ち上がった。木版の角が土に激突し、小さなくぼみを作っていた。
胸ぐらを掴まれた彼は、真面目な顔でこちらを見つめている。
「くだらん講釈やちんけな学友は見過ごしてやったが、こればっかりは我慢ならん。物語は数多の人々を喜ばせるためにあるものだ。政治や金稼ぎの道具に利用するなど言語道断。唾棄すべき所業だ!」
怒りに満ちた吾輩と違って、ジークはいたって冷静であった。
その冷徹な眼差しを受けて思わず手を離すと、彼は静かに散らばった原稿を拾い始める。場違いであるはずなのに、笑いそうになってしまった。平民の子が貴族の、しかも侯爵家の長子を見下ろしているなんて、こんなことがありうるだろうか。
「君は賢い。人間を綴るために必要な観察眼を備え、浮世離れしているようで現実を直視している」
一枚残らず集め、最後に木版と重ねると、彼は原稿をぺらぺらとめくった。
「だから頭の中で考えた貴族の醜聞を文にしたためて、新聞社に寄稿することで学費を稼いでいる。創作に耽溺しているだけでは生活できないから、書きたくもない低俗なホラ話で金を得る他ない」
「貴様…………っ!」
「書きたいんだろう。もっと人々の喜ぶ物語を」
目の前に原稿を突き出されてたじろいだ。そこには何度も書いては破り捨てた英雄の物語が詰まっている。心躍る冒険譚が躍動しているのだ。
なにより、その原稿を持つ彼の指に、吾輩と同じような瘤があるのにたじろいだ。
「俺には無理だった。だが君にはその才能がある。人が集められることは分かったし、実現するだけの金と計画がこの頭の中にあるんだよ。ヴィルヘルム、俺とモルゲンブルグに来い」
どちらが先なのだろうと、疑問を抱いた。
金儲けがしたくて物語に目を付けたのか、あるいは物語が作りたくてその方便に金儲けを選んだのか。分からない。分からないが、偽りだらけの王立学校において、彼の指にあった瘤は確かに本物だった。
くだらない感傷だ。
物書きにとって最も不毛とさえ言えるだろう。過去を参考にするでも批評するでもなく、ただ意味もなく浸るなど時間の無駄だ。
若き日の思い出など誰にでもある。自分だけの特別な記憶など客観的に観れば特別なことは何も無い。それを文章として構築し、誰もが共感できるようにしてこその物書きである。
「この椅子ふかふかで気持ち良い。動きたくない」
「あまり人様の家でくつろぐものじゃ……本当だ、気持ち良い……」
「おいフランツ、お前の幼馴染どうにかしろ」
「え、いやいやここは友達としてキュナスがどうにかするべきでしょ」
「そ、そうなの? そうかもしれないわね。あたしがどうにかするわ」
「冗談だよ。ねえユーリエ、君もそろそろ……うわ、寝てる……」
ギュンター侯爵が死んだ後、領主の称号を受け継いだジークは本格的に領運営の改善に乗り出した。吾輩は劇場の支配人などという役職を任され、右も左も分からない状況で蝋燭の火を何度も灯しながら仕事をしたものだ。
若い頃のあやつも吾輩もとかく意欲的で、目の前でじゃれ合っている連中など比べ物にならないほどに行動的だった。
だが、それでも思い出さずにはいられない。
我々であれば成し遂げられるという無根拠の自信を抱いていたあの日々のことを。
若さと活力を燃料に情熱を燃やしていたあの日々のことを。
そういえば、あやつを主役に据えようなどとは考えたことも無かった。気に食わない貴族の一人であり、長年の戦友でもあるジギスムント・フォン・モルゲンブルグを。
やることは決まった。物語は記憶の引き出しを開ければいくらでもある。数え切れない悲劇や喜劇がこの地に眠っている。そうだ。物書きとは、大衆の代弁者とはこうあるべきなのだ。
厄介な客人を意識の片隅に追いやると自分の部屋へ駆け込んだ。
筆はどこだ。白紙の原稿用紙は?
生涯最高の傑作を書き上げる機会を、逸してはならない。