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第三外国語的サディズム

 僕はもうずっと遅刻常習者で、何度かドタキャンもやってしまったこともある。これでも約束を破ることには人一倍抵抗があるつもりなのだが、問題はその抵抗が強すぎることにあるようだ。

 たとえば僕の場合、まず約束よりも十分ほど早く到着できるように出発時間を決めて、さらに出発する一時間前には着替えなど諸々の準備を済ませ、そうしたら後はソファに座り込んでじっと待機する。このときは何の暇つぶしも手に付かず、数分おきにスマホの時計を確認しては、段々行きたくなくなり、行こうか行かないか迷っているうちに、とっくに予定の出発時刻が過ぎて、結局大幅な遅刻やドタキャンを引き起こしてしまうのだ。

 人は死ぬとき、大量のアドレナリンを放出して恐怖をかき消すように体ができているそうだが、この「やってしまった」状況においても多少それが適応されるようで、すると僕は急に安心したような気がして、スマホを眺めだしたりしてしまう。脅迫性のリラックスで体が勝手に寝転がってしまう。

この前遅刻した日に、ネットニュースでこんな記事を見つけた。


『女王様自殺 奴隷に逃げられ』

 十日午前十時ごろ、山梨県甲府市のマンションで、アパレル会社に勤める三十代女性がベランダから転落し、同日昼ごろ、市内の病院で息を引き取った。山梨県警の調べによると、女性のメッセージアプリに当時同棲していた二十代男性からの離別を示唆する連絡が入っていたことが確認された。死亡した女性と男性は日頃から軽度のSMプレイを嗜んでいたとみられ、M役だった男性はそのときの内容に不満があったと証言している。警察は詳しい内容を明らかにするべく捜査を続けている。


 そして読み終えると、渋々外へ出たりしてみる。行きたくはないが行かなくちゃいけない、その相反する気持ちで頭が白んで、せっかく出かけたとしても、遅刻の日には大抵いいことが起こらない。余計行きたくないが、歩きだしてしまえば、惰性にそれを止めるだけの力はないのだった。

 玄関を出てすぐ、太陽が出迎える代わりに向かいの家が火事だった。見る者の生気を吸い取るように燃え盛っている。消防車は到着しておらず、木材の破裂する音が繰り返すと途端に天井を吹っ飛ばして炎の背丈が増大した。火事は一層輝いて、昼間の周囲をまるで暗くみせるのだった。

「うわあ、きれい……。」

 そう呟いたのも、何を隠そう僕は火事が好きだった。焚火が綺麗なのに火事が綺麗でないことはないだろう……いや、脅威になる火なのか、照らして人を守ってくれる火なのか、その違いは大きいだろう。

「アナタ今なんてこと……ううっ、見るな! ウチに寄るな! どっか行ってください……あああ……。」

「ああ、ええすみません。」

 たしかに脅威になるかどうかは重要な観点かもしれないが、そもそも脅威であるのと綺麗であるのは違う次元の話のはずだ。もちろん僕は火事を危険なことだと分かっているが、同時に綺麗だとも思っている。僕は火事について、脅威と綺麗を平行して知覚している……それは中二病ってやつだ。何かの体裁が欲しいあまり、一方の観点を疎かにし過ぎている。それもリスクを省みない最も愚かなケースだ。我ながら呆れてしまうな。

「お前が……、お前が燃やしたんだろっ……! 返せ! アタシのウチを返せ……早く!」

「だから違いますよ。本当にさっき言ったことは謝りますから。」

 リスクって、こんなこと言ったらあれだけど他人の家だよ。自分の家なら困るだろうけど、他人の家が燃えるのがそれと同等のリスクだとは言えない……それも中二病だ。他人の不幸でも共感して、一緒に悲しんでやれるのが人間じゃないのか。共感してさえいれば、火事を綺麗だなんて感動する余地はなくなるはずだ。薄情を気取るなんてすぐにやめた方がいい……なんで火事が綺麗くらいのことを素直に認められないんだ。個人の感想じゃないか……火事が綺麗だと主張することで陶酔しているてめえに腹が立つんだよ……そんな。僕は本心から火事が好きだよ。

「誰か……! コイツです! コイツです! アタシのウチを燃やしやがった! 捕まえてください! お願いします……燃やされたんです……!」

「やめてください。僕は違いますから。もう行きますよ。」

 ……本心ねえ。じゃあ一体オレはてめえの何なんだろうな。

 僕は走って火事の現場から逃げ延びた。家から一歩踏み出しただけでこの始末である。バチが当たったのだろうか。そうだとしたら、あの家は僕の遅刻を懲らしめるためだけに燃やされたのだろうか……これ以上の問答はやめよう。今日はただでさえ遅刻で頭がおかしくなっている。とりあえず目的地までは、到着することだけに注力するべきだろう。

 約束の時間から一時間が経過し、僕はやっと電車に乗って移動していた。混んではいるが、打って変わって騒がしさとは無縁の車内である。

 僕の隣に座っていた男が、使い捨てマスクの下でブルーベリーガムを噛んでいた。ガム特有のキツイ香りで、過剰な人口甘味料の酸味がこっちの口にまで幻覚しムカムカしてくる。味はあるのに噛むものがない。そのもどかしさが、歯茎に埋まった神経部分をくすぐっているようで、狭苦しい横掛けの席に収まったまま、僕は静かに悶えていた。

「……(ガムを噛む音。マスクごしであっても粘着質な音が車両内に響き渡る)。」

「……(ガムにイラつく僕の呼吸音。憂さ晴らしなのか、普段より鼻呼吸が太い)。」

「……(ガムを噛む音。マスクのせいで息苦しそうに、さらに咀嚼音が大きくなる)。」

「……(ガムにイラつく僕の呼吸音。耳の真下にある、顎骨と首の隙間あたりに曲げた人差し指を押し当て、ストレス解消を試みる)。」

「……(ガムにイラつく、僕の前に立っている別の男の呼吸音。僕のマッサージをマネして、他にも目線なんかで共感を求めてくる)。」

「……(僕はまぶたを絞って小刻みに首を振り、目の前の男に共感を返した)。」

「……(男は満足そうに頷き返してから、恨めしそうにガムマスクのことを一瞥する。僕たちはまた他人の乗客同士に戻った)。」

「……(ガムを噛む音。停車駅のアナウンスにいち早く席を立ちあがると、急にマスクの紐の片方を外し、顔をこちらに向けて口角だけで笑った)。」

 見る者を金縛りにする不気味な笑みだった。

「……(僕は笑みに対し睨みを利かせた。金縛りは強がりも要さない絶好のハッタリだった)。」

「……(睨むにしたがって、口角のつり上がる速度がねり飴的に加速していった。最高の笑顔からゆっくりとかけ離れていく)。」

「ドアが閉まります。ご注意ください。」

 とうとう男が降車することはなかった。紐を掛け直して笑みをマスクの奥にしまい、一時休戦ということでまた僕の隣に座りなおした。相変わらずガムのにおいが煩わしかった。以降、僕は五駅連続で笑みとにらみ合いを重ね、遅刻からドタキャンを決めた。

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