「虚無への供物」と「岸辺のアルバム」
初めて使うサイトなので、始まりに随想録を。
先週、多摩川まで行ってみた。
現在住む西荻窪から2時間程で歩き着けると知り、せっかく有給をもらって出かけないのはもったいない、再来週にある会社の健康診断のため少しでも痩せたい、というのが動機だった。
目的としては、最近CSの日本映画専門チャンネルで「岸辺のアルバム」を全話観終わったからだ。
近いと判ってから、最初の休み、あいにくの雨、だが、こんな小雨混じりの日こそ、あのTVドラマの聖地巡礼と相応しいと思い切って出かけた。
私が1973年6月の生まれで、「岸辺のアルバム」はTBSで1977年6月から全15話で放映された。
幼稚園入園の前の年であるのだが、どうも当時視聴していた気がする。
今でも鮮烈に憶えているが、テレビ朝日で放映されていた22時から「特捜最前線」という刑事ドラマを親から「明日から幼稚園が始まるからこれからは『特捜最前線』を観ないで早く寝なさい」と云われた。
かなり宵っ張りの子供だったのは間違いなく、「岸辺のアルバム」も金曜に観ていた記憶が薄っすらとある。
でも記憶の捏造の可能性もあり、当時10時からTBSには「三井奥様劇場」という再放送枠があり、夏休み・冬休み等の長期の休みや病欠の時にこの枠を観るのは愉しみにしていた。
それが幼稚園から小学校までの期間なので、その枠で観た可能性もかなり高い。
それから小学校高学年だかひょっとしたら中学の頃かもしれないが、TBSドラマ史を紹介するスペシャル番組があり(TBSを代表するドラマとして「ウルトラセブン」最終回でダンがアンヌに告白するシーンが選出されていたのを観て嬉しかった記憶がある)、一位に「岸辺のアルバム」が選出され、ダイジェストだか50分丸々だか、ともかく一位に選ばれたのでその最終回が番組の終りに流された。
ホームドラマにして最終回、家族が住んできた家屋が堤防決壊し、濁流に吞み込まれるというシーンはインパクトがあり、その記憶だけが残ってしまったようで、後年大学の頃、脚本家自身による原作小説(連載は76~77年)を読んでみた。
それでスジは追えたのであるが、かなりキツい展開、強姦と不倫があり、これは確かに子供にはピンと来ないものなのだが、後年「特捜最前線」のサブタイトルリストを見たら「レイプ」という単語がやたら並んでいて、よくもまぁ、入園前の幼児が観ていたものだと嘆息したものだ。
西荻窪に移住した折に、ルーターをフレッツ光からジェイコムにしたのだが、ついでにケーブルTV経由でTVを観ることになったのだが、2年くらい経ってようやく気づいたのだが、CS放送も観られるのだ。
無料のものも多かったので、観るべき・録画すべき映像作品がかなり広がった。
最近私は子供の頃、全話視聴していなかった映像作品をなるべく観ようというムーヴメントが発生して折、このCS導入により、「おしん」「男はつらいよ」「刑事物語」、それに石黒版「銀河英雄伝説」をようやく通しで観ることに成功した。
その一本として先週「岸辺のアルバム」全15話を観ることを完了したのだが、これが想像を超えた面白さだった。
山田太一を認識したのは、「ふぞろいの林檎たち」シリーズで、第4シーズンまで全部熱心に観たものだ。
連続TVドラマからスペシャルドラマに軸足を移しても放映されれば必ず観て、そのシナリオにいつも唸らさられた。
最近BSトゥエルブだかで、「早春スケッチブック」と「思い出づくり」という代表作が観られて、つくづく山田太一の巧さに舌を巻いたものだ。
それと同じく「沿線地図」を観たのだが、こちらは氏の作品として少々落ちる。
「岸辺のアルバム」の2年後に製作された「沿線地図」は次回予告にも「あの『岸辺のアルバム』を上回る家族の悲劇!」と惹句されていたので、当時、TBSと山田太一が「岸辺のアルバム」以来に組んできたし、スタッフもかなりかぶるから、意気込みはあったのだろうが、上滑りの感がある(海外の女性アーティストを主題歌に据えるとかも同様)。
いや、それだけではない、「岸辺のアルバム」は「ふぞろいの林檎たち」や「思い出づくり」と比較しても一頭地を出ている。
並び賞される「早春スケッチブック」ですら「岸辺のアルバム」に比べると説明やよけいなエピソードが目に付く。
本当に冴えていた頃の法月綸太郎は、名作に懐疑的視点を持って、何故にその作品が名作なのかを見事に分析した。
あのくだらないトリック(?)が酷過ぎるのになぜ「ウィチャリー家の娘」はロス・マクドナルドのリュウ・アーチャーものの代表作であるにとどまらず、ハードボイルドミステリの代名詞になったのか、然り、Yやエジプトといった超弩級の名作があるにも関わらず、何故にクイーンの自作ベスト1にチャイナをフレデリック・ダネイは挙げたのか、然り。
45年前に観た「岸辺のアルバム」を今回通して視聴し、「コレって、アレだよな」と「岸辺のアルバム」がなぜ名作なのかが判ったような気がしたので、この稿により、それを解き明かそうと思う。
突然だが、私は野島伸司・天童荒太・東野圭吾といった強姦を売り物にしている作家が大っ嫌いだ。
それなのにこの3人は国民作家なのだから、日本国民は全員強姦が好きなのではないかと首をかしげたくなる。
それなのにクジラックスを愛読するオレたちを汚いものを見る目つきで見るのだ。
おまえたちの方こそ!と私は不動明のように叫び出したい気持ちだ。
それで、「岸辺のアルバム」も中田嘉子演じる長女の律子が強姦されるシーンがあるので、イヤだなぁ、と思ってみたのだが、そのプロセスに妙なものを見出した。
八千草薫演じる母・則子を嫌ったり・バカにしたりはしていないが、専業主婦に甘んじる母を疎ましくは思っている律子。
自分が大学卒業して、そんな平凡になるのが許せないキャラなのだ。
それで律子は、英会話サークルを立ち上げたり、田舎娘の山口いずみの世話を焼くのだが、山口いずみは実は大金持ちの令嬢で、海外留学経験もあり、律子を笑う。
逆上する律子だが、自分とは違う世界を知る山口いずみが気になり、彼女から、飲酒・喫煙・同性愛を教わる。
その山口いずみが又海外留学に行くことになり、「私の代わりよ」と紹介されたのが、白人青年である。
で、図式的に律子が性暴力の被害に遭うまでを順序立てると、
白人青年と同じバイト(英会話が必要なテレアポ)を始め、半同棲状態となり、肉体関係を持つようになる
↓
食事を作ったり、身だしなみを言う律子を疎ましく思うようになる白人青年
↓
白人青年の部屋にいつものようにやってくる律子だが、そこには彼はおらず、代わりにガタイのある別の白人青年がいた
ガタイのいい白人青年は律子に「次は俺が前の奴の代わりになる」と言う。
それは魅力があるから律子は強姦されたのでなく、奥さん気分になった日本女を対処するようなものだ。
おそらく山口いずみの令嬢もそのような在日白人の共同体にコミットしていただと思われる。
ここでは代行が連鎖していく。
実はこの回を観て、八千草薫演じる則子の浮気、というのもこのような代行のメカニズムが作用していると気づいた。
子どもたちは学校へ、夫は会社へ行くと家事をこなす則子だが、その家事する則子の姿は八千草薫が演じているのに、どこか侘しい・物悲しい。
そこにかかってきた電話は、竹脇無我演じる北川というサラリーマンからのもので、内容は「奥さんに一目惚れした」というもの。
貞淑な妻であり、母である則子が北川と直ぐに一線は超えないものの、惹かれてはいく。
そのトリガーには娘・律子と同じような構造が見受けられる。
原知佐子演じる時枝は、則子の夫の同僚の妻。
ようやく義母の介護から解放されたと思ったら、自分も大病を患っていたことが発覚し入院中だ。
同じものを時枝に見たのか毎日お見舞いに行く則子。
北川とのプラトニックな関係も時枝にだけは話した。
そして時枝も、大学生の愛人、つまり金の関係であるツバメがいることを則子に打ち明ける。
最早死相ある時枝はつまらない人生の中で、あの男を買った自分だけは誇れる、と則子に遺言のようにつぶやく。
則子は時枝に従い、自分が死んだことをその若い愛人に告げてくれと頼まれる。
そして北山と渋谷のラブホテルに消えるまでの経緯はこうだ。
場末のバーで若い愛人(穂積ペペ)と会う
↓
穂積ペペは則子に「あの女が死んだから次は奥さんの番だろ」と手を握ってくる
↓
則子、逃げ去る
その次の回で北山と渋谷のラブホテルに消えるのだが、ここでも時枝の代行という律子の時の同じシステムが作用している。
その上、穂積ペペの代行として北山、つまりあの時に逃げた代償行為として、則子はそうなるので、二重の意味で、代行なのだ。
これも相手の魅力云々でなく、ただの慣性の法則のような流れ、つまり代行が行われたに過ぎない(後半、八千草薫は北山への恋情に悩むことになるのだが)。
浮気と強姦という陰惨なものを描くあたって、この娘と母のステップの踏み具合に、代行という更に残酷なものを導入した手際は何かを想起させる。
中井英夫「虚無への供物」である。
その犯人は世界第二の海難事故で、父親を失い精神の均斉を崩す。
浜辺に豚のように転がる死体の群れ、その中の一人が己の父親だということが耐えられない。
犯人の独白は大戦にも及び、それはT.W.アドルノの言う「アウシュビッツの後に詩を書くことは野蛮である」にも通じる。
法月綸太郎が「大量死と密室」で指摘した、〈ミステリの死体は犯人が狡知の限りを尽くした犯行方法と資力を突きしてその問題を解く探偵の知恵、という二重の光輪に包まれている〉というものだ。
広島・長崎の原爆投下含め、人間が一瞬にして灰になる、あたかも工場の作業のようにいち民族がつぶされていく人間性の剥奪の後に、詩はもう不可能を突き付けられた、そのために豚のように転がるのでなく、人間の死という本来の崇高さを取り戻すために「虚無への供物」の犯人は殺人を犯す。
単純な業務上のミスで死んだのではなく、カインとアベルのように原罪としての殺人が行われたのだ、と。
「岸辺のアルバム」で家族の長である、杉浦直樹演じる田島が家族に話せない秘密とは、会社の業務命令として、東南アジアから女性を集め、売春店に送り込むというものだが、原作小説においては現在は勿論当時も違法である死体輸入である。
文庫版の解説を確かディレクターの堀川とんこうが書いていたと思うが、放送倫理規定で死体はまずいということになり、東南アジア女性の女衒に変更して山田太一さんには申し訳なかったと記されていた。
死体はモト人間だが、ここでも死体は<モノ>である。
ツタンカーメンのような死体はツタンカーメンでなければその価値は発生しないが、田島が輸入した死体は誰でもいい代行可能な〈モノ〉なのだ。
「岸辺のアルバム」」における〈罪〉とは善悪ではなく、代行や〈モノ〉化という人間性の剥奪に他ならない。
娘は仲間内の代行で強姦され、母は時枝の代行として不貞を働き、父は死体を〈モノ〉として扱った。
これは我田引水だろうか?
いや、「虚無への供物」と中井英夫と「岸辺のアルバム」の山田太一には強烈な近接がある。
それは山田太一の早稲田大学の同級生にして文学上のライバルであり、中井英夫が短歌の才能を見出した寺山修司である。
実際、中井英夫の文庫版全集の月報に山田太一はエッセイを書いており、その中でまさに「虚無への供物」について「ただ、私の驚きは大半の洗練より、終章近くの、洞爺丸の遭難への素朴なくらいの傾斜」にこそ刮目したとある。
山田太一と中井英夫の作風比較からすれば、その〈大半の洗練〉とは「虚無への供物」を覆うペダンティズムとマニエリスムだろうが、そういうテクを山田太一は嫌うのは作風からよく判り、「虚無への供物」読了後に書いたであろう「岸辺のアルバム」にはその通底音が響いているとは穿ちすぎであろうか。
そこで息子、国広富之演じる繁の話になるのだが、先程から本稿執筆のためにWikipediaを参照しているのだが、家族一人一人の罪で繁には「建売りの自宅の手付けを先に打ったのに流してしまった家の娘とつきあっていること」とあるが、それは罪でも秘密でもないし、しかも2人がいい関係になるのは最終回一話前である。
繁はいい青年だ。
母の不倫と姉の性暴力被害を独りで背負い、胸を痛め、大学受験に失敗する。
彼はむしろ家族皆の<罪>を背負う被害者であるのだ。
だが、彼は13話において、家族四人揃った時に、父の汚い仕事、姉の性暴力被害の上に堕胎、そして母の不倫セックスを暴露する。
おそらく繁の<罪>のはこの告白にある。
「虚無への供物」は序章と終章に挟まれた第一章から第四章の4章でそれぞれ殺人事件が起こる。
紅司の浴場で刺殺、橙二郎の麻雀中のガス中毒死、いないと思われた玄次の死、そして第4の事件、これが紙に書かれたものだ。
俗に言うメタフィクション的仕掛けで、第四章は作中作で、読者はそれを読まされて、そこで起きる事件を作中では現実起きたものと思わされられる。
繁の<罪>のメタ的構造と妙な符号をみせるのだ。
そして「虚無への供物」」に旧約におけるカインとアベルの物語が据えられているように、「岸辺のアルバム」にはやはりギリシャ悲劇「オイディプス王」が仕込まれている。
父を殺し、母を犯すあのオイディプス王だ。
作中、繁の母への偏愛ぶりは多く描かれる。
だからこそ母が父以外の男とセックスしたことが許せない。
繁と則子という母子からは親子の情愛以上の近親相姦めいたものはないのだが、繁の暴露により、母・則子の聖性は破かれるので、これは母を犯したことと同義であり、それにより父も殺すのだ。
実は76~77年に連載され、陽の目を見たのが77年でしかも、同じくオイディプス王を下敷きにした物語がある。
中上健次の「枯木灘」である。
この頃には神話や古典悲劇を内包して見事に昇華した作品は小説にもTVドラマにもあったのだ。
おそらくそんな昇華を一切果たせず少年の父殺しと母殺しを空想的なキャラを使って分け、出番がなくなるとそのキャラをあっさり殺すというお手軽な小説があるのだが、それが村上春樹「海辺のカフカ」である。
母・則子の役は当初、岸恵子を想定していたらしいが、この現代のオイディプス王では岸恵子では女性性が強すぎる。
岸恵子では竹脇無我と逃亡しそうな感じがする。
そして竹脇無我の不倫夫は当初、律子と繁を助ける教師・津川雅彦を想定していたらしいが、実際には逆になっている。
子どもの頃、竹脇無我に紳士的なものを感じたが、今見るとタダのクズだということが判るし、津川ではそのクズっぷりがにじみ出す。
それを概念的には把握していなかっただろうが、「岸辺のアルバム」は私に<家族はセックスがないと成立不可だが、家族内ではセックスはタブーとなる>という人類の基本的なセオリーを教えてくれていたと思う。
そのような意味合いにおいて、神話レベルの押し上げている故に「岸辺のアルバム」は名作足り得たのだが、さて、最後の分析に入ろう。
会社人間であった田島は最後、800人のリストラ予定者に立候補する、それは19棟の家屋が流された上での被災者用施設でのことだ。
800と19、これも代行可能な人を<モノ>化してしまうことどもだ。
多摩川にほとりにたたずんでみたが、荒川や墨田川に比べて、多摩川は少々怖い。
流れが早く、小雨の日に行ったのもあろうが、地面がぬかるんでいた。
そこの「多摩川決壊の碑」を見つけた。
あれは70年代に東京で起きた大空襲以来の戦争だったのだ。
人を〈モノ〉とする記号化のシステム。
「虚無への供物」は洞爺丸事故を前提として物語が始まるが、「岸辺のアルバム」は最後に洞爺丸事故に当たる多摩川決壊を持ってきたのだ。
名作「岸辺のアルバム」は、最後のこの水害で家族が一致団結して皆の心が戻り、家族再生するように受け取られてきたが、それでは白々しいのだ。
<モノ>化という罪を犯した家族四人に更に人間を<モノ>化する水難が起きて物語の構造上、ネタがかぶるだけだ。
確かに夫婦でキツい言葉をブツけ合い、北山からのペンダントを捨てる描写がある則子は田島と復縁するであろう。
だが風吹ジュンという恋人ができて、町中華でそれなりに働ける繁と津川雅彦の教師と交際する律子はもう既にいつでも出ていける。
沈みゆく家屋の中で繁の呼びかけにより家族全員で<家>に「さよなら!」と声をかける。
これは家族解散の告別である。
それでもあのシーンが胸を打つのは、家屋という<モノ>を<ヒト>として扱ったことにある。
ここで「虚無への供物」にもできなかった反転がある。
最後、ナレーション代わりのスーパーの文字は「これが3年前、現在のこの家族の姿は視聴者の皆さまの想像にお任せします」と出る。
国や市から補填や慰謝料も出ようから、夫婦はマンションのひと部屋くらいは買えよう。
だがその時に息子・娘はもういない。
あんな秘密や罪を抱えていたと知っているからでもあるが、そんなことがあっても最後には家を皆で見送ったじゃあないか、家族四人で後ろ暗いことしたけど最後は心を一つにしたじゃあないか、という<虚無への供物>があの<家>なのだ。
ラストシーンは多摩川下流で流された家を家族四人で見に出かけるのだが、おそらく川崎あたりだと思われる。
同じくTBSの金曜ドラマで22年後ラストシーンでその川崎・多摩川沿岸を選んだドラマの名を「ケイゾク」という。
渡部篤郎扮する真山刑事が、唯一の家族であった妹のカタキをその場で、取るのだが、妹のように思っていた同僚の柴田刑事を亡くすのだ。