ハム君の冒険
ある日の午後、急な夕立にハム君と妹のカナちゃんは二人ぽつんと雨宿り。空を見上げると大粒の雨がまるで踊っているようにどの方向からも落ちてきます。きらりきらりと落ちてきます。
「雨さん喜んでいるねー。」
カナちゃんはハム君の手をぎゅっと握って面白しろそうに目を輝かしています。一方ハム君は雨の激しさにおっかなびっくりした様子。母親からもらったメモをぎゅっと握って、いつもの呪文。
『だって、僕は男の子なんだから。お兄ちゃんなんだから。』
ハム君は六歳の男の子。カナちゃんはやがて四歳になる女の子。二人はお使いに行く途中に激しい雨にあいました。あわててかけこんだのは小さな、小さなお稲荷さん。小さな屋根に小さな二人が身を寄せて、雨が止むのを待っています。お稲荷さんの中は、子供二人がやっと雨宿りできるくらいの広さしかありません。それでも小奇麗に吐き清められ、お花やお菓子が供えられています。外に目を移してみると、たくさんの鳥居が見えます。鳥居は狭い敷地にぎゅうぎゅうに、つめこまれるように建ててあって、それだけが妙に豪華に見えます。
雨はますます激しくなり、ついにはごろごろと、雷鳴がとどろきました。大地を揺らすようにして音はだんだん、こちらへ近づいてきます。泣き出しそうなハム君をよそに、カナちゃんは楽しそうに
「ごろごろ~。ごろごろ~。」
と、小躍りしています。すると、ピカっと、稲光がしました。ハム君は空に亀裂を入れる光におびえつつも、ぼんやり龍の姿にみえるなぁと、考えていました。
やがて、雷鳴は少しずつ遠ざかって行き、ハム君もほっと一安心。気づくと、お買いもののメモはハム君が手で強くにぎった為に、くしゃくしゃになってしまっていました。ハム君はメモをゆっくりと丁寧にのばしてみました。雨でぬれて、文字が少しにじんでいます。
「あ、泣いているみたいだね。」
カナちゃんがメモを指して言いました。
「本当だね~。」
二人は顔を見合せてふふふっと笑います。
(お母さんにお願いされたもの。
スーパーで買ってくるように言われたもの。)
「牛乳に、お味噌に、納豆。」
ハム君がつぶやくと、カナちゃんが大きな声で同じ様に繰り返します。
「牛乳に、お味噌に、納豆!」
二人で何度も何度もつぶやくと、とっても楽しくなってハム君は心細さを忘れることができました。次第に二人の声はどんどんと大きくなって行きます。
突然、二人の合唱を吹き飛ばすような大声がしました。
「なんでぃ。なんでぃ。気持ちよく寝ているのに。ぎゃー、ぎゃーうるせんだよ。小童が。」
誰もいないはずなのに、どこからともなく江戸っ子な調子の声が聞こえてきます。
「誰なの。」
ハム君はあたりをきょろきょろ見渡します。しかし、人の気配はありません。
「こっちだよ。こっち。」
見ると、お賽銭箱の上に小さな蛙が一匹。艶やかな黄緑色をしています。
「わー。かわいい。」
カナちゃんが触ろうと手を伸ばすと、ぴしゃりと蛙はカナちゃんの手をはたきました。
カナちゃんの手には蛙の手形がくっきり浮かびあがりました。カナちゃんはちょっぴり半べそ。
「あ、いいな。僕にもやって。」
ハム君が臆面もなく両手を差し出すと、蛙はつきあってられないとばかりにそっぽをむきます。
「ねえ、ねえ蛙さん。どうしてしゃべれるの?」
「どうしてここにいるの?ここは、君のおうち?」
二人が同時に勢いこんで質問するので蛙は、
「なんなんだ、なんなんだ。おめえら!もうちょっと驚くとか、泣くとかあるだろう。」
と、じたばた怒っています。そんな蛙の様子には無頓着にハム君は質問を続けます。
「お名前は?なんていうの?」
じたばた手足を動かしていた蛙は、ぷいっとあぐらをかいて、腕組みして言いました。
「ふん。人に名前を聞くときはまずは自分から名乗るものだぞ。」
そう言って、どこからともなく小さくて細長い煙管を取り出し、やがてすぱすぱと、煙をくゆらせ始めました。
もしかしたら、この生き物は蛙ではないのかもしれません。蛙のような形をした何かです。
なぜなら先ほどは、ただの蛙だったのに、ハム君が目をぱちぱちさせてよく見ると、ちゃんと立派な着物を着ているのです。真白な着物に真白な袴。そして、薄い水色の羽織。
発光するような黄緑色の輝く体になぜだかしっくり似合っています。
「それも、そうだね。僕はね、公太郎っていうんだ。でも、ちびだからみんなにハムスターのハム君って言われているんだよ。
こっちはね、妹のカナ。よろしくね蛙さん。」
ハム君が言うと、カナちゃんも
「よろしくね。」
と、かわいい声で続きます。ふてぶてしい様子の蛙はぷいっとそっぽを向きました。しばらくして、照れているのか、ぶっきらぼうに話します。
「なんでい。いい子だな。おめえら。そんなに、俺様のことが気になるか。
ふん。しょうがない特別に俺様の名前を教えてやろう。
俺様は、この辺一帯をなわばりにしている、蛙の銀二ってんだ。」
「銀二!」
カナちゃんが叫ぶと蛙はちっちっちと、立てた人差し指をふってこう言いました。
「おめえらなんて小童が俺様を呼び捨てにするとは、百年早いってもんだよ。」
お賽銭箱の上からなんとも見えをきるように、蛙は芝居がかった仕草で言います。
「銀様だ。銀様。そう呼びな。」
「銀様!」
子どもたちは賽銭箱の蛙を良く見ようと背伸びをしながら、興味津々に瞳を輝かせます。
「そうそう、物分りのいい子達だな。しかし、小僧。方向音痴にもほどがあるぞ。一体全体どうやったら、買い物に来るのにこんな外れたところまでやってこられるんだ?
まあ、ここで会ったのも何かの縁だ。助けてやるよ。
いいかい?帰る時は、空に虹をかけてやるから、その方向目指して帰りな。
それなら、いかに方向音痴の天才のおまえさんでも簡単だろ?
っと、外を見てみな。どうやら雨はやんだみたいだぜ。」
蛙が煙管で指した方向をみると、いつのまにやら雨雲は立ち去り、太陽の光が戻っています。
「大きな虹が出ているはずだせ。」
蛙の言葉を聞いて、カナちゃんはわーっと歓声をあげて外へ駈け出しました。後を追おうとしたハム君を蛙が呼び止めます。
「おい、小僧。」
「どうしたの?銀様。」
「お前の妹、ちょいっと嫌な運気だぜ。事故には気をつけることだな。」
虹に気をとられていた、ハム君ははっと蛙を振り返ります。
「…?」
ハム君をじっと見つめる蛙の瞳。そこには何か強い力があります。ハム君がかける言葉を思いつく前にカナちゃんが声をかけました。
「お兄ちゃん、銀様。こっちに来て一緒にみよう!」
「うん。行くよ。」
カナちゃんの声に気をとられ、再びハム君が蛙を見た時には、蛙の姿はどこにもありませんでした。
かすかに、
「虹が消える前に、帰るんだぞ。」
と言う声を聞いた気がしました。
「銀様?」
「銀様!」
呼びかけても返事はありません。しんと静かです。そこにそんな生き物は最初からいなかったかのような静けさです。そこには、ただただ沈黙だけがありました。
「虹、とってもとってもすごいんだよ。速く、来て!」
再び誘うカナちゃんのもとへ、ハム君は駆け出しました。
(虹の消える前に帰るんだ。)
残照の中、雨あがりの晴れやかな空に大きな大きな虹が空いっぱいにかかっています。
虹は堂々とかかっているのにどうしてかどこか寂しげではかなく見えます。
二人で虹を目指して帰る道すがら、朱色を帯びつつある空にかかった鮮やかな虹に、ハム君はどうしてこんなに胸が痛むのか不思議でなりませんでした。
やがては消えゆく美しい虹。その刹那の美しさを惜しむ気持ちがこんなにも胸を痛めるのでしょうか。それとも夕暮れ時の漠然とした切なさでしょうか。夜がせまってくるという焦りでしょうか。
ハム君は虹が消えないようにまるでにらみつけるかのようにして、ひたすら追いかけます。
黙々とカナちゃんの手をとり家路を急ぐのでした。
初めてのおつかいでの不思議な体験をカナちゃんはすぐに忘れてしまいました。でも、ハム君は忘れることができず、それからも度々迷った場所の近くに行っては、
「銀様!僕だよ。公太郎だよ。」
と、呼びかけていました。しかし、ついぞあのお稲荷さんの場所を見つけることはできませんでした。
そのうちハム君もあの日の不思議な出来事を思い出さなくなりました。
なぜなら、小さなハム君にとって毎日は新しい経験の連続だからです。
ハム君は朝起きると、今日一日どんなことが待っているかわくわくします。その期待どおり、楽しいことや悲しいこと、辛いことや面白いことが、たくさん、たくさんハム君を待っています。
でも、その日は少し違いました。いつものように楽しい一日をすごして小学校から元気よくランドセルを背負って家に帰る。そこまでは同じだったのに。
家に近づくと人垣ができていました。なぜだか大人がたくさんハム君の家をとりまいています。ハム君が近づくと大人はみんな、目をそらしました。
ハム君はちょっとした田舎に住んでいます。田舎は都会よりも、近所の人々が親しくしていて、助け合っています。それでも、ハム君の家のまわりを心配そうに取り巻いている人々の姿は、幼い彼の目にも異常に映りました。
「どうしたの?何かあったの?」
ハム君が尋ねると、お母さんの妹のチカ子おばちゃんがかけよってきてハム君を抱き締めました。
「公太郎ちゃん!」
「おばちゃん?」
おばちゃんは、ハム君とは違う校区の小学校の先生です。まだ、独身でたった一人の甥っ子であるハム君をとてもかわいがってくれています。
普段は勝気なおばちゃんが、泣きそうな顔をしています。しかし、きっとした目になってハム君に言いました。
「あのね、姉さんが車を運転していてね、事故にあったの。それでね、カナちゃんもその車に乗っていて、二人は今病院にいるの。…緊急手術を受けているのよ。
公太郎ちゃん一緒に病院に行きましょう。」
「お母さんは?カナは?大丈夫なの?」
おばちゃんの目には涙が浮かんでいます。
「大丈夫だよね?」
ハム君は気がつくと大きな声を出していました。
「今はまだなんとも言えないの。とにかく病院へ行って話を聞きましょう。お父さんは先に行っているわ。
色々と準備が必要だから、おばちゃんちょっと用意しないといけないけど、なるべくすぐにかたづけるから。
公太郎ちゃんちょっとだけ待っていてね。」
おばちゃんがぱたぱたとバッグにタオルやなんかをつめこんでいるのを少し離れた所でハム君はぼんやり見ていました。
背後で近所のおばさん達のひそひそとした話し声が聞こえます。
「かなり重症なんですって。」
「今日一晩が峠とか?」
「どうしてこんなことに?」
「飛び出してきた子を避けてガードレールにぶつかったんですって。」
「まぁ、可哀そうに。」
「カナちゃんはまだ小さいのにね。」
「あら、若田さんの奥さんだってまだお若くて、これからなのに。
子供さんもまだ小さいのにね。」
「車、ぺしゃんこだったらしいわよ。
ひどい話ね。」
ハム君はその話を聞きたくなくて自分の部屋へ逃げ込みました。
なんだか、その声にわくわくとした響きを感じとってしまったからです。それに、病院に行く前にそんな話は聞きたくありませんでした。
大人は子供が聞こえていないと思っているのでしょうか。
理解できないと思っているのでしょうか。
しかし、子供はひそひそと話す会話に悦なる響きがあるのを敏感にキャッチします。本能で、真心と偽善をかぎわけることができます。
小さい時に体験した強烈な嫌悪感は鮮明に記憶に刻まれます。
それはまるで時限爆弾。
子供はその時のことを後々ずっと覚えていて、大人になって再びその時の状況を理解するのです。
ああ、あの人達は人の不幸を喜んでいたんだな、と。
ハム君はおばさんと病院へ向かいました。ハム君もおばさんも余計な会話はしませんでした。ハム君はただただ、母親と妹のことが心配でなりません。
病院に着いたのは、日も落ちて辺りが電灯なしでは歩けないほど暗くなったころでした。自動ドアを通って待合室に行くと父親が背広姿でうつむいていました。
「お父さん。」
「公太郎。」
ハム君は父親にかけより抱きつきました。父親にギュッと抱きしめられるとなぜだかハム君はぽろぽろぽろぽろ涙が出てきて、やがて大きな声で泣いてしまいました。しばらく泣き続けるのを父親はただひたすら頭をなでてくれました。ようやく、ハム君が泣きやむと父親はハム君に顔を近づけて言いました。
「公太郎。お母さんとカナちゃんに会いたいか?」
「うん。」
「よし、行こう。」
父親と手をつないで夜の病院を歩きます。無機質な廊下にぺたぺたと足音が響いて、不安な気持ちをどんどんあおって行きます。ハム君はぎゅっと父親の手を強く握りしめました。
しばらく進んで行くと、突き当りに窓から中の病室がのぞける部屋がありました。母親がその部屋で横になっているのを目にした瞬間、ハム君は呼びかけていました。
「お母さん!」
青白い顔をした母親は目をつぶっています。あちこちぐるぐる包帯で巻かれて痛々しい様子。ハム君は父親に向かって泣きそうになりながら、尋ねます。
「お母さんは?お母さんは起きるよね?」
ぎゅっと、父親のそでを握って必至に目で訴えます。父親は廊下にしゃがんでハム君の顔を両手で包みこみ優しく言います。
「そうだね。公太郎がこうしてここに来てくれたから、お母さんはきっと大丈夫だよ。」
「カナは?カナは?カナはどこなの?」
父親は顔を曇らせ、目を伏せました。
「カナはね。お母さんよりずっと小さいだろう。だからうんとがんばらないといけないんだ。」
「カナには会えないの?」
「カナはね、ここよりもっと遠い別の病室で治療を受けているんだよ。」
お父さんはそう言って頭をなでてくれました。ハム君は父親の袖をつかんでいた手を放し力なく腕を垂らしました。
「カナには会えないんだね。」
ぽつりとつぶやくと、
「今日はね。」
と、お父さんが言いました。
ハム君は、
「じゃあ、明日は?」
と尋ねたいのをぐっと堪えて歯をくいしばりました。父親を困らせるのが分かっていたからです。父親の目にもうっすら涙が光っていました。
(お父さんだって、お父さんだって辛いんだ。)
『だって、僕は男の子だから。お兄ちゃんだから。』
心の中でハム君は何度も何度も呟きました。
静かな廊下から父親と二人、眠っている母親を見守っていると、いつの間にか姿を消していたチカ子おばがスーパーの袋をかしゃかしゃとさせながらこちらへやってきました。
慌ただしく起こったこの晩の一連の出来事の中で、その音だけが妙に現実味を帯びています。
「おにいさん、夜食を買ってきました。」
「ああ、チカ子ちゃんありがとう。すまないね。」
二人がなにやら話している間、ハム君はぼうっとお母さんの顔を眺めていました。
(お母さん!お母さん!お母さん!)
自然に涙がこぼれてきます。手の甲で静かに何度も何度もぬぐううちに、鼻水まで垂れてしまいました。
「あらあら。」
おばちゃんが鼻水をぬぐってくれるのが、なんとも気恥ずかしくてハム君は下を向いてしまいます。
父親が頭にぽんっと、手を乗せて言いました。
「公太郎。
お父さんはまだ病院にいるけど、公太郎は今日はもうチカ子おばちゃんと帰りなさい。」
ハム君が反論しようとする前に、おばちゃんがハム君の両手をとって優しく言いました。
「公太郎君、今日はおばちゃんのお家においで。疲れたでしょう。お風呂に入ったらすぐにお布団をしいてあげるからね。また、明日一緒に病院に来よう。
…いいわね。」
最後の一言には、子供に有無を言わせぬ先生の威厳がありました。
ハム君は、お父さんと一緒にいたかったけど、こっくりうなずいておばちゃんの手にひかれ病院を後にします。
チカ子おばの家に着くと言われたままにお風呂に入り、機械じかけのようにそのままお布団の中へ入ります。流石にハム君は疲れていました。お布団の中でぎゅっと目を閉じて寝ようとしました。
しかし、得たいの知れない不安が迫ってきて体はくたくたなのに眠ることができません。
「お前の妹、ちょいっと嫌な運気だぜ。車には気をつけることだな。」
ふいに、あの時の蛙の言葉が蘇りました。ハム君はあの不思議なできごとを思い出すと、もういてもたってもいられなくなりました。
「銀様。きっと銀様なら助けてくれる!」
がばっと起き上がり、あわてて家の様子をさぐります。
静かです。きっとチカ子おばには気づかれていないでしょう。こっそりとパジャマのまま靴を履いて、裏口からそっと抜け出します。裏口を出ると、ハム君は焦る気持ちそのままに走り出していました。
夜の歩道は暗く街灯は家を離れれば離れるほど暗くなっていくような気がしてなりません。
ハム君は本来臆病なおっとりした男の子です。でも、今は体中の勇気をかき集め人気のない不気味な夜の道をひた走ります。ハム君のまるっとした小さな体が一生懸命に駆けて行きます。
ちょっとしたものが昼間とは違った姿に化けてハム君を脅していきます。白い看板は幽霊の姿に見え、黒猫が瞳闇の中から瞳だけをらんらんと輝かせています。
街路樹が不気味な音をたてています。それはまるで何者かがハム君を見据えて並走しているようです。
「カア。カア。カア。」
突然カラスが鳴きました。ハム君は、
「ひーー。」
っと、声にならない叫びをあげます。
闇にたたずむ色々なものにびくっとなりながらもひたすら前だけを見据えます。視界の端になにやら気になるものが見えても、気付かないふりをします。
「待ってて、お母さん。チカ!」
「待ってて、お母さん。チカ!」
「待ってて、お母さん。チカ!」
何度も、何度も呪文のように繰り返し心の中で呼びかけます。するとその度にハム君の手足は動いて、大地を蹴るのです。胸が苦しくても、夜の道が怖くても、ハム君は走り続けます。
そんなハム君の姿を、何か得たいの知れないものが、本当にこっそりと静かに見つめているのでした。
(お願いたどりついて。お稲荷さん、お稲荷さん。どこなの?
銀様!)
ハム君は汗だくになりながら、雨の日に迷った場所にあたりをつけて駆けて行きます。
「違う。ここじゃない。」
何度も迷ったあげくハム君は立ち止まり呼吸を整えようとしました。ふと、空を見ると大きな満月が出ていました。その大きな月はハム君だけを照らしているように見えます。
「お月様。銀様のお稲荷さんを知っている?」
ハム君が尋ねても沈黙が垂れこめるばかり。ふうっと、ため息をついて視線を前方に戻すと、なんと目の前にはあの小さな小さなお稲荷さん。
「あれ?さっきはなかったのに。
気付かなかったのかな。」
ハム君は小首をかしげます。
しかし、なにはともあれやっとお稲荷さんにたどり付くことができました。
辺りにはいつのまにか田んぼが広がっています。その水田のあちらこちらから蛙の鳴き声が耳をふさぎたくなるような大音量で流れてきます。
「ここって、田んぼだったかな?この前来た時はどうだったかな?」
水田は月の光をきらきら反射させています。風が水田をなでる度に風の道が水面の上にできあがり、やがて消えてゆきました。風はハム君のほほも優しくなでます。
呼吸が落ち着いてからハム君は小声で、
「おじゃまします。」
と言って、お稲荷さんの中に入ります。
「銀様!」
呼びかけてみても返事がありません。ハム君の声は小さくて、蛙の大合唱に負けてしまうのです。
そこで、ハム君はたくさん息を吸った後、蛙の大合唱に負けないように耳を両手でふさいで叫びました。
「銀様~!」
「銀様~!」
「銀様~!」
声の限り叫びます。
何度も何度も叫んでみても、一向に反応がありません。次第にハム君は焦ってきました。
「銀様~!」
声に不安がにじみます。震える声で叫びました。
「お願い助けて。お母さんとチカを助けて。
お願い、お願いだよ~。」
ハム君はとうとう伏しておんおん泣いてしまいました。
「やれやれ、おまえ男の子じゃなかったのか?お兄ちゃんなんだろ?」
顔を上げて声のする方を見上げると、お賽銭箱の上にあの蛙が鮮やかな黄緑色の姿でふてぶてしく座っていました。
手にはあの小さくて細長い煙管を持っています。今夜は高下駄を履いています。真っ暗なはずなのに、なぜか蛙の吸う煙草の煙がゆらゆらと広がっていくのがはっきりと分かりました。
唐突な蛙の出現にぽかんとなったハム君は目をまんまるにさせています。そんな様子にかまうことなく蛙はぴょんと近づいて、ハム君の顔にふっと息をふきかけました。
煙草の煙でけほけほなったハム君は、相変わらずまんまるな目で蛙を見つめます。
「なんだその顔は?お前が呼んだから出てきてやったのに。罰あたりなやつだな。」
「えと。その、やっぱりびっくりして。
ううん。そんなことより、お願いがあってきたんだ。お母さんとチカが事故にあっちゃって。
お願いだよ、銀様。二人を助けて欲しいんだ。」
「ふむ。せっかく、俺様が注意してやったのになぁ。
だけどまぁ、生きてりゃ不条理ってやつはどんな時でもこっちにお構いなしに突然やってくるもんだ。遅いか早いかの違いさ。
できることなんて、あんまりない。抗えない運命だと思ってあきらめるんだな。」
「そんな。でも、でも。」
「おい坊主。俺様がまた会ってやっただけでも有難いってもんなんだぞ!全く。
それにだ、例え二人を助ける力があったとしてもだ。お前の願いを叶えてやって俺様にどんな得があるっていうんだ?」
「得?」
「そうさ。見返りさ。お前は俺様に何をしてくれるというんだ?
一体お前に何ができるというんだ?
お前の肉でも食わしてくれるっていうのか?」
そう言って、蛙は体よりも何倍も大きな舌でハム君の顔をぺろりとなめました。
ハム君の体をつま先から頭のてっぺんまでぞくぞくと震えが走ります。
「僕を食べたいの?」
ハム君はごくりとつばを飲み込んで青ざめました。
そんな様子を面白げに見つめながら蛙は意気揚揚と言葉を続けます。
「ああ、食べたいね。
二人の命を救うのに、お前一人ですむのなら、安いものだろう?」
蛙は当然とばかりに肩をすくめます。
(お母さん、チカ!)
ハム君はぶるぶる震えました。たたみかけるように蛙はせまります。
「さあ、どうする?」
ハム君は何度も何度も目をぱちぱちするばかりです。
「…。」
ハム君は答えられませんでした。
ふんと、鼻で笑って蛙は言いました。
「じゃあ、話はなしだ。」
ハム君はお賽銭箱にしがみつき、必至になって言いました。
「他の、方法はないの?何か、他の。」
蛙はふんぞりかえって、しっしと追い払うような仕草で答えます。
「ない。いい加減あきらめるんだな。
ほら、帰った。帰った。」
ハム君はうつむいて目をつぶってしまいました。
「それなら…いいよ。僕食べられても。
…でも、痛くしないで欲しいな。」
最後の言葉は尻すぼみになってしまいました。ハム君は両手をせわしなく握り合わせておどおどしています。
蛙は一瞬、煙管を落としそうになり、ぽかんとだらしなく口を開けて驚いています。
「はっはっはっは。」
恐ろしいほどの風圧と共に豪快な笑い声がして、ハム君はしりもちをついてしまいました。
恐る恐る目を開けると蛙はお賽銭箱の上で手足をばたばたさせて笑っています。
「ひゃっはっは。ひゃっはっは。おっと。」
豪快に笑うあまりお賽銭箱のすきまから落ちそうになったため、ぴょこんと体制を整えて起き上がりました。蛙は笑いすぎて出た涙をふきながら言いました。
「食べるというのはおまえの頼みを断る口実だ。はっはっは。
おまえってやつぁ、ほんと臆病なくせしてばかなやつだなぁ。」
蛙は2本足でよたってのしのし歩きながらハム君に近づいてきて、また煙たい息をふきかけました。
ハム君がまたこほこほしていると、蛙は満足そうな顔になります。
この蛙、よくよく見ると案外愛嬌のある顔をしています。その顔をにやっとさせて言いました。
「いや、愉快愉快。
小僧、気に入ったぞ!それじゃ、おめえに希望を集めに行かせてやる。」
そう言って蛙は、ぴしゃりと煙管でハム君の額を打ちました。
「希望?」
あいたたと、両手で額を押さえながら、ハム君は果敢にも尋ねます。
「そうさ、欲しいものなんてそうそう簡単に手に入るもんじゃないんだよ。世の中そんなに甘くない。
これから、今のお前の様なみじめな目にあっている奴に会ってくるんだ。そうして、そいつらの話を聞いてやれ。最も、向こうに相手にされるかわからないが。…邪険に扱われるかもしれん。
お前が話を聞いてやることで、話した奴の心にもし希望の光をともせることができたなら、お前のお袋と妹を助けることができるかもしれない。
だが、時間はないぞ。なにせ、お前のお袋と妹は今夜が峠だからなぁ。朝日が出る前にこれから会う人間に希望を与えることができなかったら、はいそれまで。時間切れだ。
…そうだなぁ、ちょっと頭かせ。」
蛙は、身振り手振りで豊かに話終えるとハム君の頭にぴょんと乗りました。ハム君の頭に顔を寄せて難しい顔になります。
「うーーん。お前、意外と多難だなぁ。どれにしようか…。
とりあえず、3回は確実に好転させないとなぁ。」
「3回?」
「そうだ、会ってこい。」
「会う?どうやって。」
そう聞いた時には、ハム君は別の世界にいました。白くもやもやした場所です。ほんの一瞬のんきに手をふる蛙の姿をみたような気がします。
そこは、きょろきょろと見渡してもどこまでも、もやもやしていました。とてもあいまいな、とらえどころのない世界です。
「雲の中にいるみたい。」
ぽそっとつぶやくハム君は、白いもやもやを手で払いながら、歩き始めました。
「こんなに、もやもやしていると、すぐに何かにぶつかりそうだなぁ。」
思ったことをそのまま口にしていないと、怖くて仕方がありません。ハム君は感じたことをそのまま口にしながら進んで行きます。
すると、老人がいました。白い世界の中で、唐突に遭遇しました。大きな独り言を聞かれたかと思うと、ハム君はとても恥ずかしく感じました。
老人は白いベンチの上に座っています。彼だけが、不確かな世界でくっきりした存在でした。
「また来たのか?」
老人がしわがれた声でハム君を見ることなしに言いました。
「また?僕は初めておじいさんに会うと思うんだけど。」
その時老人は初めてハム君に目を向けました。ハム君も老人ちゃんと見ることができました。
老人は瘠せていて、背中を丸めています。眉間には深い不機嫌そうなしわが刻まれています。とても頑固そうです。
「ふん。そうかなのか?わたしにとっては、三度目だが。
…時間軸がずれているのか。」
「時間軸?難しい言葉だね。初めて聞くよ。
それは何?」
老人はどこか陰気な表情でまじまじとハム君を見ています。ハム君は脚の長いベンチによじ登るようにして座りました。足が地面につかずに、ぷらぷらしています。
「いや、こっちの話だ。なんでもない。どうせ、目覚めたらすべて忘れる。
わたしは、お前がなぜここに来たのか知っているよ。お前、自分の母親と妹を助けて欲しくて来たんだろう?」
「どうしてそれを知っているの?」
ハム君はきょとんと首をかしげます。その様子は、ハム君のあだ名の由来になったハムスターにそっくりです。
「さてな。…でもなぁ、お前は後からそのことを悔やむことになるかもしれないぞ?」
「悔やむ?どうして?」
「今はよくても、生きてゆけば、人は変わるし状況も変わっていく。お前は妹を憎むようになるかもしれないし、母親はお前のことなど嫌いになる。」
「そんなことないよ。だって、僕はチカが大好きだし、お母さんは僕が大好きだもん。」
「…。」
頭を左右にふった後、おじいさんはため息をつきました。
しかし、しばらくしておじいさんはふっと口をほころばせました。
「…短絡的でいっそ清々しいな。でも、一番大事なことを分かっていて、素直に信じられるのはすごいことだ。」
ハム君にはおじいさんの言っていることが全く理解できません。うーーんと、考えこんでいます。すると、何かひらめいたような顔をしておじいさんに質問しました。
「おじいさんにも、妹がいるの?」
「そうだ。」
「妹を憎んでいるの?」
「…そうだよ。」
「どうして?」
「わたしの時間を奪ったからだ。妹は脳に障害があってね。わたしは、妹につきっきりの人生だったんだよ。」
うーーーんと、再びハム君は考えこみました。うんうんとうなっている様子はどこかこっけいです。おじいさんの口元に思わず優しい笑みが浮かびます。
やがて、ハム君は言葉を紡ぐようにゆっくりとぽつりぽつりと話しだしました。
「よく、分らないけど、おじいさんは大変だったんだね。
僕はチカが笑ってくれるとそれだけでうれしくなるよ。…たまにとっても憎らしくなるけど。でも、チカがいなくなるなんて絶対嫌だよ。
おじいさんは妹が少しも好きじゃないの?」
老人はびっくりした顔をしています。小首をかしげる仕草はどこかハム君と似ています。
黙り込む老人に、なんだか焦ってハム君はさらにおずおずと質問します。
「もう、傍にいたくなくなったの?」
老人は無言で、顔を横にふりました。そして、顔を両手でおおいさめざめと泣きました。ハム君もなんだか悲しくなってしまって、涙が止まらなくなりました。その勢いに気がそがれたのか、老人は涙をぬぐってハム君の頭をぽんぽんと軽くたたいてなぐさめてくれました。その時、老人はとても優しい表情をしていました。
老人はぽつりと言いました。
「お前は純粋だったんだなぁ。それに、素直な心をもっていたんだなぁ。」
「どうしたの?」
ハム君の質問には答えず、老人は言葉を続けます。
「そうか、妹が好きか?」
「うん。」
「母親を愛しているか?」
「うん。」
前を見ていた老人はハム君の顔をじっとみてゆっくりと聞きました。
「どんなことがあっても、その気持ちのままでいられると思うか?」
「うん。」
ハム君が力強くうなずくと、老人は少し悲しそうにほほえみます。
「そうか、もしお前がそのままのお前でいてくれると約束してくれるなら、わたしもお前のような心でやり直そうと思う。」
「僕、約束するよ。」
「そうか、約束してくれるか?」
「うん。」
そういって、二人は指きりげんまんをしました。
「あ、おじいさん、手のところに僕とおんなじ痣がある。」
ちょっとしわしわな手と、ぱちぱちとしたまるまっこい手が並びます。
「そうだよ。おんなじ痣だ。
痣は印だよ。これからお前が会う人間には全て同じ痣がある。分かりやすいだろう?」
「うん。分りやすいけど、不思議だね。だっていままで、そんな人に会ったことなんてないんだもん。
だけど僕は、おじいさんに希望をあげることができたのかな?」
「ああ、十分だ。ありがとう。」
「本当?よかった。
じゃ、僕急いでいるからいますぐ次の人に会わないといけないなぁ。どうしたらいいんだろう。」
そう言っているそばから、世界がぼやきはじめ、横に座っていたおじいさんが消えて行きました。老人の少し柔和になった優しい笑顔がハム君には印象的でした。
次なる世界。ハム君は気づくと青い水の流れに巻き込まれていました。でも、不思議。水の中でも息ができるのです。強い流れに身をゆだねると、なんだか楽しくなってきました。運動音痴なハム君は泳ぐことができなくて、プールの授業ではいつも苦しい思いをしていました。でも、ここでは水と一体になれるのでまるで魚の気分。青い水の中はどこもかしこもきらきら、きらきら光りが踊ってゆれています。水泡がしゃぼん玉の様に形を変えながら虹色に輝いています。
両手を広げると、まるで空を飛んでいるみたいです。ハム君はどんどん下降して行きました。下降しても視界は良好。水底まで光りは踊り続けているからです。ゆったりと泳いでいると、すぐそこに人の気配を感じます。そこで、空からトンビが旋回し地面に着地するように、ハム君はくるくると水底に舞い降りました。
途端に世界は変わり、先ほどまで水の世界だった頭上に、今度は真っ青な空が広がります。もくもくと入道雲がすごい勢いで空を覆って行きます。
そして、目の前には青いベンチに座った黒い学ラン姿の若者がいました。老人の顔ははっきりとよく分かったのに、若い男の顔はぼんやりとしていてどんな顔をしているのかよく分りません。
ハム君が近づいていくと、男は威嚇するような身振りで言いました。
「なんだぁ?てめえ。ガキが見てんじゃねぇよ。」
ハム君はびっくりして声が震えています。
「ごめんなさい。お兄さん、あの。」
「うっせー。話しかけんなよ。っつーか、勝手に俺の夢に出てきてんじゃねーよ。」
男のあまりの迫力にハム君はしりもちをついています。それから、のんきにあれっと首をかしげて、言いました。
「え?夢なの?」
ハム君のおっとりした調子に毒気をぬかれて、男はふんっとそっぽをむいてベンチに座りなおします。ハム君が返事を待っているのに気づくとぶっきらぼうに言いました。
「なんだよ。おかしいかよ。夢だって分かってて見る夢だってあるだろが。」
「…。なんだか、僕よくわからない。」
ハム君がぷーっと、顔をふくらませると、ハムスターがえさをほうばったようにみえます。
「ああ、お前なんだ?頭たりねーのか?ハハハ。
って、はやくとっとと出て行けよ。」
そう言って、学ラン姿の男はしっしと手をふって、煙草に火をつけます。しかし、体に合わない体質らしくけほけほとむせています。
「お兄さん。」
「なんだよ、しつけーな。
まだいたのかよ。うぜー。
いいかげんにしねーと殴るぞ。」
臆病なハム君はとってもびくびくしながらも、おそるおそる尋ねました。
「あの、指に痣ある?」
「ああ?なんだよ。あったらわりーのかよ。」
「僕にもあるんだよ。ほら」
ハム君は笑顔で右の人差指を見せました。
「…。」
学ラン姿の男の態度が豹変します。いきなり、煙草を投げ捨てると、ハム君の首ねっこをつかみ思いきり放り投げました。
ハム君はしたたか地面に体を打ちつけます。
「わーー。痛いよ。痛いよ。」
と、顔をさすったハム君でしたが、あれれという顔をしています。頭から勢いよく落ちたのでどこかしらに痛みがあるはずですが、ちっとも痛くありません。
男はつばを地面に吐き、
「あーー。くそっ。子供に何やってんだよ、俺は。」
と言って、青いベンチを足でがんがん蹴っています。しばらくして、気持ちが落ち着いたのか、男はちらりとハム君をみやりつぶやきます。
「っち。まだいたのかよ。」
青いベンチに青い顔をして面白くなさそうに座りました。
「…悪かったよ。」
男はそっぽをむいたまましばらくして小さな声で言いました。
「夢の中って、本当に痛くないんだね。
ほら、つねってみても、本当に痛くないんだよ。すごいねぇ。」
顔をつねりながら、ぽつりとつぶやくハム君の言葉に、男は再びつけた煙草を吐き出してしまいました。
「な…。お前、本当に緊張感のないやつだなぁ。
…こんなとぼけた性格してなかったと思うぞ。」
「あれ?前の人といい、お兄さんといい、僕のこと知っているの?」
「前の人?何おまえ、他にも誰かに会ってんの?」
「うん、おじいさんに会ったよ。」
「…じじいかよ。
んで、じじいはなんつってた。」
「ええっとね。ええと、妹が憎いって、あと、母親から憎まれているって。」
男は再び地面につばを吐きました。
「ふん。じじいになってもか。」
男は地面に足をなんどか打ちつけて憤りをぶつけます。やがて、気がすんだのでしょうか、再びベンチにもどり両足を両手でかかえうつむきました。
おとなしくなった男に、おろおろしながらハム君は言いました。
「でも、僕がどんなことがあっても、お母さんとチカのことを好きだって言ったら、おじいさんもがんばるって言っていたよ。」
すると、伏せていた目をあげ男はばかに元気に笑いだしました。おかしくもないのに笑っているような感じです。ひとしきり笑った後、
「なんだよ。じじいになっても悩んでんのかよ。がんばるっていうのかよ。くそっ。
…ばっかじゃねーの。
あーーーー、俺はそんな人生まっぴらだ。ふん。」
一人激しい言葉を口にした後、男はハム君をみて憐れむように言いました。
「お前、なんの為に頑張っているだろうな。」
「え?僕?僕はお母さんとチカの為だよ?
お兄さんは?お兄さんは何の為に頑張るの?」
ハム君がきょとんと尋ねると、男はしばらく考えて、遠くをみて言いました。
「…。俺は俺の為にしかがんばれないさ。」
そして、髪をかきむしり、続けます。
「あーー。なんかもう、ばかばかしくなってきた。なんでじじいになってまでそんなぐじぐじやってるんだ?それが意味わかんねぇ。くそっ。
俺はもう俺の為にしか頑張らない。決めた。
うん。これぞ、我がままってやつだな。」
そう言って、ハム君に初めて笑顔をみせました。
「どうせ、後悔するって分かっているんなら、自分の為だけに生きて後悔してやる。
…俺は俺だからな。」
そうして、ハム君を指さして言いました。
「お前とは違うんだ。」
「?」
きょとんとしているハム君に、男はいいました。
「ありがとな。」
どうしてか、ぼんやりとしか見えなかった若者の顔がその瞬間の笑顔だけはっきりと見ることができました。ハム君がその顔をよく知っている顔だなぁと、ぼんやり考えているうちに、世界はどんどん歪んでいくのでした。
あれっと思ったところでハム君は次なる世界へぴゅーっと落ちて行きました。地面について目をあけるとそこは、真赤な世界。
見たこともないような大きな太陽が雄大に地平線へ落ちて行くまさにその瞬間をそのまま切り取ったような世界です。全てが赤く染め上げられています。
真赤なベンチに真赤な薔薇を持った男性が座っています。肩を落として、しょんぼりしている様子。
「わーー。薔薇の花束。すごい。初めてみたよ。」
男性にかけよったハム君はバラの花束にみとれて言いました。薔薇の花束を持つ男性の手には例の痣があります。
ハム君はその痣と自分の痣を見比べました。三人が三人とも全く同じ色と形をしています。ハム君を合わせると4人の人間が同じ痣を持っているのです。
(なんだか、おかしいな。)
ハム君はぽよんと、物思いにふけります。
背広を着た男性はそんなハム君の様子に気付き、おやっとした顔をみせた後に寂しげに笑いました。
「花が好きなのかい?」
「うん。好き。この薔薇とってもつやつやして、奇麗だね。」
ハム君はにこにこして言います。
「そうかい?でも、大切な人にもらってもらえなかったんだ。渡した指輪も返されてしまったよ。」
意味をつかみとれないハム君はうんうんうなって考えます。そして、小首をかしげて尋ねました。
「それは、悲しいことなの。」
男性もハム君と同じ様にちょっと小首をかしげて、それから夕日に目を映しました。
男性は、しばらくしてから言いました。
「そうだね。失うことに慣れたことに気付いたことが一番悲しいかな。」
ハム君は更に混乱し、またうんうん考えました。やっぱりよく分かりません。そこでまた質問しました。
「何を失うのに慣れたの?」
「大切だと思っている人。
昔家を飛び出したんだ。それからずっと一人ぼっちだよ。」
それなら答えは簡単とばかりに、ハム君は顔を輝かせて言います。
「一人ぼっちが嫌なら、家に帰ればいいんじゃない。」
「…。」
男性が答えないのでハム君はきょとんと続けます。
「難しいことなの。」
男性はあいまいにほほえみました。そして、逆にハム君に尋ねます。
「君は、喧嘩したら、どうやって謝る?」
「ごめんなさいって、ちゃんと言うよ。
おじさんは喧嘩をしたの?だったら謝らないといけないね。」
ふっと、男性は笑ってハム君の頭をなでてくれました。
「考えれば、考えるほど、どうしていいかわからなかったんだ。
君はシンプルだね。
そうだね。謝ってみようかな。」
男性は立ち上がりました。
「善は急げというし、気持ちの変わらないうちに今からこの足で行ってみるよ。」
夕日を横から浴びた男性は半身が真赤に染まってみえました。
「がんばってね。」
立ち上がったハム君も体半分が真っ赤に染まります。
「そうだ、よかったらこの薔薇を君にあげよう。」
そう言って、大きな花束をおじさんは差し出します。
「本当に?わーー。うれしいな。うれしいな。お母さんと妹にあげるよ。きっときっと、とても喜ぶよ。」
おじさんにもらった薔薇はとってもとってもいい匂いがしました。
「ありがとう。」
ハム君は笑顔で言いました。
「こちらこそ、ありがとう。君に会えてよかったよ。
どうか、君はそのままの君でいてくれないかな。」
「じゃあ、おじさんも、そのままのおじさんでいてね。」
ハム君が何気なく返した言葉に、男性は驚いた様子でした。
ゆっくりとぎこちなく、ためらうように尋ねます。
「このままでもいいと思うかい?」
「うん。おじさんのこと好きだよ。
どうしてそんなことを聞くの?」
ハム君が尋ねると、おじさんは自嘲気味に言います。
「自己否定に慣れてしまっていたんだね。今気付いたよ。
もっと、肩の力を抜かなきゃだめだな。
ありがとう。他の誰でもなく君がそう言ってくれたことに意味がある。
このままの自分で前進できるように、がんばるよ。」
おじさんはどこかさっぱりした笑顔を見せた後、夕日に向かって去って行きました。その後ろ姿は颯爽としていて夕日の中に溶け込む男性のシルエットは本当に一枚の絵のように素敵です。
そうして見送っている間にも、世界はぼやけてきて、見る間に変わって行くのでした。
ハム君は一人、今度は星空の空間に立っていました。頭の上だけでなく下も、横も三百六十度全てが星空です。
どうして立っていられるのかが不思議です。なぜならどちらが上でどちらが下なのか分からないからです。
小さな星や大きな星が静かにハム君を照らしています。星はキラキラ、キラキラ輝いてこっちを見てよと言っているみたいです。
「きれいだなぁ。」
どこまでも広がる世界にうっとりみとれるハム君は、次第にとってもとっても、小さくなって行く気がします。なんだか、自分の存在がものすごくたよりないように思われます。
「おう、坊主。お疲れ。」
ぴょこんと頭の上に蛙が現れました。頭の上でしゃがみこみ、ハム君をのぞきこんでいます。
手には煙管。ぷはーっと煙をはくので、ハム君はこほこほせき込んでしまいました。
蛙はその様子を満足気に見つめています。
「どうだった?楽しかったか?」
「うーーん。
色んな人がいて、難しいことを言っていたよ。僕にはよく分からなかった。
でも、みんなつらそうだったよ。
そして、みんな僕を知っているみたいだった。」
「そうか、そうか。」
蛙は、うんうんとうなずきます。
「ん?おまえ、いいものをもっているじゃないか。」
ハム君のかかえた薔薇を蛙はうっとりみていました。蛙の鮮やかな黄緑色と真紅の薔薇の鮮やかさ。二つの色の対比がハム君にはとっても美しく、新鮮です。
「うん。最後に会ったおじさんにもらったんだよ。
銀様、薔薇が好きなの?」
「そうだ。俺様は奇麗なものはみんな大好きだ。」
「じゃ、お世話になったお礼にあげるよ。」
ハム君が惜しげもなく花束を差し出すと、とたんに蛙はそっぽを向いてしまいました。そして少し照れたように言います。
「ふん。坊主のくせして、大人に気なんかつかうんじゃない。
しかし、本当によく頑張ったじゃないか。坊主の母親と妹は峠をこえたみたいだぜ。
その薔薇、二人にあげたかったんだろ?明日、持って行ってやんな。」
ハム君は満面の笑顔になりました。
「本当?銀様ありがとう。」
そう言って、両手で蛙をつかみ、顔をすりすりさせます。
「こりゃ、そんな図体で抱きつくな。俺様を殺す気か?」
「へへへ。わーーーい。やった。よかった。よかった。銀様、お母さんとカナを助けてくれて本当にありがとう。」
ハム君は嬉しさをおさえきらずにぴょんぴょん跳ねています。蛙は少し離れて満足そうに見守ります。
「坊主!はしゃぐのもいいが流石に疲れただろう。もう、帰んな。」
するとハム君は跳ねるのをやめて輝く宇宙に目を向けます。
「奇麗だね。もうちょっと眺めてみていたいけど、ふわぁ。眠たくなってきちゃった。
うん。帰る。
銀様、どうやったら、帰れるの?」
「簡単さ。俺様が指をぱちんと鳴らせばいいのさ。
じゃ、行くぜ?
坊主、元気でな。」
そう言うやいなや、蛙が指を鳴らそうとするので、ハム君はあわててさえぎりました。
「ちょっと、待って!
銀様、また会えるよね?」
蛙は照れているのか、ちょっとあごをつんとあげて口をへの字に曲げて答えました。
「おう。会ってやらなくもない。」
ハム君の顔はぱあっと明るくなりました。
「本当に?
よかった。それじゃ、銀様も元気で。
またね。」
蛙は一つうなずき、にやっと笑みを浮かべます。そうして、パチンと指を鳴らしました。とたんにパチンとした音は空間を切り裂くような音に変わります。音が響くのに合わせてハム君の姿はゆらゆらかすんで行ってやがて音と共に消えてしまいました。
一人残った蛙は、
「善行は気もちの良いものだな。我ながら実に小気味のよいことをした。」
と、うんうんとうなずきご満悦。そこに、蛙を飲み込む大きな影。
蛙はびくっとして振り向きました。
「こりゃ、銀二。また勝手なことをして。」
いつのまにか、蛙の後ろには大きな大きな狐がそびえるように立っています。
「おや、あんたかい。お帰りなすって。」
蛙は一オクターブ高い声で答えます。大きな大きな狐はするどい目を光らせて静かに言います。
「人に無闇にかかわってはならぬと、申したではないか。」
蛙はそろり、そろり後退しつつ答えます。
「ええ、だから、直接力をかすんでなくて、自力でなんとかさせやしたよ。
運命ってやつをちょっとこう、ね。うまい具合に。
ちゃんと、他に影響しないように気を使いましたから心配ありやせんって。
あとはまあ、あの子がどう生きるかです。
どれ、ちょっと様子を見てきましょうかね。」
言い終わるやいなや、蛙はとっとと姿をくらませました。
「こりゃ、銀二。」
狐の声は虚しく、宇宙空間に響きます。
「まったく、銀二め。困ったものだ。ちょっと、留守にするだけで勝手なことばかりしでかしおる。」
そこに、もう一つの気配。それは、音もなく現れました。
「しかし、お稲荷様。あの蛙、たまには粋なことをするではないですか。」
「おう、コマか。もどったのか。」
「はい、ただいまもどりました。」
真白な毛並みの小さな猫が真っ赤な目でじっと、銀二のいた場所をみています。
「蛙が力を使い直接子供の運命を変えるのではなく、考えられうる最悪の未来をその子供自身に救わせる。実に、うまいやり方です。
似通った世界はそれぞれ影響し、この世界を好転させる。無理に力をつかって運命を変えるよりも、蛙の言うように他の者への影響は少なくすみます。
ふふ。あの子、かわいかったですね。
人生は選択の繰り返し。未来は幾筋にも分かれて行き、多くの異なる世界が生まれていきます。人に希望を与えるという使命が実は異なる世界の自分自身を救うことだなんて、あの子きっと気づかないのでしょうね。
【親切は人の為ならず】とは言いますが、本当にあの子自身の為になるという妙理。
蛙め、いまごろさぞかし悦に入っていることでしょう。
あの蛙、しばらくあの子のまわりをうろうろしそうですね。」
「まったく、けしからん。これ以上は下界と簡単にかかわってもらいたくないのだがな。銀二にも困ったものだ。」
「しかし、稲荷様。銀二だからできるのです。あのように半端な存在だからこそ、気まぐれに力を使えるのです。
わたくしや、稲荷様が使おうものなら、世は均衡をくずし歪みが生じます。
…力があるのも困ったものですね。救ってやりたくても救ってやれない。
我らはただただ、儚いもの達を見守ることしかできません。」
「コマは、何か思うところあるようじゃの。」
「ええ。わたくしはあの蛙がどのように下界の者たちと関わっていくのか、みとうございます。
監視の意味もこめてしばしの間、お暇をいただけませんでしょうか?」
「ふむ。酔狂よのう。しかし、我にもそのような時があった。
よかろう、暇を出す。お行きなさい。」
猫はうれしそうに、真赤な目をきらめかせ一礼すると、しなやかにかけて行きました。
「ほほほ。愉快。愉快。」
星空の空間に、狐の声が軽やかに響きわたります。
ハム君が目を覚ますと、いつもの天井ではありませんでした。
「そっか、おばさんのおうちに泊まったんだ。
あれ、銀様のところに行ったはずなんだけど。」
布団から出ると、パジャマはどろだらけでした。そして、薔薇の花束がすこしよれて枕もとにありました。
ハム君はほっぺをつねってみました。
「痛い。」
薔薇の花束は手元にあります。
「夢を見ていたけど。夢じゃなくて。ええと。」
目覚めた時から霞んでいく、夢の記憶。その消えゆく記憶の中で薔薇をくれた男性の笑顔をつかまえることができました。
「そうだ。おじさんにもらったんだ。
ふふ。水をあげたら元気になるかな?早く、お母さんと、カナにみせたいな。」
寝室のドアが開き、おばさんがやってきました。
「おはよう、公太郎ちゃん。
まぁ、どろだらけ!
公太郎君。一体何をしたの?」
おばさんは、怒る時かならず、「ちゃん」付けから「君」付けに変わります。ハム君は、
「公太郎君」
と、おばさんに呼ばれる時は、いつも緊張して委縮してしまいます。
おばさんのキンキン声を聞きながら、ハム君は昨日のことに思いをよせます。
(銀様に会ったところまでは覚えているんだけどなぁ。それから誰かに会いに行ったんだけど、思い出せないや。)
「こら、公太郎君、ちゃんと聞いているの?ぽうっとして。
もう、夜中にどうしてお外にでたの?」
「ごめんなさい。」
ハム君はぺこりと頭をさげました。
(あんなことがあって公太郎ちゃんも、不安で眠れなかったのよね、きっと。)
おばさんは軽くためいきをついた後、気分を変えるように明るいはずんだ声で言いました。
「まあ、いいわ。
それより、姉さんとカナちゃん、もう心配いらないんだって。よかったね、公太郎ちゃん。」
「本当!よかった。よかった。
よかったね。おばちゃん。」
ハム君は元気に飛びはね、喜びを表現しました。そして、カナ子おばに抱きつき、きゃっきゃと、二人で喜びを分かちあいました。
「さあ、お見舞いに行きましょう。公太郎ちゃん、準備するわよ!
さ、顔を洗って!」
おばの元気な声を合図に、ハム君は動き出しました。
今日も新しい一日が、ハム君を待っています。
今日だけではなく、明日も明後日も多くのことがハム君を待っています。どきどきすること、うれしいこと、くやしいこと、悲しいこと、たくさんのことが待っています。
「まあ、公太郎ちゃん、この薔薇青いわよ!」
「えー。なんでー。真っ赤だったのに。」
二人の驚き声が響きます。
「ふっ、礼なんていらないぜ。」
悦に入って、軒先で煙草をふかす蛙が一匹。
屋根の上には白い猫が日向ぼっこ。
よい天気になりそうです。
ハム君は元気いっぱい、真っ青な薔薇の花束を抱えて病院へ向かうのでした。
完