三題噺④
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
全身が痛くてたまらない。自分はこのまま死ぬのだろうか。こんな所で、ひとり惨めに。
闇は深く、まるで底なし沼に沈んでいくような感覚に佐吉は思わず身震いする。
腹部に触れると、ぬるりとしたものが手を濡らした。
ひどく温かい。命が、溢れ出していく
自分の命が垂れ流されているのだと意識した途端に身体中から力が抜けた。そのまま、手もつかずに顔から地面に倒れる。
したたかに顎をうった。口の中の血の味が増す。先程から体の震えが止まらない。
何だってこんな目に。ちくしょう。ちくしょう……
俺は何も悪いことなんかしちゃいない。賛沢もせずに毎日地道に働いてきた。
どれだけ辛くとも、どれだけ腹が減ろうとも、ひたすらに神様を信じて愚痴一つ言わなかったではないか。でも神様は結局俺を見捨てたのだ。
俺がこんなにも苦しんでいる今、毎日酒ばかり飲んでいるようなやつがのうのうと生きている。こんなことが許されるものか。
ふと、今まで自分が狩ってきた動物達の最期が脳裏に蘇ってきた。
鉛に肉を裂かれ、ピクピクと痙攣しながら、虚な目で空を見つめていた姿。
今の俺と同じ。
やつらだって何も悪いことなぞしていなかった。
死なねばならぬ罪などなかったのだ。ただやつらは俺の目の前に現れ、俺が猟師であった。それだけだ。すべてはどうしようもない。つまりはそういうことなのだ。
ごろりと寝返りをうち、空を見上げる。何も見えない。
夜の闇のせいなのか、はたまたもはやこの目は何も映すことができないのか。
ひどい眠気だ。意識が沈む。最期に兵助に会いたい。俺が死んだら、あいつはどうなるのだろう。
他のどんな犬よりも賢く強い、俺の相棒。雪山で遭難したときも、見たことがないような大きな熊を相手にしたときも、兵助が側にいれば恐怖などなかった。
親を早くに亡くし妻も子もない自分と、どこにも行き場のなかった兵助は、ずっと一人と一匹だけで生きてきたのだ。もはや半身と言ってもいい。
最期に一目、兵助に会いたい。どうしようもなくそう思った。
今頭家で何をしているのだろう。もう寝てしまっているだろうか。それとも戻らぬ俺をじっと待っているのだろうか。
会いたい。会って思いきり抱きしめたい。あの豊かな毛並みを撫でてやりたい。
そして一緒に温かい寝床で眠りにつくのだ。
でももう動けない。お前のところへ帰れない。すまない、すまない……。
寂しさと申し訳なさでいっぱいになる。
そのときだ。遠くから犬の鳴き声が聞こえてきた。
もうほとんど何も聞こえなくなっていた耳が、確かにその声を捉えた。
これは兵助の声だ。間違いない。俺には分かる。
鳴き声はどんどん近づいてきている。
「兵助……兵助……」
必死で兵助の名を呼ぶが、はたして声は出ているのだろうか。
ヒューヒューと喉が鳴るだけで声になっていない気がする。
それでもひたすら呼び続けた。
どれぐらい呼び続けていただろうか。
頬に何か温かいものが触れ、ほとんど飛びかけていた意識が引き戻される。
それは兵助の舌だった。寂しそうに喉を鳴らしながら、懸命に俺の頬を祇めている。
兵助は来てくれたのだ。俺の願いに応えて。
どこにいるとも分からぬ俺を探し出し、迎えに来てくれた。
なんということだろうか。なんということだろうか。
涙があふれる。死ぬと意識した時でさえ涙は出なかったというのに。
「兵助……兵助……」
お前が側にいてくれるのなら、もはや死ですら恐ろしくはない。
最後の力を振り絞って手をあげる。
数刻ぶりに触れた兵助の体は随分と冷えきっていた。
ゆっくりと撫でてやると、すぐ側に兵助が横たわる気配がした。
佐吉は目を閉じ、大きく息を吐き出した。
兵助が天を仰ぎ、ながくながく遠吠えをする。
それはまるで葬送の歌のようだった。