ある作家(※意味怖ホラー)
「……書けない」パソコンの前に座ってどれほどの時間を一文字も打てないままに過ごしただろうか。痛む腰をさすり、言いたくない言葉を呟いた。
がりがりと頭を掻き、大声を上げたくなる衝動がフツフツと沸いて来る。だが、衝動に負けた後の寒々しい光景を思い浮かべ、ぐっと押さえ込む。かわりに部屋を見回した。
深呼吸を兼ねた溜め息をつく。敬愛する作家の本が並ぶ棚を見つめ、背表紙を撫でた。本の中で繰り広げられる世界に思いを馳せる。その素晴らしさを知れば知るほど、どんなに望んでもそれ以上の世界を創り出せないことに鬱屈した気持ちが滓のように溜まる。目を逸らし続けたそれに全身を侵され1歩も前に進めなくなった。
ふと思いついて、本棚から1冊抜き出して背表紙を奥に押し込むようにして戻した。
一瞬にして「ただの紙束」に変わったそれを見てゾクゾクするような満足感が全身を駆け巡る。焦がれて止まない世界が、今の自分には毒だった。逃げたかった。こんなにも簡単に逃げられるのかと万能になった気分だった。
敬愛する作家の何もかもを踏みにじってやったような昏い達成感。「誰に迷惑をかける訳でもないし」と声にだして正当化した。
そうやって卑屈な心を慰め続け、気付けば本棚のほとんどすべてがただの紙束に変わっている。
「なんだか、拒絶されているみたいだ」
呟いた言葉に自嘲した。先に拒絶したのは自分の癖に。
だけど、元通りの「本」としてここに並べ直したいとはどうしても思えなかった。
「誰に迷惑をかける訳でもないし」声にだして自分の行動が咎められる物でないことを証明したかった。
異変に気づいたのは1週間ぐらい経った頃。1文字も増えない画面に嫌気がさして、部屋を見渡した時だった。
本棚に1冊分の歯抜けのような空間。この家には私しか住んでおらず、来客もない。……泥棒だろうか?だとしたら、警察に連絡すべきか。しかし、ほかの金品が減った形跡はない。そこにあった本は、市販されているものである。古書店に持ち込んだとしても数百円の値が付くかどうかといった代物だ。
わざわざ盗むだろうか?ウジウジと半日悩み、もう一度本棚を見た時には元通りみっちりと紙束を抱えていた。泥棒にしてはどうも様子がおかしい。
「……またか」
本が時折消えるのに気づいてから1ヶ月が経った。その不可思議な現象はどうやら本棚の右端から順番に消えて行くようだった。まるで壁の向こうにいる誰かが順番に本を読んでいるように。消えた本は半日以内には棚に戻るので、やがて気にならなくなった。1文字も書けない自分の状況の方がよほど恐ろしい。
パソコンを立ち上げ、小説原稿のフォルダを開く。チカチカと明滅する入力待ちの記号を見つめ、キーボードに正しいポジションで指を乗せた。時計の時を刻む音が大きく聞こえ、嫌な汗が出る。
外から子供の声や夕飯の匂いが侵入してくるのを、乱暴に窓を締めて追い出す。その行動が八つ当たりだと自覚はあった。
パソコンの前に戻り、1時間前と同じ姿勢に戻った。
明滅する入力待ちの記号が、だんだんと大きく迫ってくるような錯覚。それに呼応するように脈打つ心臓。喉に何かが込み上げてくるような息苦しさ。それが吐き気に変わる前に唾を飲み込んだ。このままではいけないと目を逸らしてやっと、部屋の薄暗さに気づく。
何気なく見た本棚の本に指が一本、乗っていた。その指は本を抜き出すように第1間接を曲げると音もなく本とともに壁の向こうへと消えた。
部屋の電気を付け、しばらく思案する。
「この本棚の裏に異空間ができていたとするなら。そしてそれを見ることが叶うなら……」
書けるようになるかもしれない。期待を込めて呟いた言葉が頼もしかった。次、手を見つけたら棚から本を全て出してみよう。その瞬間に、スランプから抜け出せるに違いない。
ーーパソコンに残された文章を読んだ若い刑事がベテランの刑事を振り返る。
「これは、家主の失踪と関係があるでしょうか?」
「なに?……ただの新作の書き出しだろう。駆け出しの小説家だったらしいからな。もっと有意義なものを探せ」
内容をざっくりと読んだベテラン刑事は鼻で笑うと、捜査に戻った。若い刑事は、ベテラン刑事の言葉に素直に従い部屋を見渡す。人の背丈より少し高い本棚と床に散らばる本がただそこにあった。




