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現在でもスピードはとにかく重視される。時間通りである事、現在という水平面に絶えず合致させる事、これが重視される。ここに神の不在があり、神の不在とは、不在を決定したものの絶対的肯定なのだが、その決定するもの自体が内部で肯定されてしまっているが為にこの「人間」とかいう存在はその輪郭を持つ事すらできない。人間は、それが肯定される事によって同時に消えた。それ自体になって見えないものとなった。
現代における課題は時間の創出であるとするなら、まずこの「今」の神聖化という思想から離れる必要があるだろう。回転していく社会から身を離す必要があるだろう。そこにはニヒリズムと悲しみが同居する。
現在の、今を絶対化する人々はいずれ、それが絶対化できないものであることに気づかざるを得ないだろう…。なぜなら死があるからであって、システムによって死を先送りするのが人々の選択した事だった。若くして病死したタレントにいかに多くの花束が送られたか! だが、人々は今その人物を振り返ってもみない。結局、大衆にとってタレントの死は見世物に過ぎなかった。
死を冒涜するのは不謹慎だと言いつつ、彼らは死を見世物として楽しんでいた。神聖化された舞台上の死は良いものであると、自分達に思い込ませる為に、たまたま死病にかかったタレントは共同体の供物になったに過ぎない。
大衆は死の問題を「今」の神聖化で乗り切ろうとしている。しかしそれは無理であり、システムからこぼれ落ち、衰弱していく自分の肉体を抱いた時、はじめて人は自らの間違いに気づくだろう。…だが、そうした人は少数なのでただ除外されて終わる。この社会そのものが衰弱し、滅亡に近づけば、死がある事を人は思い出さずにはいられないだろう。
もともと、宗教は自然に対する畏怖、おそらくは死の自覚と共に生まれたのだろう。死についての自覚が先の世界、あの世や前世といったものを思わせた。しかし神から力を奪回し、人間が神になった共に、人は死を放逐した。そう思おうとした。それが現在の水準だろう。この水準の中で人は死を懸命に疎外した。その為には科学や技術を無限に伸ばしていけばいいと考えていたが、それは答えにはならなかった。
死は生と共に生まれるものだろう。生がなければ死もない。それらは同時に発生する。人として何らかの形態ある生を生きようとする志向こそが、それを輪郭付ける死をも発生させる。死に包まれて生は存在する。その形態を獲得する。人間はその中でやっと生きる。現代のこの奇妙なメリーゴーランドの中で人は生を失い、死を失った。二元論は消え一元論になりやがて一元論も消えた。認識する者が消えたのだ。
時間とは相対的なものが絶対的なものに向かっていく過程(宗教)、あるいは絶対的なものから相対的なものが離反していく過程(近代化)の両極にあるとするなら、現在は時間がない。時間がなく絶えず上書きされ、アップデートされる「今」を知識人とか呼ばれる人間が称揚している。
このアップデートされていく今は全く閉塞的なユートピアである。人はおそらくこれから、時間を、歴史を逆さまにして死を発見する旅を強行させられるだろう。そのように運命付けられるだろう。それは生を得る為であり、失った神を得る為でもある。現代の我々は俯瞰的に見ればただ歴史の中のある一時期に過ぎまい。我々の喧騒もただの場末の大騒ぎに過ぎない。それを見る視点がないという事に現代の欠陥はある。
現在の我々はこの欠陥を除外する為に、何か自分達にとって決定的な事柄を模索し始めるだろう。それは我々にとっての神…すなわち、我々の相対性を自覚させてくれる死を媒介とするだろう。そのような道筋すらももし、ないとしたなら、我々は沸き立っているだけで何の意味もない地表の無機的な生物として、大きな歴史的俯瞰の目からは、完全に唾棄されるであろう。




