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 現代は「今」を神聖化する時代と私は言った。この今は実在的時間である。またこの今の神聖化はメディアを通じて、多数者の視線を集める事で行われる。その「場」が神聖である。この場に入れ代わり、人は出ては消えていく。現代の「夢」とは所詮、この神聖化された今という舞台の上に出たいというものでしかない。

 

 この絶対化された今もしかし、実際にはただの時間、現実的な時間であり、現実的な時間の上に非現実的な永遠・理想を持ち込もうとしたのだからそこに矛盾は出てくる。いろいろなイメージを付与され、そのイメージを演じる上でのみ価値を発揮する多くのタレントが、遂にそれを演じきれなくなってこの場から退場していく。

 

 次々に新しいタレントが出てくるが、これもまたすぐにその演技に挫折する。あるいは演じきったとしてそこに虚しさが残る。人々の喝采・拍手は夢のようで、現れてはすぐに消える。ついさっきまで絶賛の嵐だったのに、人は何を絶賛していたのかもう忘れている。人には時間がない。記憶がない。今しかない。常に映し出されるテレビやネット情報を見つめる人々の虚ろな目にどうあがいても時間はない。

 

 時間は時間でないものとの比較でしか現れてこない。時間でないものとしての物自体、理想があって、それは現実の時間性の中には貫入できない。実際の現実の中に、永遠・理想を実現するのは不可能だという意識、にも関わらずそれを希わなくてはならないという人間の矛盾、その葛藤の中に時間がある。結論に最初からたどり着いているものには時間というものは存在しない。時間とは矛盾の中に存する。人間と神の間に広がる領域が時間と呼ばれる。これは近代化の過程で一つに押し重ねられてしまった。

 

 ヘーゲルがその歴史哲学の最後に、これから人間が理性的に歴史を築いていくと宣言した時、その弟子たるマルクスが救済の概念を現実に可能であるとした時、人間は人間そのものを絶対化できると知ったのだった。現代はもはやヘーゲルもマルクスもいない。ヘーゲルやマルクスにおいては可能性に留まったものが現実に現出してしまった、だからこそヘーゲルもマルクスも一人もいなくなったと言えるだろう。思想家もまた、事と事の間にしか存在できない。事が成ればビジネスマンしか現れない。思想家は必要ない。

 

 現代は時間を硬直させ、それを絶対化しようとしている。大衆の俗な感性だけが水平的に広がり、絶対的なものとなった。それは人間が富裕になった事と結びついている。人間の生がかくも高く称賛された事はこれまでになかった。よく知りもしない人間が、文学者や哲学者の自死を悪し様に言うのは彼らが、生を称揚する哲学に染まっているからだが、それは、村上春樹が描いているような同種の人達の慰め合い、理解し合う会合のようなものに収斂していく。


 村上春樹の描く「救済」は消費社会において、人々の感性的なあり方と合致する事に結論された。村上春樹に影響を受けたよしもとばななは、スピリチュアリズムと金とかと合致した奇態なユートピアの中にいる事に違和感すら感じようとしない。

 

 カントとキリスト教思想をモデルに考えているが、そこでは、人間は有限な存在であり、有限な存在の先に何かが見えていた。そしてそれと卑俗な自分達の間に葛藤が、時間が生じた。しかし時間に目をつけ、時間そのものを人間が手に入れられると思った時、人間の手から時間が消えたと言ってもいいだろう。

 

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